阪急交通社が日帰り旅行で企画する江戸ぶらり小地図ウォーキングの「浅草~吉原~三ノ輪」へ参加してきました!
前回は「両国」編に参加して良かったので、今回は「吉原」編に参加しました♪
午前10時に東武浅草駅前に集合し、まず古地図と今回のコース説明資料が配られます♪
↑古地図
次に古地図を見ながら簡単に説明があり、今回は隅田川を上流に向かって歩き、山谷堀跡の公園を通って吉原に行くコースになるとのことでした♪
江戸時代の頃は、神田川が隅田川と合流する柳橋からお金持ちは猪牙舟に乗って隅田川を上り吉原に行っていたとは聞いていたのですが、その隅田川上流に山谷堀があり、吉原大門近くまで堀が通っていたとは知りませんでしたね♪
これは吉原通いが楽で良いです^_^)
そのため当時は吉原通いのことを別名「山谷通い」とも言っていたようです^_^;)
↑コース説明資料
↑コース説明資料
それから配られたコース資料を読むと今日のコースは以下とのことでした♪
(1)隅田川沿い
(2)待乳山聖天宮
(3)今戸神社
(4)山谷堀切(山谷堀公園)
(5)吉原の見返柳
(6)吉原神社
(7)樋口一葉記念館
(8)浄閑寺
さっそくウォーキングが始まります♪
参加者はイヤホンでガイドの話が聞けるので、ガイドからかなり離れていてもその話し内容が聞けるのは素晴らしいですね。
今回のガイドは「当たり」で、かなり詳しく調べているようで、次から次へと説明してくれます。
元々、荒川や利根川は江戸湾(東京湾)に流れていたので、江戸は洪水が多くかなりの湿地帯だったようです。
そのため徳川家康は荒川や利根川の流れを変え、そして吉原近くに山谷堀も作って水を通すようにしたとのことです。
また、実は吉原は現在の浅草近くではなく、人形町近くにあったようです。
1611年の大阪夏の陣の1年前にそもそも人形町に吉原が造られたようです。
当時は女性が少なく男性ばかりだったので、いろいろな場所に岡場所が造られていたのですが、それでは風紀が乱れるという理由で、公認の場所として人形町にまとめて一カ所に遊郭が造られたとのことです。
なぜ吉原という名称になったかは2説があり、東海道の宿場町に吉原があり、そこから来た人が人形町に町を造ったので吉原、もう一説はこの辺りは「葦(よし)」が原っぱのように生い茂る場所だったので「吉原」という説の2つようです。
そうして約50年弱の間、人形町の吉原は繁栄したようですが、1657年に明暦の大火があり、江戸城を含めて江戸の約60%が焼けてしまい、この人形町の吉原も焼けてしまったようです。
この大火を教訓として、大名屋敷等は郊外に移ることとなったのですが、吉原については幕府が金を出すからということで、現在の浅草近くに移転することとなったようです。
そのため浅草近くの吉原のことを「新吉原」とも呼ばれるようです。
その吉原は文化も発展させたようです。
特に吉原の花魁などの浮世絵は当時よく売れたようで、蕎麦1杯が20文でしたが、その浮世絵1枚が20文で飛ぶように売れたようです。
また経済も発展し、江戸で1日千両動く場所としては、この吉原のほかに日本橋の魚河岸、両国辺りの演劇の3つしかなかったようです。
吉原は疑似の夫婦を味わえる夢空間で、吉原の大通りには春は桜など季節の花が植えられ、闇夜でも吉原だけは明るかったようです。
女性は奉公として16歳から26歳まで働き、その後は吉原の外に出ることができたようです。
とはいえ吉原の女性の平均寿命は21歳だったというのは過酷だと思います^_^;)
まず隅田川上流に向かって歩きますが、この日は天気がよく、また適度に風もあり清々しい日で、隅田川の対岸に東京スカイツリーがきれいに見えましたね♪
↑東京スカイツリー
ゴールド色のアサヒビールのビルも見えますが、とあるスポットではちょうどスカイツリーがそのビルに反射して見えて、人気なようです♪
私もさっそく写真に撮ってみましたね♪
なかなかおもしろいと思います♪
↑アサヒビールのビルに写る東京スカイツリー
それから言問橋(ことといばし)の横を通ります♪
「言問」とは在原業平が詠んだ歌にちなむようです。
言問橋は関東大震災の復興として建設されたものですが、昭和20年3月10日の東京大空襲では言問橋でかなりの方が亡くなってしまったとのことで、近くの墨田公園にはその碑がありましたね。
浅草方面の人は言問橋を渡れば助かると思い、その反対側の向島・本所方面の人も言問橋を渡れば助かると同じことを考えたため、両住民が橋の上で合流してしまい、身動きができなくなり、その上に焼夷弾が落ち、火炎旋風が襲いかかって千人以上が亡くなったようです。
手を合わせて冥福を祈りました。
↑墨田公園の戦災碑
↑碑の説明
それから「春のうららの隅田川~」という有名なメロディーの「花」という歌がありますが、武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲とのことでその碑がありましたね♪
「花」は羽衣28歳、廉太郎21歳の時に作られたとのことで、現東京芸術大学のそれぞれ教授・助教授だったとは若い!
