<金曜は本の紹介>
「アフリカの奇跡(佐藤芳之)」の購入はコチラ
この「アフリカの奇跡」という本は、ケニアで「ケニア・ナッツ・カンパニー」や「オーガニック・ソルーションズ・ケニア」という会社を設立した佐藤芳之さんが書いたもので、その生い立ちやアフリカでの生活・起業・失敗から学んだこと、アフリカの方の性質などについて分かりやすく興味深く書かれています。
特に以下については興味や共感を持ちましたね。
実体験に基づき書かれているので、どれも説得力があります。
・「後を振り返らず前へ前へ」という姿勢を持っている
・学生時代は頭より身体を鍛えるべき
・いろんな自分の関心事にどんどんトライすることが大切
・言葉は口に出すとそれに縛られる
・本当に良質なものを生活の中に取り入れる
・精神的にはハングリーで、フーリッシュでいること
・農民を搾取するのではなく、栽培・集荷・加工・格段階のステークホルダーが満足する仕組みを作った
・人材を募集する際にはビジョンを示すこと
・ビジネスを興すときは小さく始め、少しずつ大きくすること
・日本人にとっては当たり前の嘘をつかない・時間を守る・物を捨てないといったことをアフリカの人は守れなかった
・事業はちゃんとそこに住んで、じっくり時間をかけて手がけること
・地場産業の振興が重要
・企業の社会貢献の先には世界全体の平和がある
・社会は熟成すべきであって腐敗してはいけない
・相手が感動して泣いてしまうぐらい説得ができるような言語力が必要
・お金こそあらゆる人をつなぐことのできる接点、エッセンス
・理想の会社は離合集散を繰り返しながらその場その場で新しい価値を創造していくこと
・儲けは再投資と生産者への還元と従業員の福祉に回すのがポイント
・会社も大きくなったら分社化しそれぞれ特色ある会社として独立すべき
・自分の役割を規定して、その役割を果たしたらダラダラ居座らず、スッと立ち去る美学を求め、次にやるべきことに向かうべき
・自己変革するからひとつの道で抜きん出ることができる
・一人で起承転結すべきではない
・ビジネスにも歴史の視点は必要
・人にとって大切なおはPPP(ポジティブ・パワフル・パッショネイト)
・志は高く、目線は低く
・永遠に生きるがごとく夢を見よ、今日死ぬがごとく今を生きよ
「アフリカの奇跡」という本は、人生に役立つことがたくさん書かれていて、とてもオススメです!
以下はこの本のポイント等です。
・自分の目のことなのに、私自身は案外気になりませんでした。隻眼となり遠近感を失いながらも、私は中学ではバレーボール、高校ではラグビーと、球技に打ち込みました。物事はつねに起こるべくして起こるものです。すでに起こってしまったことにいつまでもくよくよしていては、前に進むことができません。片目の視力を失ったことは、私が持って生まれた「後を振り返らず前へ前へ」という姿勢を、さらに確固たるものにしてくれました。
・少年時代はキラキラの破片づくりでいいのです。後に成長するにつれ、そのキラキラ光る破片が収束してひとつの光になていけばいい。それは何かひとつの目標を持って、そこに向かって一直線に進んでいく生き方と正反対のものです。明確なゴールはないけれど、常にアンテナを張っていて、何か起こるたびに鋭敏に反応していく。ただ、意識の中に芯のようなものを一本、しっかりと持っていなければなりません。
・よく座右の銘はなんですかと聞かれることがあります。そういうとき私は、高浜虚子の一句を挙げることにしています。
<去年今年貫く棒の如きもの(こぞことしつらぬくぼうのごときもの)>
この句に出てくる「貫く棒の如きもの」さえあれば、少々の寄り道や回り道をしても自分はいつも元の場所へ戻れる。修正することができるという感覚があります。この「棒の如きもの」は欲望の抑止もしてくれるでしょう。野心や野望んんて持っても、なんの足しにもならないよと言ってくれます。「棒の如きもの」を持つことこそが野心なんだよと教えてくれます。
・学生時代というのは、頭より身体を鍛えるべきです。あのとききちんと身体を作っていたから、後にアフリカに行って、サハラ砂漠でぶっ倒れたり、ガーナで栄養失調になって入院したりしても生き延びられたのだと思います。
・絵を描くにしても、スポーツをやるにしても、最初からそれ一筋というのではなく、あちこちに寄り道して、いろいろなことを経験していると、あるときパッとすべてが一緒になって、道筋が見える。そういうものだと思います。もちろん自分の中に「芯」を持つことは大切ですが、若い頃は、モザイクを作っていくような感じで、自分の関心事にどんどんトライしていくといいとおもいます。そうして、本気でぶつかっていった様々な体験が互いに摩擦を起こすようにするのです。摩擦は熱を起こしますから、その熱が自分をつき動かして、また次のステージに行かせてくれます。
