まず翻訳がすばらしい(最初から日本語で書いたような)ということを指摘して書き進めることにする。
これはノンフィクション。私はリビアについては何も知らなかった。カダフィ政権が倒された後、混乱が続いているということくらいしか知らない。だが、言うまでもなく、ここにも人びとは生活していたのだ。リビアの人びとは、私の認識の外にあった。
最近『硫黄島』(中公新書)も読んだが、私の認識外には知るべきことがたくさんあることに今更ながら驚いた。なぜなら、そこに現代日本で生きていく際に参考になる事実がたくさんあったからである。
作者のヒシャームは、リビアの人。祖父はリビアがイタリアに占領されているときに抵抗運動をし、父は軍人であったが独裁的なカダフィ政権に果敢に立ち向かった人だ。その父がエジプトにいるとき、エジプトの秘密警察の手によってリビアに渡されその後アブサリム刑務所に囚われの身になった。しかし1996年から父の消息は絶たれてしまう。ヒシャームは父、それから囚われている親族の救出運動をイギリス(ヒシャームはイギリスの国籍を取得)など外国から展開する。
その運動を記すのだが、その叙述の中にリビアの歴史がところどころに織り込まれている。この本を読みながら、読者は自然にリビアの歴史やそのなかに生きる人々の苦悩を知っていく。とりわけカダフィ政権による支配、図書館から本が消され、書店もつぶされ、リビアに住む人はカダフィ政権に隷従することを求められ、それを拒否する人は例外なく監獄にぶち込まれ、ヒドイ場合は、あるいは運が悪い場合は、殺害される。
本書はとりたててドラマチックに叙述するのではなく、淡々と無数のエピソードを重ねていく。しかしそこに記されている内容を想像すると、そこにたいへんなことが記されていることがわかる。
なかなかの長編であるのだが、続けて読み進むことを余儀なくされる内容である。
中にこういう記述があった。
権力側は、このことを承知していたにちがいない。人間が本質的に疲れていること、ぼくたちが事実を耳にする覚悟ができていないこと、喜んで噓を信じてしまうことを知っていた。そしてつまるところ、つらい事実なら知らないほうがいいと、ぼくたちが思っていることも。権力側はこう考えていたにちがいない。ことの成り行きから見て、世の中は犯人にとって有利にできており、事実が起こったあとで正義や説明責任や真実を求める者には不利にできていると。権力側から見れば、正義や真実を求めるのは哀れな試みに過ぎないのだろう。しかし、死者、目撃者、調査者、記録者の側にしてみれば、その残虐きわまる「処刑」がなぜ行われたのか、どうにかして理解しようと試みずにはいられない。・・・(272)
権力側に私たちは権力側の意図に流されながら生きるのであるが、最後の文に見られるように、それでも人間は正義や真実を求めるのだということがわかる。
カダフィ独裁政権は40年間も続いた。しかし倒された。革命が起きたのだ。
革命には革命特有の勢いがある。その急な流れにいったん身を投じたら、逃れるのはきわめて難しい。革命は、国民が通り抜けていく堅固な門ではない。嵐にも似て、その前にいる者を全員さらっていくものなのだ。(124)
革命が起きた後、刑務所は破壊された。だがリビアは未だ混乱状態だ。いつになったら平凡な日々を送ることが出来るようになるのか。最低限、そのためには、外国は手を出さないことだ。その国のことはそこに住む人々が苦難を乗り越えて創り出していくのである。
リビアは、気にかける国になった。
これはノンフィクション。私はリビアについては何も知らなかった。カダフィ政権が倒された後、混乱が続いているということくらいしか知らない。だが、言うまでもなく、ここにも人びとは生活していたのだ。リビアの人びとは、私の認識の外にあった。
最近『硫黄島』(中公新書)も読んだが、私の認識外には知るべきことがたくさんあることに今更ながら驚いた。なぜなら、そこに現代日本で生きていく際に参考になる事実がたくさんあったからである。
