講談社選書メチエ
ブリティッシュ・ロック
思想・魂・哲学
著者: 林浩平
発行年月日:2013/08/10
定価(税込):1,680円
TO BE A ROCK AND NOT TO ROLL
絶対のエイトビートが魂を解放する!!
ビートルズに始まる「イギリスの侵略」から半世紀──。世界中を熱狂させ、若者の「生の哲学」となったブリティッシュ・ロック。その誕生からの歴史をたどり、未来をさぐる。鼓動するドラムとベース、咆哮するエレキギター、絶叫のヴォーカルが、呼び起こす「ディオニュソス的陶酔」!
ニーチェ、ハイデッガー、アガンベンの哲学が提示する、もっと音楽を愉しむための、思想としてのブリティッシュ・ロック。
ハイデッガーの実存の「開け」の概念とロック。「新たな霊性を啓くメディア」としてのロック。テクノロジーとロックの関係、新たな芸術ジャンルとしてのロックなど、思想の側からロックという「現象」を深く読み解く未曾有の論考。
(講談社BOOK倶楽部ホームページより)
著者の林浩平は1954年生まれの詩人、文芸評論家、日本文学研究者。3冊の詩集、数冊の文学に関する評論・エッセイを著す一方、学生時代ロックに耽溺し、今でも時折バンド活動を行う音楽好きが高じて、2011年に『ロック天狗連 東京大学ブリティッシュロック研究会と七〇年代ロックの展開について知っている二、三の事柄』という書籍を共同編著。ポスト学園紛争時代の日本において、ロックが如何にして受容されたか描いたエッセイと評論は、あまたある「プロの」評論家や作家による70年代ロック論とは全く違う大多数の「素人」の視点から書かれた日本のロック誕生物語は実に新鮮だった。
自らのロック史を綴るだけでは林のロック衝動は収まらなかったに違いない。2年後に単独執筆によるロック評論を著した。「ロック」「思想」「魂」「哲学」と並ぶと、頭でっかちな学者が知ったかぶりをして書いた胡散臭い社会文化論を連想しがちだがとんでもない。ここに描かれたのはロックを心から愛する筆者による魂の籠ったロック論なのである。最近の音楽メディアについては詳しくないが、70年代の音楽評論において思想論や状況論は欠かせないテーマだった。中村とうよう(ニューミュージックマガジン)、渋谷陽一・松村雄策(ロッキング・オン)、森脇美喜夫・鳥井賀句(ZOO)、北村昌士・秋田昌美(Fool’s Mate)、阿木譲(Rock Magazine)等の論客がそれぞれのメディアで独特のロック論を展開した。読者やリスナーも同様にロック喫茶やロックバーで薀蓄交じりのロック論争を毎晩のように繰り広げていた。ロックは他のどの娯楽・芸術に比べても格段に主観的な思い入れが大きい。ロックを愛することは、考え方や生き方に大きな影響を及ぼし、人生を左右するほど強力な体験だった。
林にとって、ロックとはブリティッシュ・ロックであり、エイトビートである。そしてロックは80年代にサブカルチャー化することで創造力を失った。そう断言し自らの立場を明確にしていることこそ、この書籍が嘘偽りなきロック評論であることを証明している。職業ライターとは違い、真摯なロックファンにとっては、音楽的知識や正確性などより、自ら信じるロックへの想いを自らの立場で語ることこそ「ロック」なあり方であることは間違いない。林が書いているように「ロックを語ることは、語るものに取ってまさに一種の『自己表出』」であるわけだ。そして自分の持つあらゆる知識を総動員してロック論を展開することこそ、真のロック・ラヴァーにとっての至上の歓びである。それは私がブログを書き続ける大きな動機でもある。
ロックを哲学思想、神秘思想、現代美術などで解析する方法論は、まさに私がロックやアイドルを革命思想や精神分析や童話等に結び付ける発想と同質である。ただし私の分析が思いつきの付刃に過ぎないのに比べ、林の論評にはしっかりした学術的裏付けがあるので、説得力には雲泥の差がある。
【参考】「きゃりーぱみゅぱみゅは曼荼羅である」はコチラ
生涯の半分以上の年月ロックを聴き続けて、最近やたらと聴きたくなるのが70年代プログレやハード・ロック、それもかつて好んだB級未満のレアものではなく、赤面するほどの王道、いわば基本のキであることに我ながら戸惑っている。学生時代に散々コピーしたキング・クリムゾンやジェネシスではなく、当時はテクニカルに過ぎるとして聴こうともしなかったイエスやEL&P、またパープリンと呼び蔑視していたレッド・ツェッペリンやディープ・パープルのレコードをターンテーブルに乗せてしまう自分がいる。15歳で衝撃を受けたパンク/ニューウェイヴは今聴くと野暮ったく時代遅れの印象だが、それ以前のオールドウェイヴは逆に時代を超越したエヴァーグリーンな魅力があるように感じる。これは一体どうしたことか?オールドウェイヴは打破するべき体制側の商業音楽ではなかったか?
その疑問が林のロック論で一気に解決した。ロックが最も本質的な存在として君臨したのは、ニューウェイヴにより商業化する80年代以前の1970年代の10年間に集約される。その時代にロックの王道であるイギリスから登場したハード・ロックとプログレッシヴ・ロックこそが究極のロック表現なのだ。70年代ロックの堂々たるエレキギターの爆音とドラムの暴力的なエイトビート、そして中心に屹立するヴォーカリストの「声」のキメ。それが揃ってこそロックの最高峰に到達し得たのである。そのことを証明するのがニーチェの「音楽の魂」であり、ショーペンハウアーの「意志」であり、ハイデッガーの「開かれ」であり、萩原朔太郎の「月に吠える」なのである。嘘だと思ったら、ぜひともこの革命的なロック論をお読みいただきたい。目から鱗、この本を読むこと自体が「開かれ」に違いない。
JOJO広重が『非常階段ファイル』で繰り返し70年代ハードロックやプログレへの愛着を語っているが、それを学問的に、しかも超マニアックに解析しているのがこの本である。マル非をはじめとする地下音楽ファンにもおススメである。
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林浩平ブログ「饒舌三昧」はコチラ
ロック論
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なぜアメリカがロックの本拠地ではないのか?林が言うようにアメリカは「ロックの怪物的な消費国であっても、ロックをジャンルを創造し展開した国ではない」のである。そのことは先ほど出版された『プラスチックスの上昇と下降、そしてメロンの理力・中西俊夫自伝』に描かれたプラスチックスの全米ツアーの記述を読めば明らかだ。ニューヨーク以外のアメリカにはロック文化は存在しないことが良く分かる。中西俊夫のギョーカイ口調で書かれたこの本も、昭和末期オルタナ文化のドキュメントとして貴重である。