「現代語訳・西鶴 日本永代蔵」の購入はコチラ
日本永代蔵という本は、江戸時代の井原西鶴(いはらさいかく)が、元禄元年(1688年)正月の47歳の時に、富を築くことを目的とする町人、特に若者に対して、その目的を遂げた人々の生きざまについて教訓となるよう書かれたものです。
もちろん富を築きながらも没落した人々やその理由についても書かれています^_^;)
永代蔵とは「長続きする堅固な蔵」という意味で、そういう財を入れた蔵を永く持つことを目的としたものです。
この日本永代蔵という本の構成は、巻1~6まであり、それぞれ5つ話があるので、6×5=30の逸話から成り立っています。
この日本永代蔵(6巻30章)が、大坂の森田庄太郎を筆頭に、京都の金屋、江戸の西村が加わった三都版で、当時華々しく出版されたようです。
しかもこの作品は西鶴の全作品の中で、もっとも広く長く読まれ、早くも元禄元年5月に大坂で西沢太兵衛版の「永代蔵」が出て、そのほか初版の森田系統のもの5種類が、幕末の文政から天保に改題して飽きもせず出版されたようで、かなり人気だったようです。
このように江戸時代末まで人気だったのは、教訓性と実用性があったからのようです。
特に、親譲りの財産をあてにせず、独立独歩で一代で勝利を勝ち取る内容が多いので、そういう貧しい若者たちが激励されたのだとも思います。
そのほか個人的には、この日本永代蔵には全国各地の様子や習わし等がたくさん書かれていて、興味を惹き立てたのだとも思います。
この日本永代蔵の30章を整理すると、肯定的な致富談を肯定的に描いた章が約2/3、残る1/3は否定的な致富談を否定的に描いたもので、坊主や遊女や顧客をあざむいて儲けた連中や、好色とぜいたくを戒め没落に対する警告の説話などが描かれています。。
金のためには悪徳をあえてする町人の存在を認めながらも、それを許すことのできないモラリスト西鶴が垣間見えます。
この本の主な内容をピックアップすると以下となります。
現代でも参考となる内容だと思います^_^)
・大坂の金持ちは代々続いているのではない。丁稚が成り上がる。奉公はよい主人を持つのが第一の仕合せである。
・三井九郎右衛門は初めて現金売りで掛値なしと定め、一品で売ることも可能とし、即座に仕立てて渡せるようにし大繁盛
・家業のほかに、銭や小判、米、薬、呉服、綿、酒の相場などを記録し、京都中の重宝となる
・娘は遊ばせず、躾ること
・金持ちの処方は、早起き5両、家業20両、夜なべ8両、倹約10両、健康7両。そのほか、毒断ちが必要なものは美食や好色、絹物の普段着、女房の乗物外出、娘の琴や歌がるた遊び、鼓や太鼓などの息子の遊芸、夜歩き、博打、仲裁や保証人、食事ごとの酒・煙草好き、役者遊びと郭通い、月息8厘より高い借金等。
・人は若い時に蓄えて年寄ってからの慈善が大切
・世渡りの種を大事にせよ
・ぜいたくは没落、千丈の堤も蟻の穴から崩れる
・利息というものは、積もれば相当な額になる
・仕事は工夫すること
・朝夕油断なく働き、工夫して発明すること
・好きな道は器用といわれその身の仇になる。家業にい勤しむこと
・妻の焼き餅は家のためになる
・子どもに対する厳しい躾はその子のためであり、甘いのは仇
・金銀は儲けにくくて減りやすいもの、朝夕算盤に油断してはいけない
・工夫、知恵が長者になる
・人の家業は急流の水車のように休みなくいつも油断してはならない。人間の一生は長いようだが短いもの
・欲しい物は買わず、惜しい物を売るのが商いの心掛け
・金持ちになるには、心を山のように大きく持って、よい手代を持つことが第一の条件
日本永代蔵は、江戸時代の古典ながらも、商売だけでなく人生をより良く生きるポイントが満載で、とてもオススメです!!
特に本社は現代語訳なので、読みやすくて良いですね!
以下はこの本のポイント等です。
・天道は何もいわずに、国土に深い恵みを与えている。ところが人間は誠実でありながらも、偽りがちである。というのも人の心は本来空虚なもので、外物に反応して善とも悪とも形を現すが、外物が去ればまたもとの空虚に帰してしまうものだからである。そうした善と悪との間をゆれ動く人の世に在って、政道正しい今の御代を豊かに生きている人は、まことに人の中の人であって、凡人ではない。人間にとって一生の一大事は、生きていくための職業である。だから士農工商はもとより、僧侶や神主に至るまで、倹約の神様のお告げどおりに働いて金銀を溜めるがよい。これこそ両親を外にしての命の親である。もっとも人の命というものは、長いものと思っていても、翌朝はどうなるかわからないし、短いものだと思えば、早くもその日の夕方に終わる。だからこそ中国の詩人李白も、「天地は万物を宿す旅宿、歳月は永遠に過ぎ去り行く旅客、まことに人生は夢まぼろしである」といっているのである。まことに人の命は、あっという間に煙となってしまう。死んでしまえば金銀は何の役に立とう。瓦石にも劣るものだ。あの世で役には立たない。とはいうものの、残しておけば子孫のためになるものである。ひそかに思うに、世にあるほどの願いは、なんにもよらず金銀の力でかなわぬ事が天下にあろうか。ままならぬのはたった一つ、地水火風空の生命だけであって、それよりほかにはない。とすれば、金銀にまさる宝のあろうはずはない。見たこともない島の鬼が持っている宝という、かぶれば姿が見えなくなる隠れ笠や隠れ蓑を手に入れても、にわか雨の役には立たないのだから、夢のような願いを捨てて、手っ取り早くそれぞれの家業を励むがよい。福徳は堅固な身持ちについてまわるものだ。常に油断してはならない。ことに世の道理に従い、神仏をまつるがよい。これこそ日本の風俗(ならわし)である。
