秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

でんでん太鼓にしょうの笛♪

2010-05-08 | 旅・チュニジア
2月にチュニジアへ行った時、エソラへのお土産にでんでん太鼓を買ってきました。
画像真ん中の竹笛は神社の横笛(画像上)とよく似ていたので買いました。

予想以上にエソラはでんでん太鼓を気にいってくれて、今では自分で鳴らせるようになってるそうです。
しかし太鼓を鳴らす丸い二つの玉がお菓子の「ちちぼうろ」と思っているのか、最後は口に入れるらしいけど。


チュニジアではでんでん太鼓があちこちの土産物屋で売られていて驚きました。
でんでん太鼓って、子守唄にも出てくるくらいだから日本のもの、あるいは中国伝来くらいに思っていました。

  

絶対口に入れるのは分かっていたので、
少しでも埃のかかっていないものを探し、最終的にカルタゴ博物館前の売店で購入しました。


♪ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
坊やのお守りは どこ行った 
あの山越えて里へ行った 

坊やのおもりに 何もろた
でんでん太鼓に しょうの笛♪

里のみやげにもらうぐらい昔は「でんでん太鼓」や「しょうの笛」がどこにでもあったのだろうか。

岩波古典文学大系の解説によると、江戸時代頃より伊勢で売っていたおもちゃで、雅楽の笙を略式にした篠竹の一本笛があったそうです。
ぴーとかぴゅーとか鳴るだけで、穴があっても多少の高低音が出る程度のごく安物の笛のようだ。
子守歌の「しょうの笛」は、「篠の笛」あるいは「ひょうとなる笛」だったのかもしれません。

では「でんでん太鼓」はどうなんだろう。

豆太鼓とも呼ばれたこの小さな太鼓は、奈良時代から続く楽器の歴史をもち、その音色は赤ちゃんを災いから救う響きでした。

でんでん太鼓は、奈良時代に中国大陸からきた舞楽とともに伝わった振鼓が起源らしい。
舞楽の振鼓は、木製の胴に鋲で革を止めた直径7-8㎝の小型の太鼓を直角に2つ重ね、それぞれの太鼓に、革を打つ小さな球が紐で吊り下げられています。
柄を回転すると、球が革を打って音が出るのです。

中国では周の時代にすでにこの打楽器があったそうだ。
アフリカのチュニジアとどっちが先やねん。

アンスリウム

2010-05-08 | 四季折々・色とりどり
アンスリウムをもらいました。
赤と白の2色の株が植わっているようです。
和名のオオベニウチワのほうがしっくりくるいいネーミングですね。

サトイモ科の熱帯植物なのに根腐れしやすいらしい。
水やりすぎないように気をつけて長く楽しみたいです。

柏餅と石清水灯燎華

2010-05-06 | 日々是好日
5月4日夜、石清水八幡宮夜の特別拝観に行きました。
参道途中に走井餅店の出店があり、そこで柏餅を買いました。
その日のうちに食べてしまったけれど、ちゃんと撮影しておきました。

すでに端午の節句は過ぎてしまいましたが、
せっかく調べたことを記事にしておかないとあっという間に忘れてしまうので。

なぜに端午の節句に柏餅なのか。
粽が中国伝来なのに対し、柏餅は日本独自のもので江戸時代に江戸でうまれたと書かれてありました。

その由来は
①「拍手を打つ」と言うぐらいで、柏は昔から神聖な木とされていた
②柏の葉は古代から食器として用いられていた
③柏の葉の薬効
④柏の木の古い葉は新芽が育つまで枯れないので子孫繁栄の縁起の良い葉とされた
⑤柏餅を包む手つきが神前でかしわ手を打つ姿に似て、武運を祈願する端午の節句にふさわしい

先日鞍馬山を訪れた時、パワースポットめぐりというパンフレットをもらいました。
そのパンフで、5/4夜、石清水灯燎華(いわしみずとうりょうか)が催されることを初めて知りました。
暗闇の撮影は難しくどの画像もイマイチで、幽玄な雰囲気を伝えきれないのが残念です。

京阪電車八幡駅からケーブルにのり男山山上で降ります。
  

参道までに八幡宮としての「左三つ巴」の紋
  

エジソンが発明した電球に男山の竹が使われた記念碑があります
  

竹で作られた門もありました
  

南総門真下に灯燎華に灯をともされている所
   

うちのが一番かわくて、りりしい

2010-05-05 | 日々是好日
時は今、上海万博でもちきりですが、
大阪では1990年開催の花の博覧会20周年記念イベントがありました。
鶴見緑地に周辺地域の地車が13台集結しました。

