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「老い方上手」という本は、みんなが知りたいと思っている老後のお金や、認知症、在宅死、延命医療、自分らしい葬送などについて、分かりやすく最新の情報とヒント、具体的な対策等を説明したもので、各領域の第一人者による老後のプラン本です。
具体的には以下の内容となっています。
第1章:女性の労働、賃金体系そのものにも女性がビンボーになる根っこがあることを解説しながら、「ビンボーばあさんにならない道」を考える。長年「高齢社会をよくする女性の会」で女性のより良い老いを追求してきた樋口恵子さんが執筆
第2章:すでに400万人が認知症といわれる中で、症状の把握や対処、世間のイメージにはまだまだ誤解も多いことを具体的に示し、新しい対処方や各地の支援の広がりについて大熊由紀子さんが執筆
第3章:「おひとりさまの在宅死」という提案について、医療環境整備と私たちの心構えで可能になるか、おひとりさまの老いのベストセラー本を出している上野千鶴子さんが執筆
第4章:胃ろうなど、延命治療について多様な考え方を示しながら家族の死の迎え方と選択について死生学の専門家である会田薫子さんが執筆
第5章:「多様な現代の葬儀のカタチ」として最新の葬送情報の研究だけでなく、「桜葬」墓地を立ち上げ、生前からのネットワークづくりもしている井上治代さんが執筆
どれも考えさせられる内容ですが、特に最新の海外も含めた認知症事情や在宅ひとり死、胃ろうなどの延命治療、自分らしい葬送については考えさせられましたね。
認知症の人には医療、治療よりも慣れ親しんだ環境が何よりのクスリとはナルホドと思いました。
また、宮崎市では24時間いつでも自宅に来てくれるナースステーションが22あり、自宅で死ぬことができる環境にあるとは驚きましたね。素晴らしいと思います。
それから、死後の仕掛けをしていると、死をも超えて関係性が続くという安心感から死ぬときに怖くないというのもナルホドと思いました^_^)
「老い方上手」という本は、より良い老後の参考となり、とてもオススメです!
以下はこの本のポイント等です。
・男と女では平均寿命が違いますから、65歳以上では、6対4で女性のほうが多くなり、80歳になると、女性は、男性の2倍。歳を取ればとるほど、女性が多数を占めるのです。貧困問題の最終的な解決策は今のところ生活保護しかありません。女性の生活保護率は50代、60代は男性より低いのですが、70代になると完全に逆転して、数も比率も女性が上まわります。「女性の貧乏はお国の貧乏」ということになってしまうのです。
・高齢者の核家族化は、煎じつめれば、家族関係の長期化、世代による就労形態の変化に適応したものといえるでしょう。さらに促進要因となったのは、1に年金の充実による親世代の経済的自立。年金額に格差はありますが、近頃は20~40代の雇用の劣化、賃金の停滞で、親の年金は子にアテにされる安定した収入になっています。少なくとも子の「仕送り」に頼る人たちが激減。高齢者の7割の世帯で、公的年金が総所得に占める比率が8割以上になっています。もうひとつの促進剤は介護保険制度の普及でしょう。何はともあれ、全国どこにいても認定を受ければホームヘルプ、デイサービスなどの支援を受けることができます。子供よりも友人のいる地元施設の入居を選ぶ人もいます。子がそばにいなくても、社会的はサービスを受けて生きる時間が長くなりました。
・健康寿命というのは、日常生活に制限のない期間をいいます。2010年時点で男性70.42年、女性73.62年となっていて、女性のほうが長いことは長いのですが、平均寿命の差が6.2年もあるのに、健康寿命の差はわずか3.2年。男性の健康寿命から平均年齢まで、つまりだれかの手助けを必要としたり、いわゆる寝たきりの時期が男性9.13年に対して、女性は2ケタの12.86年。いくら長生きする人が多いからといって、これが女性にとって見過ごされるでしょうか。
・たとえばドイツの例です。今、ドイツには徴兵制がなくなりましたが、徴兵制があった間は、銃を取って兵役の訓練を受けるか、それを拒否する人は同じ期間、福祉施設で働くことを認めていました。今のドイツでは高校卒業後、男女ともかつての兵役期間を、福祉施設で働くことを認め、年金期間に組み入れているそうです。アメリカに関しては、大学の入試の仕方が非常に多様です。ボランティア活動をして、Aをもらっているということが、コロンビア大学なりハーバード大学なりという難しい大学の入り口の選択肢のひとつになっているということです。どの先進国と比べても、日本の青年の自己形成に、高齢者はじめ福祉に関心を向ける時間が少なすぎると思います。義務教育の体験学習は行き届いているのですが、一時的短期的で子供の生活の一部に根づいていません。若者も、いずれほとんどは人生90年を生きるのです。若者が自分の人生90年から100年を息長く展望する教育を望みたいと思います。
・日本の中高年女性は労働力の宝庫です。まず、外国とくらべてほとんど100%の識字率。高校進学率は男性より高く、高校以上の進学率も4年制大学を除けば男性より高い。OECDなどからもよく指摘されるほど、日本女性は学歴が高いのに就労率が低い。せっかく高額な教育費をかけた医療職でさえ就労継続が困難で家庭にいる女性が少なくないのです。あえていえば国費の無駄遣い政策を、戦後の日本社会は長いあいだ取りつづけてきたのです。女性は平均寿命が長いぶんだけ、育児に時間がかかったぶんだけ、男性より長く働いてちょうどいいと思っています。長いあいだ男性が見てこなかった、あるいは見て見ぬふりをしてきた子育てや介護や衣食住のもろもろ。ケアを必要とする超高齢化社会は、おばあさん・おばさん年齢の技と力が生かされる社会です。これらの力が既存の社会に強力に混入されれば、男性のこれまでの社会も反応して、さらに多様性の豊かな社会ができあがると期待しています。
・ノーマライゼーション思想の生みの親は、ニルス・エリック・バンクミケルセンという行政官で、レジスタンス運動の闘士でした。デンマークにナチが侵攻してきたとき、彼はコペンハーゲン大学の学生でしたが、「自由デンマークを」という新聞を作って、配っているところを捕まえられて、強制収容所に入れられてしまいます。同志はずいぶん殺されましたが、生きているうちに幸い戦争が終わり、彼は解放されて、社会省の障害福祉の担当になります。知的なハンディを持っている人たちの施設を訪ねると、そこは、インテリアは素敵ですが、強制収容所そっくりの空気が流れていました。同じところで食事をし、作業し、外に出られない。そこで、新聞記者や親たちの協力を得て「1959年法」を作りました。それは、「どんなに知的なハンディキャップが重くても、人は町の中の普通の家で普通の暮らしを味わう権利がある」という内容です。「情け深くしましょう」という精神論や「上から目線」ではなく、「権利がある」という思想が重要です。社会は、その権利を「実現する責任がある」という、これがほんとうのノーラマイゼーション思想です。
