森本あんり氏が、『世界』2月号で「政治的神話と社会的呪術」という論文を載せている。長いものではないが、きわめて刺激的な内容であった。
現在、アベ政権の森友、加計、桜・・・・その他、信じられないほどの醜聞が明らかになっている。しかしそれら醜聞が、野党政治家やメディアが厳しく追及しても、政府やそれを支える官僚たちは、平気でウソをつき続け、真実を隠蔽し続けている。
その背景の一つとして、読売新聞、産経新聞の存在がある。読売や産経は、はっきりとアベ政権を支える方針をもって紙面をつくっている。アベ政権がウソをつけばウソを書く、隠蔽すればそれを支える。さらにテレビメディア、とくにワイドショーがそれを支える。
真であるAという事実があるのに、虚偽であるBという事実を対置する、あるいは真であるAという事実があるのにそれをないとする、そういう報道を読売、産経、テレビはやっているのだ。となると、Aが真であることを知らない人々は、AかもしれないしBかもしれない、あるいはAはあったかもしれないけどなかったかもしれない、という宙ぶらりんの状況におかれる。
支配層は、そのように有権者を「宙ぶらりん」の状況におくことにより、私利私欲を追求しているのである。つまりメディアは、支配層のために有権者をだましているのである。そういう機能をもつものとして、メディアは存在している。
だから今、私たちには、選挙民を「宙ぶらりん」の状況から、きちんと大地の上に立たせることができるかどうかが問われているのではないかと思う。
同時に、これは日本だけではないということだ。アメリカでも、イギリスでも、同じような状況は存在する。だとするならば、21世紀の世界的な「構造」の問題としてこれをとりあげなければならない。
さて森本氏は、カッシ-ラーやハンナ・アーレントの著述をもとに論じていく。氏は、アーレントの「事実というものは、もはや大衆への説得力を失ってしまった」ということばを引く。アーレントはすでに亡くなっているのに、この言葉はまったく現在の状況を指摘しているようだ。「大衆化」という動きの中で、すでにそのような事態は存在していた、というわけだ。
森本氏は、「人は、正しいと思うから納得するのではなく、納得するから正しいと思うのである」と記す。また「他人が何と言おうと、権威筋の偉い人が何と言おうと、「自分がそれをほんものと感じられるかどうか」「それが自分の心をふるわせて感動させてくれるかどうか」がものごとの真偽を決するのである」として、それを「神秘主義」という。「ファクトよりもフェイクを受け容れる現代人の傾向は、こうした信憑性構造の時代的な変容に相即している」と指摘する。
まさに「構造」なのである。それも国境をこえた「構造」なのだ。この「構造」を解明し、それをどう克服できるかの道筋を提起できるかどうかが肝心だということになる。
氏はこう指摘する。「われわれの認知構造がひとたび大きく変化すると、個々のファクトはすべてそのフレームに合致するように解釈される。もし人びとの思い込みを正そうとするなら、個々のファクトでなくそのフレーム全体に関わるような価値観や世界観のシフトが起きなければならない」と。そのフレームは、「政治的に作りだされた人工物」であり、つまり支配層によってつくられたすじ道なのである。
氏は、その打開の道を示すことはしていない。「現代社会が目撃しているあからさまな人権無視や民主的正統性への侮蔑、平和や正義といった理念の無効化の次には、何が来るのだろうか」と記して、文をほぼ終えている。
どうすればよいのか。私たちは考えなければならない。これは世界的な「構造」の問題なのである。
現在、アベ政権の森友、加計、桜・・・・その他、信じられないほどの醜聞が明らかになっている。しかしそれら醜聞が、野党政治家やメディアが厳しく追及しても、政府やそれを支える官僚たちは、平気でウソをつき続け、真実を隠蔽し続けている。
その背景の一つとして、読売新聞、産経新聞の存在がある。読売や産経は、はっきりとアベ政権を支える方針をもって紙面をつくっている。アベ政権がウソをつけばウソを書く、隠蔽すればそれを支える。さらにテレビメディア、とくにワイドショーがそれを支える。
真であるAという事実があるのに、虚偽であるBという事実を対置する、あるいは真であるAという事実があるのにそれをないとする、そういう報道を読売、産経、テレビはやっているのだ。となると、Aが真であることを知らない人々は、AかもしれないしBかもしれない、あるいはAはあったかもしれないけどなかったかもしれない、という宙ぶらりんの状況におかれる。
支配層は、そのように有権者を「宙ぶらりん」の状況におくことにより、私利私欲を追求しているのである。つまりメディアは、支配層のために有権者をだましているのである。そういう機能をもつものとして、メディアは存在している。
だから今、私たちには、選挙民を「宙ぶらりん」の状況から、きちんと大地の上に立たせることができるかどうかが問われているのではないかと思う。
同時に、これは日本だけではないということだ。アメリカでも、イギリスでも、同じような状況は存在する。だとするならば、21世紀の世界的な「構造」の問題としてこれをとりあげなければならない。
さて森本氏は、カッシ-ラーやハンナ・アーレントの著述をもとに論じていく。氏は、アーレントの「事実というものは、もはや大衆への説得力を失ってしまった」ということばを引く。アーレントはすでに亡くなっているのに、この言葉はまったく現在の状況を指摘しているようだ。「大衆化」という動きの中で、すでにそのような事態は存在していた、というわけだ。
森本氏は、「人は、正しいと思うから納得するのではなく、納得するから正しいと思うのである」と記す。また「他人が何と言おうと、権威筋の偉い人が何と言おうと、「自分がそれをほんものと感じられるかどうか」「それが自分の心をふるわせて感動させてくれるかどうか」がものごとの真偽を決するのである」として、それを「神秘主義」という。「ファクトよりもフェイクを受け容れる現代人の傾向は、こうした信憑性構造の時代的な変容に相即している」と指摘する。
まさに「構造」なのである。それも国境をこえた「構造」なのだ。この「構造」を解明し、それをどう克服できるかの道筋を提起できるかどうかが肝心だということになる。
氏はこう指摘する。「われわれの認知構造がひとたび大きく変化すると、個々のファクトはすべてそのフレームに合致するように解釈される。もし人びとの思い込みを正そうとするなら、個々のファクトでなくそのフレーム全体に関わるような価値観や世界観のシフトが起きなければならない」と。そのフレームは、「政治的に作りだされた人工物」であり、つまり支配層によってつくられたすじ道なのである。
氏は、その打開の道を示すことはしていない。「現代社会が目撃しているあからさまな人権無視や民主的正統性への侮蔑、平和や正義といった理念の無効化の次には、何が来るのだろうか」と記して、文をほぼ終えている。
どうすればよいのか。私たちは考えなければならない。これは世界的な「構造」の問題なのである。