作者のヒシャームは、リビアの人。祖父はリビアがイタリアに占領されているときに抵抗運動をし、父は軍人であったが独裁的なカダフィ政権に果敢に立ち向かった人だ。その父がエジプトにいるとき、エジプトの秘密警察の手によってリビアに渡されその後アブサリム刑務所に囚われの身になった。しかし1996年から父の消息は絶たれてしまう。ヒシャームは父、それから囚われている親族の救出運動をイギリス(ヒシャームはイギリスの国籍を取得)など外国から展開する。
その運動を記すのだが、その叙述の中にリビアの歴史がところどころに織り込まれている。この本を読みながら、読者は自然にリビアの歴史やそのなかに生きる人々の苦悩を知っていく。とりわけカダフィ政権による支配、図書館から本が消され、書店もつぶされ、リビアに住む人はカダフィ政権に隷従することを求められ、それを拒否する人は例外なく監獄にぶち込まれ、ヒドイ場合は、あるいは運が悪い場合は、殺害される。
本書はとりたててドラマチックに叙述するのではなく、淡々と無数のエピソードを重ねていく。しかしそこに記されている内容を想像すると、そこにたいへんなことが記されていることがわかる。
なかなかの長編であるのだが、続けて読み進むことを余儀なくされる内容である。
中にこういう記述があった。
権力側は、このことを承知していたにちがいない。人間が本質的に疲れていること、ぼくたちが事実を耳にする覚悟ができていないこと、喜んで噓を信じてしまうことを知っていた。そしてつまるところ、つらい事実なら知らないほうがいいと、ぼくたちが思っていることも。権力側はこう考えていたにちがいない。ことの成り行きから見て、世の中は犯人にとって有利にできており、事実が起こったあとで正義や説明責任や真実を求める者には不利にできていると。権力側から見れば、正義や真実を求めるのは哀れな試みに過ぎないのだろう。しかし、死者、目撃者、調査者、記録者の側にしてみれば、その残虐きわまる「処刑」がなぜ行われたのか、どうにかして理解しようと試みずにはいられない。・・・(272)
権力側に私たちは権力側の意図に流されながら生きるのであるが、最後の文に見られるように、それでも人間は正義や真実を求めるのだということがわかる。
カダフィ独裁政権は40年間も続いた。しかし倒された。革命が起きたのだ。
革命には革命特有の勢いがある。その急な流れにいったん身を投じたら、逃れるのはきわめて難しい。革命は、国民が通り抜けていく堅固な門ではない。嵐にも似て、その前にいる者を全員さらっていくものなのだ。(124)
革命が起きた後、刑務所は破壊された。だがリビアは未だ混乱状態だ。いつになったら平凡な日々を送ることが出来るようになるのか。最低限、そのためには、外国は手を出さないことだ。その国のことはそこに住む人々が苦難を乗り越えて創り出していくのである。
リビアは、気にかける国になった。
安倍政権の広報機関に成り下がっているNHK.ふつうは、他社が報じるように、有効投票の7割以上を「反対」が獲得したのである。
揺るがぬ「ノー」 県民投票「反対」7割超 反対市民「勝利だ」 「民主主義の大きな一歩」
辺野古反対7割超 沖縄県民投票
ところがNHKは、わざわざ対有権者比を持ち出してきて、「反対」が37.6%と報じた。笑止千万である。
もう呆れかえるしかない。NHKの報道は、あべ政権を支えるという明確な方針のもとに構成されている。
揺るがぬ「ノー」 県民投票「反対」7割超 反対市民「勝利だ」 「民主主義の大きな一歩」
辺野古反対7割超 沖縄県民投票
ところがNHKは、わざわざ対有権者比を持ち出してきて、「反対」が37.6%と報じた。笑止千万である。
もう呆れかえるしかない。NHKの報道は、あべ政権を支えるという明確な方針のもとに構成されている。
昨日の『東京新聞』一面に、表題の記事があった。
放射線影響研究所(放影研)の大久保利晃理事長(当時)が放った言葉が、表題である。放射線影響研究所は、記事中の解説に「原爆投下後に米国が設けた原爆傷害調査委員会(ABCC)が前身」とあるように、放射能による人体への被害などを研究する組織であった。私はこれに関する文献を入手しているが、いまだ読むに至っていない。