・アフリカへ渡るという夢を胸に抱いたのは高校生のとき。1955年頃のことです。ホームルームの時間に、みんなで10年後にどこで何をしているか語ろうじゃないかということになり、一人ひとり前に出て発表したことがありました。私の順番が回ってきて、ぼんやりと思い描いていたことが言葉になり、「僕はアフリカへ行きます。10年後にはアフリカにいます」と宣言してしまったのでした。言葉というのは、いったん口に出してしまったら、それに縛られるものです。ホームルームで言ったことが、そのまま文集にも載って、これは本当に行かないとカッコ悪いなということになりました。それで、アフリカの独立やその背景にあった思想などについての本を読み始めました。
・リーダー格の連中は後ろで「行け」とか「退け」とか適当に指示を出したり、機動隊をなじったりするだけで、いわば安全地帯にいるわけです。前線でひどい目に遭いながら、私は「太平洋戦争も結局はこうだったのかな」と思いました。参謀本部が後ろのようで、ここへ行け、あそこへ行けと指示を出し、駒を扱うように兵隊たちを動かす。行かされるほうは大変です。3日分の食料を持たされて1ヶ月行けなどと言われ、鉄砲を担いで行くわけでしょう。それでは犬死にするのがオチです。日本軍の失敗の本質を、私はデモのなかで見た気がしました。機動隊に脚を蹴飛ばされ、痛くて歩けなくなって、「俺はもうダメだ」と叫んだらデモから引っ張り出されました。私は失望感を抱え、脚を引きずりながら、家に戻ることになりました。そんなことがあって、私は安保闘争なんてバカバカしいことだと悟りました。今になって振り返ると、当時のあの連帯感はいったい何だったのだろうと思います。あのときの人々の振る舞いは、ナチス・ドイツやオウム真理教のやったことにつながるような、人の心理を煽って操作するという、非常に危険なものをはらんでいたと思います。友人のなかには何人か逮捕さえた者もいます。学校は封鎖されてしまいました。それでも日本はあまり変わりませんでした。虚しい感じだけが私のなかに残りました。学生運動を経験して、日本社会そのものにしらけてしまったことは、その後の私の生き方に大きく影響を及ぼしました。たとえば事業を興して会社をつくり、何千人もの社員を抱える社長になっても、私の独善的なプラン、私のやりたいことで人を動かすようなことをしてはいけないと考えるようになりました。かつて日本の多くの会社がやっていたことは、一種のファッショでしょう。何ごとも社長や役員のトップダウン。社長や役員の下にたくさんのヒラ社員がいて、一番働いているのはそのヒラたち。いつも夜中まで働かされて、たまたま部長にでもなればなったで、今度は接待と称して毎晩銀座などを飲んで、無駄なお金を使う。そこから見えてくる日本の会社、ひいては日本社会の仕組み、統治機構、そういうものに対する強い反感がありました。
・本当に良質なものを、さらっと生活のなかに取り入れていきたいというのは今も心がけていることです。自分の生活をあるグレードに保つことは大切だと思います。人としての最低限のノーブルさを保ち、知的に生活すること。大きな仕事を成し遂げようと望むときには、私的な部分がだらしなくなっているとダメです。経済的にも、特に大金持ちでなくてもいいけれど、ちゃんと食べられる程度の収入があって、家もそれなりに堂々としたところに住む。そこで、きちんとした生活をする。その上で、精神的にはハングリーでフーリッシュでいること。そこまで整っていてはじめて、あるレベルの仕事ができるのだと思います。
・ひとたびプロジェクトが動き出すと、いろんな人がやってきて、私を助けてくれました。私はただ大きな声を出して、旗を振っていただけです。仕事というのは、たとえ一人で始めたとしても、所詮一人でやり通せるものではありません。ナッツ・カンパニーの場合にも、ナッツのスペシャリスト、会計のスペシャリスト、機械のスペシャリスト、食品衛生のスペシャリストなど、各分野の専門家が集まって来てくれました。なぜあんなふうにそれぞれの道に精通した人たちが集まってくれたのか、理由は私にもわかりません。給料をたくさん払えるはずもありませんでした。それでも、私の「やろう」という声に応えて、賛同してくれました。意気に感じるということだったのかもしれません。アフリカという土地の可能性に魅力を感じたのかもしれません。みんな本当に誠心誠意、献身的で全力投球でした。
