いいね~おいしいね~

食べたり買って良かったもの等を実体験に基づき厳選紹介!ぜひご利用頂きより良い人生や日本経済等活性化につながれば幸いです♪

香味屋(東京都台東区根岸)で洋食を堪能しました!

2012年05月30日 01時00分00秒 | 外食
<水曜は食べ物のおはなし>

 東京メトロ日比谷線の入谷駅から徒歩約5分のところにある香味屋(かみや)で食事を楽しみました!
食べログでは、TOP5000にも入る人気店でもあります。

 お店は新しく綺麗で、入口の受付でお店の方が案内してくれます。
大正14年創業の老舗ですが、当初は輸入雑貨店だったようです。

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↑店構え

店内も清潔で綺麗で、壁には絵が飾られ、真っ白のテーブルの上には一輪挿しの花が飾られていました。
高級感を感じます。

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↑店内1F奥

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↑店内1F

 知人の紹介でこの店には来たのですが、メンチカツが美味しいと言っていたのでメンチカツ小(1150円)を注文します。
ちなみにメンチカツ(2000円)はメンチカツ2個で、メンチカツ小(1150円)はメンチカツ1個のようです。
それから、このお店は美味しいオーラが出ているので、メンチカツだけでなくお弁当A(3150円)も注文して色々な味を楽しむことにしました。

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↑お弁当メニュー

しばらくしてメンチカツが運ばれますが、ナイフを通してみると、メンチカツの中から肉汁がほとばしるのにはビックリ!
食べてみると、アツアツで旨い!!
デミグラスソースも濃厚で美味しい!
これは堪りませんね。
あまりの美味しさに脱帽です。

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↑メンチカツ

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↑メンチカツの中

それから、3段のお弁当を開けて見ると、おかずが彩り鮮やかで美しい!!
右の箱にはエビ・コールドビーフ・テリーヌ・エスカベッシュ?・フルーツ等、左の箱にはチキン唐揚げ・牛タンコロッケ・一口カツ・トマト・ポテサラ等がありボリューム満点です。
もちろんどれも上品な味で美味しく、しかも唐揚げやコロッケ・カツは出来たてアツアツで美味しい!
この種類の多さには嬉しいです。

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↑お弁当A

 お値段もそれなりにしますが、香味屋の食事はどれも素材がしっかりしていて美味しく、また店内は上品で綺麗でとてもオススメですね!
帰り際にお店の人と少し話しましたが、私が選択した弁当Aとメンチカツ小で、ちょうどよいボリュームだろうとのことでした。
またタンシチュー(3500円)もオススメなようです。

レストラン香味屋
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美味しかったものまとめ(2011年下半期)


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宮城県の七ヶ浜町での震災復興支援ボランティア参加体験・方法等について

2012年05月28日 01時00分00秒 | イベント・外出
<月曜はお勧めなおはなし>

 宮城県の七ヶ浜町での震災復興支援ボランティアに参加してきました。
 少しでも東北地方の震災復興の一助となればと思ったためです。

まず七ヶ浜町のボランティアセンターに9:20頃到着し、受付をしました。なお、月曜と火曜は休みのようです。

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↑ボランティアセンター入口

 ビブスをもらい、ガムテープに自分の所属や名前を書き、ビブスの自分の胸の辺りに貼ります。
ボランティアセンターの中にはたくさんの寄せ書きや千羽鶴が飾られていましたね。
復興に対する熱い思いを感じます。

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↑ボランティアセンターの中

そして9:30からオリエンテーションが始まりました。

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↑オリエンテーションの様子

この日は、全国から329名が集まりました。東京からだけでなく、沖縄からも来ていて驚きましたね。
企業や労働組合、大学生、高校生、個人などたくさん来ていました。
平日は大体100名程度とのことです。
ツアーでボランティアに来ている方もいるようです。

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↑参加メンバーと作業割り当て

フロア一杯にたくさんの方が集まり、復興に懸ける思いを感じ、涙がこぼれそうになりましたね。
また、日本は困難がふりかかっても打破できると、心強くも思いました。


そして注意事項が話されます。

必ず長袖シャツに長ズボンを履き、靴は長靴の底に鉄板を入れることとのことです。
ケガを防ぐためと、釘などが足裏に刺さらないためにです。

また、綿の手袋の上にゴム手袋をして、マスクやゴーグル、帽子をかぶり、水分は十分補給するように言われます。

特に女性はトイレを心配して水分を補給しない場合があるが、それは熱中症となり危険とのこと。
トイレの場合は、リーダー等が車でトイレまで運んでくれるとのことでした。

ボランティアの方で擦り傷で破傷風となり亡くなった方もいるとは聞いていましたが、ケガには十分注意するように言われます。
とにかく無理をしないようにとのことでした。

それから、高速道路を使って来た人は通行無料となるため、12時から13時の間に申請書を提出してくれとのことでした。
チケットをもらえ、高速道路の入口でそのチケットを見せ、出口で渡せば良いようです。
ちなみに行きは、自治体に事前に申請が必要なようです。
2012年6月までは復興ボランティアが使用する高速道路は無料となるようです。

作業時間は午前中は10:00~12:00の2時間、そして1時間休憩をして、午後は13:00~15:00となります。
昼食は近くのスーパーで弁当を買って食べたりします。


津波による被害の復興支援については、現在は住宅地のガレキ撤去が終わり、田んぼ等の復旧行程となっているようです。

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↑田圃の復旧工程

それから、参加者代表による熱い思いの発表や農家の方の感謝の言葉等もありました。

それからこの狭い中で、ラジオ体操をしたのには驚きました^_^;)
しかもラジオ体操は東北弁で笑えます^_^)

そして、班分けがあり、各リーダーの後について外に出て、簡単な説明があり、現地へ出発します。

現地は、大きなガレキは片づけられていて、海まで少し残った松の木の他には何もありません。
住宅地だったようですが、すべて流されたようで、住宅地の土台のコンクリートだけが残っていました。

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↑現地の海方向

なお、海は天気が良く、とてもきれいでした。
ここに大津波が来たとは信じられないほど、穏やかでした。

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↑海

道の途中には、津波で破壊された車がたくさん置かれていました。津波の破壊力には改めて驚かされます。

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↑津波で破壊された車

 田んぼだったところには、たくさんの木材や石、ガラス、茶碗などが落ちていて、一つずつ拾って、それぞれの近くで燃えるゴミ、燃えないゴミ、ガラスに分けていきます。
リーダーの方が全般的に適度に説明してくれるため悩むことはありません。
それにしても、茶碗や包丁、学童用品、判読できない葉書等が見つかると、可哀想にと思ってしまいます。

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↑ガレキの分別

 午後も前半はガレキの分別を行い、後半は小さな石や燃えるゴミは土嚢に入れ、ひもで縛ります。
人数が多いので、かなりのガレキが集まりましたね。
改めて人の力は大きいと感じます。

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↑集められたガレキの一部

 ただ、地面を掘るとまだまだガレキが出てくるので、今後は重機を使って掘り起こし、またガレキを取り除かなければいけないと思います。
何度も津波がきたため、かなり深くガレキがあるようです。
また、最終的には除塩も大変かと思います。

この日は天気がよく日差しが強かったですが、風が適度にあったので、そんなに汗もかくことはなく快適に作業ができたのは良かったと思います。夏は大変だと思います。

 最後に現地でミーティングを行い、代表者が感想を述べたりして、拍手で終了することができました。
みんなでボランティアをするのは楽しいし、気持ちが良いものだと思いましたね。
とてもオススメです!!
ただ、帰りはさすがに肉体労働のため疲れ果ててしまいました・・・。


まだまだ、震災復興支援が求められています。
ボランティアとして参加したい方がいらっしゃれば、ぜひ積極的に参加して頂きたいと思います。

今後震災復興ボランティアをされる方のために、準備するものを紹介致します。
なお応急セットはリーダーの方が持っていました。

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↑準備するもの

・麦わら帽子もしくはスポーツキャップ(日除けのためにできるだけ後ろ部分もツバが長いもの。スポーツキャップの場合は後ろの首筋に日除けを追加する物を買うとよいでしょう。
・ゴーグル
・防塵用マスク(ボランティアセンターにありました)
・タオル
・長袖の作業着(シャツなど薄手はダメ。夏でも半袖では危険なため作業許可してくれません)
・インナーの薄手の綿手袋(100円程度、汗吸収のため・軍手でも可)、ゴム手袋(厚いもの)(ガラス等で手を切らないため)
・長ズボン(ジーンズでも可。夏でも短パンではきけんなため作業許可してくれません))
・靴下
・長靴とその底に入れる薄い鉄板(釘等を踏み抜かないため。800円程度)(ボランティアセンターに長靴の予備がありました)
・雨カッパ
・ウエストポーチもしくはリュック
・水・飲み物(ボランティアセンターにありました)
・塩分補給の飴(ボランティアセンターにありました)
・熱い思いやりの気持ち^_^)

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「傷はぜったい消毒するな(夏井睦)」という本はオススメ!

2012年05月25日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

「傷はぜったい消毒するな(夏井睦)」の購入はコチラ

「傷はぜったい消毒するな」という本は、ケガをしたら消毒して乾かすという世間の常識は実は間違っていて、傷は消毒せず乾燥させなければ、痛まず早くしかもきれいに治るということについて、分かりやすく説明した本です。

 消毒は、細菌をやっつけますが、人間の体にも害を与え、だから痛みが増すというのはナルホドと思いましたね。

 また、カサブタは組織が乾燥して死んだものなので、カサブタを作らずに早くきれいに治すのが良いというのもナルホドと思いました。

 具体的に擦りむき傷等には以下のものがあれば良いようです。

 ・創部を洗浄する水(水道水、糖分が入っていないペットボトルのお茶などでも可)
 ・血液や汚れを拭き取るもの(タオル、ティッシュペーパー、ガーゼなど)
 ・創部を覆うもの(プラスモイスト、市販のハイドロコロイド被覆材(キズパワーパッドなど)、食品包装用ラップ、白色ワセリンなど
 ・その他(絆創膏、包帯など)

それから、この治療法でアトピーが治るということや、石鹸やシャンプー、化粧も実は体には良くないと言うことがわかりました。

そのほか、医学治療の歴史や生物進化についても分かりやすく説明があります。

 そして、このような医学だけでなくいろんなことで今までの常識を疑い、生活などをより良くする必要があるということを考えさせられました。

 とてもオススメな本です!

以下はこの本のポイントなどです。

・「湿潤治療」とは、10年ほど前から筆者が独自に始めたもので、薬も、高価な治療材料も使わずに擦りむき傷も熱傷(ヤケド)も治してしまうという治療である。実際、大学病院の熱傷センターで「これは入院して手術しないと治らない」と宣告された重症熱傷なのに、湿潤治療に切り替えて外来通院だけで二週間で完治したという例が多数あるのだ。しかも治療法そのものは極めてシンプルで簡単なため、素人でも実行できる。なぜ、擦りむき傷も熱傷も同じ方法で治ってしまうのかというと、創傷治癒過程(傷が治る過程)の徹底的な研究に基づき、過去の治療理論とのしがらみを全て切り捨ててゼロから作り上げた治療だからだ。擦りむき傷と熱傷では原因は異なっているが、そこから治っていく過程は同じである。だから、その治る過程の邪魔をせず、助けてやればいい。そう突き詰めていった結果として、シンプルで簡単な治療になっただけのことである。治療の原則は次の二つだ。
 ①傷を消毒しん。消毒薬を含む薬剤を治療に使わない。
 ②創面を乾燥させない。
この治療法は、現時点での傷の治療の原則である「消毒して乾燥させる(=ガーゼで覆う)」と正反対であり、多くの病院で常識的に行われている傷の治療を完全否定するものだ。もちろん、確固たる根拠があって完全否定している。この治療法が正しいことは、擦りむき傷を食品包装用ラップで覆ってみればわかる。あのヒリつくような痛みが軽くなるからだ。痛みが軽くなった瞬間、あなたの体はあなたに「この治療は正しい」と教えてくれるはずだ。

・人間は水なしには数日しか生存できないように、人体を構成するあらゆる細胞も乾燥状態ではすぐに死んでしまう。だから、傷口を乾燥させると皮膚の細胞も真皮組織も肉芽組織も死んでしまう。そして死んだ人間が生き返ることがないように、一旦死んだ細胞も組織も蘇ることはなく死骸になる。それがカサブタだ。つまり傷の上にできるカサブタとは、乾燥して死に、ミイラになったようなものだ。従来は、カサブタができると治る、と誤解されていた。だから、早くカサブタができるようにとせっせと乾かしてきたわけだが、何のことはない、傷が治らないように、細胞が早く死ぬようにと一生懸命乾かしていたのだ。カサブタは要するに、中にばい菌を閉じこめて上からふたをするようなものである。だから、カサブタになるといつまでも治らないし、閉じ込められたばい菌が暴れ出せば化膿することになる。逆に傷を乾かさないようにすれば、真皮も肉芽も、その上を移動する皮膚細胞も元気いっぱいだ。その結果、傷の表面は新たに増えた皮膚細胞で覆われ、皮膚が再生することになる。

・人間の体は自前で傷を治すメカニズムを持っていて、それがあの傷口のジュクジュクだったのだ。この傷のジュクジュクはいわば、人体細胞の最適の培養液なのである。だから、傷口が常にこのジュクジュクで覆われるようにしてやれば、傷は簡単に治ってしまうのだ。せっかく「傷を治す物質」があるのなら、それを利用しない手はないのである。ではどうするか、といえば、話は簡単で、先にも述べた通り、傷口に分泌されているジュクジュク、つまり滲出液が外にこぼれないように、「水を通さないもの、空気を通さないもの」で覆ってやればいい。そうすれば傷の表面は常に滲出液で潤った状態になって乾燥しなくなり、傷表面のさまざまな細胞は活発に分裂し、傷はどんどん治ってしまう。これが「湿潤治療」の原理だ。では傷の上を覆うものは何がいいのだろうか。実は何だっていい。人体に有害な成分が含まれてさえいなければ、
 ①傷にくっつかない。
 ②滲出液(=細胞成長因子)を外に逃がさない。
この2つの条件をクリアしていれば十分だ。
さらにもう一つ、
 ③ある程度水分(滲出液)吸収能力がある。
という条件が加わればベストである。なぜ、水分吸収能力が必要かといえば、それがないと傷周囲の皮膚に汗疹ができたり、膿か疹(いわゆる「とびひ」)ができたりするのだ。皮膚は防御器官であるとともに排泄器官であり、体外に汗と不感蒸泄(発汗以外に皮膚および気道から蒸散する水分)を出すという重要な役目を持っているからである。だからそれを無視してラップなどで皮膚を密封すると、皮膚は排泄器官としての働きができずに機能不全に陥り、その結果としてさまざまなトラブルが起こることにん。そのトラブルが汗疹であり膿か疹なのだ。また、滲出液が皮膚についているだけで、皮膚炎を起こすこともある。要するに滲出液(=細胞成長因子)は傷を治すには最善の治療薬だが、皮膚にとっては余計物、厄介者なのである。

・この3つの条件を満たした治療材料を「創傷被覆材」といい、1980年代から病院での傷や褥そう(床ずれ)の治療に使われ始めている。その一つがハイドロコロイドという素材で、現在、「キズパワーパッド」という商品名でドラッグストアなどで販売されている。また、「プラスモイスト」という治療材料もこの3つの条件を兼ね備えており、しかも値段がハイドロコロイドより安価であり、調剤薬局の店頭やインターネットで購入できる。水分吸収能力という点ではプラスモイストはハイドロコロイドをはるかにしのいでおり、素人が傷の治療に使用してもまず失敗することがなく、安心して使える治療材料である。

