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「山手線 駅と町の歴史探訪(小林祐一)」という本はとてもオススメ!

2016年04月29日 01時00分00秒 | 
「山手線 駅と町の歴史探訪」の購入はコチラ

 「山手線 駅と町の歴史探訪」という本は、東京のJR東日本の29駅からなる環状線の鉄道である山手線を紹介したもので、開業に至るまでのエピソードや駅の変遷、地形と山手線の関係、沿線の史跡や歴史・文化・地名、駅にまつわるトリビアなどが満載で、とても楽しめる内容となっています。

 江戸時代から昭和までの歴史にはナルホドと思われることが多く書かれてあり、特に1923年(大正12年)の関東大震災後にその復興として山手線は高架化などで立派に造られ、今もその面影を各駅で残しているということには感銘を受けましたね。

 震災は不幸なことですが、それをチャンスと捉えて今にもつながる立派なインフラ造りを当時行ったことは、とても素晴らしいことだと思います。

 そのほか沿線の史跡や歴史も、へ~そうだったんだ!と思える内容が多くてとても勉強になりましたね♪

 「山手線 駅と町の歴史探訪」という本は、山手線や山手線沿線の史跡や歴史なども学べて、とてもオススメです!

以下はこの本のポイントなどです。

・有楽町の地名は、織田有楽斎長益に由来するといわれる。織田長益は織田信長の弟で、茶人としても名をはせた武将。この織田有楽斎長益の屋敷が、数寄屋橋御門の近くにあり、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられた、とされている。しかし、この説には異論もある。織田長益は関ヶ原合戦後も豊臣家に仕え、大阪冬の陣の際には大阪城内にいて徳川軍と戦った。豊臣家にあって徳川との和睦を主張し、大阪夏の陣の直前に豊臣家を離れ京都に隠棲、茶道三昧の日々を過ごしたことがわかっている。こうしたことから、近年の研究では、有楽町の地名=織田有楽斎由来説に疑問が提示されている。徳川幕府の政権初期に、江戸城のすぐ近くの要地に、豊臣家家臣の屋敷が置かれることはないだろう、ということだ。ちなみに有楽町=織田有楽斎由来説の根拠は江戸時代後期の地誌「江戸砂子」によるものであって、同時代の史料ではないことも、通説に疑問を提示する一端となっている。有楽町の地名の由来についての異説は、土地の特色によるものだ。江戸幕府開府期には、このあたりまで海が入り込んでいた(日比谷入江)ことから、「浦原うらはら」「浦ヶ原うらがはら」とよばれ、これが転じて有楽原(うらくはら)となり、有楽町の表記につながったのではないかとしている。

・わが国の鉄道は、明治5年(1872)9月12日の新橋~横浜間の正式開業をもって始まりとされている。なお、当時は太陰暦(旧暦)が採用されており、これを現代の暦(グレゴリオ暦)に改めた明治5年10月14日が「鉄道の日」となっている。現在の新橋駅の開業は明治42年(1909)12月16日。これは開業当時の新橋駅と、現在の新橋駅が異なる場所にあるからだ。鉄道創業時の新橋駅は「新橋停車場」といって、現在の港区東新橋1丁目、汐留シティセンターの付近にあった。ちなみに鉄道創業時の横浜駅は現在の根岸線桜木町駅である。現在の汐留の地に最初に開業した新橋駅は、東海道線の起点駅であり、列車がこの駅で折り返し運転をするターミナル型(終着駅型)のプラットホームになっていた。その後、東海道線の延伸(東京縦貫線)が計画され、この延伸を見据え、現在の新橋駅の場所に「烏森」駅が開業したのが、明治42年12月16日である。同時に、烏森~品川~池袋~上野間が電化され、電車運転が始まった。これが今日の山手線のルーツである。烏森駅は東京駅の開業時に「新橋」と駅名を変更。現在の新橋駅となったわけである。また、旧新橋駅は「汐留」駅と改称、貨物専用の駅となった。

・新橋の烏森の地名は、カラスが群れ棲んでいたからであろう。烏森神社は人形町の「すぎの森神社」と神田須田町の「柳森神社」と並んで「江戸の三森」にも数えられている。しかし、他の2社は植物名の森であるのに、烏森だけは植物名ではない。それだけカラスの鳴き声がやかましく目立っていた、ということなのだろう。カラスが群れるためにはある程度以上の森林密度が必要なので、かつてこの神社はそれなりに大きな規模だったのかもしれない。

・浜松町駅から海側へ歩くと、竹芝桟橋、そして日の出埠頭がある。これらの港は、大正12年(1923)の関東大震災がきっかけで設けられたものだ。それまで東京では、外国との貿易など海上輸送による貨物の陸揚げ港として横浜港を想定していた。横浜で陸揚げし、東京への輸送は鉄道を利用するという体制だったのだ。しかし、関東大震災によって陸上交通網が壊滅状態となったため、その反省つぃて都心部にも海上輸送の拠点を設けるべき、ということになった。そして大正14年(1925)、まず日の出埠頭が完成。昭和9年(1934)には竹芝埠頭も完成し、これによって浜松町駅は臨港鉄道駅の性格を持つようになる。現在は廃止されたが、かつては浜松町駅の海側に貨物輸送のための臨港鉄道線があった。ちなみに現在の「ゆりかもめ」はこの臨港鉄道線の跡をたどるようにして建設されている。これらの埠頭からの旅客営業が始まったことにより、浜松町駅は海上交通と陸上交通の乗換駅となった。昭和39年(1964)、東京オリンピック開催にともなう外国人来日客の輸送ルートとして東京モノレールが開業。これにより浜松町駅は空港連絡のターミナルともなった。こうした海と空のターミナルと接続する駅という性格は現在も変わっていない。空港と旅客船の港との双方に接続する駅は全国でも稀である。

・浜松町駅の話題というと、3・4番線ホームの南端(田町寄り)に小便小僧の像が知られている。昭和27年(1952)10月14日、鉄道開業80周年の際に設置されたのが最初で、新橋駅の嘱託医だった小林光歯科医師から寄贈されたもの。これは白い陶器製の小便小僧像だったというが、昭和43年(1968)、現在のブロンズ像に替えられた。この小便小僧は4月にはランドセルを背負った新入生、5月には兜と鯉のぼりを手にし、夏場には浴衣、12月にはサンタクロースといった具合に衣替えをする。その始まりは昭和30年(1955)で、浜松町駅近くの会社に勤務していた女性がキューピッドの衣装を着せたのがきっかけ。その後、季節に合わせて衣装が替えられるようになった。現在はボランティアグループによって毎月着せかえが行われている。

・日本初の鉄道が開業した明治5年(1872)、品川~新橋間は、海上に築堤したところを走っていた。築堤の上を蒸気機関車の引く列車が走る錦絵が残されている。陸地に鉄道を敷設できなかった理由は、このあたりの海岸沿いは江戸時代の東海道沿いの町並みであり、すでに市街地化していたため住民の立ち退きなどの問題があった。また、火の粉をまき散らして走る蒸気機関車に対して反対運動が大きかったこと、などもある。

・品川駅の開業は明治5年(1872)6月12日(旧暦5月7日)。これは日本最初の鉄道として知られる新橋~横浜間の開業よりも早い。実は品川駅は、新橋~横浜間の開業に先立つ同年6月12日に仮開業し、列車の運行は翌13日から品川~横浜間で開始されているのだ。開業当時の運転本数は1日2往復。横浜駅8時発の列車が品川駅到着8時35分。この列車が折り返して9時品川発で9時35分横浜着。午後になって横浜発16時の列車が16時35分品川着。折り返し17時品川発で17時35分横浜着だった。運賃は1等1円50銭、2等1円、3等50銭。当時の米の価格が1升あたり4銭。概算すると、品川~横浜間の3等運賃は米20キロの値段に相当する。1等なら米が60キロも買えるのだ。現代は低価格米からブランド米までさまざまだが、おおむね10キロあたり3000~6000円くらい。ということは、品川~横浜の鉄道運賃は3等車で最低でも6000円、1等車なら1万8000円ということになる。タクシー並の価格ということだろうか。鉄道運賃は当時の貨幣価値からするとかなり高価だったといえるのだ。しかし、高価格にもかかわらず利用客は多かった。それまでの常識では、東京から横浜へはまる1日がかりの道のり。所用で横浜へ向かうことがあると、1~2泊はあたりまえだった。それが片道30分あまりになるのだから、日帰りも十分に可能になる。こうして運転本数は次第に増えて1日8往復になり、多いときは1ヶ月で7万人が利用した。乗客数の増加に伴い、運賃も値下げされ、新橋駅開業時には1等1円12銭5厘、2等75銭、3等37銭5厘となった。その後明治7年には上等1円、中等60銭、3等30銭とさあい値下げされ、列車の運行も1日12往復に増発された。品川駅中央改札口を出て高輪口へと階段を下りると、駅前のロータリーに「品川駅創業記念碑」があり、開業の由来と当時の運賃などが記されている。

・恵比寿駅の周辺は、古くは下渋谷村・三田村と呼ばれており、渋谷川と三田用水に挟まれる農村で、大名の下屋敷が点在している閑静な地域だったようである。この三田村が変貌を見せるのは明治20年(1887)。現在のサッポロビールの前身となる日本麦酒醸造会社がこの地に工場を開設したのだ。そして、同23年(1890)から売り出されたビールは、商売繁盛の神として馴染み深い七福神の恵比寿神にあやかって「恵比寿麦酒」と名付けられた。このビールを工場から出荷するために、工場の前から造られた坂道が「ビール坂」。やがて日本鉄道品川線が開通すると、ビールの出荷は鉄道によるものとなった。工場近くに貨物駅が設けられ、明治34年(1901)からビールの積み出しを行っていたが、その5年後、明治39年(1906)10月30日に、この貨物専用駅が旅客輸送を開始することになった。そのときに付けられた駅名が、ビールの商品名にちなんだ「恵比寿」である。ちなみにその2日後の11月1日に日本鉄道は国有化され、官営(当時は鉄道作業局)の路線となっている。その後、駅の東側の道が恵比寿通りと呼ばれるようになり、昭和3年(1928)にはこの恵比寿通りに沿った一帯が恵比寿通1・2丁目となった。つまり、一企業の商品名がいつしか駅名になり、そして地名にもなったという、珍しい例なのだ。

・原宿駅の北側200mほどのところに、黄緑色の屋根の小さな駅のような建物がある。この建物は、山手線の車窓からも見ることができる。これが皇室専用ホームだ。通称を宮廷ホームともいい、皇室専用の特別の駅である。周囲を白い壁で囲まれた入り口の門扉は閉ざされており、気づかない人も多い。この皇室専用ホームは建てられたのは大正14年(1925)10月。病気静養中だった大正天皇が神奈川県の葉山御用邸へ移動する際、人目を避けられるようにとの理由で初めて使用された。昭和天皇の時代には、那須や須崎の御用邸への移動などはもっぱらこのホームが使用されていた。だが、平成になってから今上天皇は、列車での移動は基本的に東京駅を利用している。平成13年5月、全国植樹祭から東京に戻られた際には皇室専用ホームが使用されたが、それ以降は利用されていない。皇室専用ホームを取り巻く状況も変わった。以前は皇室専用ホームから山手貨物線を利用して皇室専用列車の運行が比較的容易だったが、現在の過密な列車ダイヤでは専用列車を組むことが難しくなっている。

・代々木駅には、山手線の中でトップという記録がある。それは代々木駅の標高38.7mが、山手線の駅としては最高所ということ。ちなみにもっとも標高が低い駅は品川駅の2.9m。ここから、大崎(標高4.2m)~五反田(8.8m)と標高を上げ、目黒(22.9m)に向けて20パーミルの急坂を登る。目黒からは尾根に沿うようにして渋谷(19.6m)~原宿(27.8m)とさらに上り坂で、頂点の代々木駅へとやってくるのだ。代々木駅のホームの原宿寄りから眺めると、外回り電車はゆっくりと坂道を登ってくるといった印象だ。

・新宿駅が開業したのは明治18年(1885)3月1日。日本鉄道品川線の開通にともなって開設された駅である。開業当初は現在の活気ある新宿駅の姿からはとても想像もつかないほどの寂しい駅だったといい、乗客数は1日50人程度で、乗客ゼロの日もあったという。もっとも当時の新宿駅は今ある大型ターミナル駅の姿とはまるで異なっていた。そもそも開業した新宿駅付近は、東京市街の西はずれ。しかも1日わずか3往復しか運行されない日本鉄道品川線の中間駅に過ぎない場所なのだ。

・ちなみに江戸時代に新宿で最も大勢の人でにぎわっていたのは、江戸時代の宿場町に端を発する「内藤新宿」の界隈である。現在の新宿三丁目の交差点よりも四谷寄りのあたりが内藤新宿の中心地で、交差点は甲州街道と青梅街道の分かれ道にあたる「追分」だったため、人の流れが活発だった。内藤新宿は新宿のルーツになった宿場である。江戸五街道のひとつ、甲州道中(街道)において、日本橋を出立して最初の宿場が内藤新宿だった。宿場の成立は江戸時代中期の元禄12年(1699)。江戸五街道の宿場としてはかなり後発である。この宿場が後発だったことには理由がある。内藤新宿の宿場が成立する以前の甲州街道では、日本橋から最初の宿場は高井戸だった。日本橋~高井戸間の距離は4里12町(約17km)。宿場間の距離が17kmでは長すぎるということから、日本橋~高井戸の中間地点に新しく宿場を設けることになった。そうして「新しく」設けられた「宿場」が、「新宿」である。宿場の用地は徳川譜代の大名である内藤家の屋敷地を利用した。内藤家屋敷の北側を幕府が召し上げて宿場町を新たに造営したため、宿場の名称は「内藤新宿」となった。ちなみに屋敷の南側は残り、今日の新宿御苑となった。内藤新宿は後発の宿場だけに、宿場経営には厳しいものがあった。そのため、宿場の経営者たちは飯盛女(遊女)を旅籠に配して誘客を図った。甲州街道の宿場であった新宿はこうして経営されてきた。つまり、新宿は、江戸時代から風俗営業の町として栄えてきたのである。

・新宿の淀橋浄水場で働く人たちも利用したであろう新宿駅は、大正時代以降、多くの私鉄が乗り入れるようになった。大正4年(1915)の京王電気軌道(現在の京王電鉄)開業、昭和2年(1927)の小田急電鉄の開業などでターミナル駅へと変わっていった。大正12年(1923)の関東大震災も人の流れを変えた。被災して家を失った人たちが、郊外に家を求めたため、郊外の人口が増えていき、新宿駅の利用客も増え続けることになったのだ。その後も第二次世界大戦の混乱期を経て、戦後間もないころの新宿はヤミ市からの出発だった。昭和27年(1952)に西武新宿駅が、昭和34年(1959)に地下鉄丸の内線が開通。昭和39年(1964)に東口に駅ビル(旧マイシティ、現在はルミネエスト新宿店)が完成し、駅周辺は繁華街として急速に発展していく。同じ年の秋には京王百貨店が開店。さらに昭和42年(1967)には小田急百貨店が新宿駅と直結するビルで営業を開始。新宿駅と新宿の街の目まぐるしい変化は、戦後日本の復興、高度経済成長時代の足どりとも重なる。

・新宿駅西口周辺にも大きな変化が起きた。昭和40年(1964)、淀橋浄水場がその機能を東村山に移転して廃止されえたのだ。新宿駅西口方面の地域には住宅と学校はあるものの閑散としていたため、再開発が望まれていた。そのために地元民を中心に浄水場の移転が要望されていたのだった。淀橋浄水場は、67年の歴史に幕を閉じたが、その跡地は新宿副都心として、新たに歴史が刻まれることになる。昭和46年(1971)、「京王プラザホテル」がオープンし、その後も住友ビル、三井ビルといった超高層ビルが次々に登場。平成3年には東京都庁が移転し、世界でも屈指の超高層ビル街を形作っている。淀橋浄水場は東京の人たちの快適な暮らしを作り、超高層ビル街は東京の新しい発展のシンボルとなった。

・山手線の最高所となるのが、新宿~新大久保間だ。山手線が、一周全線の最高地点・標高41mを通過するのは、新宿駅の北側で、中央・総武線の線路上を越えるあたり。もともと標高が高い場所で、そこに中央・総武線は築堤上に線路があり、さらにそれを越えるということで、山手線内の標高最高到達地点となった。この場所に向かう外回り電車の勾配は25パーミル。乗車していて「峠越え」を感じられるほどの高低差だ。

・新大久保駅の開業は大正3年(1914)11月15日。日本鉄道品川線として開業した区間の駅では最も後発の開業である。現在のように高架化されたのは大正13年(1924)のこと。現在のホームもこのときの工事で建てられたもののようで、ホーム上にその証拠を見ることができる。それは古いレールを転用した柱で、その多くはホームの中央から立ち上がるが、一部は左右2カ所から立ち上がり、中央に向かって曲がる形となっている。これが大正時代のものと思われるのは、柱と柱の間隔が約4.5mになっているから。4.5mはおよそ5ヤード。鉄道にメートル法が採用されたのは昭和5年(1930)のこと。新大久保駅のホームの柱は、じつは5ヤード間隔で設置されているのだ。

・高田馬場駅は内回り線と外回り線に挟まれてプラットホームがあり、同じホームの両側に方向の異なる電車が停車するという「島式ホーム」の駅だ。このさして大きくはないホームを1日あたり20万195人(2014年調べ)の乗車客(降車客は含まない)が利用する。JR東日本の駅としては12位、山手線内では8位。全国のJR線でも14位(大阪駅と京都駅が上位に入る)となり、名古屋駅(15位)よりも乗客数が多いのだ。この数字は島式ホーム1面の駅としては日本一。そして、JRが1路線しか運転していない駅としても日本一の数字だ。ちなみに、全世界で年間乗客数上位の駅を見ると、1位から23位まで日本の駅が並び、24位でようやく日本国外の駅としてパリ北駅が登場する(2009年調べ)。このランクでは高田馬場駅は10位。つまり、日本一ということは、そのまま世界一の記録となりうるのだ。

・駅名の「目白」であるが、これも歴史的には地域の地名ではない。地域名を駅名にするならば、ここでふさわしいのは「雑司ヶ谷」「下高田」「下落合」などのはずだ。そもそも「目白」は、地域名ではなく、関口にあった新長谷寺という寺院の仏像に由来する名称。新長谷寺の不動堂にまつられていた不動明王が、徳川3代将軍家光によって江戸を鎮護する五色不動(目黒、目白、目赤、目青、目黄)のひとつ、「目白不動」とされたことによるもの。この新長谷寺は、現在の東京メトロ有楽町線江戸川橋駅の近く。目白駅からは直線距離で2km以上離れている。近隣の町村からの要望で設置した駅ゆえに特定の地名を避けたかったのか、それとも江戸五色不動の参拝口の駅としたかったのか。あるいは、同時開業する「目黒駅」と「不動つながり」で関連付けた結果なのか。ちなみにこの新長谷寺は昭和20年(1945)の空襲で焼失、目白不動は駅近くの金乗院に遷されたが、それでも目白駅から1kmほど離れた場所である。

・目白駅は山手線内では珍しい、他のJR線や私鉄・地下鉄線と接続がない駅だ。ちなみに山手線全29駅の中でこのように他の路線と接続がない駅は目白のほか、新大久保と鶯谷の2駅しかなく、この3駅が山の手線内で最も乗客が少ないということになっている。ちなみに2014年の1日あたりの乗客数は3万7190人。鶯谷に次いで山手線内駅では下から2番目である。

・池袋駅は大正3年(1914)に東上鉄道(後の東武東上線)、大正4年(1915)に武蔵野鉄道(後の西武池袋線)が開業。乗客は増加したが、駅周辺の開発はさほど進まず、昭和前期までは郊外駅という雰囲気を色濃くしていた。ちなみに当時の城北地区で繁華な街だったのは大塚で、駅前に白木屋百貨店と花街があってにぎわっていた。百貨店へ行くなら大塚の白木屋か上野松坂屋、新宿三越。映画を見るなら浅草、といった具合で、池袋はあくまでも乗り換えの駅だった。池袋が繁華な街へと変貌するきっかけは、昭和10年(1935)の菊屋デパートの開業。この菊屋デパートが後に武蔵野デパートと改称、さらに昭和25年(1950)、西武百貨店と改称。当時の西武百貨店は木造モルタル2階建てだったが、その後増改築を繰り返す。これが引き金となって周辺には三越、東京丸物(現在のパルコ)、東武百貨店などが昭和20年代後半から昭和30年代にかけて次々とオープン。池袋は急速に発展していく。現在の池袋駅の1日あたりの乗客数が54万9503人。JR東日本の駅では新宿駅について第2位のマンモス駅である。駅の周辺は都内でも屈指の繁華街となっている。

・大塚駅の周辺は、豊島線の開業後、飛躍的な発展を見せる。それに一役買ったのは王子電車だった。明治末期の城北地区では唯一、山手線と他社線が交差する大塚は、その利便さもあって大いににぎわったのであった。そうして、大塚には三業地ができた。「三業」とは、料理屋(料亭や仕出し屋)、芸妓置屋(芸妓の手配などを扱う芸妓組合事務所)、待合(貸座敷。仕出し料理を取り寄せ、芸者遊びをする)の業態のこと。これがそろうと花街と呼ばれる。大正11年(1922)、西巣鴨街平松の一帯が指定許可を受け、谷端川沿いに料理屋と芸者置屋が軒を連ねた。大正13年(1924)には、待合の営業が許可され、三業地として発展する。谷端川に料理屋の灯火が川面に映って風情があったという。最盛期には料理屋85軒、待合18軒が軒を連ねており、芸者の数は200名を超えた。城北きっての花街であり、その勢いは神楽坂の花街をしのぐほどだったという。大塚三業地は現在はひっそりとしているが、営業を続ける料亭もあるし、少ないながら現役の芸妓も存在する。

・東京~品川間の各駅は「東海道本線」。東京~田端間の各駅は「東北本線」。ということで、山手線の正式な区間は品川から渋谷・新宿・池袋を経て田端までとなる。起点が品川、終点が田端。ということで田端や山手線の正式な終点なのだ。路線という視点からいえば山手線の営業キロは20.6km。「JR時刻表」の山手線のページでも、駅名欄の横に「線名」として正式な路線名が記載されている。

・田端の台地上から眺める風景が、一時期、芸術家たちに評判となったことがある。台地から眺める筑波山の山容がみごとということで居を構えたのは陶芸家の板谷波山。同じくこの風景を毎日の散歩の楽しみにしていたのは、鎌倉から移り住んだ作家の芥川龍之介。この二人が田端に住んだことによって、田端は芸術家や文学関係者の町になっていく。田端に住んだ作家たちを列挙すれば、室生犀星、萩原朔太郎、堀辰雄、野口雨情、竹久夢二。こうして芸術に携わる人々が同じ地域に集まったことで、明治43(1910)には親睦団体「ポプラ倶楽部」が生まれ、テニスコートや西洋料理の店も誕生し、田端は当時の流行の先端をいく町となっていった。しかし大正12年(1923)に関東大震災で被災し、昭和2年(1927)には芥川龍之介が自殺。求心を失ったことで芸術家に愛された田端の終焉を迎えることになる。北口駅前にある「田端文士村記念館」に足を運ぶと、詳しい資料が展示されている。

・「御徒」は「徒士」などと表記される身分の武士のことで、馬への騎乗が許可されない、すなわち戦時には歩兵となる武士のこと。このため、平時には主君の護衛を行うことが多い。徳川幕府の場合は、主として、江戸城や将軍の護衛を行う。身分は御目見以下の下級武士ではあるが、将軍の身辺警護という重要な役職を担っているためプライドは高い。28人で1組として、20組が、若年寄支配・目附配下に置かれていた。ちなみに下級武士とはいっても、町奉行所同心よりもはるかに各上である。ただし俸禄(給与)は安かったため、家計を賄い切れず内職をして生活していた。参考までに、下級武士とは主君に直接拝謁する資格のない身分の武士をいう。その下級武士の呼称のうち、もっともランクが上なのがこの「徒士」である。「徒士」以下の下級武士の身分については、時代や藩によって多少の変動があるが、おおむね、「同心」「小役人」「足軽」「中間」「小者」「郷士」の順となっている。徒士は下級武士のトップとして諸藩に置かれたので、「御徒町」「徒士町」「徒町」などの地名は城下町であれば全国各地に見ることができる。

良かった本まとめ(2015年下半期)

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サラマンジェ ド イザシ ワキサカ (東京 銀座)でのランチはとてもオススメ!