滝廉太郎は肺結核で24歳の若さで亡くなってしまいますが、天才だったんですね。
↑花の碑
↑花の歌詞
そして「待乳山(まつちやま)聖天(しょうでん)宮」へ行きます♪
↑待乳山聖天の入口
待乳山は推古3年(595年)9月に地中から忽然と湧き出た霊山とのことです。
浅草七福神の一つの社です。
↑本堂方面
ここが面白いのは、大根や巾着が印されていることですね♪
↑大根や巾着の印
またお供え用として大根が1本250円で売られているのには驚きました♪
↑お供え用の大根
大根は深い迷いの心、怒りの毒を表し、大根をお供えすることによって心の毒を清めてくれるようです。
その功徳によって心身を健康にし、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を加護してくれるとのことです。
また巾着は財宝を表し、商売繁盛・事業繁栄の御利益があるとのことです。
なるほど♪
ちなみに、1月7日には風呂吹き大根と御神酒が振るわれる大根祭りがあるようです♪
それから江戸時代の建造物の築地塀(土塀)があるのは素晴らしいと思いました♪
貴重な文化財で、安藤広重の錦絵にも描かれているようです♪
名古屋市の熱田神宮にある戦国時代からの信長塀と似ていると思いましたね♪
↑築地塀
↑本殿
そして、待乳山は小山で隅田川から目立ち、また待乳山からは隅田川を望む絶好の景勝地で、浮世絵などにたくさん描かれたようです♪
↑当時の浮世絵等
↑現在の景色
次回は「②池波正太郎生誕の地~山谷堀公園編」です♪
お勧めなお話(2017年上半期)
<今日の独り言>
Twitterをご覧ください!フォローをよろしくお願いします。
前回は「両国」編に参加して良かったので、今回は「吉原」編に参加しました♪
午前10時に東武浅草駅前に集合し、まず古地図と今回のコース説明資料が配られます♪
↑古地図
次に古地図を見ながら簡単に説明があり、今回は隅田川を上流に向かって歩き、山谷堀跡の公園を通って吉原に行くコースになるとのことでした♪
江戸時代の頃は、神田川が隅田川と合流する柳橋からお金持ちは猪牙舟に乗って隅田川を上り吉原に行っていたとは聞いていたのですが、その隅田川上流に山谷堀があり、吉原大門近くまで堀が通っていたとは知りませんでしたね♪
これは吉原通いが楽で良いです^_^)
そのため当時は吉原通いのことを別名「山谷通い」とも言っていたようです^_^;)
↑コース説明資料
↑コース説明資料
それから配られたコース資料を読むと今日のコースは以下とのことでした♪
(1)隅田川沿い
(2)待乳山聖天宮
(3)今戸神社
(4)山谷堀切(山谷堀公園)
(5)吉原の見返柳
(6)吉原神社
(7)樋口一葉記念館
(8)浄閑寺
さっそくウォーキングが始まります♪
参加者はイヤホンでガイドの話が聞けるので、ガイドからかなり離れていてもその話し内容が聞けるのは素晴らしいですね。
今回のガイドは「当たり」で、かなり詳しく調べているようで、次から次へと説明してくれます。
元々、荒川や利根川は江戸湾(東京湾)に流れていたので、江戸は洪水が多くかなりの湿地帯だったようです。
そのため徳川家康は荒川や利根川の流れを変え、そして吉原近くに山谷堀も作って水を通すようにしたとのことです。
また、実は吉原は現在の浅草近くではなく、人形町近くにあったようです。
1611年の大阪夏の陣の1年前にそもそも人形町に吉原が造られたようです。
当時は女性が少なく男性ばかりだったので、いろいろな場所に岡場所が造られていたのですが、それでは風紀が乱れるという理由で、公認の場所として人形町にまとめて一カ所に遊郭が造られたとのことです。
なぜ吉原という名称になったかは2説があり、東海道の宿場町に吉原があり、そこから来た人が人形町に町を造ったので吉原、もう一説はこの辺りは「葦(よし)」が原っぱのように生い茂る場所だったので「吉原」という説の2つようです。
そうして約50年弱の間、人形町の吉原は繁栄したようですが、1657年に明暦の大火があり、江戸城を含めて江戸の約60%が焼けてしまい、この人形町の吉原も焼けてしまったようです。