・湿潤治療について、その特徴をまとめると次のようになる。
 ①すぐに傷が治る。
 ②痛みもなくなる。
 ③擦りむき傷も深い創も熱傷も同じ方法で治療できる。
 ④消毒薬も軟膏も不要。
 ⑤最低限、水とラップと絆創膏があれば治療でき、極めて安価。
 ⑥治療材料が軽くてかさばらない。
 ⑦治療方法が簡単、勘弁

・日常遭遇することの多い擦りむき傷(擦過創)とヤケド(熱傷)を例にとり、実際の治療法について説明しよう。その他、浅いキリ傷も同じ方法で治療できる。治療に必要なものは次の通りだ。
 ○創部を洗浄する水(水道水、糖分が入っていないペットボトルのお茶などでも可)
 ○血液や汚れを拭き取るもの(タオル、ティッシュペーパー、ガーゼなど)
 ○創部を覆うもの(プラスモイスト、市販のハイドロコロイド被覆材(キズパワーパッドなど)、食品包装用ラップ、白色ワセリンなど
 ○その他(絆創膏、包帯など)
まず、創部洗浄用の液体だが、滅菌水である必要はなく、通常飲めるものなら創部洗浄に使用して大丈夫だ。ただし、糖分が含まれているもので洗うと痛いので避けた方が無難だろう。また、流水中には創感染を起こす細菌は存在しないため、川の水で洗っても問題はない。血液や汚れを拭き取るにはタオルやティッシュペーパーを使用するが、こちらも家庭で使っているものでよい。創部を覆うものには前述のプラスモイスト、ハイドロコロイド被覆材、食品包装用ラップのいずれかでよい。まず、プラスモイストだが、これは筆者が傷の治療のために開発したもので、インターネットや一部の調剤薬局で購入できる。ハイドロコロイドは、「キズパワーパッド」という商品名でドラッグストアやコンビニエンスストアで販売されている。ちなみにキズパワーパッドの説明書には「最大5日間、貼ったままでよい」などと書かれているが、これは鵜呑みにしない方がいい。貼りっぱなしにすると汗疹や膿か疹(とびひ)になるからだ。やはり一日一度は張り替えた方がいいだおう。これらが入手できない場合には、ラップ(サランラップなど)も治療に有用だ。ラップは創面には固着せず、創面の乾燥を防ぐという目的に適した素材である。しかし吸水力が全くないため、暑い時期に使用するとラップで覆った部位の皮膚にやはり汗疹やとびひを作ったりするので注意が必要だ。これを防ぐためには、汗をかく時期には一日に数回ラップをはがして傷周囲の皮膚をよく洗って貼り替えるのが効果的だ。ラップにはさまざまな種類の商品があるが、薄い方が密着性がよく、鎮痛効果が高い。ラップに白色ワセリンを塗るとさらに鎮痛効果が高い。白色ワセリンは、原油の生成過程で得られる鎖状飽和炭化水素の一種で、炭素数が16から20の混合体を指す。ちなみに炭素数が21の炭化水素がパラフィン(石蝋)、22以上のものは潤滑油と呼ばれている。高純度の白色ワセリンは、分子量が280前後と小さいために抗原性(アレルギーを起こす性質)を持たず、常温での反応性は乏しく、生体との反応もほとんどなく、非常に安全な物質といえる。実際、白色ワセリンは、口から入っても目に付いても、害がないことが確認されている。なお、白色ワセリンは「白色ワセリン」「プロペト」「Vasellin」の商品名で各社から販売されていて、ドラッグストアなどで購入できる。

・日常、最も多いケガといえば擦りむき傷だ。ちょっと擦りむいてヒリヒリしている程度から、出血しているようなものまでさまざまだが、これらは全て同じ方法で治療できる。
①まず出血を止める。これは創部にタオルなどを当てて、その上から軽く圧迫すれば数分で止まる。出血部を顔くらいの高さに拳上するとさらに効果的。なお、心臓に近い部位を縛ると逆に出血が多くなるため、心臓に近い部位は絶対に縛ってはいけない(これは手足の裂傷でも同じ)
②傷の周りの皮膚の汚れを拭き取る。もしも傷の中に砂などが入っていたら、水道かシャワーで洗い落とす。
③ハイドロコロイドの場合は直接傷の上に貼り、絆創膏などは不要
④プラスモイストとラップの場合は、傷よりやや大きめのサイズに切って、薄く白色ワセリンを塗り傷を覆い、絆創膏で固定する。
⑤ラップの場合はラップの上にタオルかガーゼを当て(漏れだしてくる滲出液を吸収するため)、その上から包帯を巻く。
⑥ハイドロコロイドとプラスモイストは1日1回は貼り替える。ラップの場合は、寒い時期なら1日1回、暑い時期であれば1日2~3回交換する。交換の際は傷周囲の皮膚をよく洗って、汗や滲出液を十分に洗い落とす。
⑦傷の部分がツルツルした皮膚で覆われ、滲出液が出なくなったら、もうプラスモイストやラップで覆う必要はない。
⑧治療が終了した後も、顔面などの露出部の場合は、直接日光を避けるようにする。再生したての皮膚は色素沈着を起こしやすいからだ。遮光の方法は、市販のUVカットのクリームなどでよく、顔面の場合は3ヶ月くらい続ける。

・とはいえ、次のような場合は、病院を受診してほしい。
①創面に砂や泥が入り込み、汚染されている場合
②傷が深い場合
③治療の途中で発熱(38度台の熱)があったり、創部に痛みがある場合
①の場合には、麻酔をしないと砂などが除去できず、破傷風の予防注射も必要になるためだ。③の場合は傷が化膿したための発熱である可能性があり、抗生物質の点滴や内服が必要となる。

・カサブタが小さい場合は、白色ワセリンを塗ったラップかプラスモイスト、あるいはハイドロコロイドで覆っておくと、数日で自然に溶解し、まるで引き上げ湯葉のようにつるりと取れる。

・水ぶくれはできていないが、赤くてヒリヒリする浅いヤケドで面積が小さい場合は市販のハイドロコロイドを貼付、面積が広い場合は、プrスモイストに白色ワセリンを塗布して貼るか、ラップに白色ワセリンを塗布して貼れば、ヒリヒリした痛みはすぐに治まるはずだ。半日ほどして剥がし、赤みがなくなってヒリヒリ感もなくなれば治療終了である。同様に、日焼けし過ぎてピリピリと痛い場合にも、同じ方法で治療すると痛みはすぐに治まる。日焼けにしても熱湯によるヤケドにしても、ヒリヒリ、ピリピリとした痛みは、患部が直接空気に触れて乾燥したこtが原因なのである。

・水ぶくれが大きい場合(おおよその目安で5cmを超える水ぶくれ)には、湿潤治療をしている病院を受診し、治療を受けてほしい。また、個々の水ぶくれは小さくても、それが多発している場合も同様で、病院を受診した方がよい。小さな水ぶくれが数個できている程度であれば、そのまま白色ワセリンを塗ったラップかプラスモイストで覆う。その後は擦りむき傷と一緒で、ラップやプラスモイストの交換を続け、水ぶくれが平らになったら治療終了となる。水ぶくれが2~3cm以上だったら、水ぶくれを破って水ぶくれの表面を除去する。通常は痛みなく除去できる。そして白色ワセリンを塗ったラップかプラスモイストで創面を覆う。ラップやプラスモイストを交換する際、新たな水ぶくれができていたら必ず除去する。以後は前述の方法と同じで、水ぶくれの部分が乾燥してつるつるした皮膚で覆われたら治療終了である。

・次のような場合はさすがに素人療法は危険であり、抗生剤投与や切開などの治療が必要になるため、必ず病院を受診してほしい。

 ・刃物を深く刺した
 ・異物(木片、金属、魚骨など)を刺し、中に破片が残っている
 ・古い釘を踏んだ
 ・動物にかまれて血が出ている
 ・動物にかまれて腫れている
 ・深い切り傷、大きな切り傷
 ・皮膚がなくなっている(欠損している)
 ・切り傷で出血が止まらない
 ・指や手足が動かない
 ・指などがしびれている
 ・大きな水ふくれができているヤケド
 ・面積が広いヤケド
 ・貼るタイプのアンカ、湯たんぽ、電気カーペットなどによる低温熱傷
 ・砂や泥が入り込んでいる切り傷、擦りむき傷
 ・赤く腫れて痛みがある傷

・解決の糸口は意外なところにあった。数学者クルト・ゲーデル(1906~1978)の不完全性定理である。「任意の系が与えられた時、その系の内部では証明できない命題が常に存在する」という数理哲学の定理だ。そのような命題については、より高い次元に移り、そこから俯瞰しなければ真偽は判定できないことをゲーデルは証明している。そうであれば、医学の問題を医学で解決するのはおかしいことになる。では、医学より高次のものとは何か、それは生物学であり物理学であり化学しかない。つまり、化学や生物学の事実をベースにしてそこから演繹的思考を積み重ね、医学の諸問題を解決すればいいのではないか。それなら何も古い文献を引っ張り出す必要もないし、他人のデータに頼らなくとも問題が解決できることになる。そして私は数学の証明をするように医学の問題が証明できる可能性に気がついたのだ。この頃から私は医学書も医学論文も読まなくなった。読むなら生物学、微生物学の研究書であり、暇な時間には物理学や化学、数学の本を読むようになった。特に微生物学や生物学の基礎を学ぶことにより、医学にたくさんある「常識の嘘」が手に取るように見えてきた。だが、このよな治療を実際に行うと、どうしても同じ病院内の医師やその地域の開業医の先生方と重大なあつれきが生じることになる。なぜ他の病院で治らない傷が数日で治ってしまったのかと患者に問われたら、それまでの治療法が悪かったから、他の医師が治療法を知らなかったから、としか答えようがないからだ。これで患者からは納得してもらえるが、収まらないのは他の医師である。当然、一つの病院で長く勤めることが難しくなり、病院を転々とする医師生活になってしまった。

・実は、消毒薬は人間の細胞膜タンパクも変性し、人間の細胞膜を破壊するのだ。なぜかというと、消毒薬には人間の細胞膜タンパクと細菌の細胞膜タンパクの区別がつかないからだ。というより、人間のタンパク質だろうが細菌のタンパク質だろうが、タンパク質と見るとそれに結合しては破壊しようとするのが消毒薬なのだ。タンパク質と見れば無差別攻撃をかけてくるのである。

・誰でも一度や二度、傷をヨーチンはイソジンで消毒されたことがあるだろう。すごく痛かったと思う。なぜ痛かったのだろうか。それは、消毒薬が傷口にむき出しになった細胞膜タンパクを破壊し、細胞を壊し、傷口を深くしたからだ。消毒薬は傷口の破壊薬だから、傷口が破壊されて痛かったのだ。消毒薬による傷の消毒とは、言ってみれば「傷の熱湯消毒」と変わりないのである。

・消毒するとまず痛みが生じる。消毒薬のタンパク変性作用が、痛み刺激を伝える神経末端に刺激し、それが痛みとして脳に伝えられたためだ。つまり、体は消毒薬による作用を「有害作用!体に危険!」と判断し、これから逃げないとヤバイと警告を発したのだ。しかし、この神経からの警告を無視してさらに消毒を続けると、その次は表皮、そして真皮も破壊される。もちろん、皮膚には再生能力があるから多少の攻撃には耐えられるが、各種の「組織破壊軟膏」が使われたりすると皮膚の破壊は決定的なものとなる。つまり、それまで浅かった傷は深くなる。そして深くなるにつれ、傷が化膿する危険性もさらに増していく。化膿を防ぐために傷口に配備された各種免疫細胞も消毒薬で殺されるからだ。というわけで、一生懸命に傷を消毒すればするほど、傷の治癒が遅れ、場合によっては傷が深くなり、その結果として傷が化膿する危険性が高くなることになる。

・こういう時は実験するのが手っ取り早い。私は治療薬に疑問を持ったら、自分の体に傷をつけてその治療薬を付けてみて、どうなるかを観察することにしている。自分の体を使った人体実験である。方法は簡単で、自分の前腕や上腕に荷造り用テープ(いわゆるガムテープ)を貼っては剥がすという操作を40回前後繰り返す。こうすると皮膚が傷つき、うっすらと出血するようになる。表皮欠損創であり、ちょっと痛い。その部分を3つに分けて、それぞれの部分に「治療薬を塗布」、「なにもしない(=乾燥)」、「プラスモイストを貼付」という処置をするだけだ。実験結果は、私が管理しているインターネットサイト(「新しい創傷治療」)に詳しく載せているので見ていただきたいが、次のようなことを身をもって体験した。
①イソジン、イソジンゲルを傷に付けると強い痛みがあ、数日で潰瘍を生じた
②カデックス軟膏、ゲーベンクリームはさらに痛く、さらに短い時間で深い潰瘍を生じた
③アクトシン軟膏の痛みは最強であり、潰瘍を作る効果も強い
もちろん、これらの実験結果に対し、「消毒薬が人体に有害なわけがない、ゲーベンクリームは熱傷治療に有効だ」とお考えの医師はいるだろうが、まず自分の体で同様の実験を行ってみることをお勧めする。もちろん、これらの薬剤を作っているメーカーの人間も、同様の実験をすべきである。しかも、これらの治療薬の効能書きにも注意書きにも、「強烈な痛みがある」こと、「傷を深くして潰瘍を作る」ことは一切書かれていない。私に言わせればこれらは明らかな副作用なのだが、メーカーは本当の意味での安全性を確かめずにこれらを製造・販売していると言わざるを得ない。

・アトピー性皮膚炎といえば、治らない慢性皮膚疾患の代表格で患者も非常に多いが、実はその多くは簡単に治ってしまう。私は皮膚科医でもなければアトピー性皮膚炎についての知識も持っていないのだが、なぜか時々、10年以上いろいろな病院を渡り歩いても治らないアトピーの方や、さまざまな病院で治療を受けているのに治らない乳児湿疹の赤ちゃんが受診される。そしてそのほとんどが白色ワセリンとプラスモイストだけで治っているのである。治療方法は単純明快であって、乾燥を徹底して防ぐこと、これだけである。例えばアトピー性皮膚炎の場合には、
①かゆみのある部位にたっぷり白色ワセリンを塗布して時間をかけて十分にすり込む
②キッチンペーパーなどでごしごしと余分なワセリンをふき取り、べたつきを完全に取る。要するに床や車のワックスがけの要領である
③これを一日に数回繰り返す
これだけでほとんどの患者さんはよくなっている。乳児湿疹の場合も同じで、滲出液が多い部位をプラスモイストで覆い、それ以外は白色ワセリンの塗布を何度も行う。四肢や腹部はプラスモイスト、顔面は白色ワセリンの塗布という使い分けでもよい。さらに主婦手湿疹や手荒れの治療も同じで、白色ワセリンをたっぷり塗って十分に塗り込み、その後ごしごしとワックスがけをするだけである。白色ワセリンは無味無臭で口に入っても無害なため、そのまま野菜や肉を触っても大丈夫だ。もちろん、かかとのガサガサもこれだけで治っている。