2016年04月27日 01時00分00秒 | 外食
ZAGATというレストランガイドでコストパフォーマンスが高いお店として東京の銀座7丁目にあるサラマンジェ ド イザシ ワキサカが掲載されていましたので、ランチに行ってみました!

食べログでもTOP1000に選ばれるとはかなりの人気店です。

場所は、高谷銀座ビルの地下1Fとなります。
結構新しいビルですがそんなに大きなビルではありません。


↑店の入口

エレベーターで地下1Fまで降ります。
そんな人気の銀座にあるフレンチをランチで1500円で食べられるというのは、とてもリーズナブルだと思います♪
しかも、メニューを見ると、メインとして「フォワグラ・トリュフ・マッシュルームのブレゾット」も注文できます♪
世界三大珍味のフォワグラとトリュフを楽しめるとは素晴らしいですね♪


↑メニュー

エレベーターを出ると、女性の店員が優しく迎えてくれます。
コートも預かってくれましたね♪
店内はさすがに清潔でとても綺麗で、壁には本物の絵画が飾られています♪
さすが!


↑店内

さっそく注文しますが、スープは2種類から選べ、健康的にごぼうスープにしました。
メインは「フォワグラ・トリュフ・マッシュルームのブレゾット」です。
そのほか、サラダとパンもあるとは凄いですね♪
本当に1500円でいいの??と心配になってしまいます。
本当はワインを注文した方が良いのかもしれませんが、飲み物はコーヒー200円を注文しました。
これもリーズナブル!

さっそく「ごぼうスープ」が運ばれますが、当然お皿は温かく、そしてスープはアツアツで濃厚でこれは心も温かくなる美味しさです!
こりゃぁ旨いよ!


↑ごぼうスープ

そして、「フォワグラ・トリュフ・マッシュルームのブレゾット」が運ばれます。
麦のリゾットとのことで、フォワグラは小さく切って、そしてかき混ぜてくださいとのことでした。
フォワグラが上質で臭みもなくこれは美味しいです!
そしてこれをかき混ぜて食べると、おぉぉ絶品!
これは旨い!!


↑フォワグラ・トリュフ・マッシュルームのブレゾット

サラダも新鮮で美しくて美味しく、フランスパンはもちろん温められ、そしてバターではなくマーマレードというのは斬新で美味しい!
しかもたっぷり♪
どれもあまりにも美味しくて感動です!

最後にコーヒーが運ばれますが、チョコレートが添えられているというのも素晴らしい♪
いやぁ本当にコスパいいですね♪
もちろんコーヒーも上手く煎れられていて美味しい!
素晴らしいです!


↑コーヒー

サラマンジェ ド イザシ ワキサカは、綺麗な室内で、ホスピタリティーあるサービスおよび美味しい料理を頂け、しかもリーズナブルで、とてもオススメです!!
また行きたいと思います^_^)

と思って、とても翌日に行ってしまいました^_^;)
スープは野菜スープにし、メインはエッグ・ベネディクト ベーコン&サーモンマリネです。
デザートと紅茶も+600円で頼みました。


↑野菜スープ


↑エッグ・ベネディクト ベーコン&サーモンマリネ

エッグ・ベネディクトは絶妙な半熟卵でさすが美味しい!
黄身がとろけます♪


↑プリン


↑サラマンジェ

私はプリンを食べたのですが、さすが上質で甘く美味しい!
同僚は店名のサラマンジュで、やっぱり店名のものは美味しそうでしたね!


↑紅茶

紅茶にも、チョコレートが付いて嬉しいサービスでした♪

美味しかったものまとめ(2015年下半期)

<今日の独り言>
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サラマンジェ・ド・イザシ・ワキサカフレンチ / 銀座駅内幸町駅日比谷駅

昼総合点★★★★ 4.5

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国立公文書館の「徳川家康」展はとてもオススメ!

2016年04月25日 01時00分00秒 | イベント・外出
東京メトロ竹橋駅から徒歩約5分のところにある国立公文書館で平成28年4月2日~5月8日まで「徳川家康」展が開催されていましたので行ってきました!

入場無料です!


↑国立公文書館

今年平成28年(2016年)は徳川家康が元和2年(1616)に駿府城で死去してからちょうど400年という節目の年となります。
今回の展示は将軍家蔵書から徳川家康の生涯を紹介したものです。


↑「徳川家康」展のチラシ表


↑「徳川家康」展のチラシ裏


↑「徳川家康」展の展示資料一覧


↑「徳川家康」展の展示資料一覧


↑「徳川家康」展のごあいさつ

今回は平日の昼間に2回に分けて展示物を鑑賞しました♪
平日なので、人もまばらで、ゆっくり鑑賞できたのは良かったですね♪


↑展示室

最初に、徳川家康誕生を説明した「朝野旧聞」が展示されていました。
幼名は「竹千代」で、父は三河国の岡崎城主の松平広忠、母は三河国刈谷城主水野忠政の娘でお大とのことです。
この「朝野旧聞」は、徳川氏創業史の正史の整備のため、徳川家康の死後の文政2年(1819)から24年もの歳月をかけて完成させたものとのことで、事実とその典拠史料を挙げることに力を注いだのでかなりの歳月がかかったようです。


↑朝野旧聞


↑朝野旧聞の説明

それから、織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いの資料は興味がありましたね♪
この時、徳川家康は今川方の大高城に兵糧入れを成功させ、休息を取っていたようです。


↑松平記

それから織田信長が明智光秀の謀反により討たれた本能寺の変の頃の家忠日記もあり興味深かったですね。


↑家忠日記

そして有名な「武家諸法度」の御触書もありました♪


↑御触書

そして重要文化財の「吾妻鏡」もありましたね。


↑吾妻鏡

それから豊臣秀吉の息子である「豊臣秀頼」と、徳川家康の孫で徳川秀忠の息女「千姫」との婚礼を記した舜日記もあります。
それぞれの母は「淀殿」と「お江」ですが、「淀殿」と「お江」は「浅井長政」と織田信長の妹である「お市」の娘で、姉妹ですね^_^;)


↑舜日記

そして、「徳川家康の祖父母・兄弟姉妹系図」がありました。
結構再婚が多いですね♪


↑徳川家康の祖父母・兄弟姉妹系図

それから、徳川家康の子女一覧や家康をとりまく女性たちの説明もありました。


↑徳川家康の子女一覧


↑家康をとりまく女性たち

写真は撮りませんでしたが、上の方には徳川家康の年表がずらりと細かく並んでいて、かなり歴史の勉強になりましたね♪
特に関ヶ原の戦い以降はかなり細かく書かれています。

国立公文書館の「徳川家康」展は、入場無料ですし、将軍家蔵書から徳川家康の生涯がよく理解でき、歴史の勉強となり、とてもオススメですね!

平成28年5月8日(日)まで開催ですので、ぜひ興味がある方は楽しんでください♪


お勧めなお話(2015年下半期)

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「たった一人の熱狂(見城徹)」という本はとてもオススメ!

2016年04月22日 01時00分00秒 | 
「たった一人の熱狂」の購入はコチラ

 「たった一人の熱狂」という本は、幻冬舎代表取締役社長が755というSNSでユーザーが抱える日常の悩みや苦しみに一つひとつ丁寧に答えた書き込みを元にして、加えて20時間以上に渡ってインタビューされたものをまとめたものです。

 天台宗比叡山・酒井雄哉阿じゃ梨が、映画「南極物語」の過酷なオファーを受けた高倉健に送った「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」という言葉を現代的に展開した内容とのことです。

 特に、刻一刻と死に近づいていることを意識し、「一度この道を往くと決めたのならば、圧倒的努力によってとことんやり切る!」という言葉にはとても勇気づけられましたね。

圧倒的努力によって結果を出せるのだと思います。

 また、人に安目を売らないことや、義理・人情・恩返し(GNO)が大切、スランプにはとことん浸かることも大切ということが共感できましたね。

「たった一人の熱狂」という本は、魂に響き、人生向上のヒントとなることが具体例を示しながら分かりやすく書かれてあり、とてもオススメです! 

 なお、755とは、ホリエモンこと堀江貴文氏とサイバーエージェントの藤田晋社長が新会社「7gogo」を創立し、始めたSNSサービスで、長野刑務所に服役していた懲役囚・堀江貴文の囚人番号755番が由来とのことです^_^;)

以下はこの本のポイント等です。

・「生まれる」というゼロの地点から「死ぬ」という終着地点までの間に、不公平や不平等など、さまざまな個人差が出てくる。だがオギャーと生まれる瞬間と、死ぬ瞬間だけは、すべての人が平等だ。その死へ向かって、誰もが一方通行でずっと歩まなければならない。その歩みは虚しいに決まっている。人生の終着地点へ向かうまでに、何度も光り輝く場面はあるだろう。ただし、ゴールには必ず輝きを失った死が待っている。人生のすべてがゼロに戻ってしまう死は、僕にとってとてつもなく虚しい。死を宿命づけられた生の虚しさを紛らわせるために、僕は子どもの頃から常に何かに入れ込んで来た。そうでもしなければ、死への虚しさに押しつぶされそうになって、居ても立ってもいられなかった。僕はとてつもなく臆病な人間なのだ。生の虚しさを紛らわせる要素は、せいぜい①仕事②恋愛③友情④家族⑤金の5つしかないと思う。人によってはこれに⑥宗教を加えるかもしれない。僕の場合は、①から⑤に熱狂しながら虚しさを紛らわせてきた。①~⑤は合わせ技だ。①~⑤のどれが欠けても良くない。とりわけ上位に来るのは①仕事②恋愛③友情の3つだ。もちろん金も大事だし、金儲けを否定することは単なる言い訳に過ぎない。だが、たとえ宝くじで20億円が当たったり、何かの拍子に巨万の富を得たとしても、①仕事を放り出してすぐさまリタイアするなど考えられない。そんな生き方をしたところで、死への一方通行を歩む虚しさに、ますます苛まれることになるに決まっている。

・圧倒的努力とは何か。人が寝ているときに寝ないで働く。人が休んでいるときに休まずに働く。どこから手をつけたらいいのか解らない膨大なものに、手をつけてやり切る。「無理だ」「不可能だ」と人があきらめる仕事を敢えて選び、その仕事をねじ伏せる。人があきらめたとしても、自分だけはあきらめない。こうした圧倒的努力は、当然のことながら苦難を極める。辛さでのたうち廻り、連日悪夢にうなされることもしばしばだ。だが、僕は圧倒的努力をやめない。覚悟を決め、自分がやるべき仕事と対座する。憂鬱でなければ、仕事じゃない。毎日辛くて、毎日憂鬱な仕事をやり切った時、結果は厳然とあらわれる。この世には二種類の人間しかいない。圧倒的努力を続ける人と、途中で努力を放棄する人だ。苦しくても努力を続ければ、必ずチャンスは巡って来る。死ぬ気で努力するから、大きなチャンスをこの手でつかめるし、圧倒的努力が10重なった時、初めて結果が出るのだ。圧倒的努力ができるかどうかは、要は心の問題なのだ。どんなに苦しくても仕事を途中で放り出さず、誰よりも自分に厳しく途方もない努力を重ねる。できるかできないかではなく、やるかやらないかの差が勝負を決するのだ。

・トレーニングだけは必ず結果が出る。ウェイトトレーニングに挑戦すればバーベルの重さに従って筋肉は付くし、有酸素運動やパワープレートをやれば肉体は着実に絞られて行く。トレーニングは絶対に裏切らない。と同時に、ごまかしながら身体を鍛えているふりをしたところで、結果は一目瞭然だ。優秀な経営者は、例外なく皆トレーニングを日課にしている。対価が必ず得られるトレーニングによって自らを鼓舞し、生まれ変わった肉体と精神で再び仕事に飛び出して行くのだ。

・「ああ、何の後悔もない満足な人生だった」と最後に思える人など、およそ存在しないと考えた方がいい。死の瞬間には、誰しも多かれ少なかれ後悔するに決まっているのだ。だったら、死の瞬間に後悔を少しでも減らすために熱狂したい。フランスの作家アンドレ・ジッドが言うように、「死の睡に以外の休息を願わない」生き方をしたい。こうしてこの本の原稿を書いている僕も、僕の原稿を読んでいる君も、死というゴール地点へ向かって今も刻々と時間を過ごしている。どうせ生きるならば、仕事に熱狂し、人生に熱狂しながら死を迎えたいと僕は思うのだ。

・自分には何ができるのか。天職とは何なのか。今いる場所で悩み抜き、圧倒的努力をして欲しい。文学界に金字塔を残して死んでいった中上健次をはじめとする作家たちもまた、君と同じく苦しんでいた。君が心底苦しんでいるのだとすれば、今の君は彼ら作家と同じ地平に立ち、人生と本気で向き合っている証拠なのだ。本気で向き合わなければ、何も生まれない。

・結果とは何か。賞というのも一つの結果ではあるが、一番判りやすい結果は利益をいくら上げたかであり、それを曖昧にしては駄目だ。この世界で生きるからにはその数値にこだわり、数値で自分を納得させるべきだ。僕は部数がいくら出たか、利益がいくら上がったかという数字にこだわり続けたい。売れる本は良い本である。視聴率を取るテレビ番組は優れている。大衆は愚かではない。大衆の支持によって数字を弾き出すコンテンツは、おしなべて優れているのだ。愚かなのは、数字を曖昧にして自分の敗北を認めない表現者や出版社の方なのである。

・昔から「早起きは三文の徳」と言うとおり、惰眠を貪る豚であってはならないのだ。僕にとって朝は勝負である。情報を摂取するにしても、考えごとをするにしても、朝ほどはかどる時間はない。早朝にけたましく電話をかけてくる人はいないから、誰にもジャマされず自分だけの時間を過ごせる。早朝には永遠が見えるとすら思う。しかし、「今日もまた一日死へ近付くのだ」という冷厳な事実を確認し、「悔いのに一日にするぞ」と奮い立ち、朝というとば口から残りの人生を照射するのだ。

・今日の自分の言動はどうだったか、経営者としての判断はどうだったか省察する。自分が発した言葉によって誰かを傷付けていないか、やり残したことはないか、その日起きた出来事を振り返って思いを巡らせる。僕は1日に10回は手帳を広げる。そこには「××に電話する」「××の約束を果たす」とto do listが書いてあり、用事が済んだ時には赤いボールペンで線を引いて消す。相手が言ったことのうち、感動したセリフや心に引っかかった言葉も手帳にメモする。改善すべき点、部下に確認し忘れたことがあれば、すぐさま手帳に書く。翌日の用事を確認し、前夜のうちにやっておいた方がいい準備があれば進める。

・僕にとって、1日の終わりは毎日が後悔だ。何もかも自分の思い通りになった日など、これまで1日としてない。そんな辛い毎日を送りながら、押し寄せてくる後悔をエネルギーに変えて明日を生きたい。生き切りたい。過ぎてしまった1日を悔い、死へ近づいたことを憂いながら、僕は明日という未開の1日へとジャンプするのだ。

・今日考えたことを明日には具現化し、できたものをさらに改善する。そういう努力をスピーディに繰り返さない限り、仕事はダレていく。廊下で「こうしようぜ」「ああしようぜ」と立ち話したり、しばらくゆっくり話していない社員がいれば社長室に呼んで1対1で話をす。「今どんな仕事を抱えているの?」「実は××という企画をやりたいんです」「おお、面白そうだな。だったらこう進めたらどうだ」。会議なんていちいち開かず、企画は僕と社員のタイマン勝負(1対1)で決めて行く。飲みに行った席、移動の車の中、エレベーターの中、どこであろうがその場の語り合いによって企画は動いていく。定型にとらわれた会議でしか企画が生まれないとすれば、それらの企画は平均点のつまらない内容になりがちだ。脳味噌を洗濯機にかけるように、頭の中で考えていることをシャッフルする。直感とヒラメキに耳を澄ます。イノベーションとは、会議室か荒野へ飛び出した瞬間から生まれるものなのだ。

・圧倒的結果を出せば、社内で僕の足を引っ張る妬みの輩などいなくなる。なにしろ角川書店の売上年間ベスト10のうち、僕が担当した本が毎年、7割は占めていたのだ。会社のためにずば抜けて利益を上げていることは誰もが認める客観的事実だった。だから一人5万円はかかる名店「京味」で何度会食しようが、月400万円近く経費を使おうが、誰も文句は言わなかった。文句は言わせなかった。「職場でやりたい仕事を担当させてもらえない」とか「希望の部署に行けない」と不満を抱えている読者もいると思う。そんな人は、まずは今任されている仕事で圧倒的な結果を出して欲しい。中途半端な結果ではない。圧倒的な結果を残せば、おのずと希望のポストは手に入るものだ。やりたい仕事は向こうから舞い込んで来る。社内筆頭の稼ぎ頭になれば、あらゆる不満は消えてなくなるはずだ。

・ただし、圧倒的結果を出したからといって決しておごってはいけない。僕はこれまでたくさんの成功した起業家と付き合ってきた。彼らは一様に、成功したからといって調子に乗ることはない。おごる者は、知らず知らずのうちに見えない敵を作る。いい気になっておごり高ぶる傲慢な人間は、必ず墜ちていく。トップランナーであり続ける成功者ほど、みな謙虚だ。ほめられても「いやいや、たいしたことはないですから」と静かに笑い、自分の話は早々に切り上げる。傲慢な人間から仲間は離れ、謙虚な人の周りには協力者が集まる。ビジネスの世界を勝ち抜く本当のしたたかさを持っていれば謙虚に振る舞うのは当然だろう。おごれる者は久しからず。謙虚であることは、成功を続けるために必須の条件なのである。

・自分が感動した作家の原稿を世に送り出し、無名を有名にする。マイナーをメジャーにする。未だ見ぬダイヤの原石の発掘者、未開の原野の開拓者になれば、自分というキャラクターと名前は職場にも業界全体にも響きわたる。自分の感覚や感動の源泉を信じ、たった一人でも自分が信じた道を行く。人の100倍も不安に怯え、困難に耐えながら、苦痛を糧として仕事をする。それが僕の言う「たった一人の孤独な熱狂」だ。たった一人で孤独に熱狂しながら、僕は無名を有名に、マイナーをメジャーに変えて結果を出して来た。

・君は職場で目立つ人を見て「あいつはいいな」とうらやましく思うかもしれない。だが、そういう人は誰にも見えないところで魔物のような不安に夜な夜なうなされ、自傷行為のように身を削る努力をしているものだ。身を切り、血を噴き出しながら命がけで仕事をしていてこそ、初めて圧倒的結果が出る。人々から認めてもらえる。「ここに○○あり」と皆に気付いてもらい、キャラクターとブランドを確立するためには、自らの体から噴き出した血で旗を染め、その旗を高々と掲げるしかないのだ。

・仕事ができない人間には決まって共通点がある。小さなことや、片隅の人を大事にしないことだ。そんな人間に大きな仕事ができるわけがない。雑用をいい加減にやったり、人との約束を簡単に破ったり、名もない人を無下に扱うような人は、大きな結果や成功をつかむことはできない。自分一人だけが一匹狼として活動するのであれば、小さな約束を守らず、小さな人を大切にしなくても仕事は回って行くかもしれない。だが、数多くの人と関わる仕事をするのであれば、他者への想像力は必須だ。一人一人と向き合い、小さなプロジェクトを一つずつきめ細かく成功さえていくうちに、信頼が積み重なり大きな仕事につながっていく。