・デンマークでは、市町村や現場に権限と責任が下ろされていて、入院中から退院後のプランが立てられます。ヘルパーさんは、「目は離さないけれども手は出さない」というプロの訓練を受けています。また「訪問ナース」という指令塔がいて、入院したときから、退院後、車いすでも外出や料理ができるように住宅改造なども含めて手配していました。生活の節目節目に現れるヘルパーさんは「おむつを取り替える人」ではなく、その人の誇りを膨らませるプロと位置づけられていました。ヘルパーさんの資質としては、「同じことを何度もいわれても受け止められる」「ユーモアのセンスがある」などが大事にされているのです。お給料は、月々、税込みで48万円ぐらい。そのかわりお医者さんたちのお給料が低い国なのです。(お医者さんは労働時間が日本より短いのですが)
・「認知症の人には、医療、治療よりも慣れ親しんだ暮らしが大切なのだ」というエーデル改革の政策転換が根底にあることを突き止めました。「早期発見・早期治療は、認知症については誤解」とは、そういうわけなのです。薬よりも、その人の慣れ親しんだ環境がなによりのクスリなのです。自宅でなくても、思い出の家具を持ち込んだケアつき共同住居で慣れ親しんだ暮らしを続けられることが大切にされていました。スウェーデンでは親子の同居率は4%です。認知症でも自宅にひとりで住んでいる人が45%もいます。そこにヘルパーさんが行って、ご本人ができることはご本人にやっていただけるように仕向けて、見守ります。
・まず同じ目の高さで正面から見つめる。認知症の人は、視野が狭くなっているそうです。ですから、いきなり、離れたまま話しかけると、いくらやさしく話しても駄目なんだそうです。ちゃんと、その人の視野に入っていって、その人の目をちゃんと見て、挨拶をしてから礼儀正しく話しかけることが大切だそうです。それから体に触れるときも、掴むようなやり方をすると逮捕されるみたいな感じになるのえ、その触れ方も考える必要があるとのことです。
・歯というのは、とても大事です。母は歯を外すとフガフガしてしまって、何をいっているか、よくわかりません。それから容貌が、。がた落ちになります。デンマークの認知症の専門家に聞いたところでは、歯が入っていると、まず、まわりの人が、その人を「あっ、この人、認知症だ」といってバカにしたりしなくなるそうです。ご本人も鏡に映った自分に誇りが持てるそうです。それから、ちゃんと噛むのでお通じがよくなります。お通じがよくなると、まわりにまとわりつく二次的な症状が出なくなるということです。
・リハビリテーションという言葉があります。普通は機能訓練という意味だと思っている人が多いと思いますが、本来の意味は、その方の人生をよくわかって、その方の名誉を回復してさしあげるという意味なのです。そのことが認知症にとっては一番重要なお薬ではないかと思います。大事なことは、誇りとぬくもりです。ぬくもりというのは「自分の居場所だな」「仲間がいるな」と、そこで何か輝けるようなことを提供することです。それには、想像力が大事です。「自宅でなんて無理だよ」とか、「やっぱり精神病院に入れちゃったら?」などといわれても、堂々と、度胸を持って、ご本人ののぞみをかなえてさしあげることが大切だと思います。そのようなことをご自身、またはみなさまのご両親などのために考えておいていただけたらと思います。
・やむを得ず施設にお入りになったお年寄りたちに、できるだけ住まいとして快適に暮らして頂こうということで、施設を住宅化するという動きが生まれてきました。一方で、住宅にないのが介護力ですから、住宅にサービスを外からつけたらよいという考え方がサービスつき高齢者住宅です。これまで福祉は厚労省のの管轄、住宅は国交省の管轄でしたが、相互に乗り入れて2011年に「高齢者住まい法」という一元化した法律ができました。これまで高齢者施設は40床以上が原則だったのですが、施設も路線転換しました。40人をまとめて面倒見るというようなことはやめよう。できるだけ地域で、家庭に近い暮らしをしていただこうという、脱施設化の動きも生まれました。
・安心して老後を生きるための条件の中には、年金・介護・医療などがありますが、もうひとつ、誰もこれまでいわなかった居住福祉、住まいを確保するということの大切さがいわれはじめました。高齢者は住宅弱者といわれてきました。ずーっと賃貸で暮らしてきた高齢者は確かに住宅弱者です。契約を更新しようと思っても、年齢を取ると、大家さんは、自分のところの物件で死なれては困るとか、孤立死して何ヶ月後かに発見ということになったりすると、あとが大変ということがあるので、賃貸が非常に不利になっていきます。けれども、今の高齢者は持ち家率が高いんです。なぜかというと、自分の一生を抵当に入れて、社畜になってローンを組んだ家が1軒ぐらいはある人が多いからです。その持ち家に同居家族がいるばかりに、「出ていってくれ」といわれる。ということは、同居家族さえいなければOK。いっそ世帯分離をしたほうがまだマシ、ということになります。「住宅余り社会」といわれていますが、全国平均で空き家率13%、東京都でも郊外の公団住宅などでは櫛の歯が抜けるように空き家が出てきています。つまり、今ある分を使えば、これ以上の施設建設をしなくてもいいはずです。同居者がいない独居高齢者を前提に、サービスを外づけしていけばよいでしょう。
・介護の一番の基本は暮らしを支えることです。暮らしを支えるというのは、口から食べて、お尻から出して、清潔に保つ、の3点セット。これが食事介護、排泄介護、入浴介護の「3大介護」といわれるものです。これさえ土壇場までできれば、独居でも死の前日にご自宅のお風呂にお入れして、翌日見送ることができたという実践をやっておられる方たちがいらっしゃいます。
・在宅看取りを実践しておられる専門家の方たちに、「在宅で死ねるための条件はなんですか」とお聞きしますと、次の4つの答えが返ってきます。まずひとつめは、ご本人の強い意志です。「わしゃ、ここを動かん」という意志です。2つめは、愛のある同居家族がいることです。愛があるというのは「ここにいてもいい」ということです。ただ、愛があるだけでは十分ではなくて、介護力のあることが条件です。3つめは、地域に利用可能な介護・医療資源があことです。最後にお金です。日本の介護保険は終末期を支えきるには量が足りないように作ってあります。ですから、プラスαのお金を自己負担できるかどうかです。べらぼうにはいりません。そんなにたくさんはかからないということがわかっています。
・在宅医療のお仕事をされているいろいろな方にお話を聞くと、末期までの介護・医療サービスの購入に、月額50万、およそ半年間の備えがあれば、在宅でお見送りができるとのことです。この50万というお金のうち、介護保険の最重度の認定を受けていればおよそ36万までは介護保険で使えますから、その1割負担が、3万6000円。あとの14万は医療保険、その他諸々の費用で、半年から長くて1年と考えて確保しておけば、ほぼなんとかなるとおっしゃっていました。いくらかはかかりますが、いくらもはかからない、なんとか出せるお金です。そのぐらいのお金があれば、病院に連れていかなくてもすみます。
