水無神社の神馬舎があるのは、
鳥居右柱、階段上がってすぐ右の青い部分にありました。
水無神社の境内右側に石碑あり、
島崎藤村の「夜明け前」の主人公モデルはお父さんで、この水無神社の宮司として明治7年11/13赴任されてた。
末社白川神社はあの白川郷あたりで御母衣のダム湖に沈む前に御遷座。
限られた時間ながら一つづつ見てたら、友人が黒駒の目がないという。
ガラスが光ってちゃんと写らない。
水無神社のサイトから画像拝借
そこの説明、まるまる引用させてもらいます。
稲喰神馬(いなはみしんめ)=黒駒
「作者は不詳、古来より名匠「左甚五郎」の作と言い伝えられています。
昔々に毎夜厩舎を出て農作物を荒らし、収穫の頃の稲穂を食ったとして村民が黒駒の両目を抜き取ったところ、以来耕作地を荒らすことが止んだと伝えられます。
此の神馬は極めて素朴な作りだが、解体は至難の業と言われる。」
祈晴の神馬=白駒
「元は黒駒で作者は飛騨の工匠の武田万匠とされます。明治15年に大池宮司が体は白く尾と髪が黒い川原毛と呼ぶ彩色に塗り換えました。その時に腹に武田の銘が入っていたといわれます。
古来祈晴れの神馬として連日の降雨、毎年例祭前の祈晴祭には神前に黒駒と共に引き揃えて祈晴祭を執行する古例があります。
明治36年に行われた大祭では、飛騨一円の博労衆が醵金(きょきん)して、再び黒馬に塗りかえ、その後に大正天皇の御大典の記念として現在の白月毛に化粧され、台輪も金具付きの立派なものになったといわれます。」
神馬にまつわる伝承
「いななき神馬」
深夜に社から馬のいななきと蹄の音が聞こえるので、様子をうかがうと拝殿にこの神馬が放り出してあることが度々ありました。
これは神様が神馬に乗って夜な夜なお遊びになるのだと噂がたち、「いななき神馬」の名がついたといわれます。
「稲喰神馬」
江戸時代の初期、番場ガイドの神田が毎夜田の稲を食べている馬がいる。
その馬が神社の黒馬に似ているので追っていくと走り出し、番場の納屋までいくと姿が消えてしまいました。
そしてそこの一間戸の板戸に浮彫の形で貼り付いてしまいました。これは神馬のいたずらであると考え、眼球をくり抜いたといわれます。
その戸板は拝殿に奉納され、明治初年に拝殿が破却されるまで掲げられていたと言われます。
お目目の件は大抵目がやられるパターンの民族がいますのでその関係も浮かびます。で目の神を探し始めたんですよね。お薬師さまなら治してくれるかも?国分寺にもいらっしゃるので。
やっぱりいつか行きたいですね。
昔水無の意味にも相当喰いついて調べた事ありますけどナシの意味ではなく、その名の通り水の神社ですね。昔神無月の意味も合わせて無はナシでなくノという説をチョイスしてます。
左さんも島崎さんも関係するんですね。その関係も違う視点からアプローチしていつか行った時の為に準備いたします。
ありがとうございました。7363
馬の目の方は今は私はまだスルーしておきますね。
境外社で奈良と大阪で槻の木探ししてきたのですが、まさか岐阜で見つけちゃいました。
槻本神社というのがあり、御神体は杉の大木だったとの伝説あるようです。関東の杉山神社と関係があったなら平安前か奈良かもしくはもっと前かもしれませんね。
槻というとケヤキらしいですけど、その中に杉もちょっと入れてみますね。家康も何か知ってたかも?今花粉で大変ですけど、アレルギーあるという事は許容範囲を超えたDNAの特性がある可能性もありますから。私はないんで違う関係の一族だろうと思いますが家族にもいいヒントになりそうです。体質として受け入れ、あとは知恵と経験者や医学も合わせて付き合っていけばいいですね。
間違いなく木からの恩恵を受け人間も生きてきたはず、お水と木もどうも接点多いように思いますね。
そもそも天智天皇と鎌足の出会いの槻の木広場に行きたかったのですけど、その広場を作った民族の信仰が少し見えてきそうです。
そう、天皇でいうと18代反正さんの後、19代允恭天皇がもっと古い可能性もお宮の関係でもありそうです。でこの方のエピソードと子供のエピソードもかなり私の中の妄想がぴったりで気になり初めてます。で飛鳥が本拠地っぽいんですよね。
でお子さんたちに黒と白の付く息子いるんですよね。そこも岐阜高山とどう絡んでくるか?考古学で何か出てくるといいなあと。
高市と高山なので高繋がりではありますね。
で水神で井戸の神とか産湯の神とかも関係しそうですよ。
大阪の姫さまの神社の御旅所は産湯付いたし、飛鳥には鎌足の産湯井戸ありました。
早く進みすぎてリバウンドが怖いのでちょっと逃げておきます。うららさまありがとうございました。もう一点でも奈良と岐阜が超近く感じましたよ。2063
天然石やプラスチック、瀬戸物とかで作られてた目が落ちたんちゃう?
なんて言うてましたが、家に帰り調べたたら
「毎夜厩舎を出て農作物を荒らし、収穫の頃の稲穂を食ったとして村民が黒駒の両目を抜き取った」という伝承。
なんか訳ありですよね。
ホントの事情が隠されてそうな気がします。
りひとさんが以前から追ってらっしゃる、目がやられるパターンの民族、がかかわってるのでしょうか。
飛騨の両面宿儺は仁徳天皇時代にあったことになってますから、その子供の時代も含めてなんかあったんでしょうね。