浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「弱さを抱える共同体」

2023-10-31 22:19:43 | 

 今日、『みぎわ』63号が届けられた。無教会派のクリスチャンの方々がそれぞれの思いを書いた文がたくさん載せられている。もちろん今日届いたのだから、すべてを読むことができているわけではない。興味を覚えたものを無造作に読んでいたら、「弱さを抱える共同体」ということばに出会った。

 書いているのは、聖隷クリストファー大学の入江拓先生である。入江家では、自らの子どもたちを育てながら、里子も受け入れて育てている。その里子には、障害をもった子どももいる。育てていくなかで、様々な苦難を味あうこともあるのだが、里子はいつかは去って行く。離別という悲しさを体験する。しかしその子どもたちが成長して訪ねてきてくれることもあるという。それは歓びであり慰めでもある、

 さて先生は、片目を失明してしまう。入江先生は不安と孤独に襲われていた。そんな時、小学生だった里子が、「僕が拓の目を買ってあげるから大丈夫、杏林堂のおばさんが売ってくれます」といって、52円が入った財布を見せてくれたという。その子どもも障がいを抱えている。

 入江家は、「弱さを抱える共同体」でもある。

 そこから入江先生はこう書く。

「「弱さ」は「強さ」の対立概念ではなく、「弱さ」それ自体に意味があり、それが人間の「尊厳」と深く繋がっている」と。

 私はこの指摘に大いに心を動かされた。その通りだと思う。現代は、「弱さ」それ自体の意味(価値)がかえりみられることなく、「強さ」がのし歩いている。しかし「強さ」は人間の尊厳とはつながらない。「弱さ」こそが人間の尊厳を認識させるのだ。

 私が「人間の尊厳」を感動とともに認識できたのは学生時代、「夜明けまえの子どもたち」という映画を見たときだ。その子どもたちは知的障がいを持った子どもたちだ。「弱さ」を抱えている子どもたちのその姿に、私は「人間の尊厳」という絶対的なものを教えてもらった。

 今日は、大いなる学びの日であった。

 

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考える

2023-10-31 08:34:23 | 

 加藤陽子さんが、『戦争と日本人』で「国家を自ら背負ってしまって、ものを言っているように思われてなりません」と語っていたことを書いた。

 今読んでいる小田実の「平和の倫理と論理」(『「難死」の思想』所収)に、それと関わる議論が記されていた。小田は、「個人原理」、「国家原理」、「普遍原理」の三つの絡み合いを記している。「普遍原理」とは、「自由」とか「平等」という類いのものである。誰もが否定できない原理である。ただ、「普遍原理」がほんとうに「普遍」なのかは吟味しなければならない。「自由」とは、誰にとっての自由なのか・・・などと考えなければならない。というのも、「普遍原理」は、「国家原理」によって簒奪されることがあるからだ。

 ベトナム戦争に参加した米兵は、ベトナムの「自由のために」兵士として参加したと語るだろう。

 小田は、「大多数が、国家原理を媒介として個人体験と普遍原理を結びつけるという、安易な民主社会の三位一体をもちつづけているにちがいない」、「世界には、二つの勢力があるように思われる。一つは、その人の意識のなかで、国家原理と個人体験が一体感を保ち、普遍原理と個人体験を国家原理が媒介して結びつける三位一体をもちつづけている人たちと、その一体感をすでに失い、裂け目を裂け目としてもち、普遍原理を個人体験に突き入れることによって個人原理を形成しようとする人たち。後者は前者に比してはるかに少数だろう。」と記す。

 学生時代、私の周りには、後者の人たちが多く見られた。しかし今、後者の人たちは私の周りにほとんどいない。ほんとうに少数となってしまった。

 普遍原理を、国家原理を媒介にすることなく、個人原理と結びつけることが必要だ。そして他者の個人原理とつなげていく。

 今や普遍原理の価値が社会的に減殺されている。普遍原理の価値を価値あらしめるために、個人が普遍原理と向きあうことが求められている。

 

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