・ナッツ・カンパニーのビジネスで私が重視したのは生産者による生産拡大でした。栽培、集荷、加工、各段階のステークホルダー(利害関係者)が満足する仕組みを作ろうとしたのです。従来の欧米型の、大規模プランテーションで農民が搾取されるような開発ではなく、農民を小農スタイルの原料供給源にすることで農民が現金収入を得て、経済基盤を確立するというものです。多くの農家でトウモロコシやコーヒーの間にマカダミアを植えてもらいました。マカダミアは苗を植えてから実を収穫するまでに7年かかりますが、それ以降は毎年安定的に収穫することができ、地域の緑化にもつながります。苗を買ってくれた農家には、収量・品質が向上するように、肥料の与え方や剪定の仕方などを教えました。きちんと木の世話をすれば、その分、収入も増えるということが理解できれば、人々はやる気を起こします。ナッツの集荷は、集荷ポイントをいくつか作り、そこに収穫したナッツを持ってきてもらって現金と引き換えるようにしました。その場で、現金で、確実に払うことが肝要でした。そうすることで、農民は「今日はナッツを集荷場に持っていって、そこでもらったお金で帰りに市場で洗剤を買おう」という計画的な生活ができます。先の見通せる生活は新たな意欲につながるものです。
・大きな会社なら、それなりに人も来てくれるでしょうが、将来どうなるかもわからない小さな会社では、募集をかけてもほとんど誰も来てくれません。それをどうにかアピールして、来てもらわなければなりませんでした。そこで私がやったのは、ビジョンを示すことでした。この会社は、こういうことをして、いずれはこうなって・・・とビジョンを語ったのです。そうすると、そこに共感した人材が引っかかってくるというわけです。ビジョンを語ることは、新規採用の時だけではなく、つねに大切なことです。
・ナッツで業績が上がったからといって、私の経営手腕が優れていたというのではありません。私が何かをやりたいと言いだし、それに興味を抱いて来てくれた人に「じゃあ、これをやってよ」「あなたはあれをやってよ」と、みんなに頼んでいただけのことですから。私は社員たちに利益の可能性について語るより、やりたいという気持ちを話しました。「私がやりたいから、一緒にやりませんか」「一緒にやって、楽しみませんか」と話しました。一方、集まってきてくれた人たちは、あるプロジェクトに入ると、その道を極めて、いつしかプロフェッショナルになってしまうのです。ナッツ・カンパニーに参加した人は、来たときはずぶの素人だったのが、そのうちにナッツのプロになりました。やっていくうちに追求するのが楽しくなったのでしょう。楽しくなると、どんどんその道の勉強をするようになって、ますます精通していく。ナッツの仕事をやろうと言い出した当の私は、あっと言う間に置いてきぼりでした。
・ビジネスを興すときは、つねに小さく始めるようにしてきました。失敗したときに破綻してしまうほど大きくはやらないということです。それは、私が父の町工場の仕事を手伝ったときに身に付いた経営感覚なのかもしれません。ナッツ・カンパニーも数人で小さく始め、それを育てて、少しずつ大きくしていきました。良い人材が集まり、良い商品が作れて、正しいマーケティングときちんとした経理が整えば、会社経営も楽なものです。あれよ、あれよという間に成長していきました。マカダミアに加え、カシューナッツ、コーヒー、紅茶を手がけるようになりました。利益が上がっても、私はそれで自分の生活を豪奢にしようなどとは思いませんでした。この利益を使って、もうひとつ工場を造ろう。さらにもうひとつ工場を、というふうにどんどん拡張していったのです。従業員の人たちはビジネスが拡張することをたいへん喜びました。拡張が次なるモチベーションになって、じゃあ今度は新たにこれをやろう、次はこれもやってみようとますます意欲的になってくれました。最終的には4000人の社員を抱える規模になりましたが、私も含めた日本人株主にも、パートナーとして参加したケニア人株主たちにも、一度も配当を実施したことがありません。利益はすべて再投資と、従業員還元に回しました。そうすることで組織を少しずつ強固に、大きくしていったのです。欧米流の経営とは違うやり方に、「佐藤は格好をつけている」と批判されることもありましたが、意に介しませんでした。
・アフリカで人を雇うときに一番たいへんだったのは、倫理観・道徳観の違いでした。日本人の私にとってはごく当たり前の最低限のモラル-例えば、嘘をつかないとか、約束した時間を守るとか、公共の場にやたらと物を捨てないとか、職場や家をきれいに掃除するとか-をアフリカの人たちはほとんど守れませんでした。倫理や道徳よりも、とにかく生存することが大変だったということはあったでしょう。アフリカでは「言葉は風」と言われます。人と人が交わす言葉は所詮、草原を吹き渡る風のようなものだという意味です。例えば、誰かと前の日に交わした「明日までに必ずやる」という約束が翌日になっても守られなかったとします。約束を破った人が謝るということは、アフリカではまずあり得ません。それどころか、平然として「言葉は風だよ。きのう約束したっていうけど、それは今、どこにあるんだい?そんなものは風に乗ってもうキリマンジャロの麓まで飛んでいってしまったよ」と言います。「お前のこと、信用しているから、しっかりやってくれよ」と念を押しても、言われた人は困惑した顔をするだけです。「信用されても困る」と言います。人々が食べるのに困らない豊かな社会だと、言葉や信頼関係がサバイバルの道具になります。それらを守るために倫理や道徳も発達するのでしょう。
