『丸山真男回顧談』(岩波書店)の下巻を、他の本を読む合間に、読むようにしている。
そのなかに「思想史研究と講義」という項目がある。そのなかに、重要な指摘がある。
明治維新の頃、西洋文明に当時のリーダーたちは、その「歴史的淵源」を知りたいと思い、様々な本を翻訳して、歴史書を読みふけったという。
対談者の植手通明は、こう言っている。「歴史を知るということが、その文明を知ることだ。知るには歴史をやらなければだめだ」
なるほどである。そのあとに丸山は、こう語る。
・・・歴史をつかむことが同時に現在をつかむことだというのが、どうしてなくなってしまったのか。ぼくだけにかぎって言えば、恩恵をこうむっているのはマルクス主義です。歴史と現代とは不可分というのは、マルクス主義をやっていると、どうしてもそうなるのです。歴史を離れて、社会科学というものがありえない。マルクス主義の影響なしには、そういう考え方が身に付いたかどうか。そこは福沢なんかと違うのです。自然には身につかない。
今や高齢者となった人びとは、多かれ少なかれマルクス体験がある。あるいはマックス・ウェーバーなんかも読んでいる。
しかし、若い研究者と話していると、おそらくマルクス体験がないのだろう、現代への問題関心がなく、ないままに歴史研究をすすめている。すべての若手がそうだというつもりはないが、現実認識の弱さ、もちろん批判的に現在をみつめるということなのだが、それが欠如している人がいる。
過去のことを過去のこととして研究するという立場もあり得るが、わたしはそうした研究にいつも不満をいだいてしまう。何のために研究しているのだろうか、と。「歴史と現代とは不可分」という丸山の指摘は正しい。歴史を見つめ、研究しようとしているのは、現在生きている者である。当然、その視点や視線には、現在が入り込んでいる。その現在をきちんと見つめることは、研究にとっては必須なのである。
丸山の発言には、なるほどと思うところが多い。