・最近、子どもたちの間で乾燥肌やアトピーが増えていることは周知の事実である。実際、けがで受診した子どもさんを見ても、カサカサと粉を吹いている皮膚を見るのはまれではなく、むしろケガをした患児の半数以上は乾燥肌のように見える。どうもこれは石鹸で洗い過ぎているためではないかと思う。石鹸で洗えば界面活性剤で皮脂が洗い流されるからだ。また、テレビコマーシャウで「弱酸性だから赤ちゃんの肌に安全」と宣伝している某商品も問題だ。確かに赤ちゃんを含め人間の皮膚は弱酸性だが、だからといって「弱酸性の石鹸は安全」ではないからだ。実際に、石鹸の使用を止めてお湯だけで洗うように指導しただけで、赤ちゃんの大半の乾燥肌は改善してくる。実は、人間の皮膚から分泌される物質(石鹸メーカーはこれを「汚れ」と称している」で、温水で溶けない物はないのだ。つまり、皮膚についている物は通常、温水で洗い落とせるのだ。石油や機械油などは石鹸でなければ落ちないが、それ以外の皮膚の汚れに石鹸はそもそも不要なのである。シャンプーも同様である。頭皮から分泌されるもので水溶性でないものはない。筆者は2年ほど前にこの事実に気づき、実験的にシャンプーの使用を一切止め、一日一回の温水洗髪にしているが、驚くことにシャンプーを止めてから明らかにフケが減り、かやみがなくなり、しかも抜け毛も減少した。おまけに、枕カバーにつく臭いも少なくなり、毎日シャンプーで洗髪していた頃の方が明らかに変な酸っぱい臭いだったことを記憶している。これも考えてみたら当たり前である。シャンプーの強力な界面活性剤が皮脂を洗い流し、しかも神経質に地肌をゴシゴシとこすっていれば、皮膚常在菌以外のさまざまな細菌が繁殖するようになるからだ。これらの細菌が臭気の原因だたのだろう。しかも、皮脂を洗い流された頭皮はその皮脂不足を補うためにさらに多くの皮脂を分泌するようになり、その結果、頭皮はかえってベタベタになったと考えられる。同様に、角質が界面活性剤で損傷され、それを修復しようとして皮膚の新陳代謝が過剰に起こり、その結果、フケが多くなったのではないだろうか。ちなみに私の経験からすると、毛髪に関してシャンプーでないと取れないものは、タバコや焼き肉の臭いなどであり、これらを落とすにはシャンプーは必要だ。だから、これらのにおいが気になる場合には、毛髪だけをシャンプーで洗い、地肌はシャンプーで洗わないようにするとよいようだ。

・さらに深刻なのは、化粧品というか、化粧という行為そのものが皮膚に与える影響だ。この皮膚の老化は、化粧品の成分を調べてみると簡単に説明がつく。クリームにしてもローションにしても化粧水にしても、洗浄力の強い界面活性剤を含んでいて、クリームもローションも皮膚を皮膚常在菌が棲めない状態にするからだ。いかに皮膚に良い成分が含まれている化粧品だろうと、基剤が界面活性剤を含んでいては元も子もないのである。


<目次>
はじめに
第1章 なぜ「消毒せず、乾かさない」と傷が治るのか
 1 「湿潤治療」とは
 2 傷を治すための治療、治さないための治療
 3 傷が治る過程(創傷治癒過程)
 4 乾燥は厳禁-カサブタはミイラである
 5 傷のジュクジュクは最強の治療薬
 6 傷を覆うのは何がベストか
 7 湿潤治療は地球を救う?
第2章 傷の正しい治し方
 1 湿潤治療に必要なもの
 2 擦りむき傷の治療
 3 ヤケドの治療
 4 病院を受診した方がよい外傷
第3章 ケガをしたら何科に行く?
 1 どの病院で湿潤治療をしているのか
 2 内科か外科か、大学病院か診療所か
 3 診療科の違いについて
 4 ヤケドは皮膚科?
第4章 私が湿潤治療をするようになったわけ-偶然の産物
 1 外科研修医時代の日々
 2 形成外科に入局-「外科の常識」は「形成外科の非常識」だった!
 3 褥そう治療で目覚めた
 4 そしてインターネットとの幸福な出会い
 5 「根拠のある医療」との闘い
第5章 消毒薬とは何か
 1 消毒薬-家庭常備薬の王
 2 消毒薬はどうやって細菌を殺しているのか
 3 消毒薬は人間の細胞幕タンパクも破壊する
 4 消毒薬は人間にとって、安全でも無害でもない
 5 消毒すると傷が深くなる
 6 なぜ一生懸命消毒をしているのか
第6章 人はなぜ傷を消毒し、乾かすようになったのか
 1 ケガの手当の歴史-黎明期から近代まで
 2 二人の戦士-ゼンメルワイスとリスター
 3 なぜ「消毒して乾燥させる治療」が主流になったのか
 4 実は消毒薬の問題は古くからわかっていた
 5 それでも消毒薬は必要とされた
 6 パスツールの亡霊が医学会をさまよう
第7章 「化膿する」とはどういうことか
 1 傷の化膿をめぐる医療現場の混乱
 2 傷の化膿とはどういう症状か
 3 傷口に細菌がいても化膿しているわけではない
 4 傷口に細菌が入れば化膿するわけでもない
 5 傷が化膿するメカニズム
 6 細菌はどこからやってきたのか
 7 細菌の侵入はどうしたら防げるのか
第8章 病院でのケガの治療-ちょっと怖い話
 1 病院でのケガの治療の現実
 2 傷の治癒を阻害する治療薬
第9章 医学はパラダイムの集合体だ
 1 トンデモ治療の系譜-しゃ血療法・水銀療法
 2 トンデモ治療はなぜ支持されたのか
 3 現代医学の治療は未来永劫正しいか
 4 パラダイムとは何か
 5 天動説に見るパラダイムの構造
 6 パラダイムを支えるもの
 7 天動説の終焉はどのようにして起きたのか
 8 パラダイムシフトの起こり方-パラダイムは信者が死ぬまで変わらない
 9 旧パラダイムと新パラダイムは非連続だ
10 専門家と素人で知識が逆転する瞬間
11 熱傷治療に見るパラダイムの構造-熱傷学会に喧嘩を売る
12 褥そう(床ずれ)治療に見るパラダイム
13 切り傷だから縫合する?
第10章 皮膚と傷と細菌の絶妙な関係
 1 灯台下暗し-体の内部よりも表面の方が未知の世界!?
 2 細菌との共生
 3 人間、至るところに常在菌あり
 4 閉鎖空間で生きる術
 5 皮膚常在菌の生き方
 6 人間が常在菌と共生する理由
 7 人体の一部としての常在菌
 8 手の洗い過ぎに注意
 9 黄色ブドウ球菌参上!
10 耐性ブドウ球菌(MRSA)について-実はひ弱なMRSA
11 石鹸、シャンプーと皮膚の健康
12 化粧は皮膚を老化させる
13 化粧というパラダイム
第11章 生物進化の過程から皮膚の力を見直すと・・・・・-脳は皮膚から作られた!?
 1 はじめに-一冊の本との出会い
 2 細菌という生き方-より速く、よりシンプルに
 3 真核生物の論理-邪魔者は飲み込め!
 4 なぜ細菌は多細胞化できなかったのか
 5 最初の多細胞生物が直面した問題-体にくっついてくる細菌たち
 6 外胚葉生物の知覚-体表面全体がセンサー
 7 二胚葉生物の知覚と神経系-次第に高まる能力
 8 三胚葉生物のもたらした革命-軍拡競争のなかで
 9 脳は皮膚から作られた
10 そして、新しい創傷治癒システムへ
11 裸のサル
12 皮膚角質層の問題-浅い損傷の方が治療に難渋するという謎
13 現代都市文明が皮膚を痛めつける
あとがき



面白かった本まとめ(2011年下半期)

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ヴィノーブル カフェ(高田馬場)のランチはオススメ!

2012年05月23日 01時00分00秒 | 外食
<水曜は食べ物のおはなし>

 JR高田馬場駅から徒歩約5分のところにあるヴィノーブル カフェでランチを楽しみました!

「ヴィノーブル カフェ」とはフランス語で「ぶどう畑にあるカフェ」という意味で、「ワインとフレンチをもっと気軽に楽しく!」をテーマにオーナー・ソムリエが選び抜いた南仏ワインを中心に契約農家から直送される新鮮な無農薬野菜を使った本場のプロヴァンス料理やバリスタのコーヒーが気軽に楽しめるカフェ・レストランとのことです。

 このお店のオーナー出演のフランスワイン紀行のテレビ番組がDVD化されたりしているようです。

「フランスワイン紀行」の購入はコチラ


また「純喫茶磯部」や「イエスタデイズ」という映画の撮影にもこのお店が使われているようです。

「純喫茶磯部」の購入はコチラ

「イエスタデイズ」の購入はコチラ

店内は、バーにもなるようなお洒落なお店で女性に人気があるようで、女性客ばかりでした。テラスもあります。

1img_1886
↑店内

ランチはワンプレートランチセットとなっていて、メインを黒板から選びます。

日替わりスープと総菜2品とメイン、フランスパンorライス(お代わり可)、飲み物が付きます。

どれにするか悩みますが、鶏肉のカツレツ(トマトソース)にしました!

2img_1895
↑ランチメニュー

3img_1896
↑メインのメニュー

 しばらくしてランチが運ばれますが、スープは温かいグリーンピースのスープで、おいしい!

レタスのサラダと大豆も健康的で美味しい!

そして、鶏肉のカツレツは、アツアツでよく揚げられていて、トマトソースに合います!

ボリュームもあってうれしい!

丁寧に作られているのが分かります。

4img_1889
↑鶏肉のカツレツのランチプレート

それから最後に温かく美味しいレモンティが運ばれて満足です!

ヴィノーブル カフェのランチはオススメです!

ヴィノーブル カフェ
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関連ランキング:カフェ | 高田馬場駅西早稲田駅学習院下駅



美味しかったものまとめ(2011年下半期)

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目白聖公会(東京都新宿区)はオススメ!

2012年05月21日 01時00分00秒 | イベント・外出
<月曜はお勧めなおはなし>

JR目白駅から目白通り沿いに西の方に歩いて徒歩約5分のところにある目白聖公会へ行って来ました!
白色のかなり立派な建物で、横にある木も美しいです。

1img_1807
↑目白聖公会

「聖公会」とは、カンタベリーの大主教を首長とする英国教会(英国聖公会)を母体に、世界80カ国に広がる教会で、信徒数7500万人とのことです。
 ローマ・カトリックとプロテスタントに大別される西方キリスト教会の中で、成立の歴史的経緯からも、両者の要素を兼ね備え、中間に位置しているようです。
 日本には1859年米国聖公会から二人の宣教師が渡来し今日の礎を築き、1887年に日本聖公会が創設されたようです。

 この目白聖公会の「聖シプリアン聖堂」は1929年建立のロマネスク様式で、戦火を免れた唯一の聖公教会とのことです。
 入口から入って、靴を脱ぎ、中に入ります。
4~5人掛けのイスがたくさん並べられていて、そこには聖書が置かれていました。 

2img_1808
↑聖堂の中

 また、ステンドグラスがかなり美しいです!
 ステンドグラスは1985年に設置されたようですが、実はイングランド島南西端コンウェル地方の中心地ツルーローにある、エピファニー修道院旧館のチャペル正面にあったものとのことです。

3img_1809
↑ステンドグラス 巻物(2)

4img_1810
↑ステンドグラス 乳香(香炉)

5img_1811
↑ステンドグラス

6img_1812
↑ステンドグラス

7img_1815
↑ステンドグラス 聖アグネス

 これらステンドグラスの製作時期は1889年で、ロンドンで製作されたようです。

工法や画風はアールヌーボーの源流のようで、またジャポニズムの流れをくんで、細部には繊細な唐草模様が多数使われているようです。

 確かに唐草模様がたくさん描かれていて気にはなりました。

 なお、聖堂には無料で自由に入れ、沈思黙考する場として提供されているようです。確かに静かに厳粛にいろんなことを考えることができますね。

また、日曜には礼拝や日曜学校等が開催されるようです。

目白聖公堂は、美しいステンドグラス等も見れ、とてもオススメです!!



お勧めなお話(2011年下半期)
自動車保険を安く!
引越し成功法!
ホテル安く利用体験談!
格安国内航空券体験談!

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「建築家 安藤忠雄(安藤忠雄)」という本はオススメ!

2012年05月18日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

「建築家 安藤忠雄(安藤忠雄)」の購入はコチラ

 この「建築家 安藤忠雄」という本は、本の題名の通りズバリ安藤忠雄さんの自伝で、とても感銘を受けました。

 安藤忠雄さんの略歴は以下の通りです。

 1941年大阪生まれ。建築家。世界各国を旅した後、独学で建築を学び、1969年に安藤忠雄建築研究所を設立。イェール大、コロンビア大、ハーバード大の客員教授を務め、1997年東京大学教授、2003年から名誉教授に。作品に「住吉の長屋」「セビリア万博日本政府館」「光の教会」「大阪府立近つ飛鳥博物館」「淡路夢舞台」「兵庫県立美術館」「フォートワース現代美術館」など多数。1979年に「住吉の長屋」で日本建築学会賞、2002年に米国建築家協会(AIA)金メダルほか受賞歴多数。

 この本では、仕事のやり方から教育の考え方、自分の生い立ち、若い頃の日本一周旅行や世界一周旅行での建築行脚やその感動、今まで手がけた建築(表参道ヒルズ、断崖の建築、海外の博物館、兵庫県立こどもの館、渋谷の卵など)等について書かれています。

 特に真摯に建築の仕事に取り組む様子には感銘を受けましたし、学生への教育、海外の異なる世界の空気に身をおくことの大切さには共感しました。

 また、人生に「光」を求めるのならまず目の前の苦しい現実という「影」をしっかり見据え、それを乗り越えるべく勇気をもって進むことで、そしてそれに向かって懸命に走っている無我夢中の時間の中にこそ人生の充実があるということにも共感を覚えました。

とてもオススメな本です!