・いったい世の中に、借金の利息ほどおそろしいものはない。その男の住所は、武蔵の国江戸で、小網町の下手の船着場で船問屋をしていたが、しだいに繁盛するのを喜び、掛硯に仕合丸と書きつけて、水間寺の銭を入れておいて、漁師の出船の時にわけを話して、百文ずつ貸してやった。借りた人は、思いがけない幸運に恵まれるという噂が、遠い漁村まで伝わって借りにきたので、その返済する銭が先の分から毎年集まり、一年二倍の勘定で、十三年目にはもと一貫の銭が8192貫にかさんだ。
・この二、三日は気分が悪くて引きこもっている、と見世の者がせわしそうにいうので、手紙を渡しそびれて帰りしなに、思いがけない浮気がおこり、「もともとこの金はおれの物じゃない。一生の思い出に、この金ぽっきりということにして、今日一日だけ遊び、老後の話の種にでもしよう」と決心したが、一歩では揚屋町で遊ぶことなど思いもよらない。出口の茶屋に行って、藤屋彦右衛門という家の二階に上がり、昼間の揚代9匁の鹿恋女郎を呼んでもらい、呑みつけぬ酒に浮かれた。これを遊びの手習いはじめとして、女郎と恋文のやりとりも覚え、しだいに遊びの格があがって、太夫を片っぱしから買いはじめた。折もおり、都の太鼓持四天王とよばれる願西弥七、神楽庄左衛門、鸚鵡吉兵衛、乱酒与左衛門の四人に仕込まれ、まんまとこの道の達人となり、後にはお洒落な道楽者の身形も、この男をまねるようになった。扇屋の恋風様とおだてられて散財し、人のなりゆきはわからないものだ、目にとまってから4、5年のうちに、二千貫目の財産は塵も灰もなくなり、火を吹く力もなくなって、残った家名にゆかりの古扇一本を元手に門付とん、「ひとたびは栄え、ひとたびは衰うる」と、わが身の上を謡うその日暮らしの身の上となってしまった。そのなりゆきを見るにつけ、聞くにつけ、「今時はもうけにくい銀(かね)を、よくもまあ!」と、身持ちの堅い鎌田屋の何某という金持ちが、子どもらのいましめに語ってきかせてあという。
・世渡りの道は、草の種のようにいくらでもあるものだ。冬の初め、北浜に九州米を水揚げする際、こぼれたままになっている筒落米をはき集めて、その日を暮らしている老女がいた。器量が悪いので、23で後家になったが、二度目の亭主になってくれる人もなく、一人の倅を行く末の楽しみにして、悲しい年月を送っていた。ところがいつのころであったか、諸国の改免が行われて米が出回り、この港にも大量に回漕され、昼夜ぶっ通しでも水揚げしきれず、借蔵もいっぱいになって、俵の置き所もない有様であった。あちこちとたくさんの俵をおき直すごとにこぼれ落ちる米を、この老女が塵と一緒にはき集めたところ、朝夕食べてもなおひと月に1斗4、5升も残った。それから欲が出て倹約して溜めたところが、はや1年のうちに7石5斗まで増やして、こっそりと売り払い、あくる年はなおまた増やしたので、毎年かさんで20年あまりの間に、へそくり銀が12貫5百目になった。それから倅も遊ばせておかず、9つの年から小口俵の捨ててあるのをひろい集めさせ、それをほぐして銭さしになわせ、両替屋や問屋に売らせたところが、人の思いもよらぬ金もうけして、自分の腕で稼ぎ出した。後に倅は、身元の確かな人へ小判の日貸しや、はした銀の当座貸しをはじめたが、それから思いついて、今橋のほとりに銭店を出した。すると田舎から出てきた人が両替におしかけたので、明け方から暮れ方までわずかの銭や銀を店に並べ、丁銀を細銀に替えたり、小判を細銀に替えたりして秤にひまなく掛けるようになり、毎日毎日のもうけが積もって、10年たたぬうちに両替仲間の一流となった。ほうぼうへ貸し出すばかりで、自分のほうへは借りることがなく、両替屋の手代もこの男に腰をかがめ、機嫌をとるほどになった。毎日の小判市も、この男が買い出せばにわかに上がり、売り出せばたちまち下がりめになるのであった。自然と人々はこの男の意見を尊重し、皆々手をさげて旦那旦那とうやまった。中にはこの男の先祖のあらさがしをして、「なんだ、あんな奴に頭をさげて世渡りするのは、いかにも残念だ」と我が立てる者もいたが、急場にはさし当たって困り、その男もまた無心するのであった。まったく金銀の威勢である。後には大名相手の金融をもっぱらとし、あちこちの蔵屋敷に出入りするようになったので、昔の事をいい出す人もなくなった。倅は格式の高い家と縁組みして、家蔵も数多く建て、母親の持たれた筒落はきのわらしべほうきと、それに渋団扇は貧乏をまねくと世間ではいうが、この家にとっては宝物だと、方角のよい乾隅におさめておいた。諸国をまわってみたが、今でもまだ稼ぎがいのあるところは大阪北浜だ。ここにはまだ流れ歩く銀もあるという。
・三井九郎右衛門という男は、手持ちの資金に物をいわせて、家康が鋳造させた駿河小判も思い出される駿河町に、間口九間に奥行き四十間という棟の高い長屋を造って新店を出し、すべて現金売りで掛値なしと定め、40余人の利発な手代を思うままにさばき、一人に1品を受け持たせた。たとえば金欄類1人、日野絹・郡内絹類に1人、羽二重一人、紗綾類1人、紅類1人、麻袴1人、毛織類1人というふうに手分けして売らせた。おまけにびろうど1寸4方、どんすを毛貫袋になるほど、緋じゅすは槍印になるだけの長さでも、竜門は袖覆輪の片方分だけでも、求めに応じて売り渡した。ことに奉公口の決まった侍が、にわかに主君にお目見えす際の礼服の熨斗目や、急ぎの羽織などは、その使いを待たせておいて、数十人もかかえた職人が居ならび、即座に仕立てて渡してやる。そんなふうだから家が繁盛し、毎日百五十両ならしの商売をしたという。世の調法とは、この店のことである。この亭主を見ると、目鼻手足があって、ほかの人と変わったところはないが、ただ家職にかえてかしこいだけである。大商人の手本といってよかろう。
