久しぶりに『現代思想』を購入した。みずからの脳を刺激するために、以前は毎号買っていたが、今は特集によって買ったり買わなかったり、という状態である。
アントニオ・ネグリは共産主義者である。もう亡くなっている(1993~2023)。私がネグリに注目したのは、『帝国』(以文社、2000年)からである。この本は未だに捨てずにある。『帝国』についてここで論ずることはしないが、私にとっては難解ではあるが、とても新鮮な内容だった。グローバリズムが席捲するなかで、変革主体はどうなるのか、という問題を、当時、私は考えていたからだ。
今は、変革主体が見えない。とはいっても、イスラエル国家のガザ侵攻に対して、世界の若者が行動に移している。「即停戦せよ!」という声が満ちている。こうした姿を見るとホッとする。
さて『現代思想』、読みはじめたばかりである。最初の「ネグリ思想の継承と再考」という討議を読んだ。刺激的な内容で、途中から以前のように赤鉛筆でしるしをつけはじめた。
現在、「物理的な壁が存在しないところでも、さまざまなかたちで分断線が引かれ、不安定性が不均衡な仕方で配分されてい」ると指摘されている。権力は、人びとが結びつかないように巧妙に分断を推し進めている。しかしだからといって、そこに運動がないわけではない。「運動の断片化と見えるものは、じつは運動の多数多様性の現れ」という指摘に、そういう捉え方もあるのかと思った。しかし運動の「断片」は残念ながら「断片」であって、多数が集まっているわけではない。そこに「多数多様性の節(ママ)合」が課題として現れて来る、そうしなければ、「断片」は「断片」のままでしかない。どのようにつなげていくかが課題となる。
ただ、日本のなかをみると、「断片」なんだなあ。50年ほど前のまさに多数が集合して、大通りを揺るがすようなデモ行進が多数存在した。しかし今は、多数が集まることはなくなっている。デモ行進は、今や「パレード」と呼ばれるようになっている。
だから「日常のライフスタイルや文化こそが政治的な抗争の場」だという指摘、その通りだと思う。デモ行進や集会などが闘いのばというわけではなく、われわれは日常においてこそ政治闘争をおこなわなければならない。というのも、「コミュニケーション、サービスといったあらゆる人間の生の営み」が収奪される段階にあるからだ。
ネグリは変革の道筋を考えていた。ネグリの言説を元に、変革について論じられているが、しかし私には変革の主体が見えていない。見ないままに、私はこの世から退場していくのかもしれないと思っている。
この本を読み、そんな状態でも未来への希望が湧いてくることを期待したい。農作業と講座の準備の合間をぬって、読み進めようと思う。