以下はこの本のポイントなどです。

・私の活動拠点は、大阪・梅田の近くにある、敷地面積30坪の小さなアトリエだ。もとは、私の最初の仕事である小規模住宅(冨島邸)(1973年)だった。それを、のちに施主が諸事情で手放すことになった際、譲り受け、1980年に自分のアトリエにしたのである。以後、増改築を繰り返し、1991年の4度目の改造で完全に取り壊して全体をつくりかえ、現在の地上5階地下2階の姿に落ち着いた。内部は1階から5階まで吹き抜けになっている。ボスである私の席は、吹き抜けの一番底、スタッフの出入りする1階の玄関に面したスペースにある。つまり縦に重なる空間を吹き抜けでつなぎ、その一番下に中枢機能を持ってきたのだが、そうすることで、コンパクトさと同時に、私を核として総勢25名のスタッフが緊張感を持って真剣勝負の場に臨んでいるという強い一体感を出したかったのである。この席からなら大声で叫べば建物内のどこにでも声が届くし、階段をちょっと上れば、デスクで働いている各スタッフの様子も一通りで見て回れる。そして、何といっても玄関ホールに座っているようなものだから、スタッフは建物を出入りする際、必ず私の前を通らねばならない。外部との連絡も、海外とのやりとり以外はEメール禁止、ファックスも禁止、個人用電話禁止とした上で、唯一残された手段である共用の電話5台を私の目の届く範囲にだけおいているから、誰とどんな話をしているのか、トラブルがおきていないかどうかすぐ分かる。管理する側にとっては、このように全てがオープンで、いつでも全体を把握していられるのは便利なのだが、裏を返せばボスもまたスタッフ皆に絶えず見張られているわけで、しんどい空間だなと思うこともある。しかし、そうした壁のない状態にしているからこそ、私とスタッフは常に近い関係を保っていられるし、彼らも互いの状況を確かめあいながら一つの仕事を進めていける。こうした事務所の体制と運営を維持するには、今ぐらいの規模の建物で、今ぐらいの人数が限界だろう。

・私が事務所を持ったのは1969年、28歳のときだ。大阪の阪急梅田駅のすぐ近く、昔ながらの長屋が建ち並ぶ一角にあったビルの一室を借り、今日まで生活と仕事のパートナーである加藤由美子と二人きりの出発だった。最初は仕事は全くといっていいほどなかった。依頼にくる人もなく、国内外のコンペに参加するのが唯一の仕事という状態が続き、毎日事務所の床に寝ころんで、天井を見上げながら本を読んだり、架空のプロジェクトを考えたりして過ごしていた。数年が経過してどん底の状態を脱すると、徐々に仕事も増えていったが、依然としてスタッフは2~3名。ごくごく小規模のままだった。自分なりの組織のあり方が見えてきたのは、ちょうど10年目くらい。スタッフが10人ほどになった頃だ。それは「ゲリラ集団」としての設計事務所という姿勢である。われわれは、一人の指揮官と、その命に従う兵隊からなる「軍隊」ではない。共通の理想をかかげ、信念と責務を持った個人が、我が身を賭して生きる「ゲリラ」の集まりである-小国の自立と人間の自由と平等という理想の実現のために、あくまで個を拠点にしながら、既成の社会と闘う人生を選んだチェ・ゲバラに強い影響を受けていた。

・まず考えたのは、すべての仕事について、全責任を負う担当者を決め、その全過程を、私と担当者との1対1のチームで進めていくというやり方。仕事が5件あれば5人、10件なら10人の担当者がいるという状態だ。そうすればすべての現場に、ボスが直結しているから、中間管理職など一切必要がなくなる。事務所が私の個人事務所である以上、最も重要なのは、私とスタッフとの間の認識にズレがないこと。そのためにはどうやって情報を正確に伝達し共有するかといった、コミュニケーションの問題が鍵だと思っていたから、とにかくすべてを単純明快にしたkたのだ。

・私は一人でかなりの数の仕事に関わることになる。それぞれについて、思いついた時に担当者と、進行状況を確かめ、必要なら修正を加える。そこで、不注意なミスや、考え抜くという姿勢を放棄したような怠慢さが見受けられたり、現場との関係やクライアントとの関係づくりにずさんなところがあったりでもしたら、容赦なく怒鳴りつけてきた。事務所を開設して数年間は、私とスタッフとの年齢差も10歳そこそこだったし、血気盛んな若い時分で、すぐに手も足も出た。ただ、デザインのセンスが悪いといって、責めたことはない。大切なのは、「その建物を使う人間への、気遣いが出来ているか、定められた約束を守り遂行できているか」ということ。問うのは、担当者一人ひとりの「自分がこの仕事をやり遂げるのだ」という自覚である。

・スタッフの数は、徐々に増えてきたが、20年目ぐらいに25名くらいで落ち着いて、今に至っている。これ以上増えると、十分なコミュニケーションがとれない。私の責任を全うできるギリギリの人数である。平均年齢は、30歳くらい。ずっと一緒にやってきたベテランスタッフ数名以外は、大体5年から10年くらいのサイクルで入れ替わっている。新卒で入った者が5、6件のプロジェクトに関わり、一通り設計事務所の仕事の流れを覚えたところでやめて、新しいスタッフが入ってくるというのがパターンである。事務所に入りたいと訪ねてくる学生には、まず互いのことを知る準備期間としてアルバイトにきてもらう。模型の作製や、展覧会などがあれば、その準備作業が彼らの仕事となる。その際、継続的に通ってくれる学生には、なるべく一つの仕事について、機会のある限り、建築が芽生えてから完成までの全過程に参加してもらうようにしている。スタッフには、事務所に来る学生に接する上で、注意すべき点を二つ厳しく言っている。一つは彼らの名前をきちんと「さん」付けで呼んで、目下のものというような横柄な態度をとらないこと。もう一つは、彼らが勉強のために事務所に来ているのだということを肝に銘じて仕事を頼むこと。学生たちには、未来の可能性を伸ばし広げるために、自分のためだけに勉強出来る権利がある。彼らが何かを学びたいと意志を示した時、先に社会に出ている私たちには、その意欲に応え、機会と場所を提供する義務がある。未来を担っていく学生を、社会の財産として守り育てていかないといけない、そう思うのである。

・また、京都や奈良に近い大阪に、わざわざ建築を学びに来るわけだから、アルバイトとは別に「サマースクール」という企画もしている。古都の名建築も実際に勉強してもらおうと、これは、と思う研究対象となるものを何か一つ自分で選んで、大阪滞在中、週末の土日を必ずそこで過ごしてもらうのである。そして、アルバイトが終わるときに、その成果をレポートにまとめてもらう。茶室から社寺建築、書院建築、庭園に至るまで何に通うかは自由。中には玄人好みの難しい建物を対象に選ぶ学生もいるが、どんなところでも1日ぼんやりその空間に身を浸して、スケッチを2、3枚描くのを繰り返せば、何かつかめるものだ。最後にスタッフ全員の前でレポートを発表してもらうのだが、どれもなかなか立派な内容である。現業に追われるスタッフにとっても、フレッシュな学生の考えに触れられるのは、良い刺激になっているようだ。

・何より大切なのは、職業人としての自覚と個人の能力である。的確な状況判断と迅速な行動力、そして不測の事態にも冷静に対処しうる柔軟な頭がなかったら、瞬く間に、チームの結束力は薄れ、信頼関係も失われ、仕事が潰れてしまうことになる。はからずも、本当の意味で、仕事に関わる人間一人ひとりが、自立した「ゲリラ」でないと、成り立たないような状況になっているのである。特に、若いスタッフたちには、積極的に海外のプロジェクトに参加して、国際感覚を現実の仕事の中で身につけてほしいと考えている。そしてプロジェクトの現状を絶えずつかんでいるようにしろ、としつこく言っている。国も文化も違い、思考回路の異なる人間と、つねに変化する状況のなかで渡り合う経験こそが、彼らが自分ひとりでやっていく前に、私の事務所に身をおくことの、最大の意義だと思うからだ。

・私が小学校に入学するとすぐに祖父が他界し、祖母と二人きりの生活になった。祖母は上方の合理的精神と自立心にあふれる明治の女だった。ささやかながら商売を続けていた祖母は、いつも忙しくしていた。実際、子供に構っている余裕などなかったのだろう。覚えている限り、「勉強しろ」「成績はどうだ」などと小言を言われたことはない。逆に家で宿題などもしようものなら「勉強は学校でしろ」と言って怒られたほどだ。それで小中学校の9年間は文字通り、勉強そっちのけで遊び呆けていた。当然。成績はいつも下から数えた方が早かった。

・学校教育には全く無頓着な祖母であったが、日常の、いわゆる”しつけ”については、極端に厳しかった。「約束を守れ、時間を守れ、うそをつくな、言い訳をするな」大阪商人らしく、自由な気風を好んだ祖母は、子供に対しても、自分で考え、決めて、自分の責任で行動する、独立心を求めた。その姿勢は徹底していて、丈夫だけが取り柄だった私が扁桃腺か何かで手術を受けることになった時も、子供の不安そうな様子などお構いなしに、「一人で歩いていっておいで」と、あっさり突き放した。今思えばくだらない話だが、当時は子供心に「自分一人でこの危機を乗り越えるのだ」と悲壮な決意で病院への道を歩いたものだった。

・実家の向かいにあった木工所は私のお気に入りだった。学校から帰るとすぐに、カバンを放り出してそこへ出かけ、毎日のように入り浸った。そして見よう見まねで図面を描き、木を削りだして形にしていく。簡単な木工細工の橋だったり船だったり、そんなモノを実際に次々とつくっていった。木の匂いに包まれてモノをつくっていくのがたまらなく好きだった。

・工業高校に進学して2年生になったとき、17歳でプロボクサーのライセンスを取得した。先に始めたのは双子の弟で、何か新しいことをやるのはいつも弟が先だった。二人は別のジムに所属した。面白半分で始めたボクシングだったが、1ヶ月足らずの練習でプロテストに合格できたということは、まあ向いてはいたのだろう。プロとして4回戦のリングに立って、初めての試合を無我夢中で闘い終えて戻ると、ファイトマネーとして4000円を手渡された。当時の大卒の初任給といえば1万円程度だから、結構な額だ。ともかく、自分の身体で、仕事をして報酬を得たことが無性に嬉しかった。

・私のボクシングの戦績はまずまずだった。順調に6回戦まで進んだ頃、所属するジムに、当時の日本ボクシング界のスター、ファイティング原田が練習に訪れるという事件があった。同世代の花形選手を間近に出来る幸運に、最初は私も単純に喜んでいた。だが、ジムの仲間と一緒に彼のスパーリングを見ているうちに、何か一気に気持ちがさめていくのを感じた。スピード、パワー、心肺機能の強さ、回復力、どれをとっても次元が違う。自分がどんなに努力しようとも、そこまでいくことは絶対にかなわないだろうという厳しい現実を見せつけられたのだ。「ボクシングで生きていけるかもしれない」という私の淡い期待は完全に打ち砕かれ、即座にボクシングはやめた。ボクシングを始めて2年目、ちょうど高校生活を終えようとしていたときだった。短期間ではあったが、若いなりに相当熱をいれてやっていた分、その希望が失われた喪失感は大きかった。しかし、18歳で高校を卒業する身としては、進路は決めねばならない。そこで、自分は何がしたいのか、何が出来るのかと、心の内側を覗き込んだときに、幼い頃から続いていたモノづくりへの興味を見つけた。

・就職をしない私を心配してくれたのだろう、知り合いの一人が、仕事を見つけてきてくれた。15坪ほどの、バーのインテリア設計の仕事だ。図面を描くのは工業高校の実習で慣れていたが、実際の仕事としては当然、全く初めての経験である。建築やインテリアの本と首っ引きで必死に図面を描いた。現場ではひたすら大工さんに頭を下げ、施主をなだめすかして、何とか自分の描いた設計図で完成まで漕ぎ着けた。今思えば冷や汗ものである。しかし仕事を終えて、初めての設計料を得て、自分が新しい道の第一歩を踏み出したことを実感した。

・独学というとさぞかし自由に、のびのびとやってきたのだろうという人もいるが、冗談ではない。真剣に学び、心に疑問が湧いても、同じ立場で語り合える同級生はおらず、導いてくれる先輩も先生もない。どれだけ頑張っても、自分がどれほどの成長をしたのか、一体どれほどのレベルにいるのか、測るすべもない。最も苦しかったのは、何をどのように学ぶか、というところから独りで考えねばならないところだった。まずは通えなかった大学にもぐりこみ、建築学科の授業を無断聴講してみたものの、1~2時間の講義では、とても自分の知りたい答えは見つけられない。そこで、建築系の大学で用いられる教科書を買い集め、これを1年で読破する計画を立てた。アルバイト先でも、昼休みはパンをかじりながら読書に集中、夜も寝る間を惜しんで頁をめくり、半ば無理矢理であったが目標を達成した。正直いって、半分は理解できなかったし、なぜそれが必要なのかすら分からないことも多かったが、大学での建築教育がいかなる体系かはおぼろげながら掴めた。無駄ではなかったと思う。

・ともかく「これは」と思うことには、何でも挑戦してみた。建築、インテリアの通信教育に夜間のデッサン教室。アルバイトでも、生来の短気な性格が災いして、どこも修行というほどには長続きしなかったが、設計事務所にこだわらず、建築周辺の雑多な仕事を手あたり次第に経験していった。

・ル・コルビュジエの作品集に出会ったのは、そんな手探りの独学の日々を続けていた、20歳の時である。大阪、道頓堀にあた古本屋「天牛」で、現代建築の本に度々登場するル・コルビュジエの名を冠した本を見つけた。何気なく手に取ったのだが、頁をパラパラとめくり、すぐに「これだ!」と直感した。写真とスケッチ、ドローイング、仏語の文章が本の判型と同じプロポーションで美しく並べられている様子・・・。しかし、古本とはいえ当時の私には高額であり、すぐに買うこことが出来ない。その日はせめて目立たない場所にと、そっと隠して帰った。以降、近くを通るたび、まだ売れていないかと心配で見に行っては、積み上げられた本の下へと押し込めるという作業を繰り返した。結局、手に入れるまでに1ヶ月近くかかってしまった。やっとの思いで手に入れると、眺めているだけでは飽きたらず、図面やドローイングのトレース(書き写し)を始めた。ほぼ全ての画を覚えてしまうくらい、何度も何度もコンビュジエの建築の線をなぞった。

・気がつけば、食事代を切り詰めてでも洋書、海外雑誌などを買いあさるようになっていた。文字は読めなくても、頁をめくっていれば、新しい時代の風は感じることが出来る。徐々に建築の世界をの広がりを感じてくると、自然と、その空間を直に体験したいと思うようになっていた。まずは22歳(1963年)大学に行っていれば卒業かという時期に、自分なりの卒業旅行として、日本一周の旅に出た。大阪から四国に渡り、そこから九州、広島を巡って北上し、東北、北海道へ。主な目的の一つは、日本近代建築の雄、丹下健三の建築を巡ることであり、その感動は期待以上のものだったが、その一方で、各地に点在する古建築、とりわけ白川郷、飛騨高山といった土着の民家の空間に大いに心惹かれた。人々の生活が空間に結実し、それが自然と一体となって動かしがたい風景を形成している。その生活の用から導かれた造形の豊かさに、新しい時代の建築とは異なる、静かな感動を覚えた。

・1964年、日本で一般の海外渡航が自由化されるとすぐさま、渡欧を決めた。観光用のガイドブックもなく、むろん周囲に海外旅行経験者などがいようはずもない。「もう帰って来られないかもしれない」と、出発の日には家族や友人、近所の人々と水杯を交わした。海外に出ることは、それくらい不安だった。

・横浜港からナホトカ経由でシベリア鉄道に乗り、モスクワに入る。かつて、前川國男がパリのコンビュジエを目指し、旅だったのと同じルートである。モスクワからフィンランド、フランス、スイス、イタリア、ギリシャ、スペインと巡っていく。最後は南仏マルセイユから貨客船MMラインに乗り、アフリカのケープタウン経由で、マダガスカル、インド、フィリピンに寄って帰国した。所持金60万円、7ヶ月余りの旅程だった。

・最初に足を降ろしたヨーロッパはフィンランド。極北に近く、気候は厳しい。自然環境としては貧しく不毛の土地といってもいい国だ。私が到着した5月はちょうど白夜のときで、沈まない太陽の下、アルヴァ・アアルト、ヘイッキ・シレンといった、北欧の近代建築家の仕事を存分に見て廻った。厳しい自然の中で、徹底して無駄を排しながらも、美しい光と人間生活への配慮に溢れた質素で清潔な建築、心洗われる空間に強い感銘を受けた。「地域によって生活空間は異なる性格を持つ」という当たり前の事実に、あらためて気づかされた。思い返せば、幾多の感動の記憶がよみがえってくる。はるかローマの時代につくられた、パンテオンの劇的な光の空間。廃墟となってなお、西欧建築の原点として立しる、ギリシャ、アクロポリスの丘のパルテノン神殿。各地に点在する20世紀初頭の近代建築の名作の数々と、その近代にあって異形の建築をつくり続けた、バルセロナのアントニオ・ガウディの建築。イタリアではローマからフィレンツェまで、ミケランジェロのすべての建物を絵画、彫刻とあわせて制作年代順に見て廻った。目に映るものすべてが新鮮であり、もっと面白いものはないかと、旅の間中、ひたすら歩き続けた。そして、夢にまで見たル・コルビュジエの建築。ポワッシーの丘のサヴォワ邸をはじめとする一連の住宅作品から、ロンシャンの礼拝堂、ラ・トゥーレットの修道院、マルセイユのユニテ・ダビタシオンに至るまで、見つけられる限りのコルビュジエ建築を訪ね歩いた。パリでは、コルビュジエのアトリエをずいぶんと探したのだが、結局、建築家本人に会いたいとう願いはかなわなかった。私がパリに着く数週間前の1965年8月27日、コルビュジエは他界していた。