・地方では、家が空いて余っているところがあり、そこを借り上げ在宅看取りを事業化したのがホームホスピス宮崎「かあさんの家」の市原美穂さん。建物を造る初期投資がいらず、部屋割りをして、5人のお年寄りに賃貸で貸し出しています。そこに外からホームヘルプを入れ、夜間の見守りを入れて、お看取りまでお引き受けして月額およそ15万です。看取りの際に頼りになるのはドクターよりナース。24時間いつでも来てくれるナースが力になると考えて、ナースステーションを、宮崎市内に作ってこられました。お訪ねしたときに、22あるとおっしゃるナースステーションがカバーするエリアをマッピングすると、宮崎市が全域入ります。宮崎市内にお住まいであれば、どこにお住まいだろうと家で死んでいただけますというお言葉を聞いてまいりましあこうなりますと、「死ぬなら宮崎」となりますよね(笑)。私みたいに係累がいない人間はラクです。スーツケースを持って、「市原さん、死なせてください」って行けばいいんですから。実際に、そういう人がいたそうです。横浜市在住70代、がん患者の男性で、立派な息子が2人いますが、絶縁状態でした。末期がんで余命3ヶ月の宣告を受けて、係累のない宮崎まで、「市原さん、あんたのところで死なせてくれ」といって、来られたそうです。市原さんは仰天しましたが、受け入れられて、なんと、機嫌よくお過ごしになって、余命3ヶ月が1年半延びて、亡くなられたそうです。15万円×1年半ですから、それまでに貯め込んだお金があればなんとかなります。こういう安心を提供してくださる方たちが徐々に増えてきました。
・おひとりさまの看取りを実践したグループがあります。私は、自分よりも年若い友人をがんで見送りました。彼女を支えるのに30人の女性たちがチームを作って、ネットでメーリングリストを作りました。そこには司令塔がひとりいまして、その人から指示が飛びます。「あなたは入院のときに手伝ってね」「あなたは退院のお手伝いをしてね」と。それから、通院で抗がん剤治療していたときには、「何曜日はあなたが行って、玄米菜食を作って、一緒に食べてあげてね」「何曜日はあなたがやってね」といって、最期まで支え抜きました。30人いるとすごくよかったのは、「その日は私はつごうが悪い」という人がいても、誰かほかに、「私は大丈夫」という人が出てくる点です。このチームは30人全員、女性でした。つくづく思ったのは、これが全員、男だったらなんの役に立っただろうかということでした。女性は、どんな人でも玄米菜食ぐらい、作れますから。彼女を偲ぶ集まりで、「私たち、ほんとによくやったよねえ」といいあいました。それには彼女の人徳もあります。司令塔をやった人の尽力もあります。でも、私たち、ひとりひとりに下心はなかったでしょうか。これさえうまくいけば、自分のときにもやってもらえる・・・と。そう私がいったときに、こういわれました。「あなたね、彼女、いくつで死んだと思う?」享年57歳でした。57歳の女性の友達は50代、60代で、皆まだまだ元気です。「私たちに、そういう支えが、ほんとうに必要になるのは、いったい何年後だと思う?」って。今、60代なら、あと20年後、80代でしょうか。「みんな、歳取るのよ」といわれました。私はこれまで「金持ちよりも人持ち」と唱えてきました。人持ちというときに、マイナス20歳の世代差を取り込むのが、今の私の目標です(笑)。
・一般的にいうと、胃ろうがよい方法にはなりにくい場合というのもあります。それは、アルツハイマー病などの終末期の場合、それから老衰の末期の場合です。このような場合、ある段階にくると食べることができなくなります。この方たちにとっての胃ろう栄養法はよくないことがほとんどです。胃ろう造設という、ほんの少し、5、6ミリ切るという手術のあとでも短期間で死亡する恐れがあります。つまり、亡くなろうとしている段階に入っているわけで、小さな手術でも耐えられないということです。もし、その手術をして何週間か生きているとしても、肺炎などが亡くなる原因になります。実際、肺炎で亡くなる方が多いのです。
・日本老年医学会は、もうひとつ、「人工的水分・栄養補給の意思決定プロセスに関するガイドライン」を発表しました。人工栄養、つまり、胃ろうや経鼻栄養や中心静脈栄養などを行うかどうかという意思決定をするときの、プロセスのたどり方に関するガイドラインです。このガイドラインは、人工栄養をするかどうかを決めるときには、本人の人生がそれによってより豊かになるのかどうかを考えてくださいといっています。少なくともより悪くしては駄目です。さきほどの経鼻栄養を継続したら彼の人生を悪くしますし、胃ろうにしても悪くするでしょう。そういうふうに考えてくださいということです。生存期間が延びるから人工栄養を行うということではなくて、本人の人生がより充実するならば行い、悪くなるならば行わないという考え方です。そして、患者家族とスタッフが納得できる合意形成・共同の意思決定に至ることを推奨しています。
・本人に必要のない医療行為を終えて看取るというのは不起訴なのです。しかも、重要なのは検察が不起訴としたケースが複数あるということです。本人に必要のないこのような医療行為を終えて看取りをしたことについて、それが適切に意思決定した結果であれば、今後、日本社会で問題になることはない、警察沙汰になることはないと思います。もちろん医師らがチームで家族との相談のうえで判断しなければならないのに、医師単独で決めたとか、そのようなことであれば警察問題になる恐れはありますが、意思決定の方法がガイドラインに沿っていて適切であれば、たとえば胃ろう栄養を終えたり、人工呼吸器を外しての看取りなどについては、今後、起訴されることはないと確信しています。このことは人工栄養でも、透析でも、その他、どのような医療行為でも、同じように考えることができます。
・世界で最初に事前指示というものを制度化したアメリカでは、じつは事前指示はあまり評判はよくありません。なぜかというと、いろいろと問題があることが明らかになってきたからです。まず、個々の医療行為全部に適用するようにリビング・ウィルを書くのは難しいということがあります。細かく書けば書くほど柔軟性が失われて、実際の場面では使えなくなります。また意思は変化することが多く、何年か前に書いたもの、あるいは先月とか先週、または昨日書いたものであっても、それが今現在の意思を正確に表したものとは限りません。人の意思は変化しやすいんです。それでは意思決定代理人を指名しておけばいいのかというと、代理人の選択は本人の意思とは異なることが多いことは世界中で数々の研究が示しています。アメリカでは、州法と連邦法を作って事前指示を推進してきましたが、うまくいっていません。また、別の問題もあります。患者側から事前指示書を渡されると、それを決定事項として扱う医師がいますが、事前指示の内容は決定事項ではなく、これをもとにさらいコミュニケーションを進めるべきものです。事前指示を用意する場合は是非、ご自分にとっての大事な人と相談して用意してください。コミュニケーションを促進する道具としてお使いいただくのが、事前指示のよい使い方だと思います。