・そういう社会ですから、一貫した真実などというものはあり得ません。自分の言葉にいちいち責任を持っていたら身がもたない。場当たり的に、局面局面を取り繕っていく。アフリカ人というのは、そういうことに長けた人たちなのだと思います。アフリカ人が嘘をついたとき、それへの対処法は、まず「受け入れる」ことだと私は思います。それは嘘だろうと最初から決めつけずに、いったん彼らの言うことを受け入れてみる。「そうだよな、少なくとも、君はそう思ったんだよな」と受け入れる。彼らの言ったことが明日も真実かどうか、そこでは問わない。しかし、こう付け加えるのを忘れません。「明日になっても同じようなことが言えるようになったらすばらしいよな」
・アフリカでは盗みが頻発していまう。そして、盗みに対する制裁は、非常に厳しいものがあります。ケニア・ナッツでも、守衛が泥棒を捕まえ、殴りつけて、警察に連れて行く前に、すでに犯人の顔が腫れ上がって、脚は骨が折れていたということも珍しくありませんでした。盗みは善悪の問題ではなく、限られた食べ物を独占されるという、生死に関わる問題です。ですから、村で食べ物を盗んだ者が見つかると、引きずり出して首からタイヤをかけ、そこに火を付けたりします。それはもう凄まじいリンチです。盗んだ者は死んで当然ということになっているのです。食べ物でも金品でも、物を盗むのは他の人の生存を脅かすこととみなされます。誰かが盗むと、その分誰かが食えなくなるということです。警察官は、泥棒を捕まえにいくのではなく、泥棒がリンチで殺されるのを止めにいくのです。泥棒の側からすると、警察官を呼ばれたら大喜びです。
・ブラジルが一番わかりやすい例だと思います。手に入れたのはすばらしい農場と工場でした。1997年、ドイツでナッツを扱ってくれていた山口邦彦さんから、ミナスジェライス州のエスプリト・サントスちう町に1000エーカーを超すマカダミアナッツの農場があり、ビジネスパートナーを探しているという情報を得ました。私はすぐに南アフリカのヨハネスブルグ経由でサンパウロに飛び、現地視察をしました。すばらしい農場でした。これはいける。これをうまくやれば、ブラジルに一大拠点ができてアメリカでの展開につながるとぬか喜びしたものです。山口さんが共同出資者になりました。現地パートナーとの交渉の結果、加工会社を買収し、工場用の機械を据えつけて操業という運びになりました。ところが操業開始から一週間と経たないうちに、そこがギャングに占拠されてしまったのです。それだけでなく、信頼して現地の一切を任せた日系人が機械や部品を調達する際に、代金を水増しして懐に入れるという、盗み同然のことをしていたことが発覚しました。他のブラジル人にも騙されて、ひどい目に遭わされました。工場を襲ったギャング団はパートナーとグルの、そこの警察署長の手先らしいとの情報でした。アフリカでやっているのと同じような感覚でやっていた私が甘かったようです。彼らの悪党ぶりはアフリカ人より勝っていました。
・ドイツでは、ナッツの加工を新たに手がけました。ヨーロッパの顧客が増えたので、現地に在庫を持ち、小口の注文に応じ、二次加工もして、サービス向上を図る必要性が出てきました。そこで、1993年にフランクフルトで小さな工場を始めます。その後、1998年に、ブレーメンの工業団地にスペースを借りて本格的な操業を始めたのですが、ケニアからの原料の供給が干ばつの影響などで不安定でした。それに加え、後で判明したのですが、現地を任せたドイツ人の男が私の知らないところで別会社をつくって、同様のビジネスをやっていたのです。私が現地に行くと、その男はとても愛想がよくて、ドイツ料理を振る舞ってくれたり、観光名所を案内してくれたりしていたのです。私もすっかりいい気になって、「しっかりやってくれよ」などと、うまくコントロールしているつもりでいたのですが、なんのことはない。彼は私の背後でペロッと舌を出していたのです。これまた失敗でした。
