今日、『みぎわ』63号が届けられた。無教会派のクリスチャンの方々がそれぞれの思いを書いた文がたくさん載せられている。もちろん今日届いたのだから、すべてを読むことができているわけではない。興味を覚えたものを無造作に読んでいたら、「弱さを抱える共同体」ということばに出会った。
書いているのは、聖隷クリストファー大学の入江拓先生である。入江家では、自らの子どもたちを育てながら、里子も受け入れて育てている。その里子には、障害をもった子どももいる。育てていくなかで、様々な苦難を味あうこともあるのだが、里子はいつかは去って行く。離別という悲しさを体験する。しかしその子どもたちが成長して訪ねてきてくれることもあるという。それは歓びであり慰めでもある、
さて先生は、片目を失明してしまう。入江先生は不安と孤独に襲われていた。そんな時、小学生だった里子が、「僕が拓の目を買ってあげるから大丈夫、杏林堂のおばさんが売ってくれます」といって、52円が入った財布を見せてくれたという。その子どもも障がいを抱えている。
入江家は、「弱さを抱える共同体」でもある。
そこから入江先生はこう書く。
「「弱さ」は「強さ」の対立概念ではなく、「弱さ」それ自体に意味があり、それが人間の「尊厳」と深く繋がっている」と。
私はこの指摘に大いに心を動かされた。その通りだと思う。現代は、「弱さ」それ自体の意味(価値)がかえりみられることなく、「強さ」がのし歩いている。しかし「強さ」は人間の尊厳とはつながらない。「弱さ」こそが人間の尊厳を認識させるのだ。
私が「人間の尊厳」を感動とともに認識できたのは学生時代、「夜明けまえの子どもたち」という映画を見たときだ。その子どもたちは知的障がいを持った子どもたちだ。「弱さ」を抱えている子どもたちのその姿に、私は「人間の尊厳」という絶対的なものを教えてもらった。
今日は、大いなる学びの日であった。