・藤市は利口者で、自分一代でこれほどの金持ちになったのである。何よりも人間は、心身ともに堅実であることが世渡りの根本である。この男は家業のほかに反古で帳面を綴じておいて、いつも店に居て筆を離さず、両替屋の手代が通ると、銭や小判の相場を聞いて書きつける。米問屋の手代には、米の相場を聞き合わせ、薬屋や呉服屋の手代には、長崎の様子をたずね、繰綿や塩・酒の相場は、江戸の出店からの書状のとどく日を待ち合わせて記録するというふうに、毎日万事の相場を書きつけておくので、わからなくなった事はこの店にたずね、京都中の重宝となった。
・何よりもわが子の成長を見るほど、おもしろいものはない。藤市も娘が年ごろになったので、嫁入り屏風をこさえてやったが、京都の名所づくしを描いてやったら、まだ見ていない所を歩きたがるだろうし、「源氏物語」や「伊勢物語」の絵では浮気者になるだろうからと、多田の銀山の出盛りの有様を描かせた。こういう考えから、娘のしつけを読みこんだいろは歌を自分で作って読み習わせ、寺小屋へも通わせないで、家で手習いを教え、とうとう京で一番のかしこい娘に育てあげた。娘も親の倹約なことを見習って、手習いはじめの8歳から墨で袂をよごさず、桃の節句の雛遊びをやめ、盆にも踊らず、毎日髪も自分ですいて丸髷に結い、身の回りのことはいっさい人の世話にならない。引き習った真綿も、着丈の縦横いっぱいになるように仕上げるのであった。とかく女の子は遊ばせておいてはいけないものだ。
・長者丸という妙薬の処方を御伝授しましょう。早起き5両、家業20両、夜業(よなべ)8両、倹約10両、健康7両、この50両の薬を細かにくだき、秤目にちがいのないように気をつけて調合に念を入れ、これを朝晩飲んだら、長者にならぬということは、まずありますまい。けれどもこれには大事な毒断ちがあります。美食と好色と絹物のふだん着、女房の乗物外出、娘の琴や歌がるた遊び、鼓や太鼓など息子の遊芸、蹴鞠、楊弓、香会、俳諧、座敷普請、茶の湯道楽、花見、舟遊び、日風呂入り、夜歩き、博打、囲碁、双六、町人の居合い抜きと剣術、寺社参詣と後生を願う心、諸事の仲裁と保証人、新田開発の出願と鉱山事業の仲間入り、食事ごとの酒、煙草好き、あてのない京のぼり、勧進相撲の金主、奉加帳の世話焼き、家業のほかの小細工、金目貫の収集、役者遊びと郭通い、揚屋への出入り、月息8厘より高い借金、まずこの通りを斑猫やひそう石よりもおそろしい毒薬と心得て、口に出すことはもちろん、心に思ってもいけません。
・この人も、一生を通じてけちであったら、富士を白銀にして持っていたからとて、つまりは武蔵野の土となり、橋場で火葬の煙となってしまう身であることを悟って、かしこくも老後の費用を蓄えておき、ありとあらゆる楽しいことをして暮らしたのである。88歳の時には、世間の人が伝え聞いてあやかろうと、枡掻きを切ってもらったり、子どもの名付け親を頼んだりした。こうして人に重宝がられ、飽きるほどほめられて亡くなったが、その葬礼のりっぱなことといったら、まるでそのまま仏にでもなられるのかと思われるほどで、後の世でもさぞかし仕合わせなことだろうと、人々はうらやむのであった。人は若い時に蓄えて、年寄ってからの慈善がたいせつである。とてもあの世へは持っていけないものだが、とはいえこの世でなくてはならぬ物は金だ。金の世の中とはよくいった。
・三弥は小判蔵の鍵を受け取って、思うままにぜいたくを始めた。豊後の水質は硬いと言い出し、とにかく都の水にまさるものはあるまいと、清水寺の音羽の滝水を毎日くませ、幾樽も順ぐりに遠い海上を運ばせて、わが家の内に設けた蒸風呂や据風呂を毎日たかせた。昔、塩釜ともいう奥州千賀の浦の景色を京都六条の邸宅にうつしたので、塩釜の大臣とよばれた左大臣源融の例がある。この三弥は京都の水を豊後の風呂桶にうつしたというので、風呂釜の大臣と世間ではいいふらした。これでは、おっつけ暮らしも立たなくなるだろうと見守っていると、思ったとおりある年の暮れに年間の収支決算をしたところが、5千貫目余の収支に、1匁3分だけ元銀に不足が生じた。それからはしだいに穴が大きくなって、千丈の堤も蟻の穴から崩れるというたとえの通り、その身に災難が重なって、ついには罪を犯して命まで失い、あとに残った物は他人の宝となってしまった。
・商売が左前になった呉服屋忠助という男がいた。昔は、駿河府中の本町に軒を並べていた商家の中でも、花菱の大紋を暖簾に染め抜き菱屋という屋号をあらわした豪商であった。駿河の国はもとより、東国や北国にも多くの手代に出店を持たせたのえ、しだいに人手がふえていった。家内のにぎやかさとはいえば、飯を炊く大釜には富士山のように煙がたえず、水瓶には湖水をたたえ、朱椀は竜田の紅葉を散らしたようであり、白箸は武蔵野に立つ霜柱のようであった。そうした朝の繁盛が夕べに消え、こうもまたなり果てるというのも世の習いであり、時世時節とはいうものの、つまるところは亭主の心がけがわるいからである。忠助の親の代には、わずかの身代であったが、安倍川紙衣に縮緬皺をつけることを工夫し、また、さまざまは小紋をつけることもはじめ、この土地の名物となって諸国に売り広めた。はじめはこの人ひとりの専売だったので、30年あまりのうちに千貫目の身代になったといわれている。この親の子にしてはできがわるく、忠助が家を継いでから30年あまりというもの、収支の決算もせず帳面にもつけないという無鉄砲なやり方であった。だから算盤の玉をはじいても締めくくりのつくはずはなく、春の柳が風に乱れるように家計は乱れ放題、日向の氷のように、またたくまに元の水にかえってしまい、湯をのもうにも薪さえない有様となった。これほどまでに衰えるということは、めったにないことである。いったいに金もうけはむつかしく、減るのも早いものだ。忠助も財産をすってしまった今となってこの事を悟っても、もはや手遅れである。