・「葬送の自由をすすめる会」が次のような法解釈を提言しました。墓埋法の第4条「埋葬または焼骨の埋蔵は・・・」の「埋葬」とは遺体のまま埋めることで、一般的には「土葬」といっている葬法です。そして、「焼骨の埋蔵」というのは、火葬した骨をお墓の下に埋めるということで、現代の日本で一般的に行われている葬法です。これらは、ようするに都道府県知事の許可を得た墓地以外の区域には行ってはいけないということです。けれども、「撒く」という行為は「埋葬」でもなければ、「焼骨の埋蔵」にも該当しません。日本にある法律は全部、「埋める」ということを規定したもので、「撒く」ということを禁止した法律の条文はどこにもありません。そういうことですので、厚生省は、「撒く」という行為は「埋める」ことを規定した墓埋法の範疇外であるとコメントしました。そのあとで、みんなが撒きはじめたのです。もう一方で、刑法190条があります。「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めている物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、3年以下の懲役に処する」というものです。遺体をばらばらにして撒いてしまうということは刑法190条の遺骨遺棄罪に当たるのではないか、という見解がありました。これも、当時の法務相が、弔うという意味を持ち、節度をもって行われる限り違法ではない、すなわち遺骨遺棄罪には当たらないといっています。あくまでも公序良俗に反しない限りにおいて違法ではないということです。また、これらは全部、公式見解が出たということではありません。聞かれて答えた私的な見解です。そのあと、みんなが撒いているというのが現状です。散骨は、「葬送の自由をすすめる会」に申し込むこともできるし、いろいろな企業でも、それほど高くない費用で引き受けてくれたり、あるいは自分で行うこともできます。
・長男夫婦には墓を任せたくない、と思う場合、ほかの人を指定できるのです。この「指定」というのは遺言などの書式ではなくて、ただ書いてあるだけでいいのです。ですから、「民法897条に則って、娘を祭祀の主宰者とする」というふうに書いておけば、それが法的拘束力を持つというわけです。私たち認定NPO法人エンディングセンターでは、この条文を使って第三者と生前契約をしています。たとえば、エンディングセンターの会員さんが、「甥や姪はいます。小さいころはよく遊びましたが、今は、すれ違っても誰だかわかりません。ちゃんと自立して生きてきたのですから、自分のことは自分でしていきたいんです。でも、喪主となる人がいませんから、自分の死後のことを是非、頼みます」といい、その方が「民法897条に則って祭祀の主宰者を井上治代にする」と書いておけば、これはどんな親戚が出てきても、井上治代に執り行う権利があります。それも法的に守られて、子どもが出てきても、井上治代にやる権利があるのです。こういった生前契約をしておかないとだめです。
・エンディングセンターでは、「死後のしかけ」というメニューを作っています。私がかつて毎日新聞に「最後まで自分らしく」という連載をしていたときに、もし私が死期がわかるような病気になったら、身近にいる人の誕生日に私の死後に私から花束が届くように仕掛けてから逝きたい、というのを書いたところ、高知の今治の人から手紙をいただきました。そこには、「私は50本のバラの花束をもらったんです」とありました。その人は夫ががんでこれ以上の治療をしても無駄だということになって、だけど最後まで一生懸命看病をして看取ったそうです。夫が亡くなってお葬式を済ませ火葬場に行き、まだ温かい遺骨を抱きかかえて家に帰ったら、そのときに宅配業者さんが来て、50本のバラの花束が届いていたそうです。そしてそこには夫からの「ありがとう」という言葉が添えられていました。また、エンディングセンターの会員さんからこういう話も聞きました。独り者で、親も死んでいるから何かを贈る親族もいないのですが、大親友のお孫さんに、自分が好きな本を毎月一冊ずつ届くように仕掛けて亡くなったそうです。またある男性会員さんは、だんだんと子どもたちが大きくなって結婚し巣立っていき、このままいくと家族がばらばらになると心配になり、長男と長女、それにその配偶者も含めてみんなが自分の誕生日に集まるようにしたといいます。自分が全部段取りをしお金を払って、全員を呼んで誕生会をするのです。ばらばらになりかけた家族が1年に1回集まることによって絆を深めることができたそうです。そして彼は死んでもこれをやっていきたいと思っている、と。じゃあエンディングセンターがやりましょう。お金を預けておいてくれれば、全部段取りはしますよ、となりました。これらはすべて、死後の時間です。死をも超えた時間があるということと、死をも超えて関係性が続くという安心感があります。だから死ぬときに怖くないのです。死後の仕掛けをしていないと、死ぬってどういうことだろうとばかり考えてしまいます。
良かった本まとめ(2015年上半期)
<今日の独り言>
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「老い方上手」という本は、みんなが知りたいと思っている老後のお金や、認知症、在宅死、延命医療、自分らしい葬送などについて、分かりやすく最新の情報とヒント、具体的な対策等を説明したもので、各領域の第一人者による老後のプラン本です。
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第2章:すでに400万人が認知症といわれる中で、症状の把握や対処、世間のイメージにはまだまだ誤解も多いことを具体的に示し、新しい対処方や各地の支援の広がりについて大熊由紀子さんが執筆
第3章:「おひとりさまの在宅死」という提案について、医療環境整備と私たちの心構えで可能になるか、おひとりさまの老いのベストセラー本を出している上野千鶴子さんが執筆
第4章:胃ろうなど、延命治療について多様な考え方を示しながら家族の死の迎え方と選択について死生学の専門家である会田薫子さんが執筆
第5章:「多様な現代の葬儀のカタチ」として最新の葬送情報の研究だけでなく、「桜葬」墓地を立ち上げ、生前からのネットワークづくりもしている井上治代さんが執筆
どれも考えさせられる内容ですが、特に最新の海外も含めた認知症事情や在宅ひとり死、胃ろうなどの延命治療、自分らしい葬送については考えさせられましたね。
認知症の人には医療、治療よりも慣れ親しんだ環境が何よりのクスリとはナルホドと思いました。
また、宮崎市では24時間いつでも自宅に来てくれるナースステーションが22あり、自宅で死ぬことができる環境にあるとは驚きましたね。素晴らしいと思います。
それから、死後の仕掛けをしていると、死をも超えて関係性が続くという安心感から死ぬときに怖くないというのもナルホドと思いました^_^)
「老い方上手」という本は、より良い老後の参考となり、とてもオススメです!