・いくらビジネスでそこそこ成功していたとしても、当たり前の挨拶や礼儀を大切にできない人が成功し続けられるはずがない。小事が大事、一事が万事である。同じ若い起業家の中でも、100万人に1人の爆発的な成功者はとても神経が細かい。小さなことを大切にし続けてきた結果、彼らは誰もがうらやむ大きな成功と富を手にしたのだ。僕は人との約束には絶対遅刻しないよう心がけている。特に大切なアポイントが入っている時には、約束の30分前に現地に到着することもある。約束の時間にしょっちゅう遅刻する人は、もはや遅刻が癖になっているのだろう。常日頃から自分に厳しく言い聞かせていれば、遅刻のような癖は簡単に直せる。平気で時間に遅れ、人を待たせる人は、自分が極めて初歩的なところでつまづいている事実に早く気付いて欲しい。小さな仕事をおろそかにする人もまた、大きな結果を手にすることはできない。

・GNO(「義理」「人情」「恩返し」の頭文字)こそが、仕事においても人生においても最も大事だと思っている。相手の心をつかみ、いざという時に力になってもらうにはどうすればいいか。「あの時良くしてもらった」「お世話になった」と相手に思ってもらうことが大切なのだ。

・僕はこれまで何人もの政治家と会って語り合い、食事をして来た。政治家の中でも、安倍晋三さんは傑出している。安倍総理はGNOの人だ。総理大臣になる前も総理に就任してからも、安倍さんは義理と人情と恩返しを大切にしている。人の信用と信頼を損ねることがないし、約束は必ず守る。驕らない。無私無欲に生きる。人間として超一級の総理大臣だ。お会いするたびに、リーダーとはかくあるべきだと感嘆する。GNOを死守する生き方は、人よりも何倍もエネルギーを要する。しかし僕は、現職の総理大臣や政財界の重鎮、ベストセラー作家やIT業界の寵児、芸能プロの社長たちと付き合い、GNOを死守しながら、同時に無名の人々とのGNOも同じように絶対死守する。GNOをごまかしたか、ごまかさなかったかは、自分が一番よく知っている。GNOに生きるのは疲れるが、同時に清々しい。義理と人情と恩返しを、重んじてたとえ損をしたとしてもそれに殉じたい。その生き方を感じてくれれば、僕以上に大きく義理と人情と恩返しで報いてくれる人は必ず現れるはずだ。僕はそうやって生かされて来たのだ。

・「安目を売らない」という言葉がある。下手に出る必要のない場面でへりくだり、相手に借りを作る。それが弱みとなり、相手を優位に立たせてしまう。安目を売らない生き方を貫くためには、「やたらと貸し借りしない」という軸をブレさせないことだ。安目を売らずやせ我慢すれば、君の生き方はブレない。僕は常々「貸しは作っても借りは作るな」と自分に戒めてきた。人の頼みを聞く時は、難しければ難しいほどやる価値がある。易しい頼みを簡単にかなえたところで、先方にとってはありがたくもなんともない。

・頼まれ事にきちんお答えを出すためには、日頃からやらなければいけないことは山ほどある。相手に2つや3つの貸しを作るくらいならば、どうってことはない。10も15も貸しを作るには、僕にもそれなりの努力が必要だ。15も貸しが貯まれば、「見城にはいつも世話になっている。いつか借りを返そう」と相手に思ってもらえる。そうなれば、こちらが窮地に陥っているときに相手のキラーカードを切ってもらえる。つまらないことをやたらと人に頼まない。そのかわり、人の重要な頼みは全力で引き受ける。これが僕なりの「安目を売らない」という意味だ。

・竹下登元総理は「自分で汗をかきましょう。手柄は人にあげましょう」と言ったそうだ。日本テレビの故・氏家会長はこの言葉を口にしながら「見城、俺はこの一行を加えたんだよ」と教えてくれた。「自分で汗をかきましょう。手柄は人にあげましょう。そしてそれを忘れましょう」「自分で汗をかいて働き、手柄を人に譲れる人なんてほとんどいない。その上、人に手柄を譲ったことを忘れられる人なんて、一人もいない。見城、お前はその一人になるんだよ」と、氏家さんは何度も繰り返し教えてくれた。恩は人に与えるものだ。そして、人にGNOを与えたことはきれいに忘れてしまう。田辺エージェントの田邊社長やバーニングの周防郁雄社長、氏家さんのような「志高いやせ我慢の男」には、歯を食いしばって心の中で醸成してきた厚みのある色気が匂い立つ。

・読者の方々も、自分が進めているプロジェクトが大コケしてしまったり、全てを賭けて望んだ大勝負に負けてしまったこともあるだろう。ちょっとやそっとでは立ち直れないダメージを負った時には、僕は無理して気分を切り替えない。落ち込んだときの対処法は何か。スランプの原因をごまかさず、徹底的に落ち込む。落ち込んで、落ち込んで、落ち込み抜き、自分と向き合うのだ。

・人生の中でスランプなんていくらだってある。スランプから抜け出す方法やコツ、HOW TOなんてあるわけがない。しかし、どれだけ落ち込んでも、人は1年も2年も落ち込み続けてはいられないものだ。2週間も沈み込んでいるうちに吹っ切れる。落ち込んでいる自分と対峙し、スランプに肩までどっぷり浸かったあとは、勢い良く飛び出せばいいのだ。何をやっていても無駄な時間などない。過ごした時間は必ず先に活きて来る。当面、無駄な時間に思えても、自堕落な時間を貪っても、必ず意味を持って来る。起こっていることは常に正しいのだ。一度大きな失敗をすれば、誰だって自信を失ってしまう。長いスランプに見舞われたアスリートは、どうやってスランプを克服するのか。とことん落ち込みスランプを直視し、また目標に向かって圧倒的努力をするしかないのだ。圧倒的努力は岩をも通す。「自分はこれだけ努力した。やれることはすべてやったのだ」と自分に言い聞かせ、戦いに臨めばいい。自分を直視し、自分をごまかさずにつらい道を選んで進めば、必ず結果は出る。圧倒的努力に基づく結果が10貯まった時、君はまわりの世界を動かし始めるだろう。圧倒的努力に基づく結果が100貯まった時、業界における君の評価が確固たるものへと定まる。圧倒的努力に基づく結果が1000貯まった時、君はリビング・レジェンド-伝説の人になるのだ。スランプにはとことん浸かり、圧倒的努力とともに再び這い上がればいいのだ。

・「できるだけ人を増やさないこと」と「金の入りと出に目を光らせること」が編集バカだった僕がここまでになった極めてシンプルな経営方針だ。

・人類の歴史は、一握りの政治家や有名人の活躍によって形作られてきたわけではない。一人ひとりの無名の人たちによる、小さくて誠実でおびただしい営みが歴史を作ってきた。彼らが一つずつレンガを積み上げ、人類の歴史という巨大な建造物が成ったのだ。歴史の教科書に名を残す人は、有能なリーダーとして大衆を先導しては来たのだろう。だがそのリーダーの元には、何の文句も言わず軍隊に駆り出され、敵軍に向かって特攻して死んで行った少年兵がいる。国家を守るため、家族を前線に差し出し涙に暮れた人々がいる。そういう無名の人たちの重みを感じられなくなったらおしまいだ。人知れず誠実に生き、目立たない生涯をまっとうする。かたや事業に成功し、日本中から注目され、死去したときには「訃報です」と全国ニュースで名前が読み上げられる。どちらの一生も、その重みには何ら変わりはない。前者には価値がなく、後者は重んじるべきだと勘違いするようでは話にならない。

・失敗して落ち込んでいる人に出会うと、僕はこうやって声をかける。「今起きていることはすべてプロセスだ。プロセスの中で生じた暫定的な結果によって、人生がすべて決まるわけではない。最後の勝負は、死ぬときにあなたがどう思うかだ」金持ちにも貧乏な人にも、いずれ死は訪れる。仕事で多くの功績を残している人にも怠惰な生活を送っている人にも、いずれ死ぬ瞬間は平等にやって来る。「あの人は貧乏だし、家族にも恵まれずかわいそうな人だ。あの人の人生は失敗だった」と周りからあわれまれても、死ぬときに「俺は自ら望んでこういう人生を送ってきた。一人で死んで行くことに何ら悔いはない」と独りごちることができれば、それが幸せなおだ。ビジネスの戦争から途中で脱落して早々にリタイアすれば「あの人は今どうしているのだろう。一時は華やかな様子だったのに、一度階段を転がり落ちてからは惨めなものだな」と白い目で見られる。だが本人は「ああ、あの時にすべて投げ出して、山奥の、小屋で晴耕雨読の生活をして良かったな」と満足しているかもしれない。いくらビジネスで成功したセレブであっても、死ぬときに「ああ、俺の人生はさんざんだったな」と情けない思いにとらわれるようでは虚しい。有名か無名か、金持ちか貧乏か、そうした尺度で幸福は測れないわけだ。そんなものは所詮、幸福を測るうえでの相対的な基準でしかない。要は死ぬ瞬間に自分が満足できていればいいのだ。

・アメリカ先住民に「君がなんとなく生きた今日は、昨日死んで行った人たちがどうしても生きたかった大切な明日だ」というような言葉があるそうだ。緊張感も切迫感もなく、ただのほほんと生きる。そんな1日の時間に、しがみついてでも生きたいと思う人もいる。この言葉は、僕の胸に強く共振する。僕は今日の夕食をおそろかにしたくない。死へのカウントダウンが始まっている中での貴重な一回の夕食を「ああまずかった」「ああつまらなかった」と思って終えたくないのだ。「今日も満足の行く夕食だった。しかも刺激的な話ができた」と満足しながら、死へと一歩近づいた時間をどん欲に生きたい。死という視座から現在を照射すれば、今自分がやるべきことが鮮明に見えてくる。独りの女に身も心も捧げ尽くし、駆け落ちしても絶対に後悔しない。そう本気で思えるのなら、仕事を放り投げその女と逃避行すればいい。

・「不倫」という言葉がある。結婚している人と付き合ってはいけないというルールなど、共同体が決めただけのものだ。燃えるような恋に落ちた相手と性愛を貫くためなら、共同体のルールなんていとも簡単に突破できる。そもそも恋愛とは多かれ少なかれ背徳を含むものであって、背徳をまったく含まない恋愛など官能的ではない。「女が女を愛してはいけない」「男が男を愛してはいけない」「ムチで人を打つのはヘンタイだ」。共同体が勝手に決めたルールなど無視して、性愛を貫けばいい。毛深い女性が好きだ。ハイヒールに異様に興奮する。体臭はキツければキツイほどいい。人それぞれフェチズムがあり、その嗜好は他人に理解されrなくたって一向に構わないのだ。「radical」という英語には「急進的な」「過激な」という意味もあれば「根源的な」という意味もある。仕事も友情も恋愛も、文字どおりラディカルでありたいと僕は考えて来た。性愛を根源的に突き詰めて行った時、生きることの意味が問われる。

・恋愛だけは、時代がどう変わろうと不変だ。他者について想像力の翼を広げ、さまざまな道筋をシミュレーションする。そうしなければ恋愛は決して成就しない。恋愛と同じく、他者の気持ちを想像し、理解できない人には仕事はできない。ビジネスは一人で完結するものではないからだ。僕が取り組む出版業であれば、作品を創る作家やカメラマンもいれば、デザイナーもいる。製紙会社や印刷会社の人もいる。プロモーションのためには、芸能プロダクションやラジオ局、テレビ局の人にも協力してもらわなければならない。広告だって大事だ。ビジネスで成功するためには圧倒的努力と他者への想像力がワンセットで必要だ。異なる他者への想像力を発揮して、初めてビジネスの成功はある。恋愛は、他者の気持ちを知るための絶好の機会である。

・京味ですごい発想のヒントをもらったりと、京味の会食は仕事におおいに役立った。感謝の思いを籠めて出版した西健一郎さんのレシピ集「日本のおかず」は、30万部超のベストセラーになった。富山から出た「幻燈士・なかだ」、京味出身の「井雪」、「くろぎ」、滋賀の「招福楼」出身の「松川」、名物親方の「室井」、モダンな「Kuma3」、新和食の「ラ・ボンバンス」、「青柳」や「かんだ」など、僕が大好きな日本料理店はいくつもある。これらの店で至高の料理を堂々と堪能できるよう、僕は仕事で圧倒的な結果を出したいのだ。

・大企業のエグゼクティブからの誘いだからといって、先約をいとも簡単にキャンセルするやり方を僕は潔しとはしない。そんなことを平気でするようになったら、自分が駄目になったような気がして自己嫌悪に陥る。だから約束はできる限り死守する。

・やすくて飲めるおいしい白ワインとしては、ニュージーランドのソーヴィニヨン・ブランからドライ・ヒルズやクラウディ・ベイ、マウント・ネルソンあたりを推薦しておきたい。これらはいずれも3000円程度で買えるし、きちんとしたワイン屋であればどれかは置いている。1万円ぐらい出してもいいのであれば、ナパヴァレーのソーヴィニヨン・ブランからケンゾー・エステイトの白ワイン「asatsuyu(あさつゆ)」を推薦しておこう。


良かった本まとめ(2015年下半期)

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ジャズ オリンパス!(東京 神田小川町)というジャズ喫茶はとてもオススメ!

2016年04月20日 01時00分00秒 | 外食
東京メトロ神保町駅と小川町駅のちょうど中間にあるジャズ オリンパス!へ行って来ました!
その店名の通り、ジャズ音楽が楽しめるお店です。

店の入口は道路側からとホテルフロント側の2つがありますのでご注意ください♪


↑道路側入口


↑ホテル側入口

店内はかなりオシャレで、そして清潔で綺麗です♪
ランチタイムなので、静かなジャズが流れていて癒されます^_^)
とても気持ちが良い空間が広がっていて驚きましたね。
しかもランチタイムは禁煙というのはとても嬉しいです!



↑店内

横の壁にはLPレコード?のジャケットが飾られていましたね。
なかなか格好良いと思います♪


↑壁のLPレコード?

さっそく机の上のメニューを見ます。


↑メニュー

赤いチキンカレー900円が有名なようなのでそれを頼みます。
このカレーは吟味した野菜、鶏肉と洗練されたスパイス、塩、水のみで手作り無添加とのことでとても嬉しいです♪
ご飯は新潟産コシヒカリ100%とのことです。

すぐにカレーは運ばれますが、おぉぉさすがコシヒカリでご飯粒が立っていてこれはとても良い炊き加減!
カレーは良く煮込まれているようで、チキンは柔らかいし、そしてルーがとても美味しい!
赤いカレーですが、辛いものが苦手な私でも適度な辛さでとても美味しい!
さすが無添加カレーですね!


↑カレー

そして150円で野菜ジュースを頼みましたが、これは市販の野菜ジュースのようでした^_^;)
まあこのお値段だとそうですよね♪


↑野菜ジュース

なお、ジャズが目当ての方は、ランチ時間を外した14時以降がお勧めのようです。
フル音量で、アナログレコードを再生しているようです。
14時前にランチで行くと良いかもしれませんね^_^)

いや~それにしても、気持ちが良い空間で素晴らしいジャズを聴きながら、美味しいカレーを食べれて、とても癒されました♪
左側の女性客も優雅に読書を楽しんでいましたね。

ジャズ オリンパス!はとてもオススメなジャズ喫茶です!

美味しかったものまとめ(2015年下半期)

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ジャズ オリンパス!喫茶店 / 新御茶ノ水駅小川町駅神保町駅

昼総合点★★★★ 4.3

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東海道五十三次 街道をゆく 畑宿~箱根峠 (2)白水坂~関所

2016年04月18日 01時00分00秒 | イベント・外出
 阪急交通社が企画する「東海道五十三次 街道をゆく」の第10回目の畑宿~箱根峠 (2)白水坂~関所について紹介したいと思います。

 前回の甘酒茶屋から少し歩くと「白水(しろみず)坂」の石碑がありました。


↑白水坂

 実は「城見ず坂」というのが本当の名前のようで、1590年の豊臣秀吉が小田原攻めの時に、ここで北条方に尾根上から大量の石を落とされ、やむなく小田原城を見ずにいったん引き返した坂なので、「城見ず坂」と呼ばれているようです。
そんな歴史があったんですね^_^)

そして少し下ると、大きな芦ノ湖が見えました!
おぉすごい!
ちょっと天気がイマイチなのが残念ですが、晴れればきっと綺麗なのでしょう!
それにしても広大な湖です!


↑芦ノ湖

そして、近くに「賽の河原」の説明がありました。
この地は地蔵信仰の霊地として、江戸時代に東海道を旅する人々の信仰を集めた場所のようです。
当時は多数の石仏や石塔が湖畔に並んでいたようです。
しかし、明治時代の廃仏稀釈により多くの石仏が失われ、また芦ノ湖の整備で徐々に規模が縮小されたようです。
ただ鎌倉後期と推定されるものもあるとは凄いですね。
周りには古い石塔などの一部がたくさん置かれていましたね。


↑賽の河原の説明


↑賽の河原の説明の周りの石塔など

それから、一里塚がありました!
江戸の日本橋から24番目なので、約96kmでしょうか♪
実は、25番目の一里塚はあったのかなかったのか、未だに不明なようです。
史跡としては25番目の一里塚はなく、24番目の次は26番目の一里塚があるようです。


↑一里塚


↑一里塚の案内

それから、箱根旧街道杉並木がありました♪
東海道の杉並木は1604年の江戸幕府の命により植えられたようですが、ここの樹齢はまだ350年程度なので、他より50年ほど若いようです。
約400本が現存しているとのことです。


↑箱根旧街道 杉並木の説明

杉並木は、まっすぐ天に向かって成長していて、それらが並ぶ姿は少し幻想的ですね。
素晴らしいと思います♪


↑箱根旧街道 杉並木

そして、ようやくお弁当となりました!
今回は13:30過ぎだったので、いつもより遅めです^_^)
今回も美味しく頂きました!


↑弁当

そして、有名な箱根の関所へ到着です!
関所は、諸大名の謀反防止のために開設されたもので、1619年に徳川秀忠の時代に開設されたとのことです。
関所は全国に53カ所設置され、特に東海道の新居(静岡県)、中山道の碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)と並んで箱根の関所は規模も大きく重要な関所だったようです。
箱根の関所は特に「出女」について厳しく取り締まりがあったようですね。
「出女」というのは江戸方面から京都方面へ行く女性や子供のことです。
当時は、諸大名の妻子は人質として江戸に置かれていたので、妻子が国許へ帰り、そこで大名に反乱を起こされると困るので、江戸幕府は特に「出女」について厳しく取り締まっていたようです。
なお、「入鉄砲」は静岡県の新居の関所で厳しく取り締まられていたようです。

この箱根関所は1869年(明治2年)に廃止され、最近までその様子が分からなかったのですが、1983年に静岡県伊豆の国市の江川文庫から1865年の箱根関所の大規模修理について克明な資料が発見され、その資料の解析や発掘調査を経て、完全に復元することができたようです。
その復元には丸9年かかり2007年についに完成したとのことです。
当時の様子をまったくそのまま完全復元できたというのは素晴らしいと思います♪


↑箱根関所の入口


↑箱根関所の掟


↑箱根関所の説明

それから関所の近くを散策したのですが、天気が良ければ、ここから富士山も綺麗に見えるようです。


↑天気が良ければ見える富士山

残念ながら曇りで富士山はまったく見えませんでしたね。
次回を楽しみにしたいと思います。


↑富士山方向の芦ノ湖

それから、箱根関所には昔の箱根宿場町の様子の写真もありました♪
やはり当時は藁葺屋根だし、籠で人を運んでいますね♪
かなり興味深い写真です^_^)


↑箱根宿場町の様子

次は(3)楓~箱根峠です。


お勧めなお話(2015年下半期)

<今日の独り言> 
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「東大名物教授がゼミで教えている人生で大切なこと(伊藤元重)」という本はとてもオススメ!