・失敗から私は教訓を学びました。私がケニアでやっていたように、ちゃんとそこに住んで、じっくり時間をかけて手がけるのならよいが、不在地主のように自分は外にいて人任せでコントロールしようというやり方は根本が間違っていました。ちょっとお金ができたものだから、可能性が広がった気がして、欲が深まった結果の失敗。私が「進出」と称してやろうとしていたのは、ただよそに出かけていって、土地や工場を買い、そこで作り出したものに自分たちのブランドをつけて出す。つまりその土地や人間を利用して、利益を吸い取ろうというものでした。それでは植民地時代に宗主国がやっていたことと何ら変わりません。
・リテール商品にはキャッチーな商品名が必要でした。私が思いついたのは「アウト・オブ・アフリカ」。北欧を代表する女流作家、カレン・ブリクセン(イサク・ディネセン)がケニアを舞台に書いた小説(日本語版のタイトルは「アフリカの日々」)で、シドニー・ポラック監督、メリル・ストリープとロバート・レッドフォードが主演で「Out of Africa」(邦題「愛と哀しみの果て」)という映画になりました。アカデミー賞作品賞をとった名作です。主人公のデンマーク人女性、カレンがケニアでコーヒー農園の経営を成功させようと奮闘し、もがき苦しむ姿に私はわが身を重ねました。映像には私が馴染んだアフリカの美しい風景が映し出されていました。ストーリーのなかで何よりも私の心をつかんだのは、いろいろとつらいこともあってから結局アフリカを離れることになった主人公が、遠くからアフリカの日々を回想し、あらためて思慕するところです。
・ゆくゆくは「ケニアに行ったら、あれを買ってきて」と言われる商品にするのが理想です。これは販売戦略でもありますが、地場産業の振興という狙いもありました。「ケニアならこれ」「ルワンダへ行ったらあれ」というふうにしたいのです。それにはストーリーのある商品を創出する必要があります。「アウト・オブ・アフリカ」は、まさに、このストーリー作りという部分で、商品とマッチしたネーミングだったのです。世界中の誰もが美味しいと感じる味を作るのは、簡単なことではありません。ナッツの場合は素材のよしあしがモロに味に出ます。アフリカの太陽と大地が育むということで、すでにすばらしいストーリーがあるのですから、あとは素材の選別をきちんとすることです。幸い人件費が安いですから、選別に多くの人手を使うことができました。もうひとつは焼き方、ローストの加減です。コーヒーの焙煎もそうですが、ナッツのローストというのは芸術の領域です。何度も試食と試行錯誤を繰り返し、担当スタッフに微妙なローストの加減を修得してもらいました。
・1996年、ルフトハンザ航空に売り込みにいって、商品のプレゼンテーションをしたら、担当者に、「お宅のナッツを食べてみると、ひとつひとつ味も形も違うじゃないですか。これではケニア産の特色が伝わらないのでは?」と言われました。私は、「特色がないのが特色ではいけませんか?」と返しました。そして、こういうふうに説得しました。「ひと袋の中に七色の味が入っていると謳ってお客様に提供してみてください。お客様には、「このナッツはケニアの高地の、いろんなところで穫れたものが混ざっている。一粒ごとに環境も違えば、日照時間も水も違う。だから、一粒一粒個性があります。マカダミアナッツのバラエティをお楽しみください」と、そういうふうに言ってください」そうしたら、担当者は「そうか」と言って膝を打ちました。それでは買わせてもらいましょうということになり、ルフトハンザとは何年か取引をさせてもらいました。今までの先入観にとらわれないで、既成概念をちょっとだけずらして、相手に見方を変えてもらって売っていくという戦略でした。そうでもしなければ、従来通りのマーケティングやプロモーションではアフリカの産品を売ることは難しかったのです。
・当初は「アフリカ原産」とパッケージに書くこともはばかられました。スイスの会社にナッツを売り込んだときには、エイズフリーの証明書を出してくれと言われました。事実、私の会社の社員の4分の1がHIV感染者でした。ケニアには、HIV感染者であることを理由に従業員を解雇してはならないという労働法があります。それで採用時には全員、血液チェックをしてもらいます。しかし、社会全体の4分の1ぐらいの割合でHIVの感染者がいますから、そういう人たちもある程度は雇って、食品には直接タッチしないところで働いてもらうようにしているのです。血液検査をすると言うと、職を失うと思って嫌がる人もいますが、「心配しなくても大丈夫だ。感染者でも職はちゃんと確保してあげるから」と言って受けてもらいます。