以下はこの本のポイント等です。
・男と女では平均寿命が違いますから、65歳以上では、6対4で女性のほうが多くなり、80歳になると、女性は、男性の2倍。歳を取ればとるほど、女性が多数を占めるのです。貧困問題の最終的な解決策は今のところ生活保護しかありません。女性の生活保護率は50代、60代は男性より低いのですが、70代になると完全に逆転して、数も比率も女性が上まわります。「女性の貧乏はお国の貧乏」ということになってしまうのです。
・高齢者の核家族化は、煎じつめれば、家族関係の長期化、世代による就労形態の変化に適応したものといえるでしょう。さらに促進要因となったのは、1に年金の充実による親世代の経済的自立。年金額に格差はありますが、近頃は20~40代の雇用の劣化、賃金の停滞で、親の年金は子にアテにされる安定した収入になっています。少なくとも子の「仕送り」に頼る人たちが激減。高齢者の7割の世帯で、公的年金が総所得に占める比率が8割以上になっています。もうひとつの促進剤は介護保険制度の普及でしょう。何はともあれ、全国どこにいても認定を受ければホームヘルプ、デイサービスなどの支援を受けることができます。子供よりも友人のいる地元施設の入居を選ぶ人もいます。子がそばにいなくても、社会的はサービスを受けて生きる時間が長くなりました。
・健康寿命というのは、日常生活に制限のない期間をいいます。2010年時点で男性70.42年、女性73.62年となっていて、女性のほうが長いことは長いのですが、平均寿命の差が6.2年もあるのに、健康寿命の差はわずか3.2年。男性の健康寿命から平均年齢まで、つまりだれかの手助けを必要としたり、いわゆる寝たきりの時期が男性9.13年に対して、女性は2ケタの12.86年。いくら長生きする人が多いからといって、これが女性にとって見過ごされるでしょうか。
・たとえばドイツの例です。今、ドイツには徴兵制がなくなりましたが、徴兵制があった間は、銃を取って兵役の訓練を受けるか、それを拒否する人は同じ期間、福祉施設で働くことを認めていました。今のドイツでは高校卒業後、男女ともかつての兵役期間を、福祉施設で働くことを認め、年金期間に組み入れているそうです。アメリカに関しては、大学の入試の仕方が非常に多様です。ボランティア活動をして、Aをもらっているということが、コロンビア大学なりハーバード大学なりという難しい大学の入り口の選択肢のひとつになっているということです。どの先進国と比べても、日本の青年の自己形成に、高齢者はじめ福祉に関心を向ける時間が少なすぎると思います。義務教育の体験学習は行き届いているのですが、一時的短期的で子供の生活の一部に根づいていません。若者も、いずれほとんどは人生90年を生きるのです。若者が自分の人生90年から100年を息長く展望する教育を望みたいと思います。
・日本の中高年女性は労働力の宝庫です。まず、外国とくらべてほとんど100%の識字率。高校進学率は男性より高く、高校以上の進学率も4年制大学を除けば男性より高い。OECDなどからもよく指摘されるほど、日本女性は学歴が高いのに就労率が低い。せっかく高額な教育費をかけた医療職でさえ就労継続が困難で家庭にいる女性が少なくないのです。あえていえば国費の無駄遣い政策を、戦後の日本社会は長いあいだ取りつづけてきたのです。女性は平均寿命が長いぶんだけ、育児に時間がかかったぶんだけ、男性より長く働いてちょうどいいと思っています。長いあいだ男性が見てこなかった、あるいは見て見ぬふりをしてきた子育てや介護や衣食住のもろもろ。ケアを必要とする超高齢化社会は、おばあさん・おばさん年齢の技と力が生かされる社会です。これらの力が既存の社会に強力に混入されれば、男性のこれまでの社会も反応して、さらに多様性の豊かな社会ができあがると期待しています。
・ノーマライゼーション思想の生みの親は、ニルス・エリック・バンクミケルセンという行政官で、レジスタンス運動の闘士でした。デンマークにナチが侵攻してきたとき、彼はコペンハーゲン大学の学生でしたが、「自由デンマークを」という新聞を作って、配っているところを捕まえられて、強制収容所に入れられてしまいます。同志はずいぶん殺されましたが、生きているうちに幸い戦争が終わり、彼は解放されて、社会省の障害福祉の担当になります。知的なハンディを持っている人たちの施設を訪ねると、そこは、インテリアは素敵ですが、強制収容所そっくりの空気が流れていました。同じところで食事をし、作業し、外に出られない。そこで、新聞記者や親たちの協力を得て「1959年法」を作りました。それは、「どんなに知的なハンディキャップが重くても、人は町の中の普通の家で普通の暮らしを味わう権利がある」という内容です。「情け深くしましょう」という精神論や「上から目線」ではなく、「権利がある」という思想が重要です。社会は、その権利を「実現する責任がある」という、これがほんとうのノーラマイゼーション思想です。
・デンマークでは、市町村や現場に権限と責任が下ろされていて、入院中から退院後のプランが立てられます。ヘルパーさんは、「目は離さないけれども手は出さない」というプロの訓練を受けています。また「訪問ナース」という指令塔がいて、入院したときから、退院後、車いすでも外出や料理ができるように住宅改造なども含めて手配していました。生活の節目節目に現れるヘルパーさんは「おむつを取り替える人」ではなく、その人の誇りを膨らませるプロと位置づけられていました。ヘルパーさんの資質としては、「同じことを何度もいわれても受け止められる」「ユーモアのセンスがある」などが大事にされているのです。お給料は、月々、税込みで48万円ぐらい。そのかわりお医者さんたちのお給料が低い国なのです。(お医者さんは労働時間が日本より短いのですが)
・「認知症の人には、医療、治療よりも慣れ親しんだ暮らしが大切なのだ」というエーデル改革の政策転換が根底にあることを突き止めました。「早期発見・早期治療は、認知症については誤解」とは、そういうわけなのです。薬よりも、その人の慣れ親しんだ環境がなによりのクスリなのです。自宅でなくても、思い出の家具を持ち込んだケアつき共同住居で慣れ親しんだ暮らしを続けられることが大切にされていました。スウェーデンでは親子の同居率は4%です。認知症でも自宅にひとりで住んでいる人が45%もいます。そこにヘルパーさんが行って、ご本人ができることはご本人にやっていただけるように仕向けて、見守ります。