2016年04月15日 01時00分00秒 | 
「東大名物教授がゼミで教えている人生で大切なこと」の購入はコチラ

 「東大名物教授がゼミで教えている人生で大切なこと」という本は、1996年より東京大学大学院経済学研究科教授で、阿倍政権の経済財政諮問会議議員でもある著者が、苦労して身につけてきた読書法やメモの取り方、資料や情報の処理法、講演法、スタバ等での勉強や読書、歩きながら思考、対談のメリット、差別化、to do list、現場主義等の知的戦略行動について若い人に伝えるためにまとめたものです。

 どの内容も腑に落ち、参考になるものばかりで、自分の人生に活かせる内容で、とても感銘を受けましたね。

 しかも分かりやすく具体例を示しながら書かれているので読みやすいです♪

特に以下については感銘しましたね。

・何度も繰り返し読む深い内容のある本があると良い
・様々なジャンルの本を読むことは大切
・自分の人生で読んできたベストの書籍の書棚を持つと良い
・本や資料のメモをタイプし、そのメモのメモも作っていくと1冊の本が出来上がる準備が完了する
・人の話はメモを書くことに意義がある
・原稿を書くというアウトプットこそ、その準備のため実は最良のインプットとなる
・膨大な資料や作業はまず仕分けることが大切
・講演は草稿を読むのではなく自分の言葉でしゃべること
・講演をしているうちに書籍の形にまとまる
・ディスカッションをするとより深く考えるようになる
・スタバ等での原稿執筆等は時間が限られるので集中力が増し効率的
・立って仕事をすると効率的
・歩きながら考えると色々なアイデアが浮かぶ
・対談はその道の専門家に短時間で集中していろんなことを聞ける
・毎日一つ新しいことをやることも大切
・1日に30分など一人になって自分の仕事について考える時間を作ることも大切
・複数のことを同時に行うことが大切(例えば原稿書きや読書は複数のものを同時に進める)
・ほかの人がやらないことをやって差別化することが大切
・異質なものを組み合わせることが大切(たとえば海外の論調など)
・明日はないと思い今日やること
・いつやるのか、やらないのか今その場で決めてしまうことが大切
・重要でないことはやり過ごすことも大切
・to do listには優先度をつけることが大切
・スケジュールには重要な案件をまず入れることが大切
・現場の情報の価値は高い
・現場には専門家と一緒に行くのが良い
・外からのアドバイス、コメント、批判の声には常に耳を傾ける必要がある
・プロの話は重要だが鵜呑みにしてはいけない、プロにも見えていない大きな変化が起きている可能性がある
・業界が違っても直面する問題には似たようなところがある
・先生より身近な優れた同級生をロールモデルにした方が良い
・熱心に語る内容が原稿や本、論文の内容になる(話すことで頭の整理となる)


「東大名物教授がゼミで教えている人生で大切なこと」という本は、人生向上のポイントがたくさんありとてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・クリステンセン氏が強調した「人間は長期的な目標の重要性を忘れて、どうしても目先の動きに流されやすい」存在であるという点は、人生の戦略論を考える上で重要なポイントである。人間というのは弱い存在であり、周囲に振り回されることが多い。だからこそ、自分の弱さが何かをよく知り、自分が本当に何をやりたいのかを常に確認する必要があるのだ。私には研究者として多くの弱点がある。たとえば長時間続けて考えることが苦手だ。分かりやすくいえば、飽きやすい性格といってもよいかもしれない。一つのことをじっと考え続けることができるということは、研究者にとっては貴重な能力であるが、残念ながら私にはその能力が足りないようだ。一冊の本を最後まで読み通すというのも得意ではない。そんな私でも研究者としてなんとかやってこられた。自分の弱点を知ること、自分の行動を戦略的に考えることは重要であるのだ。私は整理整頓が苦手だ。家内などそれがよくわかっている。その私がいろいろな人に「伊藤さんはよくそんなに多くの情報を管理していますね」と感心される。管理しているわけではないが、戦略的な情報収集と情報処理をしていることは確かだ。大学のゼミの学生などには、こうした私の知的戦略行動について話すことが多い。若い人たちに、私が苦労して身につけてきた秘伝を伝授したいという思いが強いからだ。そして、クリステンセン氏の論文を読んでいるうちに、私が日頃周囲の若い人に話していることを本にまとめてみようという気になった。その結果が本書である。

・一度さっと読んでもわからない論文でも、2度、3度と読んで行くと、薄皮をはいでいくようにその内容が見えてくる。最初に読んだときにはとても歯が立たないようにみえた難解な内容も、何度か読むうちに信じられないような感じでその内容が頭に染み込んでいくのだ。読書の醍醐味は、同じものを何度も読めることにあるとも言える。一度読んだらそれでもうよいと捨ててしまえるような本は、実はあまり価値は高くないともいえる。私の学生には、いつもこの点を強調している。ベストセラーのような本はいつでも読める。ハウツーものはなおさらだ。学生の時しか、あるいは感受性の鋭い若いときでしか読めないような難しい本、あるいは深い内容の本に積極的に取り組むべきだ、と。それは結局はスローリーディングということになるはずだ。ところで、いまでも、何度も繰り返し読む本がある。たとえば、経済学者のフリードリヒ・ハイエクの「自由の条件」などはその代表だ。気が向くと、この本を寝床のそばに置いておく。そして寝る前に20分から30分この本を開く。数行しか読めないこともあるし、2ページほど読み進めることもある。どれだけの分量を読むのかということではなく、目の前にある文章をゆっくりと味わうことにしている。ハイエクの含蓄のある文章を読みながら、いろいろなことを考える。スローリーティングの醍醐味を味わう瞬間でもある。

・あの2年間、電車の中でひたすら数学の本を読み続けたのはよい経験であったと思う。学生にはよく言うことだが、自分が慣れしたんでいる世界とは違った世界を一度でも見た人は、それだけ視野が広くなる。たとえば、微分方程式を解いたことがある人と、それを見たこともない人では、当然、自分が認識できる視野が違うことになるのだ。数学だけではないだろう。小説、それも様々なジャンルの小説、美術書、音楽評論、歴史書、生物学など、なんでもそれに少しでも触れてみるべきだろう。それによって自分の視野や見方が広がっていくと信じて。

・その先生の部屋には大きな本箱が一つあった。100冊ほどの本が入る大きさだ。その本箱の本を見て、強い感銘を受けたことをいまでも覚えていr。本の多さではない。数なら私の研究室の本の方がはるかに多い。私が感銘を受けたのは、その本の内容だ。一冊一冊がすべて厳選された、この研究者の一生の重みを感じさせる選択であったからだ。おそらくどの本も深く読み込んであるに違いない。「いまの自分はこの本だけで生活していける」と冗談を言っていた。私ももう少し時間に余裕ができたら、「自分の人生で読んできたベストの書籍」の小さな書棚を作り、時間を作ってそうした本を何度も読み返したいと思う。

・「研究の秘訣は本や資料の読み方にあると思う。これはと思う本や資料をじっくりと読む。そして重要だと思うところにはアンダーラインを引いておく。さらに気がついたこと、疑問などがあったら、欄外に手書きでよいのでメモをしておく。1冊読み終われば、今度はそのアンダーラインをした内容や自分の書いたメモを、シングルスペース(つまり行間を空けないでという意味)でタイプする。それで立派なメモができる。そうした作業を続けていくと、何冊も本を読めばそれに応じてメモも増えていく。ある程度メモが増えたら、今度は自分の書いたメモにアンダーラインをつけながら読んでいく。気がついたこと、疑問に思ったことがあれば、それを欄外に書いておく。そうしたら今度は、メモについたアンダーラインやコメントでまたメモができる。つまりメモのメモだ。こうした作業を続けるとメモは相当な分量になり、それに応じてメモのメモも増える。メモのメモを読んで、メモのメモのメモもできてくる。この頃になれば一冊の本が出来上がる準備が完了する」という。

・メモをとることに集中していたら、人の話が聞けないのではないかと思う人もいるかもしれない。しかし事実は逆である。メモもとらないで漠然と人の話を聞いていたら、後には何も残らないこともある。相手の話を丁寧にすべてメモするわけではない。気になった事実、考え方、疑問を自分の言葉でメモにするだけである。メモであるので、文章になっていないことが多い。キーワードを書いてそれを○で囲んだり、ときには絵を描くことさえある。

・iPadには、手書きでノートをとる機能がついている。これを利用したソフトでGoodNotesというソフトウェアを利用し始めた。ほとんど紙に書く感覚でかけるので、パッドに書くのと違いはない。ペンを忘れても、指を利用して書ける。そして何よりもよいことは、ノートをいくら書いても、ファイルでずっと残っているということだ。管理して保持したければPDFファイルとして自分のアドレスにメールして、パソコンに入れればよい。スマートフォンやiPadの特徴は、暇なときなんとなくそれを見るということだ。タクシーの中で、あるいは人を待つ喫茶店などで、メールをチェックする。最近はそうした空き時間で、自分のノートを読むことが増えたような気がする。iPadのおかげで自分の書いたノートを読むということがやっと実現したような気がする。

・原稿を書くというアウトプットこそ、実は最良のインプットでもあるということだ。毎週の原稿を書くにあたってテーマを決めるために、まず頭を使う。次のその鍵となる考え方、あるいはキーワードが何かを考える。必要があれば、事実などを調べる。他の人がどんなことを書いているのかを読むこともあるが、これはそれほど多くはない。

・新聞に書く原稿(1000字~1500字程度が多い。)の場合には、まず真っ白な紙(あるいはメモ帳)を開いて、何が書きたいか候補を書き出す。そのリストを書きながら、無意識のうちにそれぞれのテーマの背景にどのような論点があるのか考えている。そしてそのリストの中からもっともよさそうなものを一つ選ぶ。苦労するときには、これに結構時間がかかる。だから1週間以上前から、空き時間を利用して考えることもある。いったん内容が決まれば、一気に書き出す。新聞記事のような長さの原稿は、読者も一つのキーワードを追っかけて読むことになる。だから、なんでもかんでも内容をぶち込んではいけない。一番強調したいことだけを中心に書くのだ。これが執筆のプロセスである。そういう作業を通じて原稿を書くのであるから、原稿執筆はアウトプットである以前に重要なインプットでもある。自分の頭を整理して、重要なポイントを明らかにし、今後の考察の方向についても検討するのだ。

・新聞に書く原稿は一度限りではない。たとえば消費税について何か書けば、そこには必ずその先の問題が見えてくる。あるいは、世の中の議論も進化していく。だから、また消費税について新たに書く機会が出てくる。そうした原稿を何度か書けば、消費税についてより深くかつ広い理解が広がって行く。連載原稿を何度か書けば、消費税についてより深くかつ広い理解が広がって行く。連載原稿を続けていることで確信した連載のメリットである。これはアウトプットである以上にインプットでもあるというこおだ。もちろん、新聞や雑誌の原稿をゼロから書いているわけではない。空間をにらんで突然天からアイディアが降ってくるのを待っているわけではない。私の生活は多くの細切れだが大変に密度が濃い情報のやりとりの連続なのだ。政府の会議に出たり、著名な専門家のセミナーを聞いたり、国際会議に出たりすれば、実に様々な面白いアイディアや考え方や事実に直面する。書籍や資料を読んでもいろいろなアイディアが頭に浮かんでくる。それをノートに書き留めるわけだが、それだけで放置しておけばいずれどこかに消えてしまう。それどころか、ほっておくと一週間ほどで忘れてしまうかもしれない。日々、次々に新しいことが入ってくるので、そちらに集中すれば、先週のことは忘れるものだ。新聞の連載はその記憶をピン止めし、自分なりの言葉で整理し、キーワードを見つけ、より深く考え、そして次の思考につなげる最高の手段である。連載原稿でなくても、日記や個人的メモでよいのかもしれない。ただ、締め切りがあるということ。そして人の目に触れるということ、この緊張感が重要である。人に読んでもらって役に立ったと思われなければいけない。教科書でも新聞原稿でも、こうしたサービス精神が重要であるが、これがまた原稿をまとめるときのプレッシャーになる。こうした作業を毎週のように繰り返している。結果的に見れば、たとえば2013年には新聞・雑誌・ウェブなどの原稿を合計200本近く書いた。「継続は力なり」とは言うが、よくも書いたものだ。これがいまの私には血となり肉となっている。若い頃の研究者時代のインプットとはずいぶん違うが、毎日の連鎖執筆のプレッシャーこそ、いまの私に最高のインプットであるのだ。私はいろいろなところで講演を行う。許されるなら、資料やスライドは使えないようにしている。それが一番よい話し方ができるからだ。私の講演を聞いた方から、よくあれだけのことをメモなしに話せますね、と言われることがある。しかし、それは私が特に優れた記憶力を持っているからではない。毎日苦労して書いている連載原稿、これが私の講演のネタである。苦労して原稿の形にまとめているのだから、自分の血や肉となっている。メモなしでその内容が話せるのは当然のことである。書くことは最高のインプットである。

・最近はアマゾンなどを利用して書籍を購入することが多いので、以前よりも書店に行くことは少なくなった。それでも時々出かける魅力的な書店がないわけではない。その一つが東大生協の書籍部だ。東大構内にある。読者の好みを反映しているのか、街の書店とは明らかに違った品揃えである。いつも短い滞在時間ではあるが、思わず手にとって本を購入することがある。ネットの書店とは違い、本の選択で編集できる書店は魅力的な存在だ。こうした書店がもっと増えればよいと思うが、再三に乗せるのが難しいのかもしれない。

・本に書いてある基本的なメッセージや結論だけを知りたいのであれば、そんなに何度も熱心に聴く(読む)必要はない。当時の私は英語の文章を覚えたいというまったく別の意図でヒックス教授の本の録音を何度も聴いていたのだが、結果的にはそれはヒックス教授の論理の進め方などを何度もなぞる結果になった。若いときに体に染み込んだものは一生残るのだろう。いまのように忙しくなると、なかなか若いときのように本を一冊暗記しようなどという時間もないし、その気も起きない。若いときだからこそできたことかもしれない。また、若いときにそうしたことにチャレンジしたからこそ、自分の血や肉になったのかもしれない。英語である必要はないのかもしれない。日本語の本でもよいので、これぞと思う本があったら、それを録音したものをウォークマン、あるいは今だったらiPodやiPhoneで聴き続けてみたらどうだろうか。

・アレン氏の方式の第一のポイントは、すべての資料や情報を処理するということだ。処理するということは、必ずしも対応するということではない。放置しておくという選択もありうる。ただ、私たちが往々にして陥りやすいのは、いつかやらなくてはいけないと思いながら、机の上に放置してある案件があるということだ。こうした案件があると、なんとなく心にストレスが生じる。そこで、すべての案件を完全に自分の頭から消し去るために、まず書類の処理をするということだ。皆さんの机の周りにたくさんの案件がたまっていれば、それをすべて分類するところから始まる。すぐに処理してしまうのか、資料として残すのか、それとも後の処理のために残しておくのか。この分類が重要であるという。分類することで、自分が抱えている処理内容をすべて頭の外に出してしまうというのだ。アレン氏は、最初は週末全部かけてもよいからこれを全部行ってしまえという。あとは、日々入ってくる新たな情報や作業に対応するだけですむという。私の場合には、アレン氏が言うようになかなか完璧にはできない。ただ、目の前に積み上がっている膨大な資料や作業をまず、可能な限り仕分けてしまうという作業を行うようにしている。処理すべきものですぐに処理できるものは、その場ですぐに処理する。少し時間がかかるが必ず処理しなければならないものは、ファイル名をつけてファイルをしておく。ファイル名はその日の日付と名称だけだ。たとえばゲラのチェックであれば、「○○という原稿のゲラのチェック」という作業内容とその日の日付がファイル名になり、ゲラの現物はフォルダーに入れてキャビネットにしまい、そしてパソコンのメモソフトにファイル名を記す。ファイル名は時間順であるので、上から順番に書くことになる。メモソフトはマックのパソコンに入っているものを利用している。自動的にクラウド上で同期化される。そのファイルの率尾は、パソコンだけでhなく、iPadやiPhoneで見ることができる。そちらから修正も可能だ。このファイルさえ見れば、いま自分がどのような仕事を抱えているのか、どのような資料がストックされているのかがわかる。最近は、多くの資料や仕事の依頼がメールなどに添付された電子ファイルで来る。この電子ファイルの資料についても同じような対応になる。今後の処理が必要なもの、あるいは残しておくことが必要な電子ファイルはパソコン上に集めておき、日付を加えたファイル名をつけておく。そして電子ファイルリストという形で、先ほどのメモソフトに記しておく。従って、私のパソコンには紙のファイルというリストと電子ファイルというリストの二つがある。それらは常時パソコンでもスマホでもチェックできる。

・最初はその草稿を読むことで授業を進めようとした。しかしすぐ気づいたことは、書いたものを読んだのでは話は面白くないということだ。いつの間にか、せっかく準備した草稿を見ないで、自分の言葉でしゃべり始めていた。内容については徹底的に準備したので問題はない。何を話すべきか丁寧に詰めてある。ただ、自分の言葉で話しているので、英語としてはずいぶん不正確なものであったと思う。それでも学生の反応は良かったし、話している自分もこの方がやりやすいように思えた。後から考えれば当然のことだが、準備された原稿を読むとどうしても話が面白くない。聴衆の反応を見ながら自分の言葉で話をする方がよほど説得的である。結局この講義で私はベストティーチャー賞を受賞した。後から考えてみれば、これも3ヶ月近くかけて綿密な準備をしたたまものであると思う。自分で一生懸命に準備のノートを作ることで、あとはそれを読まなくても、その場での自分の言葉で話すことで学生から評価される授業ができるというものだ。私にとっては人前で話すという作業が非常に重要なものとなっている。大学の授業で話すとき、どうしても学生の顔を見ながら話すことになる。その反応を見ながら、話し方を変えていく。学生が目を輝かせて聞いていれば、さらにペースをあげて話をする。学生がつまらなそうな顔をして聞いていたり、あるいは難しいなという顔をして聞いていれば、講義のペースを変えようとする。こうした場で話をすることで、頭の中がずいぶん整理されてくる。

・一般向けの講演も、私にとっては頭の中を整理する上で非常に有益な機会だ。講演というと、入念に準備した内容を聴衆に向かって話をすること、と考えている人が多いかもしれない。そういう講演も多いだろう。私も、テーマによっては、そうした講演をしようとすることがある。ただ、若い頃に米国の大学で行った講義のときと同じように、準備した草稿の話をするのでは非常に詰まらない講演にしかならない。そこで、講演ではできるだけその場で頭に浮かんできた言葉で話をするようにしている。聴衆の目を見ながら、反応を感じながら、話の内容を整えていくのだ。この聴衆との微妙な緊張感が重要である。1時間から1時間半の講演は、私にとっては大変な緊張を強いられるものである。ただその間に頭はフル回転して、いろいろなことを考えている。講演の前には想定しなかったようなフレーズがときどきでてくる。ディスカッションの中で出てくる瞬間芸のようなフレーズだ。これが後で思考を進めていく上で非常に重要な鍵となることが多い。一方向の行為のように見える講演で、講演者である私は多くのことを考えるきっかけをもらっているのだ。もちろんまったく準備なしに講演をしているわけではない。毎日のようにパソコンに向かって原稿を書いているわけだから、私の頭の中には多くの引き出しがあり、そこにいろいろな材料が詰まっている。一つの引き出しの中身で、10分や15分の話はできる。講演は、そうした引き出しの中身をいくつか出して、つなげていくのだ。少しオーバーな言い方をすれば、この引き出しをつなげていけば、3時間でも4時間でも話をすることはできる。

・新しいテーマで何回か講演を続けていると、自分の頭の中が次第に整理されていくる。そうした行為を続けているうちに、小さな書籍にまとめようという気持ちが強くなってくる。私の場合には、書籍が先にあって、それを講演するというよりは、講演をしているうちに書籍の形にまとめることになるという順番が多い。要するに、人前で話すということが、私にとっては重要なインプットとなっているのだ。

・知的活動には3つの異なったステップがあると思う。第一は、外から知識を習得するという活動だ。講義を聴いたり、本を読んだりして学ぶのがこれにあたる。日本の高校までの教育の多くはこれにあたるのかもしれない。第二は、自分で考え整理して発信するという知的活動である。レポートをまとめる。人の前で発表する。こうした活動はここに入る。自分の頭で考えていくという作業は重要である。そして第三は、人とのインタラクション(相互作用)を通じて、思考を発展させていくという活動である。グループディスカッションを通じて学んだり、ディベートで論争することなどは、この範疇に入る。大学の私のゼミでは、この3つ目の活動を重視している。周りの人と意見をぶつけあってこそ、人はより深く考えるようになる。会話の中で、質問をぶつけることも重要だ。よく言われることだが、与えられた問題を解くよりも、問題を設定することの方が重要であるということも多い。問題設定さえできれば、その問題の半分以上は解決できたともいえる。少人数のディスカッションでは、自分の意見を述べたり、相手にコメントをすることも重要だが、その場で適切な設問(疑問)を提示することのできる能力を磨くことも期待される。私にとって学部の学生たちとゼミでディスカッションをする場は非常に貴重である。学生たちから見れば自分たちは先生から教えてもらっているという感覚を持っているかもしれないが、私から見れば、学生たちと議論することによって自分の理解がさらに深まったのではないかと考えることが多い。学生との議論の最中に、突然、重要なひらめきに出会うこともある。

・あるとき、ある日本の大企業の海外のマネージャーを集めたセミナーで話すことを依頼された。30人ぐらいの聴衆だったが、日本人はいなかった。その会社の海外のいろいろな拠点の現地のマネージャーたちである。当然、セミナーは英語で行う。2時間ぐらいの予定であるので、1時間半ほど話して、後の時間は質疑応答だと考えていた。ところが話し始めて10分もしないうちに、あちこちで手が挙がりはじめた。質問があるという。その質問に丁寧に答えると、また次の手が挙がる。結局、その後の2時間は質問とそれへの返答だけで終わってしまった。ただ後で振り返ってみると、これほど短時間に濃密なセミナーをしたこともなかった。受講者とのインタラクションがあった方が、はるかに内容の濃いセミナーになると実感した。日本の企業の方も大学の学生も、もっと教室やセミナールームで自由に発言したらよいと思う。

・スターバックスはどこの店でも勉強する若者たちでにぎわっている。先日、スターバックスの本拠があるシアトルでも、似たような光景を目にした。地元の大学の先生が言っていたが、自宅に立派な部屋があるのに、彼女の高校生の子供は「勉強をしに行く」と、近くのスターバックスにいそいそと出かけていくようだ。そこで誰かと会うというわけではない。周囲がザワザワとした空間であることで、かえって自分一人の世界に集中することができる。それでも自分一人だけで部屋の中にいるのとは違って、周囲にいろいろな人がいることがある種の安心感を与える。日本にも米国にも共通した「スターバックス現象」のようなものがあるのかもしれない。現代社会ではそうした空間が求められているようだ。

・私の知的活動は喫茶店の存在を抜きにして語ることはできない。いまでも原稿執筆の一部は喫茶店で行っている。なぜえか喫茶店での原稿執筆ははかどる。喫茶店で一気に原稿を書いてしまい、あとで家に帰ってから自宅の書斎でじっくりと文章を修正するということも多い。なぜ喫茶店での原稿執筆や読書はよいのだろうか。私はこう考えることにしている。喫茶店での時間は限られている。少し粘るとしても、せいぜい1時間程度しか店にいない。その1時間という限られた時間が、大変な集中力につながる。1時間しかいないので、あるいは30分しきないので、その間にできるだけやってしまおう。そうした集中力を提供してくれるのが喫茶店の存在である。私の頭脳はどうも短距離型のようだ。瞬発力はあるが持続性はない。そうした人間には、喫茶店のような場所で短時間に集中的な作業をする方が、オフィスや書斎でじっくりと思索をすsるよりも向いているかもしれない。世界中のスターバックスでこれだけ多くの人が読書や勉強をしているということは、そうした短距離的頭脳の人がたくさんいるということだろう。ところで、今までで一番速いスピードで原稿を書いた場所の話をしたい。どこだったと思うだろうか。実は、地下鉄の駅のベンチなのだ。そのときの状況はよく覚えていないが、本当に忙しくて新聞の原稿の締め切りが迫っていた。喫茶店に入る時間はない。ただ、次の会議までに15分ぐらいの時間があった。そこで地下鉄のホームのベンチで、パソコンを開くはめになった。私のマックはすぐに立ち上がる。15分しかないという緊張の中で、あっと言う間に1000字ほどの原稿を書き上げてしまった。もちろん、書くべき内容については電車の中で考えていた。また、その原稿の推敲については、後で家に帰ってから行った。推敲は10分程度で終わるほど、原稿は完璧だった。15分しかないという緊張感から、極度の生産性が生まれたのだろう。