・何事でも積もれば、大願も成就するものだ。この九助は、この心がけでしだいに家が栄え、田畑を買い求め、ほどなく大百姓となった。季節季節の農作物に肥料をほどこし、田の草を取り、水をかいて手入れするので、おのずから稲が実って房ぶりがよく、木綿もたっぷりと花咲き実り、人より多くの収穫があるというのは、けっして天然自然の結果ではない。朝夕油断なく、鍬鍬のちびるほど働くからである。九助は万事に工夫の深い男で、便利な物をいろいろと発明した。鉄の爪を植え並べて、細ざらえというものをこしらえたが、土をならすのにこれほど人の助けになるものはない。このほかに唐箕や千石通しも発明した。またそれまでは、麦の穂をこく仕事も手間がかかったのに、尖り竹を植えならべ、これを後家倒しと名付けた。昔はこき竹を使って二人がかりで穂先をこいでいたものだが、これは力を入れずに、しかも一人で手早く使えるように工夫したのであった。さらにその後、女の綿仕事をまだるっこく思い、ことに綿打ちは小さな竹弓を使って、ようよう一日仕事に5斤しかこなせないことに目をつけて工夫し、中国人のやり方を調べて、鯨の筋を弦にした唐弓という道具をはじめて作りだした。それを世間に内緒で、弦を横槌で打ってみたところが、一日に三貫目ずつもはかどったので、雪山のように繰綿を買い込み、多くの人を雇って打たせ、打綿の荷を数かぎりなく江戸に積み出すようになった。4、5年のうちに大金持ちとなって、大和で知らぬもののない綿商人となった。平野村、大坂京橋の綿市場、同じく大坂の綿問屋の富田屋、銭屋、天王寺屋などに、毎日何百貫目と限りもなく、摂津・河内両国の綿を買い取って送りだし、秋から冬にかけてのわずかの間に毎年もうけて、30年あまりに千貫目の身代となった。その財産を遺言状にしたためて、その身一代は楽をするということもなく、子孫のためによいことをして、88歳で亡くなった。
・「めいめいの家業を怠って、諸芸を深く好んではならない。これらの浪人たちも、日ごろすきな道で世を渡る身の上となってしまった。人にすぐれて器用といわれる事は、必ずその身の仇となるものだ。公家は歌道を、武士は弓馬の道を励み、町人は算用をこまかにして、天秤のはかり方を間違わないようにし、手まめに売上帳をつけよ」と小金が原の長者が、大勢の子どもに申し渡された。
・この跡取りが、金のあるにまかせてすこし浮かれだし、妾をさがしたり、旅回りの陰間を相手に遊んだりしたところが、例の嫁は見込んだとおり焼餅をやいてわめき立てるので、世間体をはばかっておのずから色遊びをやめ、酒を呑んで宵から寝るよりほかはなかった。亭主が家を出ないので、まして手代どもはあんどんの陰にすわって慰みに帳面を繰り、丁稚は地算を習うよりほかなう、万事家の治まる事ばかりである。最初のうち笑っていた御内儀の焼餅が家のためになることを、今になって皆々思いあたるのであった。すべて親が子に対して寛大すぎるのは、家を乱すもとである。ずいぶんきびしく仕向けても、たいていは母親が腹を合わせて抜け道をつくり、身分不相応なむだ遣いをさせるものだ。厳しい躾はその子のためで、甘いのは仇になる。
・親仁が40年かかって稼ぎだした身代を、息子は6年で使い果たしてしまった。だから金銀というものは、もうけにくくて減りやすいものだ。朝夕算盤に油断してはならない。すべて店構えのよしあしについていえば、鮫皮、書物、香具、絹布など、上品な商いは、店飾りのゆったりとしているほうがよい。質屋や食い物商売は、小さい家でじだらくなのがよいということだ。「久しく商売を続け、客の出入りしつけた商人の家を改築してはいけない」とは、さる見識ある長者の言葉である。
・このように万事に気をつけて、後には、思いがけない知恵を出し、船着場の船頭どもの便利をはかった行水船を工夫したり、刻み昆布をつくって秤にかけて売り出したり、さてはチャン塗りの油皿、縮緬紙の煙草入れなど、ほかの人のしない事で、15年もたたないうちに3万両の金持ちになり、霊岸島に楽隠居して、二人の養い親に孝をつくした。いかに繁盛の土地だからといって、人並の働きで長者になることはできない。
・人の家業は急流の水車のように休みなく、いつも油断してはならない。瀬々の流れの速さは、一昼夜に75里と計算してあるが、その水の行く末さえ限りのあるように、人間の一生も長いようだが短いものだ。ほどなく額に老いの波が立ってしまう。
・ある長者の言葉に、「欲しい物は買わず、惜しい物を売れ」とある。この心掛けで稼いで奢りをやめたら、よい結果を見るにきまった事だ。だから商いの心掛けは、資本を強固にして、気を大きく持つことが肝要である。
・金持ちになるには、その心を山のように大きく持って、よい手代を持つことが第一の条件である。大坂の港にも、江戸へ積み出す酒を造りはじめて、一門が栄えている者がおり、銅山に手を出してにわか成金になった者もいる。吉野漆の問屋をして、人の知らない大金を貯えている人もおれば、小早という江戸通いの三、四百石積みの快速船を造りだし、船問屋として名をあげた人もある。家屋敷を抵当にとる金貸しをして富貴になった人もあり、鉄山の採掘を請け負ってしだいに金持ちなった人もある。これらは近代の成り上がり商人で、30年ことのかたの成功者である。町人の住むべき所は、京・大坂・江戸の三都以外にはない。遠国にも金持ちは多いが、世間の噂にのぼらぬ人が多い。
良かった本まとめ(2015年上半期)
<今日の独り言>
Twitterをご覧ください!フォローをよろしくお願いします。