いずれにしても、原子爆弾を開発し使用することを前提としているアメリカや敗戦によってアメリカへの隷従の道を歩むことになった日本は、同じことを考えた。つまり放射能による人体への被害はない。さもないと原爆の開発や使用、原爆の原理を利用した原発開発ができなくなるからだ。
1945年から、日米は放射能の人体への害はない、あったとしてもほとんど影響がない、という結論、いかなる事態が起きてもそういう結論で通すという了解が出来ていたように思う。
福島での原発事故で大量の放射能が放出され、当然のごとく人体に大きな被害がでたが、あるいはでているが、日米両政府、それを支える官僚たちは、「人体への害はない」という結論を「生かす」ための調査研究を行ってきた。
残念ながら、医学は、真実を明らかにするという目的ではなく、決められた結論を墨守することを目的としたことに利用されてきた。あれほど甲状腺ガンが多発しているのに、原発事故とは無関係という「結論」は変更されない。
国家は、国家のためにのみ存在し、そこに住む住民のためにあるのではないのだ。
放射線影響研究所(放影研)の大久保利晃理事長(当時)が放った言葉が、表題である。放射線影響研究所は、記事中の解説に「原爆投下後に米国が設けた原爆傷害調査委員会(ABCC)が前身」とあるように、放射能による人体への被害などを研究する組織であった。私はこれに関する文献を入手しているが、いまだ読むに至っていない。
いずれにしても、原子爆弾を開発し使用することを前提としているアメリカや敗戦によってアメリカへの隷従の道を歩むことになった日本は、同じことを考えた。つまり放射能による人体への被害はない。さもないと原爆の開発や使用、原爆の原理を利用した原発開発ができなくなるからだ。
1945年から、日米は放射能の人体への害はない、あったとしてもほとんど影響がない、という結論、いかなる事態が起きてもそういう結論で通すという了解が出来ていたように思う。
福島での原発事故で大量の放射能が放出され、当然のごとく人体に大きな被害がでたが、あるいはでているが、日米両政府、それを支える官僚たちは、「人体への害はない」という結論を「生かす」ための調査研究を行ってきた。
残念ながら、医学は、真実を明らかにするという目的ではなく、決められた結論を墨守することを目的としたことに利用されてきた。あれほど甲状腺ガンが多発しているのに、原発事故とは無関係という「結論」は変更されない。
国家は、国家のためにのみ存在し、そこに住む住民のためにあるのではないのだ。
『朝日新聞』社説(2月25日)
(社説)沖縄県民投票 結果に真摯に向きあえ
2019年2月25日05時00分
沖縄県民は「辺野古ノー」の強い意思を改めて表明した。この事態を受けてなお、安倍政権は破綻(はたん)が明らかな計画を推し進めるつもりだろうか。
米軍普天間飛行場を移設するために辺野古の海を埋め立てることの賛否を問うた昨日の県民投票は、「反対」が圧倒的多数を占めた。全有権者の4分の1を超えたため、県民投票条例に基づき、結果は日米両政府に通知され、玉城デニー知事はこれを尊重する義務を負う。
知事選や国政選挙などを通じて、沖縄の民意ははっきり示されてきた。だが、争点を一つに絞り、曲折を経て、全県で実施された今回の投票の重みは、また違ったものがある。自民、公明両党などが「自主投票」を掲げ、組織的な運動をしなかったことから心配された投票率も、50%を上回った。
法的拘束力はないとはいえ、政府は今度こそ、県民の意見に真摯(しんし)に耳を傾けねばならない。
辺野古問題がここまでこじれた原因は、有無を言わさぬ現政権の強硬姿勢がある。
最近も、埋め立て承認を撤回した知事の判断を脱法的な手法で無効化し、土砂の投入に踏みきった。建設予定海域に想定外の軟弱地盤が広がることを把握しながらそれを隠し続け、今も工期や費用について確たる見通しをもたないまま「辺野古が唯一の解決策」と唱える。