1億円もするようなピンの地車から、キリはうちの地域の大枝神社です。
しかし屋根の上からのぞく獅子頭はうちのが一番かわいい、
と身びいきで思いました。

朝8時半、大枝神社出発、1時間近くかかって到着。
  

園内を巡行できるのかと楽しみにしてましたが、
他のお客さんの迷惑になるからと、咲くやこの花館近くに設置しただけ。
10時半頃から午後3時半頃までの間に2回づつ順にその場で披露していきます。
  

よその地車隊は、平均年齢がめちゃ若いから激しい。
  

  

  

大枝神社はシニアが、年季の入った見事な獅子踊りを見せてくださったけど、無理しいなやと皆に労われてました。
  

花博のランドマーク「いのちの塔」
鉄塔先端は90mですが、展望台は60mと、
634mの高さを目指す東京スカイツリーに比べると10分の1です。
  

20周年記念の無料開放を最後に閉鎖されます。
わずか60mでも見晴らしは良かった。
  
  

真夏のように気温が上がり、平均年齢の高い大枝地車隊はヘロヘロになって帰途に着きました。
    

鞍馬天狗

2010-05-04 | 古代史のミステリー
鞍馬で天狗に兵法を習ったという牛若丸。
その天狗伝説どおり、鞍馬寺の寺紋は「天狗のうちわ」でした。
ほんとは菊の花を横から見たところをデザインしたものなんだそうですが、どうみても団扇っぽい。
  

  

天狗の話は全国にありますが、日本ハ天狗の中でも強大な力を持った大天狗が鞍馬天狗。
八天狗のまとめ役やら天狗の総元締め的存在です。
鞍馬天狗の僧正坊は鞍馬山の尊天(魔王尊)の使者で、護法魔王尊こそ天狗さんの総師であるそうです。

天狗という言葉は、インドの仏典では「流星」をさす言葉として用いられており、それが中国語に訳されたとき「天狗」の字が当てられたといいます。
キルギス語やさらに東方のモンゴル語など中央アジアの言葉で、テングリは「神」「天」という意味らしい。

またキルギスとカザフスタンの国境にテングリ山という山があります。
天山山脈でポベーダ山に次ぐ2番目の高さの山です。
ウイグル語:Khan Tengri、「天の王」を意味するそうだ。


尊天を祀る鞍馬寺は、1949年以降鞍馬弘教総本山です。
以前は天台宗に属し長く青蓮院の支配下にあったのでした。

鞍馬寺は770年に鑑真の高弟鑑禎(がんちょう)が毘沙門天を祀って創建されました。
  
毘沙門天のお使いであるといわれる神獣が虎。
毘沙門天ご出現が、寅の月・寅の日・寅の刻であったことから、特に鞍馬山では大切にされ、狛犬ではなく虎の阿吽像が左右に設置されているのだそうです。

思託鑑禎(722~809)上人は、鑑真和上とともに753年来日し、鑑真を助け戒律を講じ実践した高弟の一人です。

その弟子の中の一人、安如宝は鑑真の唐招提寺創建に大きな力を発揮しました。
ウズベキスタンのブハラ出身であることは以前の記事でエントリーしています。
2009/4/16 仏教と思いこんでたけれど

もともと唐は漢人と鮮卑系混血人に建国されて以来、唐の時代は西域と繋がりが深い。
鮮卑は北方騎馬民族でトルコ系ともモンゴル系ともいわれています。
シルクロード経由で中国に伝わった仏教は、鮮卑族と関係が深いのでしょう。
安如宝しかり、思託鑑禎はどうなんだろうと調べてみました。

「思託鑑禎は743年台州・開元寺に入り鑑真の弟子となる。
741年天台山修禅寺に留学、天台学、禅学、拳法などを修業。
鑑真とともに来日した僧侶は21人にのぼるが、鑑真とともに最初から行動し最も信頼されていたのが弟子の思託(722~809)であった。
やがて大安寺で天台学、律蔵、禅を教授し日本人僧に拳杖術を教えたと思われる。
唐招提寺が完成すると師・鑑真とともにそこへ移る。
鑑真が入寂して7年後の770年、思託は鞍馬山に禅庵を結び、鞍馬寺を創建した」

SportsClick「武術の来た道」で見つけました。
牛若丸が学んだ武術は西域系拳法だったのでした。

「牛若丸は7歳のとき鞍馬寺の蓮忍、覚日に預けられ武術に熱中するが、蓮忍、覚日の二人の僧は鞍馬寺が真言宗から天台宗に転宗した後の僧であるから比叡山延暦寺で武術も修業したものと思われる。
思託が僧たちに伝えた武術―それは鞍馬流と呼ばれる―は、伝教大師・最澄を始祖とする比叡山延暦寺の四心多久間流とも合流することになる。
やがてその武術は僧兵から武士へと伝わり、鞍馬山拳法、陰陽流、判官義経流、陰流、揚心古流、鞍馬揚心流、武田流などに変化していった」