・企業の社会貢献の先には、世界全体の平和があります。アフリカが困窮すると、自分の国で困った人々がヨーロッパの都市に仕事を求めて流れ込みます。移民たちは異文化ごと入ってきて、それに慣れていないもともとの住民が拒否反応を起こします。自分たちが築いてきた価値が破壊されると思うのです。ただでさえ景気が悪いのに、移民たちに仕事を奪われて、ますます自分たちの仕事が減るという思いもあります。フランスでも、イタリアでも、イギリスでも同様のことが起こっています。パリなどは、長い間移民とともにやってきた都市なのに、いまだに問題が解決していません。問題解決への近道は、アフリカが経済的に自立することなのは明白です。移民を忌み嫌っている人たちでも、アフリカの人がお金を持って観光に来るのなら歓迎するでしょう。アフリカを豊かにすれば、移民は母国に戻ります。そのためにアフリカのものを買ってくださいと言うのです。
・この時の彼女の取り組みで面白かったのは、アメリカの産業政策を上手に利用したところです。アメリカには、女性やマイノリティ、新しくビジネスを興す人に対する優遇措置があります。彼女はその3つの条件をすべて備えていましたから、お金を借りるときに、非常によい条件で借りられたのです。
・40代に入った芳子はアメリカ人の従業員たちを相手に、腕まくりして、一生懸命やっています。妻でもあり、二人の子供の母でもありますから、朝起きると、子供を幼稚園に送り出すのから始まって、家事をやり、工場に出かけて仕事をやり、夕方子どもを迎えに行ったら、また工場にとって返して、夜勤に就く。工場は三交代制でフル稼働です。そんな状態でよく倒れないものだなと感心しています。トライアスロンの選手をしていた夫も朝の6時から夜11時までぶっ通しで働いています。私や親ですから、多少の心配はしますが、決して同情はしません。逆に、二人に「今、やれるときにぶっ倒れるまでやれよ」と発破をかけています。45歳まで必死でやって、結果を出したらあとはゆっくりすればいいと。芳子には、「妻、母、会社経営者、すべてをちゃんとやれ。ひとつもおろそかにしてはいけない」と言っています。「これは戦いなんだから、少しくらい痩せたってしょうがないんだ」と。芳子は芳子で、「パパ、心配無用。私、ちゃんとやるよ」と言っています。結果が出るから面白いのだそうです。結果がまた次のやる気につながるのでしょう。売上げは、ケニア・ナッツ・カンパニーを超えてしまいました。
・最終的に行き着く先は、シンプルでベーシックな生活ということです。社会を開発するときに天井を設けておくこと。そうしないと、欲望のおもむくまま、際限なしにどこまでも行ってしまいます。そうしているうちに、土台が腐ってすべてが崩壊してしまいます。社会というのは熟成するべきであって、腐敗してはいけません。腐敗は熟成だと偽って、腐敗臭を隠すために香水をかけてごまかすから、ますます土台が腐る。腐ると臭うから、さらに香水をかける。そういうサイクルに入るとなかなか出てこられなくなります。
・インターンの学生たちに私はいつも言います。「言葉は大事だから、きちんと喋らなくてはいけないよ。相手が感動して泣いてしまうぐらいの説得ができような言語力をつけなさい。そうじゃないと、仕事にならないから」コマンド・オブ・ランゲージ(言語の駆使能力)を身につけることが重要です。
・アフリカではよく、会った途端に「ドゥー・ユー・スメル・マネー・フロム・ミー?(私からお金の匂いがするかい?)」と聞きます。そうだとは言えないから、「ノー・ノー、フレンドシップ(いや、友情だよ)」とっていは答えますが、図々しいやつは「イエス、ハウ・マッチ・キャン・アイ・ゲット?(そうだ。俺の取り分はいくらだい?)」とストレートに返します。1時間くら話しただけで、いきなりそこに行ってしまうこともあります。俺からカネの匂いはするか?どのぐらいの匂いがする?すごく臭いか、それとも優しい匂いか?カネの匂いにもいろんな匂いがあるからなと言うと、相手はニヤッとしてすごく喜びます。お前、よくストレートに言ってくれたな。実はそうなんだ。人間関係は、まずそこからだよな。それを超えてから友情もあるかもしれないけれど、今日会って、いきなり友情もないだろう。俺はお前なんか知らないし、お前も俺を知らないんだから。だから二人の間の、ひとつの共通の関心事について話そうjないか、と。お金の話というと、すぐ「下世話な」ということになりますが、お金こそあらゆる人をつなぐことのできる接点、エッセンスです。経済開発でも福祉でも貿易でも、お金を媒体にしていろんなことにつながっていくのですから。