・渡欧の決心を告げたとき、祖母は「お金は蓄えるものではない。自分の身体にきちんと生かして使ってこそ価値のあるものだ」と力強い言葉で、気持ちよく送り出してくれた。以後、自分の事務所を開設するまでの4年間、お金が貯まると旅に出て、世界を歩いて廻った。祖母の言葉通り、20代の旅の記憶は、私の人生にとって、かけがえのない財産となった。

・血気盛んな20代で、いつも心の刺激に飢えていた私は、60年代半ば頃から、しばしば東京に出て、当時アヴァンギャルドと呼ばれた若い表現者たちの仕事を熱心に見てまわった。高松次郎、篠原有司男に寺山修司の天井桟敷、唐十郎の紅テント。あるいは横尾忠則、田中一光といった新進のグラフィックデザイナー、写真家の篠山紀信-55年に増沢が新宿につくった風月堂、赤坂のムゲン、ほかにも新宿2丁目のカッサドール、乃木坂のジャドなどが、そうした人たちの溜まり場になっていた。カッサドールとジャドの内装を手がけた倉俣史朗と知り合ったのもこの時期だ。

・表参道ヒルズでは、4年余りの話し合いの時間を経て、地権者の方々が最後には「安藤さんに任せる」と言ってくれるようになったのは、一つには、一貫して同じ主張を続けた頑固さが、逆に信頼にもつながったのだろう。そしてもう一つ、寄せられた意見に対しては、応じるか否かは別に、必ず答えるようにしたからだと私自身は思っている。

・工程どおり仕事を進めていく若い現場監督と付き合ううちに、徐々に不安は薄れていった。若く経験が少ない分、彼らは、各工程に入るまでに入念に研究し、周到に準備をする。中途半端な経験によりかかって仕事をする下手なベテラン監督より、よほど誠実で頼もしい。工事が終わるまで、毎日が緊張の連続だったが、工事は問題もなく、予定通りにきっちり仕上がった。今では、若いチームで臨んだことが、逆に成功の鍵となったのではないかと思っている。

・20代後半より、何の経験もない私に、人生最大の買い物である住宅を任せてくれた同世代のクライアント達。それぞれの地域ぐるみで私を応援してくれた、神戸の北野町や大阪のミナミの商業建築のクライアント達。そして、実績や経歴ではなく、ただ思想に共感できるものがあるという理由で、私という人間を信頼して、大きな仕事を任せてくれた関西政財界のリーダー達。彼らは皆、大阪人ならではの自由な心で私を受け止め、チャンスをくれた。関西という風土でなければ、いくら頑張ったとしても、今日まで建築活動を続けていることは出来なかっただろう。偉大な先輩たちにかわいがっていただき、ここまで引き上げてもらった。私は大阪に育てられた建築家である。今度は私が、大恩ある大阪のために尽くす番だと、今は考えている。

・ヨーロッパ、特にイタリアでの仕事では、歴史都市らしく、日本と比して、開発に関わる法手続きに驚くほどの時間がかかる。<FABRICA>など、アイディアを出してから完成まで、結局10年以上の時間を要した。現地の職人達の仕事に向かう姿勢も、文字通りの職人気質で、一旦仕事を始めると、工期などおかまいなし、自分が納得できるまで、手を止めようとしない。それを頼もしく思う反面、スケジュールが読めないという怖さが最後まであった。逆に中国では、発展途上の国家ゆえの凄まじすぎる建設のスピードに困惑する。万里の長城をつくった文化の国だけあって、大陸的というか、とにかく何でもスケールが大きい。突然、日本では考えられないような規模の仕事の依頼を受けたと思ったら、契約もあやふやなうちにスタート。工事が始まったら、”もう止められない”と言わんばかりの勢いで、うかうかしていると知らない間に工事が進んでしまう。現場に先回りして、問題を発見・解決するのに精一杯で、息をつく間もない。裁判社会がそのまま反映されたアメリカでの仕事も驚きだった。とにかく契約の度に弁護士が登場し、簡単に済む話を変に複雑にして、プロジェクトの進行を結果的に遅らせることにあんる。民主国家らしく、物事を一つ決めるごとに関係者を集めての会議を開きたがるのにも閉口した。

・私が言いたいのは、他国での建築の現場を体験することによって、自国にいるとつい見過ごしてしまう、建築をその背後で成り立たせている社会の仕組みのようなものを、もっと相対的に見られるようになるということだ。建築家という職業の面白さは、一つの建物の設計を通じて、芸術や技術とともに、地域の歴史や文化、社会制度の問題と、いろいろなことを考え、いろいろな価値観に出会えることにある。その意味で、異なる世界の空気に身を置き、自身の建築を考えることが出来る海外の仕事は、絶好の”勉強”の機会だ。異国の文化を精一杯感じ取り、その場所にしかない建築に向かっていく。そうして新しい建築の可能性を探しているのである。

・2008年6月、東京メトロ副都心線が東急線に先行して開業すると、渋谷という場所柄、多くのメディアがその建築をニュースに取り上げた。面白かったのは、その多くが”卵”の造形的特徴以上に、自然換気の仕組みに反応を示していたところだ。「機械に頼らない地下駅の換気システム」、「環境負荷を軽減する地下鉄の風」・・・・・20年前ならば、一般にこんな形で建築がアピールされることはなかったろう。毎日数十万人の人間が往来する、渋谷の新たな玄関口の誕生が、”環境”の文脈で語られる。それほどに、人々の環境に対する危機意識は高まっているということだ。

・阪神大震災の後、数ヶ月の間は、事務所の仕事を一旦全て中断して、時に一人で、時に事務所のスタッフと共に、被災地を歩いてまわった。被災地につくってきた建物の被害状況を一軒一軒自分たちの目で確かめていくのと、何より、あの風景の凄惨さを、深く心に焼き付けておきたいと思ったからだ。復興には10年以上かかるだろう。そのエネルギーを自分自身、持続させるためには、この悲惨な現実をしっかり見据えておかねばならない-。地震で傷ついた神戸の街のために何か出来ないか。考える中で、依頼もないまま、復興ハウジングプロジェクトの構想を始めた。同時に、亡くなった人々への鎮魂の思いを込め、白い花を咲かせるハクモクレン、コブシ、ハナミズキの樹を住民自身の手で被災地に植えていく<ひょうごグリーンネットワーク>運動を始めた。復興を急ぐ余りに、人間の気持ちを置き去りにしたような都市再建は行われてはならない-10年後の神戸のためにと、必死で走った。

・建築に限らず、日本文化の独自性を探っていくと、結局最後に行き着くのは、四方を海に囲まれた島国の豊かな自然という地点である。温和な気候のもとに広がる、山川い沿った穏やかな地形を、春の桜、秋の紅葉、夏の深緑、冬の白雪と、豊かな四季の風景が覆う。外国の脅威を感じることなく、岩山や砂漠のよいな人間を威圧する厳しい自然もない-この小規模で変化に富んだ自然環境が、日本人の自然に対する感覚を鋭敏にし、20世紀初頭に日本を訪ねたフランスの詩人ポール・クローデルをしt、”世界一美しい国”と言wしめたほどに美しい、独自の生活文化を育んだ。特筆すべきは、そうした感性が、近世に、広く大衆に浸透したことである。浮世絵、歌舞伎といった伝統芸術が、人々に身近な存在としてあった日本は、当時の国際世界において、異例の民度の高さであった。

・独学で建築家になったという私の経歴を聞いて、華やかなサクセスストーリーを期待する人がいるが、それは全くの誤解である。閉鎖的、保守的な日本の社会の中で、何の後ろ盾もなく、独り建築家を目指したのだから、順風満帆に事が運ぶわけはない。とにかく最初から思うようにいかないことばかり、何か仕掛けても、大抵は失敗に終わった。それでも残りのわずkな可能性にかけて、ひたすら影の中を歩き、一つ掴まえたら、またその次を目指して歩きだし-そうして、小さな希望の光をつないで、必死に生きてきた人生だった。いつも逆境の中にいて、それをいかに乗り越えていくか、というところに活路を見出してきた。

・人生に”光”を求めるのなら、まず目の前の苦しい現実という”影”をしっかり見据え、それを乗り越えるべく、勇気をもって進んでいくことだ。情報化が進み、高度に管理された現代の社会状況の中で、人々は、「絶えず光の当たる場所にいなければならない」という強迫観念に縛られているように見える。大人の身勝手のせいで、幼い頃から、物事の影の部分には目を瞑り、光ばかりを見るように教えられてきた子供たちは、外の現実に触れ、影に入ったと感じた途端、すべてをあきらめ、投げ出してしまう。そんな心の弱い子供たちの悲惨な状況を伝えるニュースが、近頃はとみに目立つ。何を人生の幸福と考えるか、考えは人それぞれでいいだろう。私は、人間にとって本当の幸せは、光の下にいることではないと思う。その光を遠く見据えて、それに向かって懸命に走っている、無我夢中の時間の中にこそ、人生の充実があると思う。



<目次>

序章 ゲリラの活動拠点
第1章 建築家を志すまで
第2章 旅/独学で学ぶ
第3章 建築の原点、住まい
第4章 都市に挑む建築
第5章 なぜコンクリートか
第6章 断崖の建築、限界への挑戦
第7章 継続の力、建築を育てる
第8章 大阪に育てられた建築家
第9章 グローバリズムの時代に
第10章 子供のための建築
第11章 環境の世紀に向かって
第12章 日本人のスピリット
終章 光と影


面白かった本まとめ(2011年下半期)

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井泉(東京 湯島)でとんかつを楽しみました!

2012年05月16日 01時00分00秒 | 外食
<水曜は食べ物のおはなし>

JR御徒町駅から徒歩約3分のところにある井泉でヒレかつ定食を楽しみました!
井泉は、昭和5年創業の老舗で、「喜劇 とんかつ一代」(東宝 1963年)という映画の舞台にもなったようです。
また、カツサンド発祥のお店でもあるようです。

1img_1738
↑店構え

お店に入ってさっそく注文します。
今回は注文するものが決まっています。
ヒレかつ定食(1800円)です。
というのは、この井泉のホームページからクーポンを印刷していて、このクーポンを渡すと、なんとカツサンド3切れがお土産でもらえるのです!

2img_1743
↑メニュー

ただ、メニューを見ると、一口ヒレかつ・海老フライ・海老コロッケ・ほたてが入った盛り合わせ定食(1850円)も良さそうです^_^)

店内のカウンターに座りますが、カウンター内には従業員がたくさんいて、そして目の前でヒレかつが揚げられていました。
大きな透明なガラスが置いてあり、油が跳ねずにその揚げられる様子が見えるのは嬉しいですね。
結構長い時間揚げているようでした。
また、鍋いっぱいのみそ汁が温められていました。みそ汁は、いつも鍋いっぱいにしているようです。

しばらくして、ヒレかつ定食が運ばれますが、ヒレかつが大きい!!そして分厚い!!
写真では分かりにくいですが、本当に大きいです!
そして、このヒレかつがまた柔らかい!!
こんなに柔らかいヒレかつは初めてですね。
いったいどうやって作っているのでしょう??
ヒレかつはかなり分厚いのですが、しっかり火は通っていました。
美味しいです!

3img_1739
↑ヒレかつ定食

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↑ヒレかつの中身

みそ汁の中にある小さな豚肉も柔らかいのには驚きましたね。

そして、帰りにヒレかつサンドをもらいましたが、これも柔らかくて美味しい!
3切れとはいえかなりボリュームがありました!

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↑ヒレかつサンド

柔らかくて美味しいヒレかつを楽しむならば、井泉はとてもオススメです!
ぜひクーポンを忘れずにお持ちください!!

井泉 本店
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関連ランキング:とんかつ | 上野広小路駅上野御徒町駅湯島駅



美味しかったものまとめ(2011年下半期)

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目白庭園(東京都豊島区)はオススメ!

2012年05月14日 01時00分00秒 | イベント・外出
<月曜はお勧めなおはなし>

JR目白駅から徒歩約5分のところにある目白庭園へ行って来ました。

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↑目白庭園入口

目白庭園は敷地面積2843平米で、平成2年11月15日に開設された入場無料の庭園で、園内中央に大きな池があり、回遊式で散策を楽しむことができます。
木々の緑が美しく、また掃除が行き届いていて、清々しい気持ちでゆったりと楽しめます。

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↑入口近くからの池方面

入口から入って右側の六角浮き見堂へ歩いていると、なんと!カルガモ親子がいました!6匹の子ガモを従えています!かわいい!
子ガモが小さくヨチヨチで、かなりカワイイです!
あまりの可愛さに見とれてしまいました。
これは必見ですね!とてもオススメです!
カルガモは池を泳いで、石の上に上がり、毛づくろいをしていました。

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↑カルガモ親子

六角浮き見堂から池や庭を眺めますが、木々の緑が美しいです。

4img_1832
↑六角浮き見堂からの眺め

それから遠路を歩くと、大きな「赤鳥庵」が見えます。
この「赤鳥庵」の由来は大正7年、鈴木三重吉によってこの地で創刊された子供のための文芸雑誌「赤い鳥」にちなんでいるとのことです。
「赤鳥庵」は、京都の北山杉を用いた木造瓦葺き平屋建ての数寄屋建築とのことです。
 「赤鳥庵」では有料で、茶道・華道・句会・碁会などを開くことができるようです。このような庭園で趣味ができるのは良いと思います。

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↑赤鳥庵

そしてゆったりと遠路を歩いて楽しみました。

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↑滝からの水の流れ

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↑六角浮き見堂

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↑石塔

目白庭園は、都会の喧噪から離れ、きれいな庭園をゆったり観賞でき、とてもオススメです!
カルガモ親子もオススメです!!

お勧めなお話(2011年下半期)
自動車保険を安く!
引越し成功法!
ホテル安く利用体験談!
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「人生がときめくかたづけの魔法(近藤 麻理恵)」という本はオススメ!