自分たちの行いを正当化するために持ちだすのが、「外交・安全保障は国の専権事項」という決まり文句だ。たしかに国の存在や判断抜きに外交・安保を語ることはできない。だからといって、ひとつの県に過重な負担を強い、異議申し立てを封殺していいはずがない。
日本国憲法には、法の下の平等、基本的人権の尊重、地方自治の原則が明記されている。民主主義国家において民意と乖離(かいり)した外交・安保政策は成り立たず、また、住民の反発と敵意に囲まれるなかで基地の安定的な運用など望むべくもない。この当たり前の事実に、政府は目を向けるべきだ。
政府だけではない。県民投票に向けて署名集めに取り組んできた人たちは、沖縄という地域を超え、全国で議論が深まることに期待を寄せる。
自分たちのまちで、同じような問題が持ちあがり、政府が同じような振る舞いをしたら、自分はどうするか。そんな視点で辺野古問題を考えてみるのも、ひとつの方法だろう。
沖縄の声をどう受けとめ、向き合うか。問われているのは、国のありようそのものだ。
(社説)沖縄県民投票 結果に真摯に向きあえ
2019年2月25日05時00分
沖縄県民は「辺野古ノー」の強い意思を改めて表明した。この事態を受けてなお、安倍政権は破綻(はたん)が明らかな計画を推し進めるつもりだろうか。
米軍普天間飛行場を移設するために辺野古の海を埋め立てることの賛否を問うた昨日の県民投票は、「反対」が圧倒的多数を占めた。全有権者の4分の1を超えたため、県民投票条例に基づき、結果は日米両政府に通知され、玉城デニー知事はこれを尊重する義務を負う。
知事選や国政選挙などを通じて、沖縄の民意ははっきり示されてきた。だが、争点を一つに絞り、曲折を経て、全県で実施された今回の投票の重みは、また違ったものがある。自民、公明両党などが「自主投票」を掲げ、組織的な運動をしなかったことから心配された投票率も、50%を上回った。
法的拘束力はないとはいえ、政府は今度こそ、県民の意見に真摯(しんし)に耳を傾けねばならない。
辺野古問題がここまでこじれた原因は、有無を言わさぬ現政権の強硬姿勢がある。
最近も、埋め立て承認を撤回した知事の判断を脱法的な手法で無効化し、土砂の投入に踏みきった。建設予定海域に想定外の軟弱地盤が広がることを把握しながらそれを隠し続け、今も工期や費用について確たる見通しをもたないまま「辺野古が唯一の解決策」と唱える。
自分たちの行いを正当化するために持ちだすのが、「外交・安全保障は国の専権事項」という決まり文句だ。たしかに国の存在や判断抜きに外交・安保を語ることはできない。だからといって、ひとつの県に過重な負担を強い、異議申し立てを封殺していいはずがない。
日本国憲法には、法の下の平等、基本的人権の尊重、地方自治の原則が明記されている。民主主義国家において民意と乖離(かいり)した外交・安保政策は成り立たず、また、住民の反発と敵意に囲まれるなかで基地の安定的な運用など望むべくもない。この当たり前の事実に、政府は目を向けるべきだ。
政府だけではない。県民投票に向けて署名集めに取り組んできた人たちは、沖縄という地域を超え、全国で議論が深まることに期待を寄せる。
自分たちのまちで、同じような問題が持ちあがり、政府が同じような振る舞いをしたら、自分はどうするか。そんな視点で辺野古問題を考えてみるのも、ひとつの方法だろう。
沖縄の声をどう受けとめ、向き合うか。問われているのは、国のありようそのものだ。
『東京新聞』社説(2月25日)
辺野古反対 沖縄の思い受け止めよ 2019年2月25日
重ねて沖縄の揺るぎない民意が示された。民主主義と地方自治を守るのなら政府は県民投票結果を尊重し、工事を中止した上で県民との対話に臨むべきだ。国民全体で沖縄の選択を重く受け止めたい。
県民投票結果に法的拘束力はない。だが、今後の事業展開に影響を与えないわけがない。
政府は、結果によらず米軍普天間飛行場の移設を名目にした新基地建設を進める考えだ。判断の根底には「一九九九年に知事と名護市長の受け入れ同意を得て辺野古移設を閣議決定した」(菅義偉官房長官)との認識がある。
