最近の朝日新聞の動向を見ると、もう終わったね、というしかない。ジャーナリズムから離れ、産経や読売のようになるのかもしれない。御用新聞。
学校現場は働くところとしては、失格である、というのが私の結論である。
私は定年前に退職し、その後、友人が管理職をしている高校から二度ほど頼まれて時間講師をひきうけたことがあるが、それ以外は教壇に立つことはない。
若い頃、私には土日はなく、休みは8月の中旬と年末年始だけだった。通常の勤務だけではなく、部活動、生徒会指導があり、毎日学校に行き、通常の勤務が終わるのはいつも夜8時頃だった。その頃は、土日に仕事をしても給与はなし。今は土日4時間働けばちょっとだけ手当がでているようだ。
そういう生活は結婚して子どもが生まれ、保育園への送り迎えをしなければならなくなって終わったが、このような生活をずっと続ける人もいる。とりわけ、野球部などの部活動顧問はほとんどの時間を部活動に投入するために、離婚する教員が多かった。
私が早期退職を決めた理由は、その学校が部活動優先であったからだ。生徒のほぼ半数はスポーツ推薦での入学、学校行事も運動部優先で年間計画が立てられる。PTA予算、後援会予算、生徒会予算のほとんどが運動部にいく。
スポーツで入った生徒はスポーツ命で生きてきた者で、勉強はせず(あんなに部活動をしていれば知識はすぐに消されてしまうだろう)、赤点をとらないことを目標としてのテスト対策だけで生きている。もちろん本は読まない。
要するに、教養も学力もないままに、高校を卒業していくのである。
今は部活動は必修ではないが、部活動の必修化が学校教育を崩壊させ、教員の多忙化を推進したと思っている。
東洋経済の連載でも、非正規の教員が研修も受けずに授業に臨まざるを得ないということを非難しているが、官製研修で得られるものはほとんどなかった。静岡県の官製研修は、文科省の意思を伝達するだけの形式的なものがほとんどであった。もっとも参加したくないのが官製研修であった。
私にとっては、歴史教育者協議会や全国民主主義教育研究会など民間の教育団体との関わりで得られたものが多かった。官製研修よりも、自主的に研修する機会を増やした方がよほど効果的である。要するに、官製研修よりも、自主研修ができる時間的余裕を教員に保障すればよいのだ。
ついでに記しておけば、学校によって、生徒によって授業のやり方はいろいろである。生徒を前にして、自分自身が学んだものをベース(自分自身が理解できないままでは授業はできない!)に、何を強調するか、どういう語り方をするか、どういう材料を使用するかなど、それはいろいろであるということだ。授業というのは、最初から最後まできわめて創造的な仕事なのである。だからこそ、教育には自由というものが求められるのである。
私は、教科書をほとんどつかわずに、いつも資料プリント(空欄をつくってそこに重要語句を記入させるというアホなプリントではない!)を印刷して生徒に渡し、それをもとにして授業を展開した。
教員にとって、授業は真剣勝負の場である。
昨日の『東京新聞』社会面で、投資詐欺にかかった若い女性が自殺したという記事を見た。
ヒドイ話しだ。詐欺をした輩は「略式起訴」だという。
この世にすぐに儲かる話はないことを銘記すべきだ。すぐに儲かる話は、それに長けている奴等がさっさとやって儲けている。
庶民は、そうした儲け話に躍らされることなく、着実に生きていくしかない。
中学時代の友人にパチンコが好きな者がいる。当然彼は総額では損をしているだろうが、時々儲けることができるので飽きずにパチンコ店に通う。そして時に儲けたときは「儲けた、儲けた」と有頂天になって不要なものにカネをつかう。あぶく銭は身につかないというが、その通りである。
額に汗して働く、それで得られたカネで生きていくことができる社会こそが健全なのだ。残念ながら、統一教会党=自民党や宗教政党である公明党による政権は、健全な社会をつくろうという意識は皆無である。
国家財政や地方財政など、自分たちの周辺の企業や「おともだち」には見境なく支出するが、庶民には支出しないで、できるだけおさえようとする。公共財として支出する気配はない。殺された安倍は、モリカケサクラ、オリンピックなど、それを忠実に実践していた。
そうした統一教会党=自民党+公明党=創価学会による政権は、「貯蓄から投資へ」などと言っている。この女性のような悲劇をさらにつくりだそうというのだ。自民党・公明党政権は、「我田引カネ」政策だけを行う私欲政党である。こんなやからに政治を任せておいたら、日本国民は疲弊していくだけだ。