・まず同じ目の高さで正面から見つめる。認知症の人は、視野が狭くなっているそうです。ですから、いきなり、離れたまま話しかけると、いくらやさしく話しても駄目なんだそうです。ちゃんと、その人の視野に入っていって、その人の目をちゃんと見て、挨拶をしてから礼儀正しく話しかけることが大切だそうです。それから体に触れるときも、掴むようなやり方をすると逮捕されるみたいな感じになるのえ、その触れ方も考える必要があるとのことです。
・歯というのは、とても大事です。母は歯を外すとフガフガしてしまって、何をいっているか、よくわかりません。それから容貌が、。がた落ちになります。デンマークの認知症の専門家に聞いたところでは、歯が入っていると、まず、まわりの人が、その人を「あっ、この人、認知症だ」といってバカにしたりしなくなるそうです。ご本人も鏡に映った自分に誇りが持てるそうです。それから、ちゃんと噛むのでお通じがよくなります。お通じがよくなると、まわりにまとわりつく二次的な症状が出なくなるということです。
・リハビリテーションという言葉があります。普通は機能訓練という意味だと思っている人が多いと思いますが、本来の意味は、その方の人生をよくわかって、その方の名誉を回復してさしあげるという意味なのです。そのことが認知症にとっては一番重要なお薬ではないかと思います。大事なことは、誇りとぬくもりです。ぬくもりというのは「自分の居場所だな」「仲間がいるな」と、そこで何か輝けるようなことを提供することです。それには、想像力が大事です。「自宅でなんて無理だよ」とか、「やっぱり精神病院に入れちゃったら?」などといわれても、堂々と、度胸を持って、ご本人ののぞみをかなえてさしあげることが大切だと思います。そのようなことをご自身、またはみなさまのご両親などのために考えておいていただけたらと思います。
・やむを得ず施設にお入りになったお年寄りたちに、できるだけ住まいとして快適に暮らして頂こうということで、施設を住宅化するという動きが生まれてきました。一方で、住宅にないのが介護力ですから、住宅にサービスを外からつけたらよいという考え方がサービスつき高齢者住宅です。これまで福祉は厚労省のの管轄、住宅は国交省の管轄でしたが、相互に乗り入れて2011年に「高齢者住まい法」という一元化した法律ができました。これまで高齢者施設は40床以上が原則だったのですが、施設も路線転換しました。40人をまとめて面倒見るというようなことはやめよう。できるだけ地域で、家庭に近い暮らしをしていただこうという、脱施設化の動きも生まれました。
・安心して老後を生きるための条件の中には、年金・介護・医療などがありますが、もうひとつ、誰もこれまでいわなかった居住福祉、住まいを確保するということの大切さがいわれはじめました。高齢者は住宅弱者といわれてきました。ずーっと賃貸で暮らしてきた高齢者は確かに住宅弱者です。契約を更新しようと思っても、年齢を取ると、大家さんは、自分のところの物件で死なれては困るとか、孤立死して何ヶ月後かに発見ということになったりすると、あとが大変ということがあるので、賃貸が非常に不利になっていきます。けれども、今の高齢者は持ち家率が高いんです。なぜかというと、自分の一生を抵当に入れて、社畜になってローンを組んだ家が1軒ぐらいはある人が多いからです。その持ち家に同居家族がいるばかりに、「出ていってくれ」といわれる。ということは、同居家族さえいなければOK。いっそ世帯分離をしたほうがまだマシ、ということになります。「住宅余り社会」といわれていますが、全国平均で空き家率13%、東京都でも郊外の公団住宅などでは櫛の歯が抜けるように空き家が出てきています。つまり、今ある分を使えば、これ以上の施設建設をしなくてもいいはずです。同居者がいない独居高齢者を前提に、サービスを外づけしていけばよいでしょう。
・介護の一番の基本は暮らしを支えることです。暮らしを支えるというのは、口から食べて、お尻から出して、清潔に保つ、の3点セット。これが食事介護、排泄介護、入浴介護の「3大介護」といわれるものです。これさえ土壇場までできれば、独居でも死の前日にご自宅のお風呂にお入れして、翌日見送ることができたという実践をやっておられる方たちがいらっしゃいます。
・在宅看取りを実践しておられる専門家の方たちに、「在宅で死ねるための条件はなんですか」とお聞きしますと、次の4つの答えが返ってきます。まずひとつめは、ご本人の強い意志です。「わしゃ、ここを動かん」という意志です。2つめは、愛のある同居家族がいることです。愛があるというのは「ここにいてもいい」ということです。ただ、愛があるだけでは十分ではなくて、介護力のあることが条件です。3つめは、地域に利用可能な介護・医療資源があことです。最後にお金です。日本の介護保険は終末期を支えきるには量が足りないように作ってあります。ですから、プラスαのお金を自己負担できるかどうかです。べらぼうにはいりません。そんなにたくさんはかからないということがわかっています。
・在宅医療のお仕事をされているいろいろな方にお話を聞くと、末期までの介護・医療サービスの購入に、月額50万、およそ半年間の備えがあれば、在宅でお見送りができるとのことです。この50万というお金のうち、介護保険の最重度の認定を受けていればおよそ36万までは介護保険で使えますから、その1割負担が、3万6000円。あとの14万は医療保険、その他諸々の費用で、半年から長くて1年と考えて確保しておけば、ほぼなんとかなるとおっしゃっていました。いくらかはかかりますが、いくらもはかからない、なんとか出せるお金です。そのぐらいのお金があれば、病院に連れていかなくてもすみます。