日本永代蔵という本は、江戸時代の井原西鶴(いはらさいかく)が、元禄元年(1688年)正月の47歳の時に、富を築くことを目的とする町人、特に若者に対して、その目的を遂げた人々の生きざまについて教訓となるよう書かれたものです。
もちろん富を築きながらも没落した人々やその理由についても書かれています^_^;)
永代蔵とは「長続きする堅固な蔵」という意味で、そういう財を入れた蔵を永く持つことを目的としたものです。
この日本永代蔵という本の構成は、巻1~6まであり、それぞれ5つ話があるので、6×5=30の逸話から成り立っています。
この日本永代蔵(6巻30章)が、大坂の森田庄太郎を筆頭に、京都の金屋、江戸の西村が加わった三都版で、当時華々しく出版されたようです。
しかもこの作品は西鶴の全作品の中で、もっとも広く長く読まれ、早くも元禄元年5月に大坂で西沢太兵衛版の「永代蔵」が出て、そのほか初版の森田系統のもの5種類が、幕末の文政から天保に改題して飽きもせず出版されたようで、かなり人気だったようです。
このように江戸時代末まで人気だったのは、教訓性と実用性があったからのようです。
特に、親譲りの財産をあてにせず、独立独歩で一代で勝利を勝ち取る内容が多いので、そういう貧しい若者たちが激励されたのだとも思います。
そのほか個人的には、この日本永代蔵には全国各地の様子や習わし等がたくさん書かれていて、興味を惹き立てたのだとも思います。
この日本永代蔵の30章を整理すると、肯定的な致富談を肯定的に描いた章が約2/3、残る1/3は否定的な致富談を否定的に描いたもので、坊主や遊女や顧客をあざむいて儲けた連中や、好色とぜいたくを戒め没落に対する警告の説話などが描かれています。。
金のためには悪徳をあえてする町人の存在を認めながらも、それを許すことのできないモラリスト西鶴が垣間見えます。
この本の主な内容をピックアップすると以下となります。
現代でも参考となる内容だと思います^_^)
・大坂の金持ちは代々続いているのではない。丁稚が成り上がる。奉公はよい主人を持つのが第一の仕合せである。
・三井九郎右衛門は初めて現金売りで掛値なしと定め、一品で売ることも可能とし、即座に仕立てて渡せるようにし大繁盛
・家業のほかに、銭や小判、米、薬、呉服、綿、酒の相場などを記録し、京都中の重宝となる
・娘は遊ばせず、躾ること
・金持ちの処方は、早起き5両、家業20両、夜なべ8両、倹約10両、健康7両。そのほか、毒断ちが必要なものは美食や好色、絹物の普段着、女房の乗物外出、娘の琴や歌がるた遊び、鼓や太鼓などの息子の遊芸、夜歩き、博打、仲裁や保証人、食事ごとの酒・煙草好き、役者遊びと郭通い、月息8厘より高い借金等。
・人は若い時に蓄えて年寄ってからの慈善が大切
・世渡りの種を大事にせよ
・ぜいたくは没落、千丈の堤も蟻の穴から崩れる
・利息というものは、積もれば相当な額になる
・仕事は工夫すること
・朝夕油断なく働き、工夫して発明すること
・好きな道は器用といわれその身の仇になる。家業にい勤しむこと
・妻の焼き餅は家のためになる
・子どもに対する厳しい躾はその子のためであり、甘いのは仇
・金銀は儲けにくくて減りやすいもの、朝夕算盤に油断してはいけない
・工夫、知恵が長者になる
・人の家業は急流の水車のように休みなくいつも油断してはならない。人間の一生は長いようだが短いもの
・欲しい物は買わず、惜しい物を売るのが商いの心掛け
・金持ちになるには、心を山のように大きく持って、よい手代を持つことが第一の条件
日本永代蔵は、江戸時代の古典ながらも、商売だけでなく人生をより良く生きるポイントが満載で、とてもオススメです!!
特に本社は現代語訳なので、読みやすくて良いですね!
以下はこの本のポイント等です。
・天道は何もいわずに、国土に深い恵みを与えている。ところが人間は誠実でありながらも、偽りがちである。というのも人の心は本来空虚なもので、外物に反応して善とも悪とも形を現すが、外物が去ればまたもとの空虚に帰してしまうものだからである。そうした善と悪との間をゆれ動く人の世に在って、政道正しい今の御代を豊かに生きている人は、まことに人の中の人であって、凡人ではない。人間にとって一生の一大事は、生きていくための職業である。だから士農工商はもとより、僧侶や神主に至るまで、倹約の神様のお告げどおりに働いて金銀を溜めるがよい。これこそ両親を外にしての命の親である。もっとも人の命というものは、長いものと思っていても、翌朝はどうなるかわからないし、短いものだと思えば、早くもその日の夕方に終わる。だからこそ中国の詩人李白も、「天地は万物を宿す旅宿、歳月は永遠に過ぎ去り行く旅客、まことに人生は夢まぼろしである」といっているのである。まことに人の命は、あっという間に煙となってしまう。死んでしまえば金銀は何の役に立とう。瓦石にも劣るものだ。あの世で役には立たない。とはいうものの、残しておけば子孫のためになるものである。ひそかに思うに、世にあるほどの願いは、なんにもよらず金銀の力でかなわぬ事が天下にあろうか。ままならぬのはたった一つ、地水火風空の生命だけであって、それよりほかにはない。とすれば、金銀にまさる宝のあろうはずはない。見たこともない島の鬼が持っている宝という、かぶれば姿が見えなくなる隠れ笠や隠れ蓑を手に入れても、にわか雨の役には立たないのだから、夢のような願いを捨てて、手っ取り早くそれぞれの家業を励むがよい。福徳は堅固な身持ちについてまわるものだ。常に油断してはならない。ことに世の道理に従い、神仏をまつるがよい。これこそ日本の風俗(ならわし)である。