・日本人は、どんなにグローバル・ビジネスだとか言って頑張って仕事していても、最終的には日本に帰ってしまいます。国籍を取ってケニア人になって、こっちで骨を埋めるというのでないかぎりは、どんなに同化したつもりでも、ケニアの人たちにとっては外国人のままなのです。外から来た人がケニアの資源を使って仕事をしている。自分たちはあくまでも雇われ人にすぎない、という構図は変わりません。日本人が日本式経営でやっていると、そこから脱却できません。ケニア人が自分たちのスタイルでやってみて、たとえ失敗して潰れても、植えた木は残るだろう。オーナーが代わっても、木は実をみのらせ続けるだろうと考えました。大事なのは、落ちた実を加工して儲けることではなく、木と産業を残すことなのですから。かつての日本も同じような経過を経て自立していったのです。明治時代に外国からいろんな人が来て、指導をし、日本の人々が自分たちでやれるようになると、みんな去っていきまsた。役割が終わったらよそ者は去る、それが基本なのです。
・理想の会社の姿とは、きちんと自立した人間が、あるときはAという場所に集合体をつくって事をなし、終われば別れて、今度はBという場所でまた別の集合体をつくって、というふうに離合集散を繰り返しながら、常にその場その場で、新しい価値を創造していくというものだと思います。
・アフリカに拠点を置いている多国籍企業はたくさんありますが、それらの企業とケニア・ナッツ・カンパニーの最大の違いはなんだと思いますか?ケニア・ナッツ・カンパニーは儲けないということです。利益が出てもそれをポケットには入れない。儲けは再投資と生産者への還元と従業員の福祉に回すのです。再投資はサステイナビリティ(持続可能性)につながります。儲けをポケットに入れてしまうと、それは飲み食いだとか、どこか他のところへ使って消えてしまいます。多くの多国籍企業は従業員に払う給料を薄くして、支配しようとします。資本を集中することによって、支配しようとするのです。それに対して、われわれは分散しようとしています。集中させないで分離させる。出た芽がそれぞれに伸びていくような会社のほうがいいのです。大企業というのは本当に必要なのかという疑問が、つねに私にはあります。
・中央集権化しよとすればするほど、逆に分散化・地方化が進むということがあります。EUがそのよい例です。EUというくくりでヨーロッパ全体をひとつにまとめようとしたら、逆にドイツはますますドイツっぽくなり、フランスはフランスっぽくなった。文化などその土地固有のものは、中央集権の動きに相反するということでしょう。会社も、大きくなったら分社化するべきだと思います。分社化して、それぞれが特色のある会社として独立すればいいのです。アメリカのゴアテックス社には「120のルール」というのがあるそうです。1社120人までと決める。120人になったら別会社を作る。それぞれが同じようなものを作るとしても、経営形態が違うし、経営文化が違ってくる。そのほうが健全だというのです。「大国」「大企業」「大組織」というものは、もともと人間の営みとして不自然なのではないかと思います。大きくなると、どこかで必ず無理が出てきます。組織が大きくなりすぎると、個人がその中に埋没してしまいます。そうすると、不満やフラストレーションがtまるでしょう。
・ケニアの国籍を取れと勧められたこともありましたが、断りました。私は自分がアフリカ人になり得ないことを知っています。「骨を埋める」という言葉を私は好みません。骨を埋めるなんてまっぴらです。それよりもあっちへ飛び、こっちへ飛び、風のように吹きわたりたいのです。「シェーン」という映画があるでしょう。ラストシーンで、馬に乗った主人公(シェーン)が子どもの「シェーン、カムバック!」という声を聞きながら、振り返りもせずに去っていきます。あれが私の理想の姿です。映画で言うと、もうひとつの理想が「七人の侍」です。最後に勝つのは農民。志村喬が「勝ったのはあの農民たちだよ、さあ、行こう」と言って、去っていく。この映画を観たとき、もし自分が外国へ行って仕事をするなら、これだなと思ったものです。自分の役割を規定して、その役割を果たしたら、ダラダラ居座らず、スッと立ち去ること。そこに美学を求めよう。そして、私は次にやることに向かうのだと。
・フット・ファースト-まずは行動を起こすこと-を身上にしていますから、それに従ってビジネス感覚で動いたのです。自分が何屋だという意識はありませんでした。「生涯一××」などと言って、一生っかってひとつの仕事を極めるのがよいとされていますが、私は5つでも6つでも仕事をしていけばいいと思います。ひとつの仕事をコツコツとやって、名工とか匠と呼ばれるようになる人がいますが、そういう人も、技巧を極めていく過程でいろいろと方法を変え、自己変革しながらやったからこそ、ひとつの道で抜きん出ることができたのでしょう。