この大火を教訓として、大名屋敷等は郊外に移ることとなったのですが、吉原については幕府が金を出すからということで、現在の浅草近くに移転することとなったようです。
そのため浅草近くの吉原のことを「新吉原」とも呼ばれるようです。
その吉原は文化も発展させたようです。
特に吉原の花魁などの浮世絵は当時よく売れたようで、蕎麦1杯が20文でしたが、その浮世絵1枚が20文で飛ぶように売れたようです。
また経済も発展し、江戸で1日千両動く場所としては、この吉原のほかに日本橋の魚河岸、両国辺りの演劇の3つしかなかったようです。
吉原は疑似の夫婦を味わえる夢空間で、吉原の大通りには春は桜など季節の花が植えられ、闇夜でも吉原だけは明るかったようです。
女性は奉公として16歳から26歳まで働き、その後は吉原の外に出ることができたようです。
とはいえ吉原の女性の平均寿命は21歳だったというのは過酷だと思います^_^;)
まず隅田川上流に向かって歩きますが、この日は天気がよく、また適度に風もあり清々しい日で、隅田川の対岸に東京スカイツリーがきれいに見えましたね♪
↑東京スカイツリー
ゴールド色のアサヒビールのビルも見えますが、とあるスポットではちょうどスカイツリーがそのビルに反射して見えて、人気なようです♪
私もさっそく写真に撮ってみましたね♪
なかなかおもしろいと思います♪
↑アサヒビールのビルに写る東京スカイツリー
それから言問橋(ことといばし)の横を通ります♪
「言問」とは在原業平が詠んだ歌にちなむようです。
言問橋は関東大震災の復興として建設されたものですが、昭和20年3月10日の東京大空襲では言問橋でかなりの方が亡くなってしまったとのことで、近くの墨田公園にはその碑がありましたね。
浅草方面の人は言問橋を渡れば助かると思い、その反対側の向島・本所方面の人も言問橋を渡れば助かると同じことを考えたため、両住民が橋の上で合流してしまい、身動きができなくなり、その上に焼夷弾が落ち、火炎旋風が襲いかかって千人以上が亡くなったようです。
手を合わせて冥福を祈りました。
↑墨田公園の戦災碑
↑碑の説明
それから「春のうららの隅田川~」という有名なメロディーの「花」という歌がありますが、武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲とのことでその碑がありましたね♪
「花」は羽衣28歳、廉太郎21歳の時に作られたとのことで、現東京芸術大学のそれぞれ教授・助教授だったとは若い!
滝廉太郎は肺結核で24歳の若さで亡くなってしまいますが、天才だったんですね。
↑花の碑
↑花の歌詞
そして「待乳山(まつちやま)聖天(しょうでん)宮」へ行きます♪
↑待乳山聖天の入口
待乳山は推古3年(595年)9月に地中から忽然と湧き出た霊山とのことです。
浅草七福神の一つの社です。
↑本堂方面
ここが面白いのは、大根や巾着が印されていることですね♪
↑大根や巾着の印
またお供え用として大根が1本250円で売られているのには驚きました♪
↑お供え用の大根
大根は深い迷いの心、怒りの毒を表し、大根をお供えすることによって心の毒を清めてくれるようです。
その功徳によって心身を健康にし、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を加護してくれるとのことです。
また巾着は財宝を表し、商売繁盛・事業繁栄の御利益があるとのことです。
なるほど♪
ちなみに、1月7日には風呂吹き大根と御神酒が振るわれる大根祭りがあるようです♪
それから江戸時代の建造物の築地塀(土塀)があるのは素晴らしいと思いました♪
貴重な文化財で、安藤広重の錦絵にも描かれているようです♪
名古屋市の熱田神宮にある戦国時代からの信長塀と似ていると思いましたね♪
↑築地塀
↑本殿
そして、待乳山は小山で隅田川から目立ち、また待乳山からは隅田川を望む絶好の景勝地で、浮世絵などにたくさん描かれたようです♪
↑当時の浮世絵等
↑現在の景色
次回は「②池波正太郎生誕の地~山谷堀公園編」です♪
お勧めなお話(2017年上半期)
<今日の独り言>
Twitterをご覧ください!フォローをよろしくお願いします。