・いったい世の中に、借金の利息ほどおそろしいものはない。その男の住所は、武蔵の国江戸で、小網町の下手の船着場で船問屋をしていたが、しだいに繁盛するのを喜び、掛硯に仕合丸と書きつけて、水間寺の銭を入れておいて、漁師の出船の時にわけを話して、百文ずつ貸してやった。借りた人は、思いがけない幸運に恵まれるという噂が、遠い漁村まで伝わって借りにきたので、その返済する銭が先の分から毎年集まり、一年二倍の勘定で、十三年目にはもと一貫の銭が8192貫にかさんだ。
・この二、三日は気分が悪くて引きこもっている、と見世の者がせわしそうにいうので、手紙を渡しそびれて帰りしなに、思いがけない浮気がおこり、「もともとこの金はおれの物じゃない。一生の思い出に、この金ぽっきりということにして、今日一日だけ遊び、老後の話の種にでもしよう」と決心したが、一歩では揚屋町で遊ぶことなど思いもよらない。出口の茶屋に行って、藤屋彦右衛門という家の二階に上がり、昼間の揚代9匁の鹿恋女郎を呼んでもらい、呑みつけぬ酒に浮かれた。これを遊びの手習いはじめとして、女郎と恋文のやりとりも覚え、しだいに遊びの格があがって、太夫を片っぱしから買いはじめた。折もおり、都の太鼓持四天王とよばれる願西弥七、神楽庄左衛門、鸚鵡吉兵衛、乱酒与左衛門の四人に仕込まれ、まんまとこの道の達人となり、後にはお洒落な道楽者の身形も、この男をまねるようになった。扇屋の恋風様とおだてられて散財し、人のなりゆきはわからないものだ、目にとまってから4、5年のうちに、二千貫目の財産は塵も灰もなくなり、火を吹く力もなくなって、残った家名にゆかりの古扇一本を元手に門付とん、「ひとたびは栄え、ひとたびは衰うる」と、わが身の上を謡うその日暮らしの身の上となってしまった。そのなりゆきを見るにつけ、聞くにつけ、「今時はもうけにくい銀(かね)を、よくもまあ!」と、身持ちの堅い鎌田屋の何某という金持ちが、子どもらのいましめに語ってきかせてあという。
・世渡りの道は、草の種のようにいくらでもあるものだ。冬の初め、北浜に九州米を水揚げする際、こぼれたままになっている筒落米をはき集めて、その日を暮らしている老女がいた。器量が悪いので、23で後家になったが、二度目の亭主になってくれる人もなく、一人の倅を行く末の楽しみにして、悲しい年月を送っていた。ところがいつのころであったか、諸国の改免が行われて米が出回り、この港にも大量に回漕され、昼夜ぶっ通しでも水揚げしきれず、借蔵もいっぱいになって、俵の置き所もない有様であった。あちこちとたくさんの俵をおき直すごとにこぼれ落ちる米を、この老女が塵と一緒にはき集めたところ、朝夕食べてもなおひと月に1斗4、5升も残った。それから欲が出て倹約して溜めたところが、はや1年のうちに7石5斗まで増やして、こっそりと売り払い、あくる年はなおまた増やしたので、毎年かさんで20年あまりの間に、へそくり銀が12貫5百目になった。それから倅も遊ばせておかず、9つの年から小口俵の捨ててあるのをひろい集めさせ、それをほぐして銭さしになわせ、両替屋や問屋に売らせたところが、人の思いもよらぬ金もうけして、自分の腕で稼ぎ出した。後に倅は、身元の確かな人へ小判の日貸しや、はした銀の当座貸しをはじめたが、それから思いついて、今橋のほとりに銭店を出した。すると田舎から出てきた人が両替におしかけたので、明け方から暮れ方までわずかの銭や銀を店に並べ、丁銀を細銀に替えたり、小判を細銀に替えたりして秤にひまなく掛けるようになり、毎日毎日のもうけが積もって、10年たたぬうちに両替仲間の一流となった。ほうぼうへ貸し出すばかりで、自分のほうへは借りることがなく、両替屋の手代もこの男に腰をかがめ、機嫌をとるほどになった。毎日の小判市も、この男が買い出せばにわかに上がり、売り出せばたちまち下がりめになるのであった。自然と人々はこの男の意見を尊重し、皆々手をさげて旦那旦那とうやまった。中にはこの男の先祖のあらさがしをして、「なんだ、あんな奴に頭をさげて世渡りするのは、いかにも残念だ」と我が立てる者もいたが、急場にはさし当たって困り、その男もまた無心するのであった。まったく金銀の威勢である。後には大名相手の金融をもっぱらとし、あちこちの蔵屋敷に出入りするようになったので、昔の事をいい出す人もなくなった。倅は格式の高い家と縁組みして、家蔵も数多く建て、母親の持たれた筒落はきのわらしべほうきと、それに渋団扇は貧乏をまねくと世間ではいうが、この家にとっては宝物だと、方角のよい乾隅におさめておいた。諸国をまわってみたが、今でもまだ稼ぎがいのあるところは大阪北浜だ。ここにはまだ流れ歩く銀もあるという。
・三井九郎右衛門という男は、手持ちの資金に物をいわせて、家康が鋳造させた駿河小判も思い出される駿河町に、間口九間に奥行き四十間という棟の高い長屋を造って新店を出し、すべて現金売りで掛値なしと定め、40余人の利発な手代を思うままにさばき、一人に1品を受け持たせた。たとえば金欄類1人、日野絹・郡内絹類に1人、羽二重一人、紗綾類1人、紅類1人、麻袴1人、毛織類1人というふうに手分けして売らせた。おまけにびろうど1寸4方、どんすを毛貫袋になるほど、緋じゅすは槍印になるだけの長さでも、竜門は袖覆輪の片方分だけでも、求めに応じて売り渡した。ことに奉公口の決まった侍が、にわかに主君にお目見えす際の礼服の熨斗目や、急ぎの羽織などは、その使いを待たせておいて、数十人もかかえた職人が居ならび、即座に仕立てて渡してやる。そんなふうだから家が繁盛し、毎日百五十両ならしの商売をしたという。世の調法とは、この店のことである。この亭主を見ると、目鼻手足があって、ほかの人と変わったところはないが、ただ家職にかえてかしこいだけである。大商人の手本といってよかろう。