しかし、当時の稲嶺恵一知事と岸本建男市長が表明した十五年の使用期限など条件付き容認案は二〇〇六年、日米が沿岸埋め立てによる恒久的な基地建設で合意し破棄された。一三年に仲井真弘多知事が下した埋め立て承認も、選挙を経ての決定ではなかった。
その後二回の知事選で移設反対を掲げた知事が就任。今回は埋め立ての賛否に絞って問い、五割超の投票率で玉城デニー知事の獲得票を上回る反対票が投じられた。地元同意はもはや存在し得ない。
技術的には、埋め立て海域に横たわる軟弱地盤の問題も大きい。
約七万七千本もの砂杭(すなぐい)を打つ地盤改良は前例がない難工事が予想される。環境への影響も甚大であり、民意を代表する玉城氏は設計変更申請を認めないだろう。
法廷闘争に持ち込んだとて政府が勝訴するとは限らない。翁長前県政時代の国と県との裁判は国側勝訴が確定したが、知事選などで示された民意を巡る裁判所の判断は賛否どちらともとれないというものだった。今度は状況が違う。
民主主義国家としていま、政府がとるべきは、工事を棚上げし一票一票に託された県民の声に耳を傾けることだ。現計画にこだわるのなら納得してもらうまで必要性を説く。できなければ白紙に戻し、米側との議論をやり直す。
今回、「賛成」「どちらでもない」に集まった票には普天間の危険性除去に対する思いがあろう。無論、「反対」を選んだ県民もその願いは同じはず。普天間返還はこの際、辺野古の問題と切り離して解決すべきだ。
国策なら何でも地方は受忍せざるを得ないのか。選挙による民意表明が機能しない場合、住民は何ができるのか。混迷の末に行われた沖縄県民投票は、国民にも重い問いを突きつけた。私たちは政府対応を注視し、民意尊重の声を示してゆきたい。
辺野古反対 沖縄の思い受け止めよ 2019年2月25日
重ねて沖縄の揺るぎない民意が示された。民主主義と地方自治を守るのなら政府は県民投票結果を尊重し、工事を中止した上で県民との対話に臨むべきだ。国民全体で沖縄の選択を重く受け止めたい。
県民投票結果に法的拘束力はない。だが、今後の事業展開に影響を与えないわけがない。
政府は、結果によらず米軍普天間飛行場の移設を名目にした新基地建設を進める考えだ。判断の根底には「一九九九年に知事と名護市長の受け入れ同意を得て辺野古移設を閣議決定した」(菅義偉官房長官)との認識がある。
しかし、当時の稲嶺恵一知事と岸本建男市長が表明した十五年の使用期限など条件付き容認案は二〇〇六年、日米が沿岸埋め立てによる恒久的な基地建設で合意し破棄された。一三年に仲井真弘多知事が下した埋め立て承認も、選挙を経ての決定ではなかった。
その後二回の知事選で移設反対を掲げた知事が就任。今回は埋め立ての賛否に絞って問い、五割超の投票率で玉城デニー知事の獲得票を上回る反対票が投じられた。地元同意はもはや存在し得ない。
技術的には、埋め立て海域に横たわる軟弱地盤の問題も大きい。
約七万七千本もの砂杭(すなぐい)を打つ地盤改良は前例がない難工事が予想される。環境への影響も甚大であり、民意を代表する玉城氏は設計変更申請を認めないだろう。
法廷闘争に持ち込んだとて政府が勝訴するとは限らない。翁長前県政時代の国と県との裁判は国側勝訴が確定したが、知事選などで示された民意を巡る裁判所の判断は賛否どちらともとれないというものだった。今度は状況が違う。
民主主義国家としていま、政府がとるべきは、工事を棚上げし一票一票に託された県民の声に耳を傾けることだ。現計画にこだわるのなら納得してもらうまで必要性を説く。できなければ白紙に戻し、米側との議論をやり直す。
今回、「賛成」「どちらでもない」に集まった票には普天間の危険性除去に対する思いがあろう。無論、「反対」を選んだ県民もその願いは同じはず。普天間返還はこの際、辺野古の問題と切り離して解決すべきだ。
国策なら何でも地方は受忍せざるを得ないのか。選挙による民意表明が機能しない場合、住民は何ができるのか。混迷の末に行われた沖縄県民投票は、国民にも重い問いを突きつけた。私たちは政府対応を注視し、民意尊重の声を示してゆきたい。