・先日、米国に出張していたとき、地元の大学で教えている日本人の研究者と話していたら、米国では立って仕事をする人が増えているという話をしていた。その先生も立って仕事ができる机を注文中であるという。電動式で高さを調整できるような机で、一番高くすれば立った姿勢で仕事をするのにちょうどよい状態であるそうだ。こうした机が販売されているのは、立って仕事をする人が増えているからかもしれない。確かに座るよりも立って仕事をしたほうが集中度は高まりそうな感じである。立ったままで何時間も続けて仕事をするのは難しいかもしれないが、30分程度の時間集中して仕事をするのであれば、座っているよりも立って仕事をした方が効率的であると言えるかもしれない。ちなみに、この人の話によると、立ち飲みバーなどで、足を置くような横棒が足下にあるが、あれは非常に重要であるそうだ。床の平面の上に立って仕事をするのではなく、時々足を動かしバーの上に足を置くことで疲労度なども違うという。靴を脱いでいれば、足裏を刺激する効果もあるのかなと考えたりもした。

・仕事をするときの姿勢は重要である。座って仕事をするのがベストとは限らない。私の場合は歩きながら考えるのが好きだ。何か集中して考えたいときは、オフィスを抜け出し、大学のキャンパスの中を歩き回るのが好きだ。歩きながら考えると、いろいろなアイディアが浮かぶような感じがする。難しい問題を考えているときでも、歩いているときに思わぬ答えが見つかることがあるのだ。歩きながら考えるというのh、多くの人が実行していることのようだ。

・歩いている最中に思いついたアイディアは多くある。不思議なことに、そのアイディアを思いついたときに、どこを歩いていたのかよく覚えているものだ。

・1時間の歩行の最大の成果は、その間に実にいろいろなことを深く考えるということだ。新しい書籍の構想、いま考えているテーマの深堀りなどだ。自分の仕事の進め方や今後の予定などについても考える。歩くことで思考が刺激される、と多くの先人が言っているが、その通りだと思う。そういえば、若い頃は歩いている間に数学の問題を解けることが結構あった。論文に詰まったときも、歩きながら考えているうちに光明が射したこともしばしばであった。

・対談が優れた手法であるのにはいくつかの理由がある。その道の専門家に短時間に集中していろいろなことを聞けるということが何よりも重要である。本を読むよりも、その分野の専門家に1時間話を聞ける方が貴重な情報がとれることが多い。その人が強調したいポイントがより明確に出てくるからだ。その人がどの点に力を入れて話そうとしているのか、何をキーワードにしようとしているのか、お話をするからこそ分かる部分がある。また対談やインタビューの重要な特徴は、聞き手の方で質問をぶつける必要があるということだ。質問を考えることは、その問題について考える重要な入り口とん。相手に質問をぶつけてそれに答えてもらうことは、相手の話を受動的に聞くよりははるかによい。聞く側にも緊張感が生まれる。こちら主導で話を聞くのと、相手の話をただ受動的に聞くのは大違いであるのだ。

・専門家と面と向かって1時間という限られた時間で話をすると、本当に本質に踏み込むような知識が得られることが多い。私は仕事柄、活字にするために対談を多くしてきた。ただ、そうした活字にならないような会話の機会の方が、実ははるかに多い。大切なことは、いろいろな専門の方とお話をする機会をできるだけたくさん持つということだ。そしてその話をただ聞くというのではなく、積極的に質問したり、相手の話にコメントしたりして、相互のインタラクションを活発にした会話をすることである。

・成功の秘訣は何かと言えば、「毎日一つ新しいことをやってみる」ということだという。毎日、一つ新しいことをやるというのは大変なことだ。1年に360個以上新しいことをしなくてはいけない。当然、たいして大きなことはできない。小さな新しいことの積み上げになる。店に新しいタイプの商品を置いてみる。昼に新入社員と食事をしながら話をする。いつもとは違ったルートで通勤する。出張のついでに、今まで行ったことのない店に入ってみる。何でもよいので新しいことをやってみると、時々思いがけない発見があるという。また常に新しいことにチャレンジするという姿勢を持ち続けることが、経営者として成功する必須の条件である、というようなお話をされていた。

・あることをできるだけ毎日実行するようにしようと考えた。それは1日に30分、何もしない時間をつくろう、ということだ。仕事の時間ではない。家族との団らんの時間でもない。一人になって、ひたすら自分の仕事について考える時間だ。「いま自分は何の仕事をしているのだろうか」、「これまで1年の仕事ぶりを振り返って反省点はないのか」、「自分の周りでよい仕事をしている人の仕事ぶりで参考になることはないのか」などなど、仕事についてじっくり考える時間だ。仕事をするのではない。仕事について考えるのだ。この毎日の30分を入れたことは、私の職業人生の中で大きな転機になったような気がする。仕事に一生懸命に取り組んでいる人でも、いや仕事に真剣に取り組んでいるからこそ、意外に自分の仕事について考えていないものである。だから商売をしている人にはよくこういう話をする。「朝から晩まで店の切り盛りで大変でしょう。夜になって店を閉めると、あとはくたびれて何もしたくなくなる。でもそれではいけません。1日10分でよいので、何もしないで、自分の店の運営について考える時間をとる必要があるのです」、と。

・瞬発力はあるが持続力がないと自認している私にとって、一つのことをずっと追い続けることは苦手である。そう認めている。だから、いつも複数のことを同時に行うようにしている。読書でも1冊の本にずっと集中するのは、よほど面白い本でないと無理だ。そこで1冊の本に集中できなくなると、別の本を読むようにしている。いくつかの本を同時に読んでいると、面白い本により多くの時間を費やすようになる。結果的に、面白い本から読み終わることになる。原稿でも同じだ。一つの原稿を一気に仕上げるというよりは同時にいくつかの原稿を進めている。本でも最初から最後まで1冊に集中して書くというよりも、何冊もの仕事を同時に少しずつ進めていくようにしている。

・経営者の方を前にお話しするとき、私はよく次のようなことを言う。「競争が激しいときに、企業が生き残る方法は三つしかありません。この三つのどれかをしない限り競争に敗れることになってしまいます」、と。三つの方法の一つはもっと頑張ることである。日本の企業はこれまで同質競争の中で頑張ってきた。ただ、もっと頑張ることは大切だが、同質競争の中で疲弊することでよいのか考えてみる必要がある。生き残りの第二の方法は、競争相手を消滅させてしまうことだ。企業経営でいえばM&Aがその典型である。昨日までの競争相手でも、合併してしまえば明日からは仲間になる。M&Aは重要な手法であるが、しかし、どの企業でも利用可能というものではない。結局、私が一番言いたかったのは第三の方法であるのだ。それが差別化だ。競争相手との違いを出していくことで、厳しい競争の中でも生き残ることができる。いかに違いを出すのか、これを企業は真剣に考えるべきである。差別化できない企業は生き残れない。それぐらいに考えた方がよい。以上で述べた経営の原則は、企業だけでなく、私たち個々人についても言えるだろう。職業人生を歩む中で自分の価値を高めていくためには、人にはないような何か特徴的なもの持つようにすることが非常に重要であると思う。

・異質なものを組み合わせることは重要だ。異質なものが組み合わされるからこそ、そこにシナジーが生まれる。日本の経済問題を議論するのに、皆が同じような新聞や資料を同じように読んで議論したのでは、つまらない議論しか出てこない。だから海外の論調は重要である。海外の論調が正しいとは言わない。ただ、私たちが通常慣れ親しんでいる考え方とは異質の考え方に接することが重要である。

・捨て去る勇気があるほど、すぐに処理しなければならない案件の数は減る。それだけ、その案件についてはすぐに処理できるようになる。多くの人が利用している方法に、to do listというものがある。今日中に片づけなければいけないタスクだ。ある米国の著名な経営者は、すぐに対応しなければならない項目をいつも3つだけリストアップして、それから実行するようにしているそうだ。超多忙な経営者である。日々の雑務や様々な予期せぬ動きに対応することで優先順位を間違えることもあるのだろう。それを防ぐためにも、すぐに対応する3つを常に意識しているということだ。

・このto do listについては、モルガン・スタンレー証券のロバート・フェルドマン氏が書いている方法が有効で、私もそれを利用している。私のパソコンのto do listには、処理しなければならない案件が次々に入ってくる。非常に重要なものから、時間がっかるものまで実に雑多なリストである。1日1度はそのリストを見て、1から10の点数をつけるのだ。高い点数ほど、緊急性が高いということだ。この点数をつけるのはものの1分もあればできる。そして点数の高い項目から優先して実行するようにしている。

・行動経済学の示唆で、仕事を進める上でもう一つの重要な鍵となるのは、コミットメントということだ。それは自分も仕事にある種のルールを設定するということだ。私の同僚でジムに行って運動をすることを大切にしている人がいた。健康を維持するためにそう考えたのだろう。スケジュールに重要な案件をまず入れてしまうというのは、コミットメントとしての基本である。1年前から夏の休暇を決めてしまい、その予定は絶対変えないということを大切にしている友人がいた。クリステンセン氏の場合は、日曜日は絶対に仕事を入れないということを一生のルールにしていた。1週間のうち半日でも1日でも何も予定を入れずに、その時間にまとめて読書をするという友人もいた。一日一冊という読書ルールなどもコミットメントであろう。あまりに厳しいルールを設定してコミットしようとしてもなかなか実行は難しい。ただ、守れる範囲でのコミットメントは、長期的に見るとその成果はきわめて大きいはずだ。「毎日一つ新しいことをやってみる」というコジマの小島勝平氏の方法も、コミットメントということになる。

・現場を見るということは、私にとって欠くことのできない作業であり、これなしには現在の私はありえないと考えてい。現場には書籍では得難い貴重な情報が詰まっている。それも非常にインパクトのある形で存在している。きちっとした問題意識さえ持っていれば、その現場の情報の価値が良くわかる。

・現場に行くことh大切だ。ただ、できれば一人ではなく専門家と一緒に行くのが望ましい。私は自動車や繊維などの工場に見学に行くことも多い。その場合でも、一人で行くより、東大の同僚の藤本隆宏教授のような製造業の研究のプロと一緒に回ったときの方がはるかに得るものが多い。プロは現場を見るこつを知っているものだ。その知恵は最大限に活用する必要がある。

・現場を見に行くときは、そこに必ず現場の担当者がいる。小売店であれば店長や仕入れのバイヤーであり、工場であればエンジニアである。そうした担当者の話には大変な価値がある。なぜなら、担当者は自分がこだわっていることに力点を置いて話そうとするからだ。そこには重要なポイントが集約化されている。

・伊勢丹の新宿店は色を戦略的に利用しているという。1年間を10以上の期間に分け、それぞれの期間の基本色を設定するという。たとえば秋のある季節は紅葉の色を基本色としたとする。顧客の動線を考え、主要な動線の全面にその色に近い商品を並べるようにするという。新宿通りの正面から入って行く売場の通路沿いのマネキンにはそのような色の服が意識的に出ているのだ。

・経済というのは変化の連続である。その変化の渦中にいる人には、時としてその変化の方向が見えていないことがある。これまでの経験や知識を前提に考えるので、変化の本質を見極めることができない。外部からその変化を見る人は、より大きな視点からそれを見ることができる。経済学者も外部から変化を見る人の一人である。外部から見るので、その道のプロの目ではないが、内部にいる人の見えないことで見えるものがあるものだ。どんな業界の人にも言えることだが外からのアドバイス、コメント、批判の声には、常に耳を傾ける必要がある。たとえそれがプロではない人の声でもだ。

・プロから直接話を聞くことは、最高の情報収集である。自分の頭を鍛えることにもつながる。しかし、プロの議論を鵜呑みにしてはいけない。自分の直感や疑問を大切にしなくてはいけない。プロが向きになって「素人はわかっていない」というときにこそ、プロにも見えていない大きな変化が起きている可能性があるのだ。

・自動車業界の現場のことであれば、自動車業界の方が一番よく知っている。自動車業界についての分析を我々から聞きたいとは考えていないだろう。しかし、自動車業界の多くの方は、自分の業界のことしか見ていんことが多い。小売業界や家電業界など、他の業界で起きている動きについての話を聞けば、得るところは大きいのかもしれない。業界は違っても、直面する問題には似たようなところがある。

・人間はつねに自分の周りの人を参考にす。あるいは自分の周りに目標にする人を探すものだ。いろいろな生徒が雑多にあふれている教室は、そうしたロールモデルの宝庫なのである。刺激であふれている。こう言っては申し訳ないが、先生がどんなに頑張っても同級生にはかなわないのだ。誤解してほしくないが、1クラスの学生数を単純に増やせばよいと言っているわけではない。大切なことは、教室を同級生による刺激あふれる場にすることなのだ。優れた教師が目の届く少人数の「優れた」環境で質の高い教育をするということが、もっとも重要なことのように考えられがちだ。しかし、そうした上から目線の教育観を一度疑ってみることも必要な気がする。

・小宮先生で忘れられないのは、いつも教員談話室や昼食の場で、今の自分の関心のある経済現象について熱心に語っておられる姿だ。ときには耳にたこができるほど、何度も同じような話を聞いたことがある。しばらくして気づくことがあるが、そうした会話で話されていたことが、いつの間にか文章になっている。雑誌の原稿の一部であったり、本や論文の中に入ることもある。先生は周りの人に向かって話をするこおで自分の頭を整理しているのだ。もちろんそれに対して反論や批判があれば、それでさらに深く考えるということになるだろう。人の前で話をするということは、自分の頭を整理する上でも絶好の機会である。読む→書く→話すというサイクルは、私の知的作業の中でも重要な手法となっている。

良かった本まとめ(2015年下半期)

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東京の日本橋高島屋8Fにある特別食堂はとてもオススメ!

2016年04月13日 01時00分00秒 | 外食
「鬼平犯科帳」などで有名な小説家の池波正太郎氏は、その著書である「銀座日記」というエッセイに東京の日本橋高島屋にある「野田岩」というウナギ屋によく行っていることが書かれていたので、思い切って行ってみました♪

目指す野田岩は、日本橋高島屋の8Fの特別食堂にありました。


↑特別食堂入口

特別って何だろうと思いながら特別食堂に入ってみましたが、入口には大きなワインセラーがあり、そして室内に入るとかなり高級感あふれ、しかも客層がお金持ちばかりのようで、お金持ちオーラがたくさん出ているのには驚きましたね^_^;)
着ている服の質が違うし、みんな笑顔で和やかに優雅に食事をしています^_^)
メニューを見ると、確かにどれも高価なものばかりです。
しかも、帝国ホテル(洋食)、五代目野田岩(うなぎ)、大和屋 三玄(和食)から選べるとは驚きました!
それぞれのお店のフロアがあるのかと思っていましたが、一つの大きなフロアでこの3つの店の食事をすることができるとのことです。
ショッピングモールで言うと、フードコートですね^_^;)
これは大人数の家族で来ても、それぞれ好きな洋食や和食、うなぎから選べるので、店の選択で悩む必要がありませんね!
素晴らしい!
現に、となりの席の二人の女性は、帝国ホテルのクラブサンドと五代目野田岩のうなぎを食べていました^_^;)
普通の店ではあり得ない異色な光景ですね・・・。
また、これらのお店のいい意味での競争になって、このフードコートは味などの相乗効果が得られそうで良いと思いましたね。

さっそく、メニューを見ますが3店舗分あるのでかなりページ数が多いです。


↑帝国ホテルメニュー


↑帝国ホテルメニュー


↑帝国ホテルメニュー


↑帝国ホテルメニュー


↑五代目野田岩メニュー


↑五代目野田岩メニュー


↑大和屋 三玄メニュー


↑大和屋 三玄メニュー

今回は、ウナギを食べるために来たので、「うなぎ重・梅」3780円を注文します。

すぐにお茶が運ばれます。
待っている間にもお茶が運ばれてきて、さすがホスピタリティが高いですね。
さすが特別食堂です^_^;)

そして「うなぎ重・梅」が運ばれます。
山椒をかけて、さっそくうなぎを食べてみます♪


↑うな重


身が想像以上に柔らかくて、タレは薄味でしょうか。
ホカホカで甘く、そしてとても柔らかくてうなぎが美味しい!
さすが、野田岩ですね。
想像以上の美味しさです。
そして、肝吸いもアツアツで美味しい。
それから驚いたのは、口直しに綺麗に丸く皿に盛られた大根おろしです!
うなぎに大根おろしとは初めてですが、口の中ががさっぱりして、それはそれで大根おろしはとても良いですね!
さすが五代目野田岩です!

東京の日本橋高島屋8Fの特別食堂は、洋食や和食、うなぎの中から、上質なゆったりとした室内で美味しく頂け、とてもオススメですね!

美味しかったものまとめ(2015年下半期)

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野田岩 日本橋高島屋特別食堂うなぎ / 日本橋駅茅場町駅宝町駅
夜総合点★★★★ 4.1

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東海道五十三次 街道をゆく 畑宿~箱根峠 (1)畑宿~甘酒茶屋

2016年04月11日 01時00分00秒 | イベント・外出
 阪急交通社が企画する「東海道五十三次 街道をゆく」の第10回目の畑宿~箱根峠 (1)畑宿~甘酒茶屋について紹介したいと思います。

 早いもので、「東海道五十三次 街道をゆく」は10回目の参加となりましたが、このツアーは全29回なのでまだ1/3で、宿としては箱根宿は江戸の日本橋から10番目なのでまだまだ約1/5ほどの行程です。
京都までは、まだまだ随分遠いですね^_^)

いつものように、出発地点で準備体操をして出発します。
今回も東京駅を7:30に貸し切りバスで出発し、途中で蛯名サービスエリアで休憩をして9:30頃に畑宿を出発となります。

前回と同じように江戸時代に造られた石畳を歩きます。
雨の日でもぬかるまないのでこれは良いですね。
この日は途中から雨となりましたが、石の上はさすがにぬかるまずに済みます♪


↑石畳の道を出発

そしてすぐに畑宿一里塚がありました。


↑畑宿一里塚

この一里塚は江戸の日本橋から23番目なので、約92kmとなります。
この一里塚跡は、発掘調査と文献調査の結果を基に復元整備を行ったようです。


↑畑宿一里塚の説明

そして石畳を歩きます。
ちなみに、小田原宿から箱根峠までの東坂には現在7地点、3.3kmにわたって石畳が残っているようです。


↑石畳

しばらく歩くと樫木坂の案内がありました♪
「東海道名所日記」には、この樫木坂が道中一番の難所だったようで、この坂を越えるのは苦しくて、どんぐりほどの大きさの涙がこぼれたようです^_^;)
確かに、この辺りから汗が出てきたので、みんな上着を脱ぎます^_^;)


↑樫木坂の説明


↑当時からある樫木坂の石碑

それから、「雲助(くもすけ)」の説明があったのは面白かったですね。
「雲助」というのは問屋場で働く人足のことですが、力が非常に強いことと、荷造りが優れていることというのは想像できますが、歌を歌うのが上手くないと一流の雲助とは言えなかったとは面白いです。
当時も旅人を楽しませなければならなかったんですね。
そういえば、柳川の船頭も歌は上手かったし、バスガイドさんも上手いですよね^_^)


↑雲助の説明

そのまま石畳の山道を歩きますが、なかなか風情があって良いです♪


↑石畳の山道

そして、「猿滑坂」の案内がありました。
猿といえどもたやすく登れなかったようで、当時はかなり難所だったようですね。
この辺りから雨が本格的に降ってきたのでカッパを着て歩きます^_^;)
暑い・・・


↑猿滑坂の案内


↑猿滑坂の石碑

それから、石畳の説明は随所にあるのですが、この案内では1923年の関東大震災や1930年の北伊豆地震で実は石畳の大半が崩壊、埋没していたということが分かりました。
地震の被害は建物だけではないんですね。


↑石畳歩道の案内

それから「追込坂」を過ぎると嬉しい甘酒茶屋があったようです。
なので、追込坂なんですね♪


↑追込坂の案内

何と、甘酒茶屋は1軒今でも残っており、カツラをかぶり町娘の格好をした女性が元気に温かく迎えてくれたのは嬉しかったです♪
しかも、無料で甘酒を振る舞ってくれる!!
坂道で疲れた身体を、温かい甘酒が癒してくれます・・・。
これは本当に元気が出ますね!
冷たい雨で体が冷えていましたし、これは嬉しいサービスです♪
当時もこの甘酒は有り難かったのだなぁと思いましたね^_^)


↑町娘


↑甘酒


↑甘酒茶屋

現在もこの甘酒茶屋では、無添加の甘酒と力餅が名物のようです。
また、この甘酒茶屋では赤穂浪士の一人である神崎与五郎が馬子の丑五郎にいいがかりをつけられますが、大事の前の小事と詫証文を書いたと伝えられているようです。
忠臣蔵ファンには嬉しい甘酒茶屋ですね。
この辺りには4軒甘酒茶屋があったようですが、現在はこの1軒のみ残っているとのことです。
なお、箱根地域には9か所に甘酒茶屋があったようです。
1880年に国道1号が開通してからは街道を歩く人々が減少し甘酒茶屋もなくなったようです。
時代の変化に対応することは大切ですね♪


↑甘酒茶屋の説明

次は(2)白水坂~関所です。

お勧めなお話(2015年下半期)

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「千年企業の大逆転(野村進)」という本はとてもオススメ!