2012年05月11日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

「人生がときめくかたづけの魔法(近藤 麻理恵)」の購入はコチラ

 この「人生がときめく片づけの魔法」という本は、人生の8割以上を片づけに費やしてきた片づけコンサルタントの著者が、具体的な部屋の片づけ方について書いたものです。

 特に以下の片づけのポイント等についてはナルホドと思いました。

 (1)場所別ではなくモノ別に、片づける
 (2)片づける順番は衣類→本類→書類→小物類→思い出品
 (2)自分がまず片づけると、家族が片づけ始める
 (3)ときめきを感じる物だけを残す
 (4)片づけるときは、モノ別にすべてを床に並べる(服の場合はすべての服を床に並べる)
 (5)大切なのは過去の思い出より今の自分
 (6)家にあるあらゆるモノの定位置を決めること
 (7)片づけは人生の目的ではない

とてもオススメな本です。

以下はこの本のポイント等です。

・片づけをして部屋がさっぱりきれいになると、自然と自分の気持ちや内面に向き合わざるを得なくなります。目をそらしていた問題に気づかされ、いやがおうでも解決せざるを得なくなる。片づけはじめたそのときから、人生のリセットを迫られるのです。そしてその結果、人生が大きく動きはじめていきまs。だから、片づけはさっさと完了させる。そして、本当に自分の向き合うべき問題に向き合っていく。片づけはたんなる手法であって、それ自体がが目的ではありません。本当の目的は、片づけたあと、どう生きるかにあるはずだと思いませんか。

・ここまでやってきた私が断言しますが、はっきりいって、収納法で片づけは解決しません。なぜなら、収納はしょせん、付け焼刃の解決法にすぎないからです。

・片づけは、「場所別・部屋別」ではなく「モノ別」に考える。もう二度とリバウンドしたくなければ、このポイントは絶対にはずさないでください。

・片づけには二種類あります。「日常の片づけ」と「祭りの片づけ」です。「日常の片づけ」とは、単純に「モノを使ったら、元の場所に戻す」こと。服でも本でも文房具でも、人がモノを使って生活している以上、こればっかりは一生ついてまわります。けれど、私がこの本を通してお伝えしたいのは、「祭りの片づけ」を一日でも早く終わらせてほしいということです。一生に一度の「祭りの片づけ」を終わらせてしまったとは、そのきれいな部屋で、自分の好きなように理想の生活を送ることができます。モノに押しつぶされそうになりながら暮らしていく生活の中で、本当の意味ででの幸せを感じることがはたしてできるのかどうか、胸に手を当てて考えてほしいのです。

・心がときめくモノだけに囲まれた生活をイメージしてください。それこそ、あなたが手に入れたかった、理想の生活ではありませんか?心がときめくモノだけを残す。あとは全部、思い切って捨ててみる。すると、その瞬間から、これまでの人生がリセットされ、新たな人生がスタートするのです。

・モノ別に一気に「残すか、捨てるか」を判断するときは、はじめに難易度の低いモノから始めて、片づけにおける判断力を段階的に身につけていくほうがスムーズに進みます。たとえば洋服は、一般的に希少性が低いため捨てる難易度は低く、一番はじめに手をつけるのに最適。逆に写真や手紙などの思い出品が感情的な価値に加え、希少性が高く、捨てる難易度が高いため、最後に回します。とくに写真の場合、片づけをしている最中に思わぬところ(本や書類の隙間など)からバラバラ出てくるケースが多いため、一番最後に持ってくるのがベストです。つまり、「スムーズに捨てるための、基本の順番」はこう。はじめに衣類、次に本類、書類、小物類、そして最後に思い出品。この順番がベストです。

・「捨てるモノは家族に見せないで」ということ。出たゴミ袋はできるかぎり自分でゴミ捨て場まで持っていき、何をどれくらい捨てたかの詳細はあえて家族に教える必要はありません。とくに両親にはまず見せないことをおすすめします。別に悪いことをしているわけではないので、コソコソする必要は本来ないのですが、子供が捨てるゴミの山を見るのは、親にとってとてつもないストレスになることがあるからです。

・「こっそり捨て片づけ法」はたしかに気づかれないことも多いのですが、それが露呈したときの家族の信頼関係に入るヒビを考えると、あまりにハイリスク。そもそも人として間違っている行為のような気がします。何よりも、家族が片づけられるようにしたいのなら、もっとラクな方法があるのです。つまり、自分のモノを黙々と捨てていくこと。すると、あとを追うように家族が自分からモノを減らしはじめ、片づけをしはじめるようになります。あなたが「片づけてよ!」「こんなに散らかして!」なんて、一言も言わなくていいのです。不思議に思われるかもしれませんが、誰かが片づけはじめると、片づけは連鎖反応を次々と呼んでいくのです。それに、自分のモノを黙々と片づけていると、もう一つおもしろい変化が起こります。少しくらい家族が散らかしていてもまったく気にならなくなるうのです。

・片づけを真剣にしていると、瞑想状態とはいかないまでも、自分と静かに向き合う感覚になっていくことがあります。自分の持ちモノに対して、一つひとつときめくか、どう感じるか、ていねいに向き合っていく作業は、まさにモノを通しての自分との対話だからです。だから、モノを見極める作業の間は、なるべく静かで落ち着ける環境づくりが欠かせません音楽などは一切かけないことが理想です。捨てる勢いをつけるのなら、音楽のリズムより空気感の力を借ります。つまり、早朝の時間帯から始めるのがベスト。朝のさわやかな空気感が思考をクリアにし、体も動きやすく、判断力が冴えるからです。

・一番はじめは衣類から。より効率的に進めるのなら、その中でもざっとカテゴリー別に分けて一気に選んでいくのがおすすめです。大きく分けると衣類のカテゴリーは以下の通り。なぜこの順番が正しいといえるのか。それはもう、片づけに半生を捧げてきた私の経験値としかいいようがありません。
  トップス(シャツ・セーターなど)
 →ボトムス(ズボン・スカートなど)
 →かけるモノ(ジャケット・スーツ・コートなど)
 →靴下類
 →下着類
 →バッグ
 →小物(マフラー・ベルト・帽子など)
 →イベントモノ(浴衣・水着など)
 →靴

・まず、家じゅうのすべての収納から自分の服類を集めてきます。クロゼットの引き出しから、寝室のタンスから、ベッドの下の収納から、「一つ残らず集めること」がポイントです。一通り出そろったかな、というときに私が必ずたずねるのが、「もうこれ以上、家にあなたの洋服はありませんか?」という質問です。そして、こういうのです。「これ以降に出てきた服は、なかったモノとしてあきらめていただきますよ」と。つまり、あとで別の場所から洋服が出てきたとしても、一切受付けずに捨ててしまいますよ、ということ。この自動引き落としのような締め切り制度は、毎回本気でやっています。そうすると、お客様も無条件で捨てられてはたまらないと考え、真剣に思いだそうとします。引き落とされてしまうことは滅多にありませんが、やはりこの時点で思い出されなかったモノは、結局持っていてもときめかないモノなので、私は容赦いたしません。ちなみに洗濯中のものはセーフです。

・洋服の収納法は2種類あります。ハンガーを使ってさっとポールにひっかけていくだけの「かける収納」と、一つひとつたたんで引き出しなどに並べてしまう「たたむ収納」、こう書くと、どうしてもお手軽な「かける収納」に惹かれてしまう気持ちもわかりますが、私が断然おすすめするのは、「たたむ収納」を中心としたしまい方です。まず、収納力の問題からいって「たたむ収納」と「かける収納」は比べものになりません。服の厚みにもよりますが、たとえば10着分の洋服をかけるスペースがあった場合、それらを正しくたためば、20着か40着分を収納することができます。たたむ効果はそれだけではありません。じつは洋服をったむことの本当の価値は、自分の手を使って洋服に触ってあげることで、洋服にエネルギーを注ぐことにあるのです。

・この際、衣替えはしないと決めてしまいましょう。つまり、オンシーズンの服もオフシーズンの服もふだんからいつでも使える状態にして、引き出しの入れ替えなどは一切しないことにするのです。

・モノを残すか捨てるか選ぶときは、収納からいったん出して、起こしてあげること。はじめから床に積んであった本たちでさえ、少しでも場所をズラしたり、あえてもう一度積みなおしたりしたほうが、断然選びやすくなります。

・本の場合も、読み返すかどうかとか、身についたかどうかとは一切考えず、一冊ずつ手にとって、ときめくかどうかだけで判断してください。手にとって本当にときめく本、本棚に置いてあるのを見るだけで、「この本がここにあるのが幸せだな」と思えるモノだけを残しましょう。

・人に薦められた本であっても、ずっと読もうと思っていた本であっtも、一度読みどきを逃してしまった本は、この際、すっぱりあきらめましょう。買ったそのときは読みたいと思ったのかもしれませんが、結局、読む必要はなかったということを教えてくれたのがその本の役割だったのです。途中まで読んだ本も最後まで読みきる必要はありません。その本の役割は途中まで読むことだったのです。だから、未読の本はすべて捨てる。何年もほったらかしの未読の本よりも、今読みたいとピンときた本を読んだほうが、断然いいはずです。

・結論をいうと、書類は「全捨て」が基本です。こういうとたいてい、ぎょっとした顔をされて驚かれてしまうのですが、書類ほどやっかいなモノはありません。だって、大事に持っていてもまったくときめかないと思いませんか。だから、「今使っている」「しばらく必要である」「ずっととっておく」。この3つに該当しない書類はすべて捨ててしまいましょう。

・大切なのは、過去の思い出ではありません。その過去の経験を経て存在している、今の私たち自身が一番大事だということを、一つひとつのモノと向き合うことを通じて、片づけは私たちに教えてくれます。空間は過去の自分ではなく、未来の自分のために使うべきだと、私は信じています。

・片づけても片づけてもリバウンドが起きてしまう大きな原因は、そもそもモノの定位置が明確に決まっていないことにあるのです。逆にいうと、あらゆるモノの定位置さえ決まれば、使ったとは定位置に戻すだけで、片づいたおうちをキープできるようになります。そもそも定位置がなければ、いったいどこに戻すというのでしょうか。定位置を決める。使ったあとは定位置に戻す。これこそが収納を考えるうえでの大前提なのです。

・まとめると、バッグの一番正しい収納法はこう。まず、素材や大きさ、使用頻度が近いバッグを組み合わせて入れ子にします。取っ手はすべて外に出した状態で、バッグを購入したときの袋にしまいます(袋がなければ省略してオーケー)。これらをクロゼットや押し入れに、すべて見えるような状態で並べてしまいます。クロゼットなら上段、押し入れなら天袋に、本を並べるみたいにバッグを立てて並べます。

・どちらにしろ、お風呂で使っているモノは、使用後に水気を拭かなければなりません。だったら、シャンプーでも何でも、毎回使ったあとに使用済みのバスタオルでキュッと水気を拭いて、浴室の外の収納場所に収めてしまいましょう。一見毎回の手間が面倒に思えるかもしれませんが、やってみるとこちらのほうあ断然、ラクです。浴室掃除もさっとできて、水アカもたまらないし、ラックの手入れの手間もいりません。キッチンのシンクまわりも同様です。なんとなく、キッチン洗剤やスポンジをシンクまわりに置きっぱなしにしていません。私の場合は、これもシンク下の収納に収めてしまいます。コツは、スポンジを完全に乾かすこと。

・ちなみに、服を捨てるとお腹がスッキリして、本や書類を捨てると頭が軽くなって、化粧品などコスメ関係を減らして洗面所など水まわりがスッキリするとお肌がツルンとなる、というのがこれまでの経験から見た傾向です。科学的な根拠はありませんが、なんとなく、捨てたモノと同じような箇所が反応しているのもおもしろいですよね。お部屋がきれいになったついでに自分自身もきれいになれて、ダイエット効果も期待できるお片づけ。またく、どこまですばらしいのかしら。

<目次>

はじめに
第1章 片づけても、片づけても、片づかないものはなぜ?
 片づけを習ったことがないから、片づけられない
 「一気に片づけるとリバウンドする」にだまされないで!
 「毎日少しずつの片づけ習慣」では一生片づかない
 「完璧を目指さない」の大いなる落とし穴
 片づけはじめたそのときから、人は人生のリセットを迫られる
 収納が得意な人ほど、モノをためる人になる
 「場所別」はダメ、「モノ別」に片づけよう
 性格別に片づけ法を変えても意味はない
 片づけは祭りであって、毎日するものではない
第2章 まずは「捨てる」を終わらせる
 一気に、短期に、完璧に、まずは「捨てる」を終わらせる
 モノを捨てる前に「理想の暮らし」を考える
 触った瞬間に「ときめき」を感じるかどうかで判断する
 同じカテゴリーのモノは、まとめて一気に判断すること
 「思い出品」から手をつけると必ず失敗する
 捨てるモノを家族に見せてはいけない
 家族にイライラするときは、自分の部屋に原因がある
 自分がいらないものを家族にあげるのはやめる
 片づけとは「モノを通して自分と対話する作業」である
 捨てられないと思ったときの対処法
第3章 「モノ別」に片づけるとこんなにうまくいく
 片づけの順番 「モノ別」に必ず正しい順番で片づける
 衣類 家にあるすべての服をまず床に並べる
 部屋着 「捨てるものはもったいないから部屋着にします」は禁句
 衣類の収納 「たたむ収納術」で収納スペースの問題は解決できる
 服のたたみ方 ピタリと決まる、一番正しいたたみ方
 衣類の並べ方 クロゼットの中にときめき感を仕込む裏ワザ
 靴下類の収納 靴下もストッキングも結んではいけない
 衣替え 季節が変わっても衣替えをしない収納法
 本の片づけ方 すべての本を床に全部並べてみる
 未読の本 いつか読むつもりの「いつか」は永遠に来ない
 残すべき本 「伝道入り」の本は迷わず手元に残す
 書類整理 「書類は全捨てが基本」でまったく問題なし
 書類あれこれ やっかいな書類はこうして片づける
 小物類 「なんとなく」ではなく、「ときめくモノ」だけを残す
 小銭 合言葉は「小銭を見たら、財布にイン!」
 小物類あれこれ なんとなく置いてある「捨てるべきモノたち」
 思い出品 実家を思い出品の避難場所にしてはいけない
 写真 過去の思い出よりも今の自分を大切にしよう
 私は見た!信じられない「大量のストック」あれこれ
 「適正量のカチッとポイント」がくるまで減らしつづける
 感情を信じて行動すると、すべてがうまくいく
第4章 人生がキラキラ輝く「ときめき収納レッスン」 
 家にある「あらゆるモノの定位置」を決める
 モノを捨てる前に「収納のワザ」に走ってはいけない
 収納は「限界までシンプル」にする
 収納場所は「分散」させない
 「行動動線」と「使用頻度」は無視してもオーケー
 積んではダメ、基本は「立てて収納」する
 「市販の収納グッズ」は使う必要なし
 バッグは「バッグの中」に収納すると便利!
 バッグは「毎日、空」にする
 部屋の一角を占領する大物は全部「押し入れ」に入れる
 「浴室」と「キッチンのシンク」には何も置かない
 本棚の一番上の段を「マイ神棚」にする
 「見られたくないモノ」はクロゼットの中に飾る
 衣類を買ったらすぐにパッケージから出し、タグをはずす
 包装シールがつくりだす「情報の多さ」を侮ってはいけない
 大切にすればするほど、モノは「あなたの味方」になる
第5章 人生がドラマチックに変わる片づけの魔法
 部屋を片づけると、なぜかやりたいことが見つかる
 人生をドラマチックに変える「片づけの魔法」効果
 「片づけの魔法」で生きていく自信が生まれた
 それは「過去に対する執着」か、「未来に対する不安」か?
 「モノがなくてもなんとかなる」と思えるようになる
 おうちにあいさつ、してますか?
 あなたの持ちモノは、あなたの役に立ちたいと思っている
 お部屋と体はつながっている
 「片づけると運気が上がる」は本当か?
 「本当に大切なモノ」の見分け方
 ときめくモノに囲まれた生活を送ると幸せになれる
 本当の人生は「片づけたあと」に始まる
おわりに


面白かった本まとめ(2011年下半期)

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ラミティエ(高田馬場)でランチを楽しみました!

2012年05月09日 01時00分00秒 | 外食
<水曜は食べ物のおはなし>

JRや東京メトロの高田馬場駅から徒歩約5分のところにあるラミティエでランチを楽しみました!

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↑ラミティエの外観

食べログではTOP5000に選ばれていますね。
友里征耶さんも雑誌でオススメしていて、ぜひこのラミティエには行ってみたいと思っていました。
原価率が高いので量が多く、そして美味しいお店なようです。

予約が必須とのことで、電話で予約をして行ったのですが、お店では次から次へと予約の電話が入っていましたね。
相当人気なお店のようです。

店内は、テーブルにクロスがかけられ、全体的にきれいにしていました。

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↑店内

さっそくメニューを見ます。

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↑メニュー

ランチの金額は1200円で、前菜とメインを1つずつ選びます。
今回は健康的に魚系で行こうと思い、前菜は、ズワイガニとベーコン等のタルト、メインはへダイのポワレを注文しました。
しかしながら、周りのお客さんの料理を見ると、お肉がかなりの量で美味しそうで、肉系を選んだ方が良かったかと少し後悔しましたね^_^;)

それから、せっかくなのでデザートセット525円も注文しました。
デザートはイルフロタントで、カスタードソースにメレンゲを浮かべ、アーモンドスライスとキャラメルソースがけというものです。
たくさん文字があったので選んでみました^_^;)
それから飲み物は紅茶を選びます。

すぐにパンが運ばれます。温かいのが嬉しいですね。

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↑パン

そしてズワイガニとベーコン等のタルトが運ばれます。
ニンジンとプチトマトが添えられて美しいです!
タルトも焼き上げられたばかりでホカホカほどよい柔らかさで美味しいです!
薄めの味が嬉しいですね。

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↑ズワイガニとベーコン等のタルト

そして、メインのへダイのポワレが運ばれますが、さすが大きい!!
写真では分かりにくいかもしれませんが、かなりの大きさです。
魚料理でこんなに大きな魚を運ばれたのは初めてですね!
さすがラミティエ!
ほどよくカリカリに表面は焼かれていて、そして白身が柔らかくて美味しい!
その魚の下にあるトマトソースも美味しいですね!
これは満足します!