・ケニアで2005年かあ有機肥料の開発・販売を始めていました。ナッツやコーヒーの有機栽培に適した肥料を捜していたとき、古くから日本で使われていた乳酸菌や納豆菌などの微生物をベースにした堆肥作りのための発酵促進剤があることを知り、自社畑で撒いてみました。すると、落ち葉やナッツの殻なおが効率よく発酵して、良質な堆肥になることがわかったのです。70歳までに新しいビジネスを始めたいと考えていた私は、66歳で微生物ビジネスと出会って、「これだ!」と確信しました。
・さらに、この微生物技術が汚水の消臭・分解にも応用できることがわかり、トイレなどの汚水処理の事業も始めました。
・人間は欲深い生き物ですから、つい起承転結のすべてを自分の手でやりたがりますが、「起」だけでもできれば、私一人の役割として充分でしょう。田中角栄は「起」でやめておけばいいのに、「転」「結」まえいってしまいました。徳川家康は、歳を取ってから天下人になったので、「起」でやめて、次の世代に渡しました。あの人は国の全体を考えていたと思います。だから起承転結すべてを自分ひとりでやろうとしなかった。家康の思惑通り、彼の後ろに「承」の役割、「転」の役割の人が登場して、最後に徳川慶喜のように収拾をつける「結」の人間が現れました。
・私が人にとって大切だと思うのはPPPです。経済学者の言うプロスパリティ(繁栄)、ピース(平和)、プログレッシブ(進歩)の頭文字ではなく、私が言うのは、ポジティブ、パワフル、パッショネイト。その3つの頭文字を取ってPPP。前向きに、力強く、熱く。この方向で人の意識改革ができるということ。意識をポジティブにし、意識からでてくるパワーを感じながら、胸熱く事を為す。
・今、いろいろな機会に若い人たちに言っているのは、「志は高く、目線は低く」ということです。志は高く清く持って、目線、すなわち日々の生活態度、財産などは低くする。それがあるべき姿だし、そのほうが長らえることができます。
・せっかくなら、100年間、太く短くでも細く長くでもなく、太く長く生きることができたら最高だなと思っています。<永遠に生きるがごとく夢を見よ、今日死ぬがごとく今を生きよ>という言葉をご存じですか?ジェームス・ディーンが言いました。埼玉・川口にある私の日本の家の部屋の壁には、この言葉が買い込まれたジェームス・ディーンの大きな写真が貼ってあります。ジェームス・ディーンはわれらが青春のシンボルでした。若くして死んでしまいましたが本当にカッコよかった。
<目次>
はじめに-桁外れにスケールの大きな日本人
序章 風の吹き始める場所
草原のキリン
父のこと、母のこと
生まれたのは北朝鮮
悶々として過ごす小学生
失明
「幸せとは日曜の午後みたいなもの」
「ステイ・ハングリー」
刺激を求めて東京へ
”貫く棒の如きもの”を持て
小石川高校時代
人生の準備
第1章 アフリカへ
「僕はアフリカへ行きます」
学生運動に幻滅
ラテン音楽で流しに
ガーナへの導き
よこしまな動機のアルバイト
ガーナで学ぶ
スケールの大きな人たち
運命の相手
新郎抜きの披露宴
妻と私のパートナーシップ
第2章 ケニア・ナッツ・カンパニー
ケニア人の側に立って仕事する
ストライキを煽る
ケニア追放?
10カ月の日本でのモラトリアム
三度アフリカへ
手始めに鉛筆から
マカダミアナッツと出会う
35歳、ケニア・ナッツ・カンパニー設立!
ビジョンを示すと人が集まる
「うちの会社」という言い方に込められたもの
人材は育てるもの
利益はすべて再投資と従業員還元に
情の経営
ケニア・ナッツ・カンパニーの「七人の侍」
第3章 アフリカってところは!
「言葉は風」
嘘は文化か?
盗みは死罪に値する
銃が当たり前にある社会
女性は働き者
思わぬ敵
第4章 失敗から学ぶ
ブラジルでひぢ目に遭う
私がたくらんだ「進出」の正体
”眠れる巨人”を起こすな
アウト・オブ・アフリカ
ハンデを逆手に取る
世界平和まで見据えて買ってもらう
もうひとつのナッツ・カンパニー
胸を熱くする光景
第5章 アフリカが教えてくれたこと
欲望に上限を
相互理解は共感から
相手を感動させる言語力を
お金の匂い
「心配とは想像力の誤用である」
第6章 さらに先へ
ケニア人に託す
カンパニー
大企業は必要か
吹き渡る風のように
第7章 新たなるチャレンジ
私は何屋でもない
ルワンダの惨状を見て
オーガニック・ソリューションズ
トイレの美化が人びとの意識を変える
ソーシャル・エンタープライズ
「起」の人でありたい
終章 アフリカから日本を想う、日本を憂う
コンフォートゾーンを突き抜けろ
ソノキくん
実体のある仕事、実体のある暮らし
”PPP”で生きていく
シンプルであることが最も深い
おわりに
面白かった本まとめ(2012年下半期)
<今日の独り言>
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