2016年04月08日 01時00分00秒 | 
「千年企業の大逆転」の購入はコチラ

 「千年企業の大逆転」という本は、有名な会社ではありませんが100年も200年も続いている会社で、倒産寸前の崖っぷちから劇的なV字回復をなしとげ、本業の核となるものは変えず、時代に適応しながら業態を柔軟に変化させてきた以下の5社について解説したものです。

・近江屋ロープ株式会社
・ヤシマ工業株式会社
・新田ゼラチン株式会社
・テイボー株式会社
・三笠産業株式会社
※DOWAホールディングス株式会社

 なお、DOWAホールディングス株式会社については、この会社も倒産寸前のどん底からよみがえってきた企業であることから、その立役者の吉川廣和会長との対談も巻末に掲載されています。

そのほか以下についても書かれていてとても興味深かったですね。

・近江商人
・京都の老舗の歴史との関わり
・京都が老舗企業率が最も高い
・日本が老舗大国の理由
・経営者と信仰
・老舗の本業力
・巨大団地の減築が再生のポイント
・各国の立て替えサイクル年数
・創業以来危機となった出来事
・外断熱による省エネと長持ち
・大倉財閥
・老舗企業のお化けと思われる素材
・老舗企業の倫理感
・静岡の浜松界隈の世界規模メーカー
・織機の技術革新
・創業者の気質や考え方等の製品への集約
・血族は一般の従業員以上に働かせること
・一族経営の長所と短所
・権限委譲で人を育てる

 会社を永続的に続けるには、本業の核となるものは変えず、しかしながらも時代に適応しながら業態を柔軟に変化させることが大切で、国としては戦争状態をなくすというのもポイントだと思いました。

「千年企業の大逆転」という本は、永続的に会社を続けるポイントが分かるだけでなく、歴史の勉強にもなりとてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・近江商人に対しては、けちでこすっからいとの陰口もきかれるが、その商売への、堅実にして粘り強く、かつ積極果敢な姿勢は現在の伊藤忠商事や丸紅、西武およびセゾンの両グループ、ワコールといった世界的な企業へと大成する商家をいくつも生み出した。近江商人の商道徳をひとことであらわす言葉として、「売り手より、買い手よし、世間よし」の”三方よし”が、つとに知られる。

・近江屋ロープは新撰組とは商売での関わりもあり、「御用の縄」を納めていたという。彼らが捕らえた尊王派の志士たちを縛り上げる捕縄のことだ。代金を踏み倒される場合がほとんどだったらしく、「とにかく新撰組はこわかったという話だわ」と祖母は眉をひそめたものである。こんなふうに歴史上の人物や出来事が、一家のエピソードとして語られるのが、京都の老舗ならではのおもしろさだ。別の例を二つだけあげよう。1160年創業の「通圓」という宇治茶の老舗では、初代が平家との合戦で、主君の源頼政とともに討ち死にをとげている。七代目は、「一休さん」こと一休和尚と親しく、八代目は、銀閣寺を建てた足利義政の茶坊主(本来の意味での茶職)であった。いまに残る家宝は、豊臣秀吉が千利休につくらせた、茶道の水汲み用の釣瓶である。また、「永楽屋」という400年続く織物商は、織田信長の軍にいた先祖が出陣のおり、よろいの下に着た直垂の「永楽通宝」の紋から屋号をとっている。京都を訪れた読者なら、きっと近江屋ロープの麻にふれたことがあるはずだ。えっ、思いあたらない?では清水寺の舞台で、正面入り口の上からぶらさがっている太い綱をゆらして、鈴をじゃらじゃら鳴らしたことはありませんか。正式には「鐘の緒」という、あの麻の綱を代々製造してきたのが、近江屋ロープなのである。

・ご存じのように、戦中、京都は空襲を免れた。なにせ、京都のお年寄りが「こないだの戦争」といえば、室町時代の「応仁の乱」を指すといった逸話がまことしやかに語られる土地柄である。このことと、京都が「老舗企業率」で日本のトップに立つ現実とは、まったく無縁ではない。それどころか、日本にはなぜこんなにたくさん老舗があるのかという理由の核心にまで、大いに関わってくる。日本は、文句なしに「世界一の老舗大国」なのである。たとえば、近江屋ロープのような創業から200年を超えて続く企業が、各国にどれくらいあると思われるだろうか。実践経営学の調査によれば、韓国を含む朝鮮半島はゼロ、つまり一社もない。古代文明と長い歴史を誇る中国・インドでも、中国が6、インドが3といずれも一桁である。では日本はどうか。なんと3千社にものぼるのだ。日本に次ぐのがどいつだが、およそ800社で日本の4分の1程度にすぎない。別のデータもある。後藤俊夫著「三代、100年潰れない会社のルール」によると、業歴200年以上の会社は、日本・3113、ドイツ・1563、中国・64となっている。データベースの違いによるのだろうが、いずれにせよ、200年以上の老舗が日本に最も集中している点に変わりはない。韓国にそれが皆無である事実は、韓国銀行が2008年にまとめた報告書でも認めている。次に100年以上の国内老舗企業の数に関しては、帝国データバンクが26144社(2013年)、東京商工リサーチが27441社(2012年)と発表している。しかも驚くべきことに、この数は年を追って増えてきた。つい見落とされがちだが、豆腐屋、銭湯、薬局、和菓子屋、旅館、呉服屋といった、どこにでもありそうな店の中にも、創業100年以上の老舗が息づいている。このような株式会社化されていない個人商店なども含めると、業歴100年以上の老舗は10万軒を超えると推計する専門家もいる。500年以上は、帝国データバンクが39社(2010年)、東京商工リサーチが158社(2012年)と、かなりの差があるが、担当者によれば、前者は相当しぼりこんだ数字とのことであった。千年以上のいわば”超老舗”となると、さすがに減って6社を数えるのみ。だが、100年以上、200年以上、500年以上、千年以上のいずれの指標で見ても、日本の老舗の数はずばぬけているのである。

・いったいどうして日本は世界一の老舗大国になれたのか。その一番の理由は、日本が事実上、長期にわたって侵略されたことも内線にみまわれたことも、ただの一度さえなかったためと私は考えている。鎌倉時代の元こうは、二度とも水際で撃退した。先の大戦に敗れ、連合国軍に占領されたが、あれは世界史で一般に定義される「侵略」とはいえない。また「内戦」とは、異民族や同じ民族でも党派・宗派の異なるグループが、国土の大半を戦場にして血で血を洗うような殺しあいをくりひろげることだ。最近ではイラクとシリアに国内紛争が、その典型である。日本の戦国時代や幕末の勤王・佐幕の争いは、私見では「局地戦」にすgない。世界中の老舗を調べていて、はたと気づいたことがある。被侵略や内戦の期間が長ければ長いほど、その国に老舗は残らない。逆もまた真なりで、老舗の数は、被侵略・内戦の期間に反比例して少なくなる。

・老舗企業のトップは京都だが、最下位は沖縄である。帝国データバンクが2008年に発表した「伸びる老舗、変わる老舗」と題するぶあついレポートによれば、沖縄には業歴100年以上の企業がたった9社しかない。そのうちの6社は泡盛の蔵元である。老舗企業率でいうと、沖縄は京都の1/44にも及ばない。企業数でも京都は876、第一位の東京は1646だから、なおさら沖縄の「9」という数字の特異さがきわだつ。その背後にある戦禍のすさまじさに、言葉を失うほかはない。老舗の最大の敵-それはまぎれもなく戦争である。

・昔から、経営者と信仰とは切ってもきれないつながりがある。”経営の神様”松下幸之助は、天理教の影響を深く受けていた。京セラを一から優良企業に育てあげ、日本航空の再建にもあたった稲盛和夫は、谷口雅春が創設した「生長の家」に一時期、足げく通い、のちに60代半ばになって臨済宗の寺で得度をうけている。変わり種では、西武鉄道グループのオーナーだった堤義明が、9つの頭を持つとされる九頭竜をたてまつった九頭竜大明神の信者である。スタジオジブリの現・社長やヤマダ電機の前・社長は、いずれも創価大学の出身で、池田大作・創価学会名誉会長への敬慕の念を隠さない。老舗企業のオーナーには、私が知るかぎりでも、神道のさまざまな神々をあがめる人が多い。経営者は、かくも孤独なのだ。そう言ってしまうと所詮ひとごとになるので、我が身におきかえてみたい。野々村さんを10年以上にもわたって苛んだ蟻地獄のような経営危機に、もし私が直面し、自力だけで立ち向かい持ちこたえられるかと問われれば、私は首を横に振らざるをえない。それが新興宗教で何であれ(カルトは論外だが)、苦難や窮状から人を救い、周囲を害せず、ともに前を向いて進ませる心の支えとなっているなら、斜に構えた第三者がとやかく言う筋合いのものではなかろう。これは、その教団に対する世間一般の評価とは、まったく別の問題である。とはいえ、野々村さんが尊敬する女性指導者の教団が、悪評紛々というわけでは決してなく、その信奉者には大企業の経営者や有名芸能人も名を連ねている。

・バブル期の雇用人数はほぼ維持したままで、卸売りから製造業へと業態を成功裏に変えられた老舗などというものはめったにない。「見捨てないでください」と必死に訴えてきたベテラン社員ら全社員をひとりも見捨てなかったからこそ、近江屋ロープは世間から見捨てられずにすんだともいえるのである。こういう力を、老舗の「本業力」と私は呼んでいる。代々家業としてきた本業を守り、かりに新たなビジネスを手がけるにしても、本業の”レール”の延長線上からは決してはずれない。この本業力こそ、つぶれない老舗の共通点のひとつなのである。

・知っている人にはどうということもない話だろうが、知らなかった私は心底驚いた。いやもう「減築」というやり方に、びっくりしてしまったのである。繰り返すけれど「減築」であって、「建築」ではない。たとえば、目の前に、1970年代に建てられた巨大団地があるとしよう。6階建てで、屋上に物干し場がある。にもかかわらず、エレベーターはない。売り出し当時は、抽選でもめったに当たらない人気物件だったが、一戸建てへの引っ越しや少子高齢化で世帯数が減り、いまや空き部屋ばかりが目立つ。これを「減築」すると、どうなるだろうか。かりに、ひとつの階に50室あり、「1」から「50」までの番号がふられているとする。一階は「101」から「150」まで、6階は「601」から「650」までといった具合にである。このうちのちょうど真ん中にあたる、「21」から「30」までの部屋を、思い切って全部とりはらってしまうのである。団地をケーキにたとえると、屋上からナイフを入れ、一番下までいっきに刃をおろす。一棟の幅広の団地から、あいだをそっくり抜き、壁と壁とを切り離して、建物を二つに分けるのである。そのうえで、おのおのの棟に三角屋根をつくる。最新のエレベーターを設置する。バルコニーもつけ、外壁は明るい色に塗りかえる。もう、かつての古びた巨大団地の面影はない。新築の高級マンションかと見まがうような集合住宅が、眼前にあらわれる。まるで大がかりなマジックの実演を見せられたようではないか。この工法を「減築」といい、実際に、ドイツの旧東ドイツ地区で持てあまされていた巨大団地は、これでよみがえった。若い世代の入居者が増え、保育園が4軒できた。少子高齢化の問題をかかえる欧米諸国や日本からは、視察団が引きも切らずおとずれるという。

・二つのデータからあらためてはっきりするのは、私たちの暮らしに住宅費がどれほど重くのしかかり、とりわけローン金利の支払いがいかに大きな負担となっているか、その理不尽な実態である。身も蓋もない言い方をすれば、マンションをローンで買うと、金融機関や住宅関連業界にむしり放題にむしりとられる。おまけに、そのまま何もしなければ、資産価値は目減りする一方で、転売も難しい。夢に見たマイホームのせいで、泣きっ面に蜂のようなありさまに成り果ててしまうのである。そうまでして手に入れたマンションも、6戸に1戸は、1981年に定め得た現在の耐震基準の前に建てられたものだ。国土交通省の推計では、およそ106万戸を数え、うち3割が築40年を超えている。いまから10年後、このような築40年超のマンションは100万戸以上に激増する。東日本大震災以降、耐震基準への国民の目は、俄然厳しくなった。ことに1981年以前の建築物では、居住民のあいだから、次の大地震に対する不安の声があがっている。人口の4人に一人が分譲マンションで暮らす東京都では、耐震診断の義務化が条例で課せられた。

・ヤシマの試算では、築30年・全50戸のマンションを立て替えた場合、総計で12億6千万円かかり、一戸あたりの費用は2520万円となるが、改修なら総計1億2500万円、一戸あたり250万円で済む。他のデータでも、改修なら立て替えの8分の1から12分の1程度の金額が相場だ。立て替えよりも改修のほうが現実的かつ合理的な選択であることは、だれの目にも明らかだろう。築30年や築40年のマンションを改修して、欲を言えば、築100年を超えても住み続けるのが理想ではあろう。

・「住環境の機能が、住んでる人の暮らしと合わなくなったから、壊して建て替える。これはわかるんです。やむをえない。でも、日本は、住民のためじゃなくて、建築業界のために壊しているように見えるんですよ。これはおかしいじゃないですか」独立行政法人建築研究所による各国での建て替えサイクル年数を見ても、イギリスの131.2年、フランスの85.6年、アメリカの74.1年と比べ、日本は38年とあきれるほど短い。

・帝国データバンクの「伸びる老舗、変わる老舗」によると、アンケートに回答した814社のうち、「創業以来の危機となった出来事・事件」に「戦争」をあげた老舗企業が最も多く、278社で全体の34.2%を占める。3社に1社が「戦争」と答えたのである。やはり、老舗の最大の敵は戦争にほかならない。次が「主力商品の売り上げ激減」で27.5%、さらに「資金繰り」21.4%、「災害」19.2%と続く。

・「今までのような内断熱では、冬に暖房のスイッチを入れると、室内はすぐ暖かくなるんですけど、周りのコンクリートは冷えたままなので、スイッチを切るとまたすぐに寒くなっちゃう。それでエアコンをフル回転させるから、エネルギーのロスがものすごく大きい。外断熱なら、そういうロスが少なくてすむわけです」-省エネ対策になる?「ええ。外断熱化や、窓ガラスを「ペアガラス」という複層ガラスに変えることで、暖房費が年間4割以上も減らせます。これは経済産業省の試算ですけど、太陽光パネルや電気自動車よりも省エネに一番貢献するのは、建築物の省エネなんですね。外断熱のポテンシャルは実際、ものすごく大きいんですよ。それなのに、中古集合住宅への外断熱って日本ではほとんどおこなわれてきませんでした」-なぜですか?「技術的に非常に難しかった。実は20年くらい前に、我々も外断熱に一度挑戦して失敗しているんです。また、古い建物を耐震改修すると、見た目が非常にゴツくなってしまうのも問題でした」ーどのように技術的な問題をクリアしたのですか?「たとえば外壁がタイルなら、全体に網タイツのようなネットをかぶせ、その上にポリスチレンフォームの断熱材を接着剤で張り付けていく工法です。外から覆うので、建物は冷えません。以前なら古いタイル張りのマンションを改修しようとしたら、タイルを全部張り替えるしか方法がありませんでした。でもポリスチレンフォームなら表面の仕上げがいろいろできるので、ゴツくならずセンスよく仕上げられるようになったんです」-新築じゃなくても外断熱の工事が可能になった?「ええ、改修でも外断熱はできます。海外の高級ホテルでは、改修の際、外断熱にするところが増えています。外断熱に限らず、ビルを改修してエネルギー効率を高めるのは、世界的な趨勢なんですよ。ニューヨークのエンパイアステートビルなんか、省エネ改修工事で熱効率が30%もアップし、建物の資産価値も高くなって、テナント料が2倍になったそうです」アメリカではこのところ、建物の断熱性に厳しい目が向けられているという。建物の断熱性を調べるために、夜間、ヘリコプターを巡回させている自治体もある。上空から、一軒一軒に赤外線カメラを照射して、断熱性が悪い家屋には、あとでドアに”バッドマーク”のシールをベタベタと貼っていく。その結果、ある街では省エネ率が3割も向上したとか。「そこまでやるか」と言いたくなるが、外断熱化を勧めるもう一つの決定的な理由がある。それは建物を長持ちさせられるからだ。外断熱化の結果、コンクリートが気温の変動によって伸びたり縮んだりしにくくなるため、コンクリートのひび割れや、外壁タイルの剥落などもかなり防げるようになる。こうして建物の寿命を大幅に伸ばせるのである。

・”富国強兵”の時節柄、軍靴の需要は、うなぎのぼりに高まっていた。西郷隆盛の西南の役や日清・日露の両戦争で巨利を得た大倉組は、やがて「大倉財閥」と称されるまでにのしあがる。創業者の大倉喜八郎は、そもそも鳥羽伏見の戦いで明治新政府軍と旧幕府軍の双方に鉄砲を売ってボロ儲けをしたといわれ、陰では”死の商人”呼ばわりされていた。その反面、鹿鳴館や帝国ホテルの建設時には、立役者のひとりともなった。大倉組の土木部は現在「大成建設」になり、軍靴製造所のほうは靴の有名ブランド「リーガル」と名前を変えている。

・老舗企業の成否は、自社が連綿と受け継いできた素材を「お化け」と思えるかどうかにかかっている。数多くの老舗企業を取材してきた私は、そう断言してもさしつかえないのではないかと考えるようになっている。典型的な例を3つ挙げよう。四国の香川で安政元年(1854年)から続いてきた「勇心酒造」という醸造元では、もう清酒そのものからの利益は全体の1%にも満たない。だが、米の発酵技術を活かして、アトピー性皮膚炎や胃潰瘍の症状の改善が副作用なしに「期待される」液剤を開発したり、皮膚そのものを健やかにして肌を潤わせる素材を大手化粧品メーカーに提供したりしている。そのかたわら、清酒づくりも断じてやめない。そこに自社の原点があると確信しているためだ。発酵した米が、この老舗企業のお化けなのである。神奈川の「セラリカNODA」にとって、それはロウである。天保年間の1832年に九州・福岡で創業して以来、江戸末期から明治・大正を経て昭和40年代に至るまで、ハゼの実からとれるこの会社のロウは、整髪料と切っても切れない間柄にあった。当初は鬢付油として、のちにはポマードとして、ロウがそこに加えられないことなど想像もできなかった。それが、リキッドやトニックといった液体整髪料の登場で、行き場を失う。会社は倒産寸前にまで追い込まれたが、ロウへの信頼はゆるがなかった。コピー機やファクシミリ機のトナーにロウを入れ、その特質を活かして、すぐ乾き、こすれにくくにじみにくいクリアな印字を実現させたのである。さらに、「マーブルチョコレート」のようなお菓子のコーティングや、フローリングの床を這い這いする赤ちゃんがなめても安心なワックスなどさまざまな製品に、ロウを浸透させていった。最後にあげる例は、「筆ぺん」の発明で知られる奈良の「呉竹」である。業歴112年は奈良の墨業界では長いとは言えないが、伝統工法で墨を手作りするかたわら、墨とは無関係のように見える新製品を次々と世に送り出してきた。夜道を歩いていて、気づかれたことがあるに違いない。路面でくるくると回転しているように光あの「道路錨」も、呉竹が生んだ傑作だ。あれは何も、電線から電気を引いて光っているわけではない。太陽電池が生み出した電気をいったん蓄電池にたくわえ、そこから配線しているため、電線がなくても光るのである。この蓄電池に、独自の炭素微粒子分散技術によって開発された塗料が使われている。「融雪剤」という、ゴルフ場に雪が降ったとき、早くきれいに雪を消し去る製品もそうだ。原理は、雪だるまの目のところに炭団を入れると、太陽の熱を吸収して溶けやすくなるのと一緒である。炭素を非常に細かく砕いて着色力をあげれば、少量の融雪剤でも、広範囲の雪を溶かせるのである。墨は炭素でできている。道路鋲も融雪剤も言ってみれば、”炭素つながり”で、この老舗企業にとってのお化け素材は、つまり炭素なのである。

・新田ゼラチンの社是にある「愛と信」にはヤシマ工業の「正義の味方」に呼応するところがある。この”ベタな”感じ、気恥ずかしさと背中合わせにあるこのモットーは、老舗企業に受け継がれてきた倫理観を、現代風に言い換えたものではないか。江戸時代や明治時代に多くつくられた老舗の家訓も、同じ精神を伝えている。いわく、「信用第一」「信義を重んずべし」「和心誠心」「先義後利」「誠心誠意正直な商い」「お客様に誠実を」-。「士魂商才」という家訓もある。三越呉服店を明治末から大正にかけて躍進させた日比翁助は、「武士の魂をもって世に還元する商店」をめざせと説いた。これなど、ようするに「正義の味方」という意味ではあるまいか井原西鶴にならえば、「欲に手足の付いたるもの」の人の世ではまっとうな商いを貫いていくのは、なまなかなことではなかろう。現代に生きる老舗企業も、移り気な大衆社会の中で、わかりやすい倫理観を標榜する必要性に、たえずせまられているのである。

・かねてから気になっていた。静岡の浜松界隈からは、どうしてあんなに世界規模のメーカーが続々と出現したのか。「ホンダ」の本田宗一郎がオートバイをつくりはじめた場所が浜松である。自動車の「スズキ」も、浜松で誕生した。同じ浜名湖沿岸の湖西市は、あの”世界のトヨタ”を創業した豊田佐吉のふるさとである。楽器の「ヤマハ」も、浜松の産だ。世界最大の楽器メーカーで、オートバイの「ヤマハ」は途中で枝分かれした兄弟会社である。