日本の歴史を武術という側面からみたもので、天狗伝説にもつながり大変興味深い。
かいつまんで引用させていただきましたが、
武術に興味のおありの方は是非→こちらから

第1回 哲学者アリストテレスから文武両道を学ぶ
第2回 アレキサンダー大王の伝えた武術練習場
第3回 お釈迦さまは拳闘、相撲の名手!? 仏教と武術の奥深さ
第4回 仏教の中国伝来と武術をもたらした西域僧
第5回 ダルマの入来と禅法 ― 西域武術の中国伝来
第6回 西域から来た僧らの実録-西域僧の技法中国に広がる
第7回 少林寺武術の流れ-三蔵法師の武術が日本へ
第8回 法相宗と諸賞流-留学僧の伝えた武術
第9回 最澄と四心多久間流-鑑真と思託と澄水流の交流
最終回 牛若丸の学んだ武術-西域系拳法、日本に広がる

『お釈迦さまは拳闘、相撲の名手!? 仏教と武術の奥深さ』より引用します。
インドに広がった仏教が仏僧によって西域諸国や中国へ伝えられるのは紀元前から1世紀頃である。
異教徒の迫害や盗賊から身を守るため、僧らが棍、杖、拳術を修行するのは当然のことで、その力がなければ諸国を布教・遍歴することはできなかった。
各地の王侯、有力者に仏教という新しい宗教を説くには、時に雨乞いや占いで奇跡を出現し、病気治療で実力を見せつけ、また王候とともに戦場にでて勝たなくてはならなかった。
寺院というものは初めなかったというが、仏塔が崇拝されやがて建物ができ寺院に発展した。
釈迦はアレキサンダーより半世紀ほど昔の人だが、アレキサンダー大王の東征によって西アジア、中央アジア伝えられたギムナジウム(格闘技練習場、講堂、図書室などを備えた総合体育施設)の大学的教育制度が寺院と融合するのに障壁はなかった。
古代インドには武士階級の教育制度があったし、ギムナジウムでの学問と健身、護身訓練の伝統・習慣が、やがて寺院内での修行として定着し残されていったのである。

『ダルマの入来と禅法 ― 西域武術の中国伝来』より引用
拳法の寺として知られる嵩山少林寺の開基者・仏陀禅師はインドの人で諸国をへめぐった後、北魏の孝文帝の庇護により嵩山少林寺を開創(496年)する。
仏陀禅師の高弟・慧光、僧稠も武術をよくしたといわれ、その法系にはインドへ取経の大旅行を敢行したあの玄奘三蔵がおり彼も少林寺で修行したことがある。
仏陀禅師が没し、その10年あまり後にダルマさんの愛称で親しまれているインド僧・達磨が中国にやって来た。
達磨は南インド香至国の王子で、師の般若多羅尊者の言にしたがい、すべての迷える人を救いたいと中国へ向かった。
ルートは海路をマライ半島、ベトナムなどを経て今の広東に上陸した。時に520年という。
この達磨大師はお釈迦さまから数えて28代目といわれる。
  

『少林寺武術の流れ-三蔵法師の武術が日本へ』より引用
玄奘三蔵が帰国後の高弟に神泰がおり、長安の恵日寺に住した。ここで神泰に学んだのが日本の遣唐留学僧・定恵(じょうえ)である。
定恵は藤原鎌足の長男、藤原不比等の兄。13歳で唐に渡り、仏教を学び、在唐期間は11年におよぶ。
玄奘三蔵の修行の流れからして定恵も武術を身につけて帰国したと思われる。
日本で最古の拳法流派・平心流は藤原鎌足を流祖としている。
藤原鎌足は大化の改新の功臣だが、茨城県鹿島神宮内で生まれたといわれ、この中臣氏の家系は北方シャーマン系の卜部氏の流れを組む有力な武術をもつ集団であった。
定恵は帰国後、父・藤原鎌足の供養のため多武峰妙楽寺(後の談山神社=奈良県)を建立。ここで長安で学んだ仏法や拳法を教授した。その拳法の流祖を父・鎌足に仮託したものと思われる。

『法相宗と諸賞流-留学僧の伝えた武術』より引用
遣唐使とともに中国へ行き、仏教修行をして日本に帰国した僧侶で、武術を伝えたと思われる僧に道昭がいる。
653年唐に渡り、西域から帰った玄奘三蔵について学び、660年帰朝。奈良・元興寺に住み禅を講じ、法相宗を広げた。
この法相宗第一伝の道昭師、各地を行脚し、井戸堀り、橋掛け、舟着き場作りの社会事業を指導した。拳法と杖術が強かったという伝説があることは前回も述べた。
中略
インドから来た仏陀禅師、達磨大師による禅法と拳法は崇山少林寺に根付き、その法系には仏教典を求めインドへ旅した玄奘三蔵がおり、その流れは日本人留学僧により我が国へ伝えられて来たのであった。

