浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】岡真理ほか『中学生から知りたいパレスチナのこと』(ミシマ社)

2024-10-17 10:12:23 | 

 とてもよい本である。図書館から借りたものであるが、これは手元に置いておかなければならない本であると思う。

 岡真理さんの「ヨーロッパ問題としてのパレスチナ問題」のなかの、「近代500年の歴史は、西洋の国々による非ヨーロッパ人に対する大量殺戮の歴史です。」ということばは、まさにその通りだというしかない。西洋の国々とは、キリスト教国に他ならない。つまり、キリスト教徒が「大量殺戮」を行ってきたのである。

 日本のキリスト者には良心的な人が多いが、パレスチナ問題では、イスラエルを批判する人は少ないような気がする。しかし現実にユダヤ人国家であるイスラエルが、パレスチナ人を虐殺しているのだから、キリスト教徒もきちんとパレスチナ問題を凝視すべきである。

 「ディアスポラ」ということばがある。パレスチナに住んでいたユダヤ教徒が世界各地に離散したという意味であるが、「十字軍に支配された一時期、エルサレムへの入城は禁じられましたが、パレスチナからユダヤ教徒の住民すべてが追放されて、世界に離散したなどという事実はない」(25頁)という。

 イスラエル国家は、「入植者による植民地主義の侵略によって、先住民を民族浄化して建国されたという歴史的事実が」(28頁)あり、それはアメリカ合州国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダと同様である。

 したがって2023年のハマス主導によるイスラエル攻撃は、「占領された祖国の脱植民地化を求める者たちの抵抗として歴史的に位置づけられ」、その攻撃は、ヴェトナム人民がアメリカ帝国主義勢力を追い出す武力闘争と変わらないものだという認識がなり立つのである。

 またそのハマス攻撃に関する報道は、ほとんどがイスラエル側から発したもので、世界の人びとに過った認識を与えるために、イスラエル側が仕組んだ内容が多い。

 だいたいにして、イスラエルは国際法に違反した行動を一貫して継続してきたし、それに対して国連が何らかの行動をイスラエルにしようとしたときには、必ずアメリカ帝国主義による「拒否権」の発動があり、したがってイスラエルの蛮行を抑止することができずに現在に至っている。

 そういう歴史をみつめる意味で、本書はきわめて有効である。

 さらに指摘しておくなら、アメリカ合州国という国家とイスラエル国家は、同類のジェノサイド国家なのである。アメリカ合州国が建国以降行ってきた蛮行は数限りない。わたしはそれに関する書籍などをあつめていて、いつかそれをまとめてみようと思っているが、そのアメリカ帝国主義に隷属して喜んでいる日本の支配層の奴隷根性にはあきれるしかない。

 パレスチナ問題は、近代世界に至る歴史、そして現代までの歴史をもう一度考える契機になり得る。世界がどうしようもない状況に陥っている元凶は、アメリカ帝国主義なのである。

 

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芸術の秋

2024-10-16 19:34:41 | 美術

 今日、某所で香月泰男浜田知明について話した。いずれも東京美術学校油絵科出身の画家である。当地方では、この二人の画家について知る人は多くないようだ。香月は山口県出身、浜田は熊本県出身である。いずれも卒業後に召集されて、香月は「満洲」へ、そしてシベリアに抑留され、浜田は中国戦線に行かされた。

 香月も、浜田も、軍隊にはなじめず、どちらかというと嫌悪感をいだき、みずからを戦争に動員した支配層に対する怒りを持ち続けた。したがって、彼らが描く絵は、そうした思いがこめられている。

 今回、香月と浜田の絵を紹介したのは、今の時代、中国との戦争を企図しているようにみえる日本の支配層の思わく、それに対する抵抗として、二人の絵をぜひ見てもらいたいと思ったからだ。二人の絵に共通する思いは、非戦である。戦争を体験したが故に、軍隊の醜さ、戦争の悲惨さなどを、モノクロの世界で描き、非戦=平和を強く希求する。

 浜松市の図書館には、香月の本は17冊あるが、浜田のそれは一冊もないと、聴講者の方からうかがった。調べてみたら、たしかにない。どうしてだろうか。

 わたしは、浜田知明の図録などを5冊保有している。今こそ、二人の絵をみつめる必要があると思う。

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見分ける

2024-10-15 09:27:41 | 学問

 YouTubeの「デモクラシータイムス」をよく見るが、そこに山口二郎が出てくるものは見ない。要するに信用できない人物だからだ。

 最近、新刊新書を調べていたら、山口二郎が、クリスチャンとはいいながら創価学会や池田大作を最大限に褒め称えている佐藤優との対談本を出している。創価学会(公明党)は、国政や地方政治でも、いつも「王仏冥合」、つまり常に与党となって政治権力と結びつき、統一教会党=自民党の悪政に全面的に協力している。

 そういう人物と平気で対談本を出すという、まったく筋の通らないことをする、そういう人物を、とても信用できない。とにかく現在の悪政の扉を開いた小選挙区制導入に積極的に動いたのが、この山口二郎である。

 佐高信さんも、厳しく山口を批判していた

 この胡散臭い人物を、デモクラシータイムスが出演させている。やめてくれ!といいたい。

 わたしは今までも、山口二郎を批判してきたが、彼をリベラル勢力の一員とみなすのは間違いだと思っている。

 人物をしっかりと見分けなければならない。

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「無言館と、かつてありし信濃デッサン館ー窪島誠一郎の眼」

2024-10-13 18:32:14 | 美術

 今日、静岡県立美術館に行った。「無言館と、かつてありし信濃デッサン館ー窪島誠一郎の眼」という展覧会が行われていたからだ。なかなか見応えがあった。この展覧会はおそらく巡回しない。購入した図録は