・浜松近郊の出身者はこう語る。「同じ静岡でも、県庁のある静岡市のほうと、こことでは気質が全然違うんですよ。静岡市のほうは、どちらかというとコンサバ(保守的)。こっちは革新といいますか、何かをしようとするとき、頭で考えすぎないでとにかくやってみる。頭で考えていてもしょうがないから、うまくいくかどうかわからないけど、「何かやるか、じゃあやろうか」と。地元の言葉で「やらまいか」というんですけど、そういう精神を我々も持っているんじゃないか。それと基幹産業が多い。クルマのようにファンダメンタルな技術を持っているメーカーさんがたくさんあるので、技術的な問題が起きたとき周りに相談しやすいというのもあったんじゃないですか」

・「遠州」と呼ばれた江戸時代から綿作と織物業が非常に盛んで、日々工夫を凝らし切磋琢磨しているうちに、知らず知らず技術革新が繰り返される。かくして地元で懸命にしのぎを削りあっていたら、いつのまにか国内でも最高水準の技術と紡績工場を有するようになっていたというのである。この構図は、江戸の絵師たちが、いまでいうところのスターの”ブロマイド”やら”名所観光写真”やら、”無修正AV”にあたるものをせっせと描いていたところ、その大胆な構図や色彩表現、対比遠近法がどんどん洗練されていき、やがてはるかかなたのヨーロッパの画家たちに影響を及ぼし、世界的な芸術として認められたものだ。ゴッホやモネなど、浮世絵そのものを自作の中にまで描き込んでいる。ついでに言えば、江戸の浮世絵師たちをとりまとめた版元の代表格が蔦屋重三郎という人物で、映画や音楽などのレンタル・ビジネスで有名なTSUTAYAの社名の元となった。現代日本の漫画家たちにしても、週刊漫画誌での熾烈な競争に生き残るため、不眠不休で描き続けているうちに、作画の水準が途方もなく上がっていき、ふと気づいたら、彼らの漫画や劇画が世界各地で人気の”コミック”に変身していたのであった。

・一説によると、糸で織物をおる織機には、現代の機械に必要な、ありとあらゆる要素が詰め込まれていたという。明治時代、紡績工場の女工たちを悩ませていた織機の問題は、大別すると二点あった。頻繁な糸切れを、どう防ぐか。不便なよこ糸の交換を、もっと簡単に手早くできないか。この二大難問は、織機が手動から自動に変わっても、つきまとった。しかし、地道な技術革新を重ね、やっとのことで、横糸の自動交換装置をつくりだす。糸が切れたときには、機械が自動的に止まり、ただちに新しい糸を補給する仕組みも完成させた。操業中の異常や故障の検知、不良品の発生防止から、大量生産、高速運転、無人化に至るまで、そのつど必要とされた技術を現実のものとしていくにつれ、織機の性能は目を見張らせるほど向上していった。豊田佐吉の考案した自動織機がその後、国産自動車につながっていくように、織機の技術をとことんまで突き詰めていく風土のなかから、ホンダもスズキもヤマハも世界に飛び立ったのである。

・テイボーの帽子専業時代の興味深い裏話は多々あるが、ひとつだけご披露しよう。明治末、中国大陸に進出をはかって、”天国と地獄”を両方味わったことの顛末である。清の時代、「弁髪」という、欧米人からは「豚のしっぽ」などと揶揄された独特な髪型が強制されていたが、1911年の辛亥革命で中華民国ができると、今度は断髪令がくだされる。ここを商機とみたテイボーの創始者たちは中国向けの輸出にのめりこみ、会社はじまって以来の大儲けをする。ところが、革命の頓挫と、手のひらを返したような断髪令のせいで、ついには大量在庫の投げ売りや、野澤社長の辞任にまえ追い込まれてしまう。この窮地を救ったのも、海外での大事件であった。1914年に勃発した第一次世界大戦により、ヨーロッパからの高級帽子の輸入が、ぷっつり途絶えた。ヨーロッパでも品不足が深刻となり、めぐりめぐって国産がふたたび脚光を浴びて、からくも立ち直りのきっかけをつかんだのである。中国での革命騒ぎにふりまわされて倒産寸前におちいったものの、第一次世界大戦で息をふきかえしたわけだ。帽子市場の国際性を如実にあらわる一例といえよう。これを機に和製帽子の輸出が急伸し、じきに輸出高が輸入高を上回って、帽子は日本の重要な輸出品となっていく。

・テイボーでは、変わり種ではアラビア文字専用のペン先をつくったこともあるそうだ。我々から見ると至極ユニークなあの文字は、太さが均一ではなく、太いところと細いところがある。テイボーでは、両方の文字が一本のペンで書けるペン先を開発して、イスラム圏の顧客からの要望に応えたという。

・ユーザーからのリクエストを徹底的に製品化してきた末に、三笠の現在がある。それは、事実上の創業者と言ってよい二代目の孝一さんが敷いたレールの到達点でもある。このことは何も経営の全体を指しているだけではない。大阪・船場での丁稚奉公で身にしみこんだ知恵や、戦中の二等兵時代に上官の濡れた軍足を体温で乾かした姿勢が、キャップの改良にそっくり受け継がれているのである。創業者の気質や考え方、実人生での立ち居ふるまいがこれほど製品に集約されている老舗企業は滅多になかろう。孝一さんはのちに地元の町長にも二度なるのだが、選挙戦で連呼していたせりふが、なんと「あなたが主役で、わたしはしもべ」というものなのである。

・ドラッカーによれば、100年以上続く世界のファミリー企業には、いくつかの不文律がある。血族は雇っても構わない。だが、一般の従業員以上に働かせる。実際に血族を働かせてみて、将来「トップ・マネージメント」がつとまらない、つまり日本流に言えば部長以上の幹部になれないと見極めたなら、10年でやめさせる。そうしないと、一般の従業員のほうがやめていく。こうした不文律を守っているファミリー企業は存続してきたが、そうではないファミリー企業は淘汰されていった。

・「林田孝一さんは、かなり割り切って社内改革を進めると思っていましたが、現にそのとおりに進められましたね。ご自分の兄弟をご自分で処理された。現社長もいとこの方たちも処理されました。いえ、解雇したんじゃなくて、みなさん、自らやめていかれたんです」-いったい、どんな方法を用いたのですか?「現社長は、親族の方たちを一人一人呼んで、「しっかり仕事しろよ」「みんなに恥じない仕事をしろよ」と諭された。それをひとり3、4回されたようです。そう言われても、ほとんどの人が何も答えられなかった。で、自分からやめていかれた、と。そのやり方には、私も感服しまsた。とくに奈良には、神武天皇以来2600年の歴史があるのはいいんだけど、”ことなかれ主義”も非常にはびこっているんです。会社の中にも巣くっている。そこで、林田孝一さんがおやりになったことは、実にすごいことですよね」

・一族経営には概して、経営判断と事業着手の速さ、果断な実行力、長期的な経営戦略といった長所がある。その一方で、同族による経営権の独占や会社の私物化、ワンマン化、内部チェック機能やコンプライアンスの乏しさなどの短所も指摘されてきた。

・私から見ても、一族経営と非上場が、日本の老舗企業を語る際にふっけつな二大要素なのである。この両方が林原にも、そして三笠にもあてはまる。さしずめアメリカ発のマーケット至上主義者などからは、真っ先にやり玉にあげられる対象なのであろう。しかし、林原さんは逆に、一族経営で非上場を続けてきたからこそ、会社の進む方向がぶれず、長い年月をかけた研究開発が可能だったと反論した。周知の通り、一般の上場企業では、社長の任期は2年と限られている。ひとりの社長が長期間つとめる場合もあるが、2年おきに数字ではっきりとした結果を出さなければ、株主から突き上げを食らうのは必至だ。短期決戦型の悪弊に陥らないためには、株主対策も含めた気配りを多方面に向け続けていなければならない。その反面、研究開発には時間とおカネがかかる。投資に見合う成果が得られない場合もある。むしろ、その方が大多数と言ってよい。このテーマは必ずものになると確信して研究をすすめていっても、競合他社に先を越されたら、それまでに投入した時間もおカネもすべて水泡に帰してしまう。そうしたリスクも抱え込みながら、研究開発は進められる。二年おきに結果が出ないからといって、そのつど研究開発の見直しを迫られていては、到底、大きな成果は望めない。つまり、株主の声が以前に比べ格段に大きくなったいま、単なる”サラリーマン社長”では、”ハイリスク・ハイリターン”の研究開発を長期にわたって続けることなど、事実上不可能に近いのである。

・通常でも、ひとつの研究テーマを追っていると、予想外の副産物が得られる場合がある。まだ用途が見つかっていないけれど、とにかく特許は取得しておく。すると、忘れた時分になって、その特許を活かす技術が別のところでひょっこり生まれ、眠っていた特許がよみがえって、一挙に商品化が実現したりする。こうしたことも、一族経営のため社長が長年代わらず、また株主の顔色を伺わずにすむから可能だったと、林原さんは考えた。「同族経営・非上場でなければ、インターフェロンやトレハロースの世界初の量産化といった、画期的な独自の研究開発など不可能でした」林原さんは、そう断言したものだ。

・今は亡き父や叔父から受けた教えは現在「三笠スタイル」という名刺サイズのカードになって結実している。表面こそ「創意工夫」という、よくある標語だけれど、裏面を見ると「現状否定」とかなり異質だ。「批判を恐れずに現状否定しよう」「物事が上手くいっているときこそ現状否定しよう」「外部の環境変化を意識して現状否定しよう」「本質に立ち返るまで繰り返し現状否定しよう」なんでまた、ここまで現状否定を?「いまある方法が一番ええのか、つねに疑ってかないかんのやないかということなんです。もっとええ方法があるやろ、と。技術者だけやなく、全員がそういう気にならんとあかん。だから、うちは「社員全員開発」と言っているんです。「家で料理するやろ。そんとき、使い勝手がいいとか悪いとかあるやろ。それを出してほしい」と。出してくれたアイデアがよかったら、必ず報償を出しています」

・一族経営については、こう語った。「うちは、もともと家内工業で、ファミリーという形でずっときましたんで、これからは企業としてマネージメントをしっかりとしていかなあかんと思います。創業から100年が経って、次の100年に向かって、組織で動いていく。トップの決断ですべて決めていくよりも、組織一丸となって決めていく。外から新しい優秀な血も入れて、いいところをコラボしながら、さらに伸びていったら、私もわくわくするなあ、と(笑)」ここ3、4年の間に、大手の名だたる企業から十数人を中途採用で入社させたという。「衝突ですか?しっかりコミュニケーションをとってさえいれば、衝突はいいと思うんですよ。新しく来られた方々に、「そりゃ、あかん」と言っていただかないとね」そして、私がまったく思いもよらなかったことに、前任の三代目の社長から、「身内を入れても、早いうちに部長職に上がれんようなら、切らなあかん」と釘を刺されていた事実を明かした。諫言役の元・取締役が、かく首を恐れず口にしたドラッカーの一言は、二代目から三代目を通じても、しっかりと四代目に届いていたのである。私は老舗の老舗たるゆえんをここに見た気がした。

・実はDOWAの工場でも、基準を上回る排水を流出したうえ、関係各所への通報が遅れるという大失態を演じたことがあるんです。「社会に迷惑をかけない」という企業存立の大前提が崩れてしまった。このときは、直ちに自主的に操業を停止し、一ヶ月にわたって自主安全点検を実施し、厳しい社内処分で対処しました。この苦い経験から、今は外部からの工場見学はいつでも歓迎しています。当社はあらゆる工場や事業について、隠し立ては一切しない、というのを基本姿勢にしています。それは、外部からの信頼を得るためだけではなく、社内に緊張感をもたらし、不祥事の芽を断つことにもつながるからです。

・部長の権限は課長に、課長の権限は部下にと、「権限委譲で人を育てる」のがいちばん早道です。将来幹部にしたい人は、できる限り子会社や海外に出して苦労させています。以前と違って最近は左遷されたと思う人はいないですね。というのは、帰ってきた人が結構いいポストに登用されていきますから、「楽をしたら出世できないぞ」と思っているのではないでしょうか。


良かった本まとめ(2015年下半期)

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「天ぷら ふく西(横浜市みなとみらい)」のランチはとてもオススメ!

2016年04月06日 01時00分00秒 | 外食
 横浜市のみなとみらいにある横浜美術館に行く用があったので、その近くにあるグランドセントラルテラス2Fの「天ぷら ふく西」へ行ってみました!

 グランドセントラルテラスには、美味しそうな店がたくさん入っていて、以前このブログでもレオーネ マルチアーノというお店を紹介しています♪

 このグランドセントラルテラスは美味しいお店がたくさん入っていてとてもオススメですね^_^)

 「天ぷら ふく西」は店構えから綺麗で、掃除が行き届いていて清潔で、高級感が漂っています。
店内にもたくさん木が使われていて素晴らしいと思います。


↑店構え


↑店内

 右奥の席に案内されますが、隣の部屋には男性の小説家?とその女性編集者らしき方がいて、大きな声で話をしています^_^;)

ランチメニューを見て、天ぷらととろろ膳が楽しめる天とろ膳2200円を注文しました!
限定10食の江戸前穴子天丼も惹かれましたね。


↑ランチメニュー

そして、さっそくサラダと天ぷらが運ばれます。
大根おろしがたっぷりなのが嬉しい!
それにしてもすごい大根の量です^_^;)


↑サラダと天ぷら

天ぷらはさすが、サクサクとした揚げ方で素晴らしく、そして美味しいです!

そして、しばらくして天とろ丼と温泉卵、味噌汁、漬物が運ばれます。


↑天とろ丼と温泉卵、味噌汁、漬物

天とろ丼に小エビのかき揚げがたくさん入っているのが嬉しかったですね。
とろろの量もとても多く堪能できます!
ボリュームたっぷりなのが嬉しいですね!

「天ぷら ふく西」は、綺麗な空間でサクサクとした美味しい天ぷらや、ボリュームたっぷりの大根おろしやとろろ丼を楽しめ、とてもオススメです!!

またグランドセントラルテラスは美味しいお店がたくさん入っていてとてもオススメです!

美味しかったものまとめ(2015年下半期)

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ふく西天ぷら / みなとみらい駅新高島駅高島町駅

昼総合点★★★★ 4.3


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衣類スチーマー(Panasonic NI-FS310)はとてもオススメ!

2016年04月04日 01時00分00秒 | 良い物・サービス
「衣類スチーマー(Panasonic NI-FS310)」の購入はコチラ

「ハンガーにかけたままで、衣類のシワ&ニオイ取りが手軽にできる」という衣類スチーマーがあると便利だなぁと思い、さっそく「衣類スチーマー(Panasonic NI-FS310)」を購入しました♪


↑購入した衣類スチーマー

 基本的にワイシャツやハンカチ等は形態安定のものでノーアイロンで良いのですが、洗濯の後で局所的にアイロンしたい部分がよくあるので、そういう場合にこの衣類スチーマーは便利だと思います^_^)

 特に驚いたのは水を入れて、電源を入れて30秒ですぐに使えるという点です!
朝など忙しい時間で、出かける直前にちょっとだけでもすぐ使えるというのは、とても嬉しいですね!

さっそくワイシャツで実験した結果が以下の写真となります。
初めて使用した際の写真です♪
たった40秒ほどのスチームの結果です♪
慣れればもっと上手くなると思います^_^;)


↑衣類スチーマー使用前のワイシャツ


↑衣類スチーマー使用後のワイシャツ

 実際に衣類スチーマーを使用してスチームすると、その瞬間にシワが取れるせいか、元のシワがある状態をすぐ忘れてしまいます^_^;)
本当にシワが取れているのかなぁと半信半疑な感じでしたが、写真で比較すると、一目瞭然で明らかにシワが取れていますね!
すごい!

スチームは人差し指でスチームボタンを押している間、ずっとスチームが出続けます。
ワンショットではないので、これは楽で良いですね!
しかもスチームボタンは押しやすい位置にあるので操作に負担がありません^_^)
そして4分も連続でスチームができます♪

それから、この衣類スチーマーは、タバコ臭・汗臭・飲食臭・防虫剤臭を約90%脱臭し除菌もするとは素晴らしいですね!
特に嫌なタバコ臭を消せるのはとても嬉しいです♪

 帰宅後にハンガーにかけたままで、すぐにスチームでケアできるのは良いと思います。
嫌な臭いがすぐ消せますね。
また、衣類スチーマーを密着させて使用することで、除菌効果もあるようです。

Panasonicの衣類スチーマーは、電源を入れて30秒で、しかもハンガーにかけたままスチームでき、しかも脱臭や除菌もできて、とてもオススメです!!

お勧めなお話(2015年下半期)
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「勝つ投資 負けない投資(片山晃 小松原周)」という本はとてもオススメ!

2016年04月01日 01時00分00秒 | 
「勝つ投資 負けない投資」の購入はコチラ

 「勝つ投資 負けない投資」という本は、以下の二人の共著で、その経験を踏まえて個人投資家が株式投資で勝つための銘柄選別法や買い方・売り方・見分け方のポイント、ポートフォリオの組み方等について分かりやすく説明したものです。

<片山 晃>
シリウスパートナーズCEO。専門学校中退後の4年間をネットゲーム廃人として過ごした後、22歳で株式投資に出会い、投資活動を開始。2005年5月から7年半で、65万円の投資額を12億円まで増やした。2013年には運用会社レオス・キャピタルワークスに転じて機関投資家業務に従事。2014年、ベンチャー投資を行うシリウスパートナーズを設立して再独立。複数の上場企業に大株主として名を連ね、本格的な長期投資を実践している。現在の運用総額は25億円。

<小松原 周>
大手資産運用会社にてファンドマネージャー・アナリストを務める。徹底した企業リサーチと業績予想をもとに投資を行うファンダメンタリストであり、長いキャリアの中で一度も負けたことがないため「不敗の投資家」として知られる。これまでに日米通算で5000社以上の会社へ取材した経験を持つ。様々な業種業界に精通しており、経営戦略からコーポレートファイナンス、経済学、財務分析等の知識が豊富であることから、上場企業の経営者の間でも氏との面談は評価が高い。巨大ファンドを運用する現役のファンドマネージャーであり、株式市場への影響力が大きいため、氏名以外の個人情報は基本的に非公開としている。

特に以下についてはナルホドと思いましたね。

・機関投資家にも弱点がありそれは機動力のなさ。流動性に乏しい銘柄には投資できず、現金で持っておけるのは数%というルールがある。
・儲けるには自分に向いた投資を見つけ、諦めずに続けること
・変化を見つけ、疑問を持ち、想像力を働かせることが大切
・個人投資家はプロのアナリストがついていない小型株をターゲットにするのがポイント
・いつ上がるかを想定することがポイント
・日頃から常に新鮮な投資アイデアを求めること
・短期のトレードは勝率が低いので長期投資を推奨
・本物の投資家の究極の到達点はお金の価値ではなく人生の価値を知る者

 「勝つ投資 負けない投資」という本は、勝つ投資・負けない投資について分かりやすく説明があり、とてもオススメです!