・地方では、家が空いて余っているところがあり、そこを借り上げ在宅看取りを事業化したのがホームホスピス宮崎「かあさんの家」の市原美穂さん。建物を造る初期投資がいらず、部屋割りをして、5人のお年寄りに賃貸で貸し出しています。そこに外からホームヘルプを入れ、夜間の見守りを入れて、お看取りまでお引き受けして月額およそ15万です。看取りの際に頼りになるのはドクターよりナース。24時間いつでも来てくれるナースが力になると考えて、ナースステーションを、宮崎市内に作ってこられました。お訪ねしたときに、22あるとおっしゃるナースステーションがカバーするエリアをマッピングすると、宮崎市が全域入ります。宮崎市内にお住まいであれば、どこにお住まいだろうと家で死んでいただけますというお言葉を聞いてまいりましあこうなりますと、「死ぬなら宮崎」となりますよね(笑)。私みたいに係累がいない人間はラクです。スーツケースを持って、「市原さん、死なせてください」って行けばいいんですから。実際に、そういう人がいたそうです。横浜市在住70代、がん患者の男性で、立派な息子が2人いますが、絶縁状態でした。末期がんで余命3ヶ月の宣告を受けて、係累のない宮崎まで、「市原さん、あんたのところで死なせてくれ」といって、来られたそうです。市原さんは仰天しましたが、受け入れられて、なんと、機嫌よくお過ごしになって、余命3ヶ月が1年半延びて、亡くなられたそうです。15万円×1年半ですから、それまでに貯め込んだお金があればなんとかなります。こういう安心を提供してくださる方たちが徐々に増えてきました。
・おひとりさまの看取りを実践したグループがあります。私は、自分よりも年若い友人をがんで見送りました。彼女を支えるのに30人の女性たちがチームを作って、ネットでメーリングリストを作りました。そこには司令塔がひとりいまして、その人から指示が飛びます。「あなたは入院のときに手伝ってね」「あなたは退院のお手伝いをしてね」と。それから、通院で抗がん剤治療していたときには、「何曜日はあなたが行って、玄米菜食を作って、一緒に食べてあげてね」「何曜日はあなたがやってね」といって、最期まで支え抜きました。30人いるとすごくよかったのは、「その日は私はつごうが悪い」という人がいても、誰かほかに、「私は大丈夫」という人が出てくる点です。このチームは30人全員、女性でした。つくづく思ったのは、これが全員、男だったらなんの役に立っただろうかということでした。女性は、どんな人でも玄米菜食ぐらい、作れますから。彼女を偲ぶ集まりで、「私たち、ほんとによくやったよねえ」といいあいました。それには彼女の人徳もあります。司令塔をやった人の尽力もあります。でも、私たち、ひとりひとりに下心はなかったでしょうか。これさえうまくいけば、自分のときにもやってもらえる・・・と。そう私がいったときに、こういわれました。「あなたね、彼女、いくつで死んだと思う?」享年57歳でした。57歳の女性の友達は50代、60代で、皆まだまだ元気です。「私たちに、そういう支えが、ほんとうに必要になるのは、いったい何年後だと思う?」って。今、60代なら、あと20年後、80代でしょうか。「みんな、歳取るのよ」といわれました。私はこれまで「金持ちよりも人持ち」と唱えてきました。人持ちというときに、マイナス20歳の世代差を取り込むのが、今の私の目標です(笑)。
・一般的にいうと、胃ろうがよい方法にはなりにくい場合というのもあります。それは、アルツハイマー病などの終末期の場合、それから老衰の末期の場合です。このような場合、ある段階にくると食べることができなくなります。この方たちにとっての胃ろう栄養法はよくないことがほとんどです。胃ろう造設という、ほんの少し、5、6ミリ切るという手術のあとでも短期間で死亡する恐れがあります。つまり、亡くなろうとしている段階に入っているわけで、小さな手術でも耐えられないということです。もし、その手術をして何週間か生きているとしても、肺炎などが亡くなる原因になります。実際、肺炎で亡くなる方が多いのです。
・日本老年医学会は、もうひとつ、「人工的水分・栄養補給の意思決定プロセスに関するガイドライン」を発表しました。人工栄養、つまり、胃ろうや経鼻栄養や中心静脈栄養などを行うかどうかという意思決定をするときの、プロセスのたどり方に関するガイドラインです。このガイドラインは、人工栄養をするかどうかを決めるときには、本人の人生がそれによってより豊かになるのかどうかを考えてくださいといっています。少なくともより悪くしては駄目です。さきほどの経鼻栄養を継続したら彼の人生を悪くしますし、胃ろうにしても悪くするでしょう。そういうふうに考えてくださいということです。生存期間が延びるから人工栄養を行うということではなくて、本人の人生がより充実するならば行い、悪くなるならば行わないという考え方です。そして、患者家族とスタッフが納得できる合意形成・共同の意思決定に至ることを推奨しています。
・本人に必要のない医療行為を終えて看取るというのは不起訴なのです。しかも、重要なのは検察が不起訴としたケースが複数あるということです。本人に必要のないこのような医療行為を終えて看取りをしたことについて、それが適切に意思決定した結果であれば、今後、日本社会で問題になることはない、警察沙汰になることはないと思います。もちろん医師らがチームで家族との相談のうえで判断しなければならないのに、医師単独で決めたとか、そのようなことであれば警察問題になる恐れはありますが、意思決定の方法がガイドラインに沿っていて適切であれば、たとえば胃ろう栄養を終えたり、人工呼吸器を外しての看取りなどについては、今後、起訴されることはないと確信しています。このことは人工栄養でも、透析でも、その他、どのような医療行為でも、同じように考えることができます。
