浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

秋の風

2023-10-01 21:44:29 | 日記

 今夏はものすごく暑く、例年は猛暑でも毎日畑に出ていたが、今年は行ってもせいぜい20分くらいしかいられなかった。だから畑の多くが夏草に覆われてしまった。サツマイモや小豆、なす、ピーマンなどは畑の入り口にあったので、何とか収穫し続けたが、かぼちゃや西瓜は奥のほうに植えたので夏草に覆われ、収穫すらできなかった。

 今は、秋冬野菜の苗を植えたり、種を蒔いたりする時期である。夏草に覆われていたので、草を根から取り去り、そこを耕して畝をつくらなければならない。さらにサツマイモも収穫の時期を迎えている。農作業に追われる超忙しい日々を送っている。

 それに日が落ちるのが早くなり、遅くまではできない。夕焼けとなる時刻に畑を去る。

 帰宅するには西に向かって自転車をこがなければならない。そして右折して、左に夕焼けを見ることが出来る。

 毎年、夕焼けをみるが、その美しさに、この世に生まれてきてよかった、と思う。

 夕焼けのことは何度か書いてきたが、それを書くと、友人のUさんからよく連絡があった。Uさんの年賀状も、自分が撮影した夕焼けを印刷したものが多かった。

 でもUさんは亡くなってしまった。そのことを知ったぼくは、彼の家に向かい、奥さんと一緒に涙を流した。もう3年ほど前のことだ。

 いろいろ教えてくれた人、仲よくしていた友人、いずれも私より年令は上なのだが、みんな死んでしまった。ぼくが書いたものを読んで批評してくれたH先生も亡くなり、殆ど毎日電話で話していたTさんも・・・・・・

 秋になると、そういう人びとを思い出し、寂しくなってしまう。彼らはいずれも謙虚で、それぞれ一流の人なのに謙虚で、ぼくのような者にも誠実に接してくれた。

 今ぼくは、今までやっていたいろいろなことを整理しようとしている。親しくしていた人びとのあとには、自慢話が好きな人、しゃしゃり出てくる図々しい人、自分自身を売り込む人、そういう人と接することがある。とくに「運動圏」にいる人にそういう人が多い。

 ぼくは、だからそういう場から逃れる。

 歳をとると、その最大の敵はストレスだという。ストレスは、他人とのつきあいの中で生じる。だからそういう人びとがいるところには行かないようにしたい。

 畑では、対話するのは土であり、虫であり、鳥であり、風であり、陽の光であり、そして今日、急に降られた雨である。そして作業している間は、無心である。

 こういうことを書くと連絡してきたUさんは、いない。親しくしていた歴史研究者は、みな亡くなってしまった。

 だから、ぼくも歴史研究からは、手を引くのだ。それは同時に、オレがオレがという人たちから距離をとるということでもある。

 

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パブリックメモリー

2023-10-01 19:51:30 | 近現代史

 以前、岩波書店の『思想』を定期購読していた。最近、恐らく読まないだろうと思うBNは大胆に捨てた。

 残されたなかの一冊は、「パブリックメモリー」の特集、1998年8月号である。

 巻頭は、T・フジタニの「パブリックメモリーをめぐる闘争」である。それを紹介しながら、少しコメントを加えたい。

 パブリックメモリーは「公共の記憶」と訳される。

 「公共の記憶」という場合、官製の、国家権力の関与のもとに確定されたものという認識がある。フジタニは、こう記している。

 「公的な記憶は、交渉や闘争、排除やあからさまな暴力行使といった過程を通じて生産されるのである。国民、人種、階級、ジェンダー、性、その他さまざまな差異の指標が共謀して、公的な記憶に足るだけのもっともらしさと価値をもったものを形成する。」

 そしてこう記す。

「過去は、 決して、もともとの、すなわち政治化する以前の形では、復元されないということであり、また、さまざまな記憶というものは、個人的なものでもあれ、公共のものであれ、つねにすでに、さまざまな政治的な力と物質的な痕跡によって、 媒介されているということなのである。こうした事柄を自覚することによって、記憶の仕事に従事するものは、いままで記憶の産出に関与し、公共圏を支配してきた利害関係の正体を明らかにすることができる。」

 つまり記憶というのは、すでに政治の力によってなんらかの変形を被っているのだ。歴史を研究する者は、記憶の産出に関与する者である。であるが故に、常に記憶を問い続けなければならないし、また新たな記憶を産出しつづけなければならないし、記憶すべきものを記憶として提示しなければならない。

 フジタニは、こうも言う。

「記憶の作業者はまた、抑圧され周縁化された過去の回復にも取り組まねばならない。」

 記憶は、今も闘争の焦点となっている。国家権力は、不都合な記憶を記憶にとどめないように、さまざまな手段で攻撃を加えている。

 消されてはいけない記憶を、消されないように、日常的に産出し続けなければならない。それが歴史研究者の使命でもある。

 「公共の記憶」とは、国家権力によって公認されるものではなく、人びとによってつくり出されるものでなければならない。

 

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