以下はこの本のポイント等です。

・一般に機関投資家は大きな資金を動かします。資金力があれば勝てると考えている人もよくいますがこれは誤りで、その巨大さが時には大きな足かせとなる場合もあるのです。また、彼らは大概顧客の資産を預かって運用する立場なので、投資には透明性と説明責任が常に伴います。資産運用ビジネスには信用が何よりも大切ですから、預かった大切な資産をギャンブルのような取引で運用できないように、投資判断をするファンドマネージャーや、取引を行うトレーダーには様々なルールが課せられているのです。そのひとつが、流動性に乏しい銘柄には投資しないというものです。このような銘柄では、買うにも売るにもとても時間がかかってしまうし、その間に不測の事態が起こった場合、売るに売れないまま巻き込まれてしまいます。これではリスクが高すぎるということで、「流動性が基準に満たない銘柄への投資は避けよう」ということになるわけです。もうひとつは、「フルインベストメント」という考え方です。ほとんどの投資信託やファンドでは運用資産のうち現金で持っておけるのは数%までとルールで定められています。これは何を意味するかというと、今はあまり儲からなさそうな相場だとか、下手をすればこれから株価が下げていきそうだと運用者が思っていても、株を売って次のチャンスに備えることができないということです。

・そうして行き着いたのが、割安株への長期投資です。思えば単純なことだったのですが、1年前にはあれほど高かった株が信じられないような安さになっていました。「もしかすると、この中に今買っておけば儲かる株があるかもしれない」。もともと企業業績には関心があり、会社四季報や日経新聞を読んでいた僕は、より一層この部分に力を入れることにしました。今でもやっているすべての適時開示情報に目を通すという習慣は、この頃から始まったような気がします。こうして、今やっている小型成長株への長期投資につながる、新たな投資手法への取り組みがスタートしたのです。

・そういう地道な作業は向いていない、かといって値動きを読んでトレードで勝つほどのセンスもなさそうだという人はどうすればいいのでしょうか。答えは明瞭で、投資で大きく儲けることは諦めた方がいいです。自分に合ったやり方が見つかっていないのに、儲けたいという願望ありきで投資を続けてしまうと、儲けるどころか損を重ねるばかりで大変危険です。冷酷かもしれませんが、投資に向いていない性格の人というのは現実に存在すると思います。ただ、そういう人はスポーツやアートの分野に向いているかもしれないし、起業やビジネスで才覚を発揮すかもしれません。たまたま投資に向いていなかったというだけで、他の分野に目を向ければいいことです。

・それでもどうにかして投資で勝ちたいという人には、次の3つの選択肢が考えれます。
1 あまり適性がないことを自覚して、無理のないリターンを上げる手法を磨く
2 信頼できるプロフェッショナルを見つけ、自分のかわりに運用してもらう
3 投資で勝つために自分自身を殺し、勝てる性格に少しでも近づける

1は、大勝ちはできないが手堅くて汎用性の高い手法を取り揃え、それを効果的に使い分けていくというものです。自分でやっていないのであまり適当なことはいえないのですが、企業の純資産価値に着目したバリュー投資や、配当利回りを基準とした銘柄選択、普段はキャッシュを厚く持っておいて相場が大きく下げた時にだけ出動するやり方など、方法はいろいろあると思います。2は端的にいえば投資信託を買うやり方です。これについては多くの専門書が出ているので、敢えてここで解説はしません。3は、一番きついやり方です。なぜ多くの人が投資で負けてしまうのかというと、頭では正しいと理解していることをその通りに実行することがとても難しいからです。値動きが弱くとても上る見込みがなさそうなのに、損を確定させたくないからと含み損のまま塩漬けにしてしまうのがその典型です。理屈としてわかっていることと、それを実践できることには大きな違いがあり、これを埋めるのは容易ではないのです。ところが、トレードに向いている人はそこにためらいがありません。下がると思えば売る。損切りした株でも、また上がると思えば躊躇なく売値より高いところで買う。普通の人が「心理的」にやりにくいようなことを「合理的」に処理していけるのが、トレード適性の高い人です。反対に、長期投資においては短期的には弱々しく見える値動きでも、自分が考える将来勝ちとの差にギャップがあると思えばむしろ買い増していく勇気も必要になります。これは、弱ければ売って、強ければ買えばいいという合理的な考え方ができるトレード派の人とは相容れない感覚でしょう。自分に向いていないと思っても目指すリターンを上げるためにはその手法が必要なのだとなれば、自分自身を変革していく努力が必要になります。長期間投資をやっていれば必ずどこかで壁にぶつかるので、専業投資家になるならこの覚悟は必要不可欠といえるかもしれません。

・自分にとって最適なやり方を見つけ出すだけでも数年の時間を要する場合があります。さらにそこから、その手法を磨き上げて芽を出すまでにまた長い時間がかかるので、途中で投げ出してしまいたくなることもあるかもしれません。それでも、少しでもこの世界に興味関心を抱いて入ってきたのなら、諦めずに投資は続けて下さい。なにせ、人生はとても長いのです。おそらく僕たちが生きている間ぐらいは、株式市場がこの世界から消えて無くなることはないと思います。その間に、いろいろなことが起きるでしょう。僕が株をやって来たこの10年の間だけでも、オンライントレードブームがあり、ライブドアショックがあり、サブプライム問題とリーマン・ショックがあり、東日本大震災が起きて、欧州債務危機に揺れたと思ったら、アベノミクスと金融緩和でもう見られないと思っていた日経平均2万円を目にすることになったのです。さらに10年時計の針を巻き戻せばITバブルがあり、その10年前にはバブル崩壊がありました。この間、たった30年ほどの出来事です。僕はまだ32歳ですから、これと同じかそれ以上の時間、これからも株式市場を見ていくことになると思います。それを考えれば、いつどこにどんな機会が待っているか、あるいは投資と向き合わざるを得なくなる必要性に迫られるかわかりません。そうであれば、出会いは早い方がいいし、一度始めたものは細々とでも続けて蓄積していった方がいいと思うのです。それに、投資で身につけた知識や考え方が仕事などで思わぬ形で役立つこともあるかもしれません。少なくとも、今日この時に株式投資に関心を持ち、何かの縁で本書を手に取りこの文章を読んで下さっている時点で、まだこの世界に出会っていない人よりも何歩も先んじている。そのことは自信を持っていると僕は思います。

・僕にとっての投資とは、現在と未来の価値の間にあるギャップを埋める行為です。それは、変化に気付く力であり、それがもたらす未来を考え抜く発想力や想像力でもあります。この投資力の源泉となるのが、「疑問を持つ」ことです。会社帰りに通る道沿いの店がいつも行列を作っていれば、「この店はどうして繁盛しているのだろう・・・?」そのように、普段何気なく見過ごしている事にもふとした疑問を持つことが、投資力の源になっていきます。「いつから繁盛しているのだろうか?オープンしたのはいつ?はじめから行列の店だった?ある時から人気が出たとしたら、その前後でなにがあったのだろう?味が良くなったから?サービスが受け入れられたから?宣伝が上手く行ったから?それとも、人々の嗜好が変わったのだろうか・・・?」そうして考えながら歩いているうちに、ふと反対側の道路を見やると、新しく出来た巨大な商業施設の姿が目に飛び込んできます。「なんだ、そういうことか」。これは投資としてはガッカリのパターンですが、それでも目の前の事象に対して想像力を働かせて1つの答えを見つけられたわけですから一歩前進です。これがもし、別の駅にある他の系列店でも行列ができているとわかったら、大きな投資のチャンスになります。たまたまその時は新しく出来た商業施設の集客力のお陰だったという結末だったとしても、このように世の中に起きているあらゆる変化に対して疑問を持ち続ければ、いつか大きな流れを掴む機会が必ずやってきます。今から3年前、電車の中ではスマートフォンでゲームをする人の姿が増え始めました。チラリと画面を覗き見ると、絵合わせのようなゲームをやっている。そういえば、向こうの人も同じゲーム。さっき電車を待っている間に見た人も同じゲーム・・・あれって一体何なんだろう?そんな風に気づくことが出来ていた人は、今頃億万長者になれたかもしれないのです。

・時価総額が小さい小型株となると、プロのアナリストもついていませんし業績の一挙一動を見ている投資家の数もそれだけ減ってきます。こういった企業は普段何をやっているのか外からはなかなか見えづらいため、決算短信の内容に意外性があることが多くなります。それはすなわち、投資の機会が多くなることでもあるわけです。それに、誰でも知っているような大企業の業績がいきなり2倍になることは売上規模的になかなか難しいですが、まだ売上が数十億、数百億レベルの企業であれば、数年で業績が2倍や3倍になることは十分に起こりえます。そうした業績変化率の高さにおいても、やはり中小型株には大きな魅力があるといえます。

・投資で利益を得られる3つのパターンについて説明しておこうと思います。
1 優等生が100点満点を取り続けるパターン
2 優等生が期待はずれの点数を取ってしまうパターン
3 落第生が期待以上の点数を取るパターン
大ざっぱにいうと、株で儲けるにはこの3つのうちのどれかに当てはまる銘柄に投資をするこおです。実際には「4 落第生が赤点を取り続けるパターン」もあるのですが、これは当てたところで利益にならないので意味がありまえん。1のパターンは銘柄でいえばカルビーやエムスリー、コスモス薬品などが該当します。2桁の成長を長期間に渡って出し続ける優等生タイプで、年単位で綺麗な上昇トレンドのチャートを描くのが特徴です。本書では一貫して変化が重要だと主張していますが、これらの銘柄は常に良い決算を出し続けるため、ある意味では変化が起きていないともいえます。なので、僕が苦手としているパターンでもあります。こうした銘柄は、学校でいうところのテスト、すなわち決算で常に投資家の期待に応える満点を出すことを要求されています。既に優等生であることは誰もが知っているので、期待が織り込まれた高いPERがついていることが多いです。従って、ちょっとでもミスがあると大きな失望を買い、株価が暴落する危険性があり、投資家ははその恐怖に怯えなければなりまえん。しかし、良い結果を出し続けているのにはきちんと理由があるものです。それはビジネスの「仕組み」であり、その優位性が脅かされない限り、彼らはきちんと投資家の期待に応え続けます。なので、「割高だ、将来を織り込みすぎている」と言われたところから、さらに株価が何倍にもなっていきます。このパターンの良いところは、途中からでも上昇に乗りやすいことです。反面、短期間に急騰することもないので、大きな果実を得るにはそれだけの長い期間投資し続ける必要があります。2のパターンは、1に当てはまる銘柄が悪い決算を出した時に起こります。ずっと学年トップだった優等生が2位に転落すると、「なにかあったのかな?」と思いますよね。2位という成績自体はとてもすごいのに、なぜか心配されてしまう。株価もそんな反応を示します。このパターンで利益を得るには空売りのアイデアが必要です。ただ、その期待外れの成績が一過性のものであれば、再び1の軌道に戻ることが可能です。たまたま風邪を引いて本調子じゃなかったということは起こるでしょうし、企業業績においてもそれに近いことは起こり得ます。その場合、一時的に下がった株価が戻る過程で利益を得ることもできるでしょう。3のパターンはラオックスのように、誰も期待していなかった銘柄が思いのほか良い数字を出した時に起こります。優等生がトップから2位に転落しただけでも心配されるのと正反対で、赤点から70点になっただけでもスーパーサプライズ。周囲からは大喜びしてもらえます。このとき、株価はしばしば過激な反応を示します。それまで誰も投資していなかった銘柄に急に注目が集まるので、多くの場合は行き過ぎるし、その上昇に要する期間も短めです。短期間に大きなリターンが得られる反面、激しい値動きに耐える必要があり、乗り方次第では思わぬ損が出る可能性も覚悟しなければなりません。しかし、そうなることを事前に予想して仕込んでおければこれほど儲かる投資のチャンスはありません。

・僕が新規に投資をする時には、その株が「いつ上がるか」ということを必ず想定してから入ります。もちろん、「この株価で買っておけばいつか上がるだろう」という考え方も否定はしませんが、「勝つ投資」を目指す上ではご法度です。狙い通りの業績が出てきても、それが先ほどの3つのパターンの起点にならなければ、それも目論見が外れたうちに入ります。自分の中では「素晴らしい決算だ!やはりこの企業は期待できる」と思えても、それが他の投資家には共感されない、独りよがりな妄想である可能性ももちろんあり、その場合は株価はついてきません。そうなった時は、なぜ評価されなかったのかをよく考えて、さらに次の決算まで待つか、あるいは諦めるかの判断をします。この時、株価が含み益か否かは関係ありません。上がるはずだと思えば持ち続ければいいし、やっぱり違ったかもしれないと思ったら売る。それ意外の選択肢はないのです。

・目論見が外れたらポジションをはずすといいましたが、それが実行しにくい理由のひとつに「銘柄への拘り」があると思います。時間を使って調べあげ、買う時には絶対に上がると思った投資アイデアですから、それを捨てるのはもったいないと思う気持ちは誰しもあるはずです。その時に重要となるのが、代替案をどれだけ持っているかということです。ある銘柄がダメになったとしても、それと同じくらい優れた他の銘柄のことが頭の中にある人は、容易に乗り換えを検討できるはずです。ところが、練りに練った唯一のアイデアが外れてしまった場合、次がないので、どうにかして今あるアイデアで押しきれないかと、その銘柄を持ち続ける理由を探してしまうのです。そこで持ち続けた銘柄は大概においてあまり良くない結果をもたらします。もし勝てたとしても、当初の目論見通りには行かなかった以上、時間的コストを余計に払うことになるのは間違いありません。上がらない株、含み損の株を長く持ち続けることを「塩漬けにする」といいますが、日頃から常に新鮮な投資アイデアを求めるようにしておけば、塩漬け銘柄を作るリスクは格段に抑えられるはずです。たとえ含み益の銘柄を持っていたとしてもそのことに満足せず、もっと良い株、効率的に儲かる株があるかもしれないといつも考えながら取り組む姿勢が、失敗した時の二の矢、三の矢として機能することになるのです。

・本当にこの銘柄でいいのか?今考えているストーリーに穴はなかったか?という疑いは常に持ち、それをチェックし続ける態度は崩すべきではありません。良い企業だと信じているからこそ、徹底的に疑って調べ上げ、「やっぱり何も問題はなかった。さすが自分が良いと信じた企業だ」という結論を得る。これが、投資先を本当に信頼するために必要な姿勢なのだと思います。そこまでやっていれば、多少の下落があっても落ち着いて構えていられるようになります。ただ、どんなにきちんと調べきったつもりでも、その調べ方に誤りがあったり、そこから導いた結論が間違っている恐れは当然に考慮すべきです。株価が予想以上に下落したときは、他の投資家が何らかのリスクを感じて投げている可能性が高いので、その背景をとにかく調べます。結局、投資家にできることはそれしかありません。そこで納得の行く理由が見つかればいいのですが、もし見つからなかった場合、自分にはつかみきれていない悪材料によって株価が下落している可能性があります

・大きく勝つには個別銘柄の選択術も大事ですが、チャンスに対して大胆にリスクを取っていくことも同じぐらいに大切です。2倍、3倍となることが高い確率で見込まれる銘柄に対して、全体の10%の資金量しか投入しなければ、上手く行ったとしても資産は1割から2割しか増えません。単なる運否天賦、コインの裏表のようなギャンブルではなく、緻密な調査と分析に裏打ちされた割のいい勝負であれば、相応のリスク量を取るべきだと僕は考えます。なぜなら、そのような投資の機会は決していつでも巡ってくるものではないからです。今でこそアベノミクスで相場が盛り上がっていますが、3年で株価指数が2倍以上になるような大相場は、過去30年でも80年代後半のバブル相場と今回の2度しか例がありません。こういう時期に相場を張れている人は、それだけでも大変な幸運だと考えるべきです。バブルの頂点に投資を始めたような人は、その後20年以上に渡る長期下落相場を経験することになりました。特に90年代前半の強烈な下げ局面では、株で儲けるチャンスは本当にほとんどなかったのではないかと想像します。たまたま今が良い時期なだけであって、次にいつそのような冬の時代が訪れるとも限りません。市場はいつでも開いているというのは事実ですが、市場で儲ける機会は常にあるというのは真ではないでしょう。であれば、限りある機会の中でもこれはと思うところに対しては、多少大きな損失が出ることを覚悟してでもリスクを取った方が、トータルではリスクコントロールが効いているのではないかとも思うのです。若くして億を稼いだ投資家の話を聞くと、まだ資産がそこまで大きくなかった頃には、一気に時間を縮めるようなジャンプ・アップとなる勝負に成功しているケースが結構あるような気がします。もちろん、90年代前半のような相場でそれを目指したら間違いなく退場することになるでしょうから、時期の見極めは大切ですが、行く時には行くという考え方もある程度は必要なのではないでしょうか。そんなわけで、僕は安易な銘柄分散はお勧めしません。これは、ハイリスク・ハイリターンを許容できる個人投資家だからこそ取りうる戦略でもあります。

・私もその昔、誰もが見捨てた上場企業の社長と面談をし、大量のリスクマネーを投じたことがあります。調査を重ねた後に、その会社がダメになってしまった理由はサービスの競争力が低下したのではなく、以前の経営者の怠慢によるものであると考え、新しい経営陣による事業再建計画は成功すると信じることにしました。我々の組織が市場でその会社の株式を大量に買い、大株主として名前が登場すると、市場参加者たちは大きな驚きを持って受け止めました。それは我々が確固たる自信を持って、その会社の価値が割安に放置されていると考えていることを意味していたからです。これがキッカケとなって、それまで聞く耳を持っていなかったほかの投資家たちも、改めてその会社を再評価するようになりました。後日、その社長から電話があり受話器を受け取ると、彼は涙ながらにこう言いました。「ありがとうございます。私たちは必ず生まれ変わります。生まれ変わることを約束します」社長からすれば、自分を信じてリスクを取ってくれた投資家がいることが、よほど嬉しかったのでしょう。それから3年後、会社は絵に描いたようなV字回復と遂げ、当初の再建計画を大幅に前倒しして復活に成功しました。我々はそえを見届けると、市場で株をゆっくりと売却をしていきイグジットしました。その時の株価は、我々が投資した金額の実に5倍になっていたのです。みなさんも、自分以外の誰かの思いに対して、お金を投じてみてはいかがでしょうか?その時初めて、本物の投資家の第一歩を歩み始めたといえるでしょう。

・実際にめぼしいアイデアと候補となりそうな銘柄が浮かんだら、投資に踏み切る前にもう少し調査をしましょう。会社のホームページで決算説明会の資料を見たり、社長の人となりも確認しましょう。財務データも分析した方がより良いのですが、身構える必要はありません。「会社四季報」などを見ると、簡単に業績の要点は確認できますし、どの会社も「決算短信」という同じフォーマットで財務諸表を公開しています。財務諸表をごく短時間でチェックするとすれば、以下のポイントでしょう。
○「損益計算書」にある売上高、営業利益に丸をつけ、それらの伸び率や営業利益率が改善しているかどうかなどを確認する。
○「貸借対照表」では資産の部の棚卸在庫、売掛金に丸をつけ、これらが売上高の伸びよりも低く抑えられているか確認する
○負債の部の短期・長期借入金、資本の部の額にも丸をつけ、ネットD/Eレシオ「(短期・長期借入金-資産の部の現預金)/資本の部」を確認する
ネットD/Eレシオが大きいほど、財務体質が脆弱であると考えられるので、資本の部の額よりも何倍も大きな(借入金-現預金)を持っている会社は、不景気に弱く、増資などのリスクが高いと考えられます。この数点をパッと確認するだけでも、やるとやらないでは大きな違いがあります。これらの客観的なデータから、その会社へ投資することがどれほどのリスクを持っているのかをイメージしておくと、それがたとえ成功しても失敗しても、経験値として勝てる投資家になるための階段を一段登ったことになります。これらのアプローチはリターンを高め、取る必要のないリスクを発見するための効率の良い手法のひとつとして、勝てる投資家になるための最低限のスキルです。投資では、全勝することはできません。ただし通算6勝4敗であれば、あなたはおそらくお金持ちになれるでしょう。

・伸びる会社のサインは次の5つです。
□収益性が向上している
□経営者がROEの向上を意識している
□収益性の高いところへ投資している
□多くの人を幸せにしている
□ガバナンスがしっかりしている

・次は伸びない会社のサインを5つご紹介します。
□本業と全く関係のない事業を持っている
□中期経営計画に数値目標が明記されていない
□自社ビルを建設する
□本社の受付嬢がやたらと美人
□社長が業界紙以外のメディアに出始める

・私はみなさんに短期のトレードを決して推奨はしません。投資の世界は、時間軸を短く取るほど投機の世界に近くなり、頻繁に売買をするほど勝率も下がっていってしまいます。金融取引で投機の代表格といえばFX(外為取引)ですが、世にあるFX口座の9割は元本割れしている可能性が高いと思います。通貨が短気で上がる下がるかを当てる確率は、サイコロの丁半を当てるのと同じように50%であると思いがちですが、為替手数料を支払うことを考えると、勝率は50%より低くなります。いろいろなテクニカル指標を駆使して、高い勝率を誇る人がいるかもしれませんが、サバイバーバイアスといって、それはたまたま運が良く生き残った人が語っているだけであり、その裏で9割の人が負けていると考えるのが妥当でしょう。一方で、勝ち残っている人も勝利が長く続くことはありません。9連勝を誇る人がいたとしても、次の1敗が大敗となり、すべての勝利が台無しになるようなことが起きます。冷静に考えれば分かり切ったような投機の世界を、身銭を切って体験する必要はありません。

・私がみなさんに推奨するのは長期投資です。「適正な投資ホライゾン(投資期間)は何か?」という問いは、私にとっては「そのようなものはない」が回答です。私が推奨するのは、あくまでも継続的に成長を続ける会社への投資ですから、そのような会社へ投資をしている限りは、売る時のことなど考える必要はありません。あなたが託したお金を効率良く使い、より多くの利益を還元してくれる会社の株主であるならば、極端な話、一生売る必要はないのです

・Mは、子供の頃、病気に苦しむ母親の治療費を稼ぐために、近隣の住人たちに「何でも屋」を申し出てお金を稼いでいました。貧しい村であったため隣人も決して裕福ではありませんでしたが、多くの人は善意で彼に仕事を与え、時には食べ物や薬を恵んでくれました。Mはその後、猛勉強をして米国のアイビーリーグでMBAを取得し、ウォール街の投資家として優れた成績を収めるようになりました。しかし、若くして大金持ちとなった彼は、ある日突然引退し、全財産をマレーシアで自身が設立した基金へ拠出してしまいました。彼が設立した基金は、小さな子供のいる貧しい家庭に対して、医療費や学費を支援するものであり、条件として、その子供が将来お金持ちになった場合、再び同基金にお金を拠出してもらう設計となっています。また、基金の特別条項には、子供の頃のMに施しを与えてくれた村人の名前が記載されており、彼らが病気になった際には、すべての医療費を支払うことも明記されています。彼は村人たちの一杯の飯の恩を忘れずに大人になり、それに報いることを人生の目的のひとつとしたのです。人生は誰にとっても一度きりであり、二度目はありません。ほとんどの大人は人生の7回裏あたりから、そのことに気づきます。Mにとっての人生における最良の時間と空間は、貧しくとも家族や隣人の愛に包まれた何気ない日常でした。どんなに富と名声を得ても、遙か先にあると思われた山の頂きに立ってみても、それ以上のお宝は、この世界にはないことをMは悟ったのです。彼は絶頂のうちにウオール街を去り、今は故郷でファンドマネージャーとして基金から給料をもらい、一方で医大生として勉強に励む毎日を送っています。

・ある日のこと、カフェでMと話をしていた時、私が自分の失敗から得た投資家としての暗黙知のようなものを話し始めると、Mはカバンから使い古した分厚いノートを取りだしてメモを取り始めました。Mは実力や実績は組織の中でトップクラスの投資家でしたが、どんな人からも謙虚に学び、自分の頭で納得がいくまで考え抜く姿勢を持っていました。びっしりと文字の詰まった亡き母からのプレゼントだというノートを見て、「まるでバイブルだね」と私が言うと、Mは愛おしそうに表紙を手でなでながら「いいえ、それ以上です」と答えたのを、今でも鮮明に覚えています。

・「なぜ、お金持ちになりたいのか?」という問いの答えは、最終的には「素晴らしい人生を歩みたいから」に行き着くと思います。ただし、「お金」と「素晴らしい人生」は必ずしも同じレールの上にあるとは限りません。お金を持っていても、不幸な人が世界にはたくさんいます。なぜか?多くの人はその先にある価値を知らないからです。Mは投資で得た莫大なお金を、大切な人を幸せにすることに再投資をし、新たな富を得ているのです。基金によって救われた人々の笑顔を見る度に、Mは己の人生の価値を向上させているのです。本物の投資家の究極の到達点は、お金の価値だけではなく、人生の価値を知る者であると私は信じています。



良かった本まとめ(2015年下半期)

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