・藤市は利口者で、自分一代でこれほどの金持ちになったのである。何よりも人間は、心身ともに堅実であることが世渡りの根本である。この男は家業のほかに反古で帳面を綴じておいて、いつも店に居て筆を離さず、両替屋の手代が通ると、銭や小判の相場を聞いて書きつける。米問屋の手代には、米の相場を聞き合わせ、薬屋や呉服屋の手代には、長崎の様子をたずね、繰綿や塩・酒の相場は、江戸の出店からの書状のとどく日を待ち合わせて記録するというふうに、毎日万事の相場を書きつけておくので、わからなくなった事はこの店にたずね、京都中の重宝となった。
・何よりもわが子の成長を見るほど、おもしろいものはない。藤市も娘が年ごろになったので、嫁入り屏風をこさえてやったが、京都の名所づくしを描いてやったら、まだ見ていない所を歩きたがるだろうし、「源氏物語」や「伊勢物語」の絵では浮気者になるだろうからと、多田の銀山の出盛りの有様を描かせた。こういう考えから、娘のしつけを読みこんだいろは歌を自分で作って読み習わせ、寺小屋へも通わせないで、家で手習いを教え、とうとう京で一番のかしこい娘に育てあげた。娘も親の倹約なことを見習って、手習いはじめの8歳から墨で袂をよごさず、桃の節句の雛遊びをやめ、盆にも踊らず、毎日髪も自分ですいて丸髷に結い、身の回りのことはいっさい人の世話にならない。引き習った真綿も、着丈の縦横いっぱいになるように仕上げるのであった。とかく女の子は遊ばせておいてはいけないものだ。
・長者丸という妙薬の処方を御伝授しましょう。早起き5両、家業20両、夜業(よなべ)8両、倹約10両、健康7両、この50両の薬を細かにくだき、秤目にちがいのないように気をつけて調合に念を入れ、これを朝晩飲んだら、長者にならぬということは、まずありますまい。けれどもこれには大事な毒断ちがあります。美食と好色と絹物のふだん着、女房の乗物外出、娘の琴や歌がるた遊び、鼓や太鼓など息子の遊芸、蹴鞠、楊弓、香会、俳諧、座敷普請、茶の湯道楽、花見、舟遊び、日風呂入り、夜歩き、博打、囲碁、双六、町人の居合い抜きと剣術、寺社参詣と後生を願う心、諸事の仲裁と保証人、新田開発の出願と鉱山事業の仲間入り、食事ごとの酒、煙草好き、あてのない京のぼり、勧進相撲の金主、奉加帳の世話焼き、家業のほかの小細工、金目貫の収集、役者遊びと郭通い、揚屋への出入り、月息8厘より高い借金、まずこの通りを斑猫やひそう石よりもおそろしい毒薬と心得て、口に出すことはもちろん、心に思ってもいけません。
・この人も、一生を通じてけちであったら、富士を白銀にして持っていたからとて、つまりは武蔵野の土となり、橋場で火葬の煙となってしまう身であることを悟って、かしこくも老後の費用を蓄えておき、ありとあらゆる楽しいことをして暮らしたのである。88歳の時には、世間の人が伝え聞いてあやかろうと、枡掻きを切ってもらったり、子どもの名付け親を頼んだりした。こうして人に重宝がられ、飽きるほどほめられて亡くなったが、その葬礼のりっぱなことといったら、まるでそのまま仏にでもなられるのかと思われるほどで、後の世でもさぞかし仕合わせなことだろうと、人々はうらやむのであった。人は若い時に蓄えて、年寄ってからの慈善がたいせつである。とてもあの世へは持っていけないものだが、とはいえこの世でなくてはならぬ物は金だ。金の世の中とはよくいった。
・三弥は小判蔵の鍵を受け取って、思うままにぜいたくを始めた。豊後の水質は硬いと言い出し、とにかく都の水にまさるものはあるまいと、清水寺の音羽の滝水を毎日くませ、幾樽も順ぐりに遠い海上を運ばせて、わが家の内に設けた蒸風呂や据風呂を毎日たかせた。昔、塩釜ともいう奥州千賀の浦の景色を京都六条の邸宅にうつしたので、塩釜の大臣とよばれた左大臣源融の例がある。この三弥は京都の水を豊後の風呂桶にうつしたというので、風呂釜の大臣と世間ではいいふらした。これでは、おっつけ暮らしも立たなくなるだろうと見守っていると、思ったとおりある年の暮れに年間の収支決算をしたところが、5千貫目余の収支に、1匁3分だけ元銀に不足が生じた。それからはしだいに穴が大きくなって、千丈の堤も蟻の穴から崩れるというたとえの通り、その身に災難が重なって、ついには罪を犯して命まで失い、あとに残った物は他人の宝となってしまった。
・商売が左前になった呉服屋忠助という男がいた。昔は、駿河府中の本町に軒を並べていた商家の中でも、花菱の大紋を暖簾に染め抜き菱屋という屋号をあらわした豪商であった。駿河の国はもとより、東国や北国にも多くの手代に出店を持たせたのえ、しだいに人手がふえていった。家内のにぎやかさとはいえば、飯を炊く大釜には富士山のように煙がたえず、水瓶には湖水をたたえ、朱椀は竜田の紅葉を散らしたようであり、白箸は武蔵野に立つ霜柱のようであった。そうした朝の繁盛が夕べに消え、こうもまたなり果てるというのも世の習いであり、時世時節とはいうものの、つまるところは亭主の心がけがわるいからである。忠助の親の代には、わずかの身代であったが、安倍川紙衣に縮緬皺をつけることを工夫し、また、さまざまは小紋をつけることもはじめ、この土地の名物となって諸国に売り広めた。はじめはこの人ひとりの専売だったので、30年あまりのうちに千貫目の身代になったといわれている。この親の子にしてはできがわるく、忠助が家を継いでから30年あまりというもの、収支の決算もせず帳面にもつけないという無鉄砲なやり方であった。だから算盤の玉をはじいても締めくくりのつくはずはなく、春の柳が風に乱れるように家計は乱れ放題、日向の氷のように、またたくまに元の水にかえってしまい、湯をのもうにも薪さえない有様となった。これほどまでに衰えるということは、めったにないことである。いったいに金もうけはむつかしく、減るのも早いものだ。忠助も財産をすってしまった今となってこの事を悟っても、もはや手遅れである。