・世界で最初に事前指示というものを制度化したアメリカでは、じつは事前指示はあまり評判はよくありません。なぜかというと、いろいろと問題があることが明らかになってきたからです。まず、個々の医療行為全部に適用するようにリビング・ウィルを書くのは難しいということがあります。細かく書けば書くほど柔軟性が失われて、実際の場面では使えなくなります。また意思は変化することが多く、何年か前に書いたもの、あるいは先月とか先週、または昨日書いたものであっても、それが今現在の意思を正確に表したものとは限りません。人の意思は変化しやすいんです。それでは意思決定代理人を指名しておけばいいのかというと、代理人の選択は本人の意思とは異なることが多いことは世界中で数々の研究が示しています。アメリカでは、州法と連邦法を作って事前指示を推進してきましたが、うまくいっていません。また、別の問題もあります。患者側から事前指示書を渡されると、それを決定事項として扱う医師がいますが、事前指示の内容は決定事項ではなく、これをもとにさらいコミュニケーションを進めるべきものです。事前指示を用意する場合は是非、ご自分にとっての大事な人と相談して用意してください。コミュニケーションを促進する道具としてお使いいただくのが、事前指示のよい使い方だと思います。
・「葬送の自由をすすめる会」が次のような法解釈を提言しました。墓埋法の第4条「埋葬または焼骨の埋蔵は・・・」の「埋葬」とは遺体のまま埋めることで、一般的には「土葬」といっている葬法です。そして、「焼骨の埋蔵」というのは、火葬した骨をお墓の下に埋めるということで、現代の日本で一般的に行われている葬法です。これらは、ようするに都道府県知事の許可を得た墓地以外の区域には行ってはいけないということです。けれども、「撒く」という行為は「埋葬」でもなければ、「焼骨の埋蔵」にも該当しません。日本にある法律は全部、「埋める」ということを規定したもので、「撒く」ということを禁止した法律の条文はどこにもありません。そういうことですので、厚生省は、「撒く」という行為は「埋める」ことを規定した墓埋法の範疇外であるとコメントしました。そのあとで、みんなが撒きはじめたのです。もう一方で、刑法190条があります。「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めている物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、3年以下の懲役に処する」というものです。遺体をばらばらにして撒いてしまうということは刑法190条の遺骨遺棄罪に当たるのではないか、という見解がありました。これも、当時の法務相が、弔うという意味を持ち、節度をもって行われる限り違法ではない、すなわち遺骨遺棄罪には当たらないといっています。あくまでも公序良俗に反しない限りにおいて違法ではないということです。また、これらは全部、公式見解が出たということではありません。聞かれて答えた私的な見解です。そのあと、みんなが撒いているというのが現状です。散骨は、「葬送の自由をすすめる会」に申し込むこともできるし、いろいろな企業でも、それほど高くない費用で引き受けてくれたり、あるいは自分で行うこともできます。
・長男夫婦には墓を任せたくない、と思う場合、ほかの人を指定できるのです。この「指定」というのは遺言などの書式ではなくて、ただ書いてあるだけでいいのです。ですから、「民法897条に則って、娘を祭祀の主宰者とする」というふうに書いておけば、それが法的拘束力を持つというわけです。私たち認定NPO法人エンディングセンターでは、この条文を使って第三者と生前契約をしています。たとえば、エンディングセンターの会員さんが、「甥や姪はいます。小さいころはよく遊びましたが、今は、すれ違っても誰だかわかりません。ちゃんと自立して生きてきたのですから、自分のことは自分でしていきたいんです。でも、喪主となる人がいませんから、自分の死後のことを是非、頼みます」といい、その方が「民法897条に則って祭祀の主宰者を井上治代にする」と書いておけば、これはどんな親戚が出てきても、井上治代に執り行う権利があります。それも法的に守られて、子どもが出てきても、井上治代にやる権利があるのです。こういった生前契約をしておかないとだめです。
・エンディングセンターでは、「死後のしかけ」というメニューを作っています。私がかつて毎日新聞に「最後まで自分らしく」という連載をしていたときに、もし私が死期がわかるような病気になったら、身近にいる人の誕生日に私の死後に私から花束が届くように仕掛けてから逝きたい、というのを書いたところ、高知の今治の人から手紙をいただきました。そこには、「私は50本のバラの花束をもらったんです」とありました。その人は夫ががんでこれ以上の治療をしても無駄だということになって、だけど最後まで一生懸命看病をして看取ったそうです。夫が亡くなってお葬式を済ませ火葬場に行き、まだ温かい遺骨を抱きかかえて家に帰ったら、そのときに宅配業者さんが来て、50本のバラの花束が届いていたそうです。そしてそこには夫からの「ありがとう」という言葉が添えられていました。また、エンディングセンターの会員さんからこういう話も聞きました。独り者で、親も死んでいるから何かを贈る親族もいないのですが、大親友のお孫さんに、自分が好きな本を毎月一冊ずつ届くように仕掛けて亡くなったそうです。またある男性会員さんは、だんだんと子どもたちが大きくなって結婚し巣立っていき、このままいくと家族がばらばらになると心配になり、長男と長女、それにその配偶者も含めてみんなが自分の誕生日に集まるようにしたといいます。自分が全部段取りをしお金を払って、全員を呼んで誕生会をするのです。ばらばらになりかけた家族が1年に1回集まることによって絆を深めることができたそうです。そして彼は死んでもこれをやっていきたいと思っている、と。じゃあエンディングセンターがやりましょう。お金を預けておいてくれれば、全部段取りはしますよ、となりました。これらはすべて、死後の時間です。死をも超えた時間があるということと、死をも超えて関係性が続くという安心感があります。だから死ぬときに怖くないのです。死後の仕掛けをしていないと、死ぬってどういうことだろうとばかり考えてしまいます。
良かった本まとめ(2015年上半期)
<今日の独り言>
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