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↑へダイのポワレ

最後にデザートはイルフロタントで、フワフワのメレンゲを浮かべ、アーモンドスライスとキャラメルソースがけというものです。
メレンゲのフワフワさには驚きました!
キャラメルソースが嬉しいです!
紅茶と一緒に美味しく頂きました!

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↑デザートのイルフロタント

ラミティエはさすが人気店で、料理は美味しくそしてボリュームがありとてもオススメですね!
今度は肉料理にチャレンジしたいと思います!

なお、後日訪れたラミティエの夕食編はコチラになります。

ラミティエ
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関連ランキング:フレンチ | 高田馬場駅西早稲田駅面影橋駅



美味しかったものまとめ(2011年下半期)

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東京の神楽坂を街歩きしました!

2012年05月07日 01時00分00秒 | イベント・外出
<月曜はお勧めなおはなし>

以前このブログで紹介したTOKYO地下鉄ぐるり おみやげ散歩という本を参考に東京の神楽坂を街歩きしましたので、その紹介をしたいと思います。

まず飯田橋駅で降りて、東京大神宮に行き、それから神楽坂駅方面に歩くことにしました。

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↑東京大神宮の鳥居

 東京大神宮は、明治13年に明治天皇のご裁断で伊勢神宮の分霊をまつることになったようですが、当時は日比谷にあったようです。関東大震災後の昭和3年に現在の場所に移ったとのことです。
 現在は東京のお伊勢さまとして親しまれているようです。

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↑東京大神宮の説明

 また、最近は縁結びの御利益があるといわれ、若い女性が多いのには驚きましたね。「恋みくじ」を引いて一喜一憂するようです。

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↑東京大神宮

それから神楽坂を歩きます。神楽坂の入口右側には、ペコちゃん焼きの看板が目立ちます。日本でここだけ売っているようです。小倉・チョコレート・カスタード・チーズが定番のようです。運が良ければペコちゃんのボーイフレンドのポコちゃん焼きがでてくるようです。

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↑不二家のペコちゃん焼き

それからその隣のお店は、以前行ったことのある甘味処「紀の善」があります。ここの抹茶ババロアは有名なようですね。

それから神楽坂を上って右側に「二葉」というお店があるのですが、ここのばらちらしは有名なようですね。マグロ・イカ・玉子・数の子・海老など16種類の具が乗ったちらし寿司で、色とりどりの具が美しいようです。今度行ってみたいと思います。

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↑二葉

このあたりの神楽坂の様子は以下の写真の通りです。
実は、この脇道には高級で美味しそうなお店がたくさんあります。

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↑神楽坂

それから「五十番本店」という中華料理店があり、1Fで肉まん等を売っていました。
 どれもかなり大きくてビックリです。今回はミニ肉まん180円を選びましたが、それでも十分な大きさです。
 アツアツの肉まんをもらい、さっそく食べてみましたが、具がずっしり入っていて肉汁ジューシーで美味しい!これは嬉しいですね。

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↑五十番本店

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↑五十番本店の肉まん

それから神楽坂を上って左側を見ると、毘沙門天がありました。
戦国時代好きな方には、あの上杉謙信が信仰していたものとピンとくるかと思います。狛犬?がちょっと恐かったです。

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↑毘沙門天の入口

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↑毘沙門天の中

それから神楽坂上の信号を右に曲がり、それから右に曲がると「マンヂウカフェ麦丸2」という一軒家カフェがあるのですが、あまりの朽ち果てた姿にお店とは気づきませんでした^_^;)
 意を決して入ったのですが、しかしなんと満席にはビックリしました!人気のお店なんですね。
ふっくら蒸しあげた「小麦マンヂウ」が名物のようですが、食べられずに残念でした^_^;)

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↑マンヂウカフェ麦丸2

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↑マンヂウカフェ麦丸2のメニュー

 それから神楽坂に戻り、神楽坂を上って右側にベッカー(BACKER)というお店があります。

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↑ベッカーがあるビル

 但しCAFE TRIESTINOの3Fにあるので、分かりにくいです。ビル右側から入り、2Fまで階段で上って、2Fからエレベーターを使って3Fに行きます。

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↑ベッカー

店内に入ると、目の前でパンを焼いていてびっくりしました。
おじさん一人でパンを焼いて販売もしているようです。
 美味しそうなパンがたくさん売られていてどれを選ぶか迷いますが、TOKYO地下鉄ぐるりの本でも紹介されているハート型のバタープレッツェル160円を買いました!
 想像以上に固くてびっくりしましたが、食べてみると塩味が利いていてついつい食べてしまいますね。美味しくてGOODです!

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↑バタープレッツェル

それから、「花」という甘味処へ行きます。
詳しくは最近このブログで紹介していますのでそちらをご覧ください。
さすが神楽坂らしい老舗で、上品さが漂っていました。

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↑花の入口

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↑花の店内

 店主のおばさんと結構話したのですが、赤字になるほど原材料にはこだわっているとのことで、クリームあんみつはたくさんのフルーツが盛られてカラフルで、そして美味しかったですね~!
これはたまりません!感動です!

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↑クリームあんみつ

 神楽坂の街歩きは、色んなお店がたくさんあり、楽しめてとてもオススメですね!
今度は、神楽坂の脇道の美味しそうなお店に色々と行ってみたいと思います。

お勧めなお話(2011年下半期)
自動車保険を安く!
引越し成功法!
ホテル安く利用体験談!
格安国内航空券体験談!

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「40歳の教科書 「16歳の教科書」番外編」という本はオススメ!

2012年05月04日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

「40歳の教科書 「16歳の教科書」番外編」の購入はコチラ

 この「40歳の教科書 「16歳の教科書」番外編」という本は、子を持つ親のために、子供の教育について特別講義としてまとめたものです。
 テーマは次の4つで、その講師は実際に教育現場で活躍している大学教授、企業経営者、メンタルトレーナー、人気漫画家、プロ野球選手などです。

 (1)英語はいつから学び始めるべきか?
 (2)中高一貫校は幸せへのプラチナチケットか? 
 (3)「お金」と「仕事」をどう教えるか?
 (4)挫折や失敗し子どもにどう接するか?

どれもなるほどと思う内容で、特に以下については共感しました。
 ・英語よりもまず母国語である日本語を重点的に学ぶ必要がある
 ・中高一貫校のデメリットとしては、中だるみが生じ誘惑に流される可能性がある、親離れ・子離れが難しくなることがある
 ・もう少しがんばれば手が届きそうな目標を見つけて、一歩ずつ前に進むこと
 ・会社が倒産するのは社会に貢献できなくなったから
 ・挫折や失敗をしたのなら思う存分落ち込めばいい。そして「もうダメだ!」と思ったときには誰かの助けを借りること
 ・考える力を子供時代から少しずつ培うこと

とてもオススメな本です!
以下はこの本のポイントなどです。

・子供の英語力というのは、「バーター(物々交換)」だということです。人間が生きていくための様々な基盤は、豊かな感受性と柔軟な思考力に富んだ子供時代につくられます。ところが、子供時代は、長い人生にあってあまりにも短い。その限られた時間の中に「英語漬け」が割り込んだとしたら、犠牲になる能力が必ずあります。その最たるものは母国語。日本語です。

・日本人が英語を苦手としているのは、教育制度や勉強法に問題があるわけではありません。ただ単純に、「機会」の問題なのです。使う機会がないから、真剣に覚えようとしない。使う機会がないから、すぐに忘れてしまう。使う機会がないから、モチベーションを保てない。それだけの話で、小学校英語なんて的外れもいいところなんですね。その証拠に、海外赴任などで「どうしても使わざるをえない状況」に追い込まれたら、誰でもそれなりの英語をしゃべるようになります。

・そうやって単語を拾っていくコツさえ覚えたら、ビジネス英語は半年から1年で一定レベルまでいけます。少なくとも、上司からなにを指示されたのかわからない、というような絶望的状況には陥らずにすむようになる。まず覚えるのは商品名、ビジネス用語、経済用語、業界用語ぐらいでしょうか。そのへんを頭に叩き込んでおけば、あとは上司の顔つきやその場の雰囲気で「ああ、売り上げが下がってるって言ってるんだな」「経費を削減しろって言っているんだな」と察することができるし、実際それで十分なんです。

・順番的には半年から1年でビジネス英語、2~3年で日常英語、5年でパーティー英語ときて、ようやく10年目に字幕なしの映画が理解できるようになった感じです。よく「ハリウッド映画で英語を学ぼう」みたいな話を耳にするけど、かなり無謀なチャレンジだと思いますよ。日常会話に不自由しないレベルであっても、映画は相当ハードルが高い。

・特にアメリカの企業は、日本以上のゴマスリ社会。世間知らずなペーペーならともかく、ボスに花束を贈らない部下なんてどこにもいない。ボスの奥さんの誕生日までしっかり覚えて、豪華な花束を贈る。上司の権限が強い分、日本では考えられないくらい露骨な”ゴマスリ合戦”になるんですよ。

・ともかく、小学校で英語を教える必要などありません。しかし、中高生になってから英語を勉強することには意味があると思っています。なぜなら、「日本語と違った言語体系」を知ること自体に意味があるからです。きっと自分の使っている日本語を見つめ直すきっかけにもなるし、英語ならではの表現や論理展開を知ることもおもしろいでしょう。

・僕が日本語を覚えるときに気をつけていのは、とにかく「覚えた言葉はすぐに使ってみる」ということ。覚えたけど使わないままじゃ、ペーパードライバーといっしょです。せっかく苦労して免許を取ったのに、いつの間にか忘れちゃって運転できなくなる。だか、覚えた言葉はその日のうちに使ってみる、というくらいの意識じゃないと、なかなか自分のものにならないと思います。それから「あとでやろう」も絶対にダメ。本を読んでいて知らない言葉があったら、その場で辞書を引くこと。「あとでやろう」と言った人が、実際にあとでやった姿なんて見たことないでしょ?そして最後に、同じ英語の勉強でも、自分が興味を持てる分野を探すこと。僕が赤塚不二夫さんの漫画から日本語の世界に入ったように、好奇心さえあれば勉強は苦にならないものです。自分の興味が強ければ強いほど、その思いが原動力になって習得も早くなります。

・よく耳にする「言語の習得には臨界期があり、10歳くらいまでに身につけないと、そのあとでは遅すぎる」という話は、母国語と外国語を混同させた俗説です。確かに、母国語の習得にあたっては10歳ぐらいまでの教育が重要で、たとえば大人になってから読み書きを覚えようとしてもかなり苦労します。一方、外国語の習得については、10歳をすぎてからでも十分に間に合うし、むしろ母国語の基礎をしっかり固めたうえで外国語に取り組んだほうが学習の成果もあがるのです。

・自分自身は英語が苦手であっても、けっして学校に任せきりにせず、むしろお子さんといっしょに勉強していくというくらいの意識を持ってほしいと思います。だって臨界期などは存在せず、英語への取り組みは何歳になってからでも間に合うのですから。

・難関中学受験はひとえに「親の受験」であり、極言するなら、「母親の力が9割」だということを知っておくべきでしょう。難関校を目指す塾は、授業のレベルが非常に高く、親のサポート抜きでは毎日の宿題さえ満足にこなせません。そのため、毎晩遅い時間まで母親が子供の隣に座って、ときには一緒に夜食を食べながら、一問ずつ懇切丁寧に教えていく必要があります。こんな地道な作業を何年も続けられる熱意と忍耐力を持った母親だけが、わが子を難関校へと導くことができるのです。さらに、中高一貫校に入って大学まで推薦で進むようだと、受験という社会からの厳しいジャッジを自分一人で経験しないまま、社会に放り出されることになります。そして中学受験当時の親子関係から抜け出せないまま、心理学で言う「共依存」という状態に陥って、親離れ・子離れが難しくなってしまうことも考えられるのです。本人の自立を促したければ、親がべったりとサポートしながら中高一貫校に入れるよりも、普通に高校・大学受験をさせたほうがよいでしょう。

・誰だって自分の人生を振り返ってみればわかるように人はむしろ、居心地の悪い困難な環境でこそ成長するものです。たとえば、公立校の異質な集団の中で揉まれていくうちに、多様な価値観を知り、自分と異なる価値観を広く受け入れ、精神的にも強くなっていく、という側面があるのは事実でしょう。そして意外と知られていないことですが、中高一貫校ではどうしても「中だるみ」が出てしまいます。なにかと誘惑の多い14~15歳のときに、高校受験という大きなハードルを課せられることは、子供たちが自らを律したり軌道修正するうえで非常に大きな意味を持っています。しかし、中高一貫校に通っているとその機会も得られないまま、ずるずると誘惑に流されていく。そうした例は数多く見受けられます。大切なのは、このとき親が頑として子供に「NO」と言えるか。話し合って納得させるとかではなく、「NOはNOだ」と言い切れるか。

・こうした地域との結びつきを強化する動きは全国的にも広がっていて、文部科学省も2008年から、「学校支援地域本部事業」として動き始めています。これは、単なる教育の改革というだけではなく、地域社会と地域経済を再生させようとするプランです。地域間格差の問題が深刻化して以降、いかにして地域を活性化させるかは重要な課題となっていました。でも、さびれた商店街にいくらお金を落としたところで地域の再生にはつながらない。そこで、学校を地域の「核」と位置づけることによって、もう一度地域コミュニティや地域社会を再生させようという動きが進行しているのです。おそらく今後5年間で、公立校を取り巻く環境は激変するでしょう。

・受験やその他、「人生の課題」に立ち向かうとき、どうすればその刺激を「好ましいものだ」と評価できるようになるのでしょうか?とくに、受験の直接的な当事者ではない親は、子供に対してどんなサポートができるのでしょうか?そこでぜひ覚えていただきたいのが、スポーツ心理学のジム・テイラー博士が提唱する「ポジティブ・プッシング」と呼ばれる次の8カ条です。
 第1条「わたしは愛されている!」(自己親愛感)
 第2条「わたしはできる!」(自己効力感)
 第3条「大事なのは挑戦すること!」(チャレンジ精神)
 第4条「自分の行いに責任を持つ!」(自己責任感)
 第5条「失敗しても大丈夫!」(失敗受容感)
 第6条「間違っても修正できる!」(逆境対処能力)
 第7条「自分のやっていることが楽しい!」(自己幸福感)
 第8条「わたしは変わることができる!」(自己変容感)
 親が常にこの8つを意識しながら子供と接し、子供がこの感覚を持てるよう導いていくこと。そうすれば、受験や人生の課題に対して過度にストレスを感じることはありません。

・わたしはよく保護者の方から「子供のやる気を引き出すには、どうしたらいいですか?」と訊かれるのですが、本来、やる気とは自発的なものであって、誰かに言われて出るものではありません。ただ、親にできることがひとつだけあるとすれば、子供に「やる気を出すとこんなに楽しい」という姿を見せることです。自らが率先して趣味や勉強に取り組む。もちろん、仕事でもかまいません。そして「なにかに熱中すると、毎日がこれほどにも楽しくなるんだ!」という姿を見せてやるのです。これは親だけでなく、社会の大人全体が考えるべき問題でしょう。

