テレビを見ないので、ネット情報からテレビに関するいろいろなことを知るのであるが、保守系のコメンテーターである三浦某が、「大喪の礼」を「たいものれい」と読んでいたそうだ。
「大喪の礼」は「たいそうのれい」と読むのであるが、読み方も知らずに安倍の国葬問題に関連して言及していたようだ。これを読めないのに、平気で、また得々と話しているその姿に唖然とした。こういう人物をテレビ局はコメンテーターとして出演させていること自体テレビを見る価値はないと言わざるをえない。三浦某もテレビ局も、恥知らず、ということだ。
今はもう亡くなってしまったが、原口清、海野福寿、金原左門、田村貞雄、ひろたまさき・・・・等々の一流の歴史学者と交際し、いろいろな知識をいただいたが、一流の方々に共通するのは、いずれも謙虚であるということだ。決して上から目線で話すことはなく、私のような者に対しても、ていねいに対応して頂いた。
とくに海野先生からは、テレビに出るようになると学者としての生命は終わる、というようなことを聞いたことがある。先生は時にテレビに出られることはあったが、それはみずからの研究成果をきちんと報告できる番組だけであった。
最近の若い学者は、みずから売り込まないと職にありつけないのか、なかなか売り込みが激しいが、自尊心が高く、自慢話をするような研究者に良い研究をしている人はいないし、ついでに記しておけば多作の人の研究には駄作が多い。
いずれにしても、一流の人はおしなべて謙虚である。テレビのワイドショーには、そういう人は出演していない。だから知的レベルが低いのであり、彼らを出演させるテレビ局も同じである。知的レベルの低いテレビを見る人も、それにつられて低くなってしまう。テレビは罪作りだということだ。