『最澄と四心多久間流-鑑真と思託と澄水流の交流』より引用
達磨禅の法系は達磨―慧可―僧サン―道信―弘忍―神秀―普寂と続き、普寂の師の神秀は身体の大きな人で拳杖術の強さは群を抜いていたという。
普寂の弟子道センはインド僧ボダイセンナらとともに日本に来て、奈良・大安寺に住した。日本人の高弟には行表、善俊、淡海などがいる。華厳学、律蔵、禅法を講義するかたわら少林寺伝の拳杖術も教えたものと思われる。752年の東大寺大仏開眼供養会には咒眼師を努めた。
道センの高弟・行表のもとで学んだのが最澄で、大師は自らを達磨の直系と記している。

パワースポット・鞍馬山②

2010-05-02 | おでかけ・近畿
鞍馬山って不思議なところです。

30年以上前、友人と連れ立って夏の暑い日この山を歩きました。
お寺とかパワースポットは全く覚えていないけれど、足元を見ながら1時間近く歩いた記憶だけが蘇ります。
案の定、この年になると結構きついハイキングコースでした。
鞍馬寺を拝観するということは山登りをすることだったのでした。
家についてから、アズキさんから届いたメールによれば全部で17000歩ほど歩いてました。

  
  

奥の院の魔王殿から貴船神社へ下る道の途中に「木の根道」があります。
牛若丸が修行していたそうです。
  

岩盤が固く、地下に根を張れない杉の根が地表に伸びて露出しているのでしょうが、まるでエネルギーが渦巻いているようにも見えます。

 
鞍馬寺では、本堂は正式には本殿金堂という名称で呼ばれます。
ここに祀られている「尊天」は三身一体の本尊だそうです。
中央に毘沙門天、向かって右に千手観世音、左に護法魔王尊を安置されていますが暗くてよくわからなかった。

その「護法魔王尊」は650万年前に金星から地球に降り立った永遠の存在であるという。
摩訶不思議というか荒唐無稽というべきか…

  
本殿金堂境内の満開の八重桜の左側に瑞風庭、
手前南庭には石組み、画像奥の北庭には白砂盛があります。
そこに立つ案内文には以下のように書かれています。

「この庭は、650万年前人類救済の大使命を帯びた護法魔王尊が
金星より「焔の君たち」を従えて、今まさに聖地・鞍馬山に降臨せんとする相を具象化したものである。
北庭の白砂盛は魔王尊の乗物「天車」を意味する。
南庭は、組井筒と大川込によって鞍馬山を表現し石組は魔王尊を表わすと共に奥の院の磐座を象徴している」


  

奥の院の魔王殿は、650万年前金星から舞い降りたとされる魔王尊(サナト・クマラ)が祀られていています。
ここもパワースポット。
社の中には長椅子が設置され、パワーをいただこうと多くの人が腰かけてました。
  

650万年前とはとてつもない年代で想像がつきません。
魔王には申し訳ないけれど、ここの境内で山椒もちをいただくことにしました。
  


古人類の歴史を調べてみました。
直立歩行したといわれるアウストラロピテクスで約400~500万年前。
90年代になって、中国の長江の中下流において200~240万年前には古人類が生存していたと確信できる遺物が発見されているそうです。
中国の雲南省元謀地区、長江三峡地区、華北地方泥河湾地区で大がかりな発掘作業が進行中です。
つい最近地震で被害のでた青海チベット高原東部地域が人類の起源の地である可能性もあるそうだ。


「サナト・クマラ」で検索していたらこんなの見つけました。
サナト・クマーラとはヒンドゥー教の神話・説話に登場する賢人らしい。

先端科学と東洋思想を結びつけたニューエイジの先駆けみたいな「神智学」に登場するようだ。
神智学にはまっていた信楽香雲管長の想像の産物だったのかも。
鞍馬弘教も戦後の新興宗教ブームにのって出来たものなんでしょうか。

ハイポネックスの威力

2010-05-01 | 四季折々・色とりどり
たぶん10年以上、もっと15年以上かもしれない。
ご近所さんから分けてもらったすずらん、もちろん頂いた時は花が咲いてました。
それから花を咲かせることは一度もありませんでした。

毎年春になったら葉が伸びて青々と茂っても花をつけることはなかった。
そして冬が来るとその葉が枯れるのでハサミで切る。
この繰り返しだった。

ところが、今年白いかわいい花を咲かせているのに気がつきました。
何があったんだろう、何か違ったことしたかしら…

去年、初めてハイポネックス原液を薄めて2回ほど散布したのでした。
ハイポネックスとは窒素・リン酸・カリを配合する家庭園芸用液肥です。
なんと素晴らしい効果、おそるべしハイポネックス。