浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

伊藤野枝の主張

2023-10-08 20:42:41 | 大杉栄・伊藤野枝

 私は学生時代から伊藤野枝に敬意を表してきた。野枝について、いろいろな誹謗中傷がなされていたが(栗原康の『村に火をつけ、白痴になれ』もその類いである)、彼女の主張は、今でも新鮮であるし、教えられるところをもっている。

 たとえば「禍の根をなすもの」という文がある。1923年、虐殺された年の『中央公論』6月号に掲載されたものだ。

 性問題を論じたものであるが、野枝はこう書く。

・・性問題を危険な傾向に導いたのは、みんな老人共の不純な精神だと。彼ら自身まづ性の差異に対する恥づべき意識を消すべきです。年若い子女達につまらない好奇心をわざわざ引き起さすような『隔絶』を止(よ)すべきです。男も女も、性別を意識するより先きに、まづ『人間』に対する識別を教へられるべきです。娘達は男の妻として準備される教育から解放されなければなりません。 男と女との差異を画然と立てた教育が先(ま)づ打破されなければなりません。子供の頭に、性の差別を激しく印象させる事が止められなければなりません。少年少女の間にある性別の意識を伴はないフレンドシップが自然に育てられなければなりません。

 野枝は、保護者や教育者が、性別の意識にこだわることから解放され、「男も女もおんなじに、一人前の『人間』をつくる事を先づ心がけなければなりません。『人間』が立派に出来あがりさへすれば、他人の為めに余計な心配をする必要」がなくなり、子どもたちを信ずることができるのだ、と主張する。

 いろいろな文を読むほどに、野枝の感受性の豊かさと、それをもとにした認識、判断力に感動するのだ。

 野枝と大杉とがパートナーとなる過程で、いろいろ問題が起こったが、それを乗り越える中で、野枝と大杉とは「同志」的なカップルとなっていった。

 私は大杉の、堀保子、神近市子、野枝との関係のなかで主張された「自由恋愛」論は、男にとって都合のいい身勝手な論理であると考えているが、それを経た野枝と大杉の関係は理想的なものであると思う。野枝の文には、二人のそうした関係が表現されている。

 

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世代の転換

2023-10-08 17:05:46 | 学問

 『法律時報』という日本評論社の雑誌がある。法学部出身の私は、『法律時報』をしばしば購入して読んでいた。とりわけ臨時増刊号はほとんど購入していた。しかし今年、すべてを捨てた。そこに書かれていた論説は、現実によって踏み荒らされてしまったという気がしたからであり、さらにもうそうした本を読み、法律論を闘わすことはなくなったと思ったからである。

 私が『法律時報』を読んでいた頃の執筆陣は、今刊行されている『法律時報』には見当たらない。もうほとんどがいなくなった。浦田賢治先生はご存命ということだが、もうあまり書かれていないようだ。

 法学部にいながら日本史の勉強をしていたが、その分野でいろいろ教えを受けた先生たちはもうほとんど亡くなられてしまった。私は退職と同時に、歴史学関係の雑誌の購読をすべてやめた。それは、故田村貞雄さんに倣ったものだ。私が書いたものを読み、丁寧な感想をおくってくれたひろたまさきさんも亡くなられた。

 『法律時報』も、歴史学関係の雑誌も、書いている人は、知らない人ばかりになっている。不運にも亡くなられたり、齢を重ねて引退されたのだろう。

 齢を重ねてから、書くことをやめた学者もいるし、書きつづける人もいる。書くことをやめた歴史学者には、原口清先生や海野福寿先生がいる。齢を重ねても書きつづけた学者の原稿を編集したことがある。いずれもひどい文となっていた。以前は素晴らしい分析力と文章力を持っていたのに、送られてきたものはひどいもので、その方が以前書かれたものを読みながら修正に修正を加えたこともある。名誉のために、その方々の名前は明かさないが、歳をとるということはそういうことでもある。衰えるのだ。原口先生や海野先生はそういうことを自覚され書くことをやめた。私は、原口先生、海野先生に倣おうと思う。

 さて岩波書店の『世界』。私にとって、現代を分析し考える重要な文献で、だからずっと購読しているのだが、最近の『世界』には迫力ある文が少なくなっているように思われる。私は読むと、目次のアタマに、◎や〇、×などを書いていくのだが、最近◎をつけるものが少なくなっている。もちろんそれぞれの文には、部分的に触発されるものはあるのだが、文全体からは受けなくなっている。

 全てを読み終えたわけではないが、今月号で、もっともよかったのは、田中伸尚さんの大杉栄らと一緒に虐殺された橘宗一についての文、それ以外には立石泰則さんと辻野晃一郎さんによる対談“「劣化したリーダー」がなぜ増えたのか?”がよかった。

 「結局、権力者は何でもできるし、誰も罪を問えないという状況になってしまった」

  新自由主義が席捲し、その思考のもと、トップに権限が集中するということが、企業や政府、自治体、学校などにも浸透してしまった。そして、

 「トップが節度を失って、権力を濫用するようになったときに、組織の中で声をあげると非常にまずい立場になってしまうというのが日本の組織の常」

 だとする。組織の中に闘う組合があればよいのだが、現在ではほとんど一掃されてしまっている。トップに権限が集中するというとき、そのトップがトップとしての力量をもたないとき、その組織は崩壊へと向かう、今の岸田政権もそうだ。私たちもその船に乗っている。彼らのなかには、

 「自分の会社さえ良くなれば、他はどうでもいい」

 と考える者がおおくなり、その結果利権がはびこり、進歩がなくなり、衰退の一途をたどるということになる。

 「トップ人事は非常に大切なわけです。」

 それはいかなる組織、自治体においても、重要なことばである。

 「組織が官僚化したら、会社では個人の自由な活動が規制されるようになります」

 トップの顔色ばかりをうかがい、トップからの指示をひたすらこなす官僚的な人種が増えている。

 組織を活性化するためには、

 「社長公選制を導入するだけではあまり効果がない。管理職の公選制の導入が大企業病を防ぎ、組織を活性化させる重要な手段になる」

 その通りだと思う。振り返って見れば、学校現場は校長、教頭を除き、中間の主任クラスは実質公選であった。文科省がひたすらそういう民主的な慣行を潰し、トップダウンの形態となるようにすすめてきた。文科省は、いらない!

 あらゆるところで、現在のヒドイ状態をなんとかするためには、

 「やっぱり諦めずに自分にできることをやるしかない。自分にできることは何かというと、まずは、自分の意見を隠さず、ひるまず、しっかり発信していくことと、そしてその意見に責任をもって行動していくということではないでしょうか。」

 「間違っていることは間違っていると、おかしいことはおかしいと声をあげることからはじめなければいけない」

 結論はありきたりではあるけれども、確かにこれしかない。

 

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