・お受験や中学校受験を考える前に、お子さんとの対話を通じて、もっとよく子供のことを知りましょう。自分の子供がどんなことに興味を持ち、どんなことを考え、どんな問題を抱えているのか、もっと真剣に考えましょう。隣のお子さんが塾に通い始めたとか、親戚の子供が一貫校に通っているとか、周囲の動向や意見い流されてはいけません。子供と誰よりも長く接し、誰よりも深く子供のことを知っているのは、あなた自身なのです。自分の子供に合ったペースで、自分の子供に合った教育を考えてください。そして繰り返しになりますが、決して勉強で子供を叱らないようにしましょう。勉強しないからと罰を与えても、子供はますます勉強が嫌いになるだけです。私の教授仲間(で優秀だと思う人)に話を聞いても、小さい頃に「勉強しなさい」と言われて育った人間はあまりいません。そもそも勉強なんて、目標と達成感の報酬系システムがうまく働けば、自分から進んでやるようになるものです。子供の「できないこと」に罰を設けず、「できたこと」を見逃さず、しっかりほめてやること。たくさんコミュニケーションをとって、もっと子供を理解すること。そして、わが子を信じて我慢強く待ってあげること。わたしたち親にできることは、それだけではないでしょうか。

・大切なのは、もう少しがんばれば手が届きそうな目標を見つけて、一歩ずつ前に進むこと。目標を見失わずに働けば、お金は必ずついてきます。

・自分一人であれこれ考える前に、つまんないプライドやこだわりを捨てて、なんでも挑戦したらいいと思う。失敗したら失敗したで、その分野は自分に向いてないってだけのことだから。

・会社が倒産するのは、業績が悪いからでも景気が悪いからでもありません。社会に貢献できなくなったから、倒産する。理由はそれだけです。どんな業種であれ、モノが売れないということは社会に貢献できていない証拠なんですよ。そして社会から必要とされないような会社を続けるくらいなら、倒産したほうがよっぽど社会貢献だ、というのが僕の考えでる。だから僕は、いつも「儲けるんじゃない、儲かるんだ」と言っています。儲けを先に考えたら、必ず失敗する。まずはお客さんが喜ぶことを第一に考えて、喜んでもらえるための努力を精一杯やる。そうすれば、結果として儲かる。似たような言葉だけど、「儲ける」と「儲かる」は、まったく意味が違うんです。

・たとえば、家計簿をオープンにして子供といっしょにつけるだけでも、おこづかいに対する不満はなくなるだろうし、自分のおこづかいやお年玉の使い方について、もっと真剣に考えるようになるでしょう。

・確かに業者さんを買いたたけば利益は出ます。でも、絶対に長続きしない。業者さんがギブアップして逃げていったり、仕入れる品物の質が下がっていったり。お客さんに喜んでほしいからといって、業者さんを不幸にしたら元も子もないんです。もし継続可能なシステムがあるとしたら、ただただ自分たちのムダを減らすこと。ギリギリまでムダを削っていけば、業者さんをいじめることなく値段を下げることができる。質もよく、値段も手頃な「値打ちのある商品」を提供できる。お客さんは喜んでくれるし、業者さんも喜ぶ。もちろん、僕らも業績が上がるし、みんなが幸せになれる。こうなるとね、ムダを削っていく作業が楽しくてたまらなくなるんですよ。

・僕があのとき確信したのは、「アメリカ人が豊かなのは、たくさん稼いでいるからじゃない。モノが安いから豊かなんだ」ということ。そこで僕は日本に帰ってからあらゆる価格を3分の1に引き下げ、日本にアメリカ並の豊かさを実現させようと決意しました。日本人全員の収入を3倍にすることはできないけれど、自分の売る商品の価格を3分の1にすることはできるはずだ、そうすれば日本はもっと豊かになるんだ、とね。

・感情に流されることなくお金を扱うための心構えを、簡潔に7カ条として考えましたので列挙しておきます。
 【お金と投資の7カ条】
 第1条 自分でわからないものに手を出すな
 第2条 他人の判断に頼るべからず
 第3条 金融商品は「相手の儲け」から考えよ
 第4条 うまい話など存在しない、と心得よ
 第5条 投資に「初心者向け」はない、と心得よ
 第6条 感情に流されるべからず
 第7条 正しいリスク分散を学べ
 いずれもテクニック以前の、基礎の基礎にある考えですが、お金や投資だけでなく社会を生き抜く知恵としても大切なものです。ぜひ、ご家庭でお子さんとお金の話をするときなどに参考にしてみてください。

・東大時代、精神科の先生といろいろ話し合った結果、挫折や失敗に思い悩んで自ら命を絶ってしまう学生は、大きく2つのタイプに分かれるということがわかりました。ひとつは「統合失調症」で、もうひとつが「うつ病」です。統合失調症の場合、これはすぐにでも専門家のところに連れていって、医学的な治療が必要になります。一方のうつ病では、親や教師が「負荷」を外してやることが有効だと教わりました。そもそも、受験や卒論は自分に対して徹底的に負荷をかける行為です。ある程度の負荷は成長に欠かせないものでもあり、それ自体が悪いとは思いません。高校生や大学生にもなれば、自ら望んで負荷をかけていくものです。しかし、傍で見ていて「これ以上は難しいな」と判断したら、その負荷を外してやらねばなりません。これは、親や教育者の仕事でしょう。僕自身、見ていて「もうそろそろ限界だな」と思った学生に対しては、卒論のテーマを変えるように指示するなど、さまざまな対応をとってきました。

・いま君たちが過ごしている中学・高校時代の風景は、時間が経つとまったく違った姿に変貌するんだ。倍も生きれば全然違うようになるし、ましてや僕みたいに4倍も生きてみればすっかり変わっちゃう。失敗も苦しい体験も、悔しい思いも、みんなひっくり返って、すばらしい経験として命を吹き返す。だから、悩むときには徹底的に悩んでほしい。どん底で、もがき苦しめばいいさ。苦しいときには時間の力を信じることだ。長い人生には、時間だけにしか解決できないものってあるんだよ。挫折や失敗をしたのなら、思う存分落ち込めばいい。そして、「もうダメだ!」と思ったときには、ためらうことなく誰かの助けを借りること。人の助けを借りるのは、なんら恥ずかしいことじゃない。君にはたくさんの仲間がいるし、最高の親がいるんだからね。

・考える力は、大人になってから急に身に付くものではありません。子供時代から少しずつ培っていくものです。だから、親が過保護になりすぎて、なんでもフォローしてあげたり、すぐに「答え」を教えてあげたり、あるいは失敗そのものから遠ざけたりしているようだと、考える力が身につかなくなると思います。

・どんなに丈夫な選手でも、怪我や故障のない選手はいません。長く現役をやっていると、必ずどこかに異常が出てくるものです。そして多くの選手は、怪我をしてみてはじめて、自分のトレーニング方法を見つめ直します。どうもこのままじゃいけないようだ、もっといい方法があるかもしれないーとね。つまり怪我や故障は、それまでの自分を変える大チャンスでもあるわけです。これはたぶん、人生全般においても同じで、挫折や失敗はとても苦しいことだけれど、同時に自分を変えるチャンスでもあるんですよ。

・スポーツであれ、学校の勉強であれ、ただやらされるのでは本当の力になりません。自分で「なぜそれをやるのか?」と疑い、考え抜くことが重要なのです。もし浪人したとしても、結果的に「自分は将来なにをやりたいんだろう?どんな道に進みたいんだろう?そのためにどんな大学に進むべきなんだろう?」と自分の人生を考える時間が1年も増えるわけでしょ?長いスパンで考えたら、そこでの1年はとてつもなく貴重な経験になるはずですよ。子供に考える時間を与えて、本人が自分なの答えを出すまで待つ。なにかをしてあげるのではなく、「待つ」という接し方を大事にしてほしいですね。

<目次>
開講の辞 ナビゲーター 桜木建二
1時限目 英語はいつから学び始めるべきか
 まずは日本語の土台を固めよう
 大西泰斗 言語学者
  「英語漬け」は望ましいのか
  なぜ「時間をかけない」は可能か
  ブランド化した英語
  日本人にとっての英語は災厄?
  コラム1 英語文の背後に流れる「ハート」とは?
  コラム2 イメージによる効率化
  コラム3 「形への意識」による効率化

 9割の日本人に英語は要らない
 成毛 眞 株式会社インスパイア取締役ファウンダー/元・マイクロソフト株式会社(日本法人)代表取締役社長
  英語ができないのは英語が要らないから
  ビジネス英語は1年でマスターできる
  学校では教えてくれない「ニュアンス」とは
  英語ができても就職には関係ない
  日本の翻訳文化に目を向けよう
  英語を学ぶ意味を考える

 子どもをカタカナ英語に染めないで
 デーブ・スペクター タレント/テレビプロデューサー
  日本人は世界一英語が苦手?
  カタカナ英語のメリットを活かそう
  デーブ式・外国語上達の秘訣とは?
  ネイティブの「音」に耳を澄まそう

 変えるべきは「学校」より「親の意識」
 鳥飼玖美子 立教大学教授
  英語の早期教育論は幻想にすぎない/あまりにずさんな小学校英語の姿/最大の問題は親の英語コンプレックス/なぜ英語だけ過度に期待をかけるのか/学校に任せず、子どもといっしょに勉強する姿勢を

2時限目 中高一貫校は幸せへのプラチナチケットか
 有名私立中学への進学は人生の「保険」ではない
 藤原和博 元・杉並区立和田中学校校長
  加熱する一方の一貫校受験ブーム
  難関中学受験は親の力が9割
  子どもの「居心地のよさ」を優先しないこt
  学力低下より深刻な「雇われる力」の低下とは?
  公立校の強みはこれから生きてくる
  公教育に「参戦」せよ!

 受験ストレスから逃げず、成長する機会と考える
 田中ウルヴェ京 メンタルトレーナー
  受験は本当にストレスなのか?
  目標は合格ではない
  ポジティブ・プッシングの8カ条
  「やる気」を引き出す唯一の方法とは?

 焦らず叱らず比較せず、子どもの成長を待つこと
 開 一夫 東京大学教授
  子どもにとって「早すぎる課題」とは?
  子どもの発達段階を見極めること
  環境の変化は自分を変えるきっかけになる
  ほめて育てるか、叱って育てるか
  「できないこと」より「できたこと」に注目する

3時限目 「お金」と「仕事」をどう教えるか
 人が人であるために仕事とお金がある
 西原理恵子 漫画家
  わたしが「カネ」の話をする理由
  「自由」と「責任」は有料である
  子どもを「戦場」に送り込まない
  お金の稼ぎ方、夢のかなえ方
  怠け者ほど仕事がストレスになる
  働くことは生きること、生きることは働くこと

 ビジネスの原点は利他の精神にある
 正垣泰彦 株式会社サイゼリヤ代表取締役会長
  すべての仕事は社会貢献である
  会社から給料をもらっていると思うな
  もっとお金をオープン化しよう
  ビジネスとボランティアの違いとは?

 本当の豊かさは安さで実現される
 似鳥昭雄 株式会社ニトリ代表取締役社長
  アメリカで見た「豊かさ」の衝撃
  目標に順位をつけない
  後始末より先始末、の意識を
  落ちこぼれでも夢はかなう

 感情を切り離して真実を見抜く力を
 山崎 元 経済評論家
  お金の価値を考える
  お金の先生は数学教師であるべき
  お金ほど感情と絡みやすいものはない
  仕事選びのポイントは「お金と自由」のバランス

4時限目 挫折や失敗をした子どもにどう接するか
 失敗をワクチンと考え、正解を押しつけない
 畑村洋太郎 工学院大学教授/東京大学名誉教授
  失敗という名のワクチンを接種しよう
  失敗を創造に変える「省察」の作業
  正解主義の負荷を外してやること
  時間の力を信じて悩み尽くせ

 自分の頭で考えてこそ、本物の答えが見つかる
 工藤公康 埼玉西武ライオンズ
  「失敗してもいい」というメッセージを
  自分の頭で考えてこそ成長がある
  怪我で潰れる選手に足りないもの
  「なぜ?」の気持ちが人を育てる

 対等な立場からの勇気づけの言葉を
 岸見一郎 哲学者・日本アドラー心理学会顧問
  子どもを対等な存在と見ること
  育児と教育の目標とは?
  勉強は子どもの課題で、親は介入してはいけない
  過去のせいでも他人のせいでもない
  減点法の評価をやめて加点法で考える 

面白かった本まとめ(2011年下半期)

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花(東京 神楽坂)でフルーツあんみつを堪能しました!

2012年05月02日 01時00分00秒 | 外食
<水曜は食べ物のおはなし>

 以前このブログで紹介したTOKYO地下鉄ぐるりという本に掲載されている「花」という甘味処へ行ってきました!

 場所は東京の神楽坂の通りを飯田橋駅から神楽坂駅方面に歩いて右側の脇道に入ったところにあります。

1img_1717
↑店構え

さすが、神楽坂の老舗ということはあり、上品さが漂っています。
店内も和風で、清潔感があり、かなり綺麗です。
休日はいつも満席のようです。

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↑店内

 雨で閉店間際で他にお客さんがあまりいなかったということもありますが、店主のおばさんが話好きで驚きました。

 プロ野球のジャイアンツファンで、若いころはおっかけをやっていたようです^_^;) 当時は大らかだし清らかだったので、みんなで選手と一緒に銀座で食事をしたり楽しめたようです。全国に応援へ行ったようです。
 また当時は後楽園球場だったので、風向きによっては神楽坂まで歓声が聞こえていて、ワクワクしたようです。

 店主はおばさんと思っていましたが、後で83歳と聞いてビックリしましたね。若い!

 この店を始めて33年で、ずっと作りおきはせずに、おいしいものを提供しているとのことです。

 特にあんずは人気なようで、瓶詰め・缶詰は使わずにカリフォルニアから仕入れていて、自ら煮ているようです。

 後で、そのあんずを2~3個無料でごちそうになったのは嬉しかったですね。確かに美味しい!

 夏は、そのあんずと抹茶、豆のかき氷が人気なようです。
 抹茶も京都の本物のお茶を仕入れておばさんがたてているとのことです。

また、富良野の豆を築地の問屋から仕入れ、黒蜜も特別なものを使っていて美味しいようです。

 本当かどうかは分かりませんが、原材料にはこだわっているので原価割れしていて、10年ずっと赤字とのことです^_^;)
 もうぜいたくする気はないし、お客様に喜んでもらうために品質にこだわっているようです。その気持ちは嬉しいですね。


メニューは以下の通りです。

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↑メニュー

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↑メニュー


 人気でオススメはクリームあんみつ(750円)と力説するので、クリームあんみつを注文しました。
 なんと13種類もの素材を使用するとのことです。
 フルーツは自ら切ると言っていました。

10分ほど経って、クリームあんみつが運ばれましたが、おぉぉ!たくさんフルーツが乗っていてカラフルで豪華!!

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↑クリームあんみつ

いつもは、もっと大きなイチゴを乗せるとのことです^_^;)
確かに黒蜜や豆、あん、寒天も美味しい!
いろんなフルーツが楽しめるのもいいですね!
あまりに美味しくて、最後の一滴まで食べてしまいます^_^)

花の甘味はとてもオススメですね!
おばさんも長生きしてもっとお店を続けて欲しいと思います。
2~30年ぶりに挨拶してくれる客も結構いて嬉しいようです。
帰り際におせんべいを一つもらえました^_^;)


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