・何事でも積もれば、大願も成就するものだ。この九助は、この心がけでしだいに家が栄え、田畑を買い求め、ほどなく大百姓となった。季節季節の農作物に肥料をほどこし、田の草を取り、水をかいて手入れするので、おのずから稲が実って房ぶりがよく、木綿もたっぷりと花咲き実り、人より多くの収穫があるというのは、けっして天然自然の結果ではない。朝夕油断なく、鍬鍬のちびるほど働くからである。九助は万事に工夫の深い男で、便利な物をいろいろと発明した。鉄の爪を植え並べて、細ざらえというものをこしらえたが、土をならすのにこれほど人の助けになるものはない。このほかに唐箕や千石通しも発明した。またそれまでは、麦の穂をこく仕事も手間がかかったのに、尖り竹を植えならべ、これを後家倒しと名付けた。昔はこき竹を使って二人がかりで穂先をこいでいたものだが、これは力を入れずに、しかも一人で手早く使えるように工夫したのであった。さらにその後、女の綿仕事をまだるっこく思い、ことに綿打ちは小さな竹弓を使って、ようよう一日仕事に5斤しかこなせないことに目をつけて工夫し、中国人のやり方を調べて、鯨の筋を弦にした唐弓という道具をはじめて作りだした。それを世間に内緒で、弦を横槌で打ってみたところが、一日に三貫目ずつもはかどったので、雪山のように繰綿を買い込み、多くの人を雇って打たせ、打綿の荷を数かぎりなく江戸に積み出すようになった。4、5年のうちに大金持ちとなって、大和で知らぬもののない綿商人となった。平野村、大坂京橋の綿市場、同じく大坂の綿問屋の富田屋、銭屋、天王寺屋などに、毎日何百貫目と限りもなく、摂津・河内両国の綿を買い取って送りだし、秋から冬にかけてのわずかの間に毎年もうけて、30年あまりに千貫目の身代となった。その財産を遺言状にしたためて、その身一代は楽をするということもなく、子孫のためによいことをして、88歳で亡くなった。
・「めいめいの家業を怠って、諸芸を深く好んではならない。これらの浪人たちも、日ごろすきな道で世を渡る身の上となってしまった。人にすぐれて器用といわれる事は、必ずその身の仇となるものだ。公家は歌道を、武士は弓馬の道を励み、町人は算用をこまかにして、天秤のはかり方を間違わないようにし、手まめに売上帳をつけよ」と小金が原の長者が、大勢の子どもに申し渡された。
・この跡取りが、金のあるにまかせてすこし浮かれだし、妾をさがしたり、旅回りの陰間を相手に遊んだりしたところが、例の嫁は見込んだとおり焼餅をやいてわめき立てるので、世間体をはばかっておのずから色遊びをやめ、酒を呑んで宵から寝るよりほかはなかった。亭主が家を出ないので、まして手代どもはあんどんの陰にすわって慰みに帳面を繰り、丁稚は地算を習うよりほかなう、万事家の治まる事ばかりである。最初のうち笑っていた御内儀の焼餅が家のためになることを、今になって皆々思いあたるのであった。すべて親が子に対して寛大すぎるのは、家を乱すもとである。ずいぶんきびしく仕向けても、たいていは母親が腹を合わせて抜け道をつくり、身分不相応なむだ遣いをさせるものだ。厳しい躾はその子のためで、甘いのは仇になる。
・親仁が40年かかって稼ぎだした身代を、息子は6年で使い果たしてしまった。だから金銀というものは、もうけにくくて減りやすいものだ。朝夕算盤に油断してはならない。すべて店構えのよしあしについていえば、鮫皮、書物、香具、絹布など、上品な商いは、店飾りのゆったりとしているほうがよい。質屋や食い物商売は、小さい家でじだらくなのがよいということだ。「久しく商売を続け、客の出入りしつけた商人の家を改築してはいけない」とは、さる見識ある長者の言葉である。
・このように万事に気をつけて、後には、思いがけない知恵を出し、船着場の船頭どもの便利をはかった行水船を工夫したり、刻み昆布をつくって秤にかけて売り出したり、さてはチャン塗りの油皿、縮緬紙の煙草入れなど、ほかの人のしない事で、15年もたたないうちに3万両の金持ちになり、霊岸島に楽隠居して、二人の養い親に孝をつくした。いかに繁盛の土地だからといって、人並の働きで長者になることはできない。
・人の家業は急流の水車のように休みなく、いつも油断してはならない。瀬々の流れの速さは、一昼夜に75里と計算してあるが、その水の行く末さえ限りのあるように、人間の一生も長いようだが短いものだ。ほどなく額に老いの波が立ってしまう。
・ある長者の言葉に、「欲しい物は買わず、惜しい物を売れ」とある。この心掛けで稼いで奢りをやめたら、よい結果を見るにきまった事だ。だから商いの心掛けは、資本を強固にして、気を大きく持つことが肝要である。
・金持ちになるには、その心を山のように大きく持って、よい手代を持つことが第一の条件である。大坂の港にも、江戸へ積み出す酒を造りはじめて、一門が栄えている者がおり、銅山に手を出してにわか成金になった者もいる。吉野漆の問屋をして、人の知らない大金を貯えている人もおれば、小早という江戸通いの三、四百石積みの快速船を造りだし、船問屋として名をあげた人もある。家屋敷を抵当にとる金貸しをして富貴になった人もあり、鉄山の採掘を請け負ってしだいに金持ちなった人もある。これらは近代の成り上がり商人で、30年ことのかたの成功者である。町人の住むべき所は、京・大坂・江戸の三都以外にはない。遠国にも金持ちは多いが、世間の噂にのぼらぬ人が多い。
良かった本まとめ(2015年上半期)
<今日の独り言>
Twitterをご覧ください!フォローをよろしくお願いします。