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東海道五十三次 街道をゆく 畑宿~箱根峠 (1)畑宿~甘酒茶屋

2016年04月11日 01時00分00秒 | イベント・外出
 阪急交通社が企画する「東海道五十三次 街道をゆく」の第10回目の畑宿~箱根峠 (1)畑宿~甘酒茶屋について紹介したいと思います。

 早いもので、「東海道五十三次 街道をゆく」は10回目の参加となりましたが、このツアーは全29回なのでまだ1/3で、宿としては箱根宿は江戸の日本橋から10番目なのでまだまだ約1/5ほどの行程です。
京都までは、まだまだ随分遠いですね^_^)

いつものように、出発地点で準備体操をして出発します。
今回も東京駅を7:30に貸し切りバスで出発し、途中で蛯名サービスエリアで休憩をして9:30頃に畑宿を出発となります。

前回と同じように江戸時代に造られた石畳を歩きます。
雨の日でもぬかるまないのでこれは良いですね。
この日は途中から雨となりましたが、石の上はさすがにぬかるまずに済みます♪


↑石畳の道を出発

そしてすぐに畑宿一里塚がありました。


↑畑宿一里塚

この一里塚は江戸の日本橋から23番目なので、約92kmとなります。
この一里塚跡は、発掘調査と文献調査の結果を基に復元整備を行ったようです。


↑畑宿一里塚の説明

そして石畳を歩きます。
ちなみに、小田原宿から箱根峠までの東坂には現在7地点、3.3kmにわたって石畳が残っているようです。


↑石畳

しばらく歩くと樫木坂の案内がありました♪
「東海道名所日記」には、この樫木坂が道中一番の難所だったようで、この坂を越えるのは苦しくて、どんぐりほどの大きさの涙がこぼれたようです^_^;)
確かに、この辺りから汗が出てきたので、みんな上着を脱ぎます^_^;)


↑樫木坂の説明


↑当時からある樫木坂の石碑

それから、「雲助(くもすけ)」の説明があったのは面白かったですね。
「雲助」というのは問屋場で働く人足のことですが、力が非常に強いことと、荷造りが優れていることというのは想像できますが、歌を歌うのが上手くないと一流の雲助とは言えなかったとは面白いです。
当時も旅人を楽しませなければならなかったんですね。
そういえば、柳川の船頭も歌は上手かったし、バスガイドさんも上手いですよね^_^)


↑雲助の説明

そのまま石畳の山道を歩きますが、なかなか風情があって良いです♪


↑石畳の山道

そして、「猿滑坂」の案内がありました。
猿といえどもたやすく登れなかったようで、当時はかなり難所だったようですね。
この辺りから雨が本格的に降ってきたのでカッパを着て歩きます^_^;)
暑い・・・


↑猿滑坂の案内


↑猿滑坂の石碑

それから、石畳の説明は随所にあるのですが、この案内では1923年の関東大震災や1930年の北伊豆地震で実は石畳の大半が崩壊、埋没していたということが分かりました。
地震の被害は建物だけではないんですね。


↑石畳歩道の案内

それから「追込坂」を過ぎると嬉しい甘酒茶屋があったようです。
なので、追込坂なんですね♪


↑追込坂の案内

何と、甘酒茶屋は1軒今でも残っており、カツラをかぶり町娘の格好をした女性が元気に温かく迎えてくれたのは嬉しかったです♪
しかも、無料で甘酒を振る舞ってくれる!!
坂道で疲れた身体を、温かい甘酒が癒してくれます・・・。
これは本当に元気が出ますね!
冷たい雨で体が冷えていましたし、これは嬉しいサービスです♪
当時もこの甘酒は有り難かったのだなぁと思いましたね^_^)


↑町娘


↑甘酒


↑甘酒茶屋

現在もこの甘酒茶屋では、無添加の甘酒と力餅が名物のようです。
また、この甘酒茶屋では赤穂浪士の一人である神崎与五郎が馬子の丑五郎にいいがかりをつけられますが、大事の前の小事と詫証文を書いたと伝えられているようです。
忠臣蔵ファンには嬉しい甘酒茶屋ですね。
この辺りには4軒甘酒茶屋があったようですが、現在はこの1軒のみ残っているとのことです。
なお、箱根地域には9か所に甘酒茶屋があったようです。
1880年に国道1号が開通してからは街道を歩く人々が減少し甘酒茶屋もなくなったようです。
時代の変化に対応することは大切ですね♪


↑甘酒茶屋の説明

次は(2)白水坂~関所です。

お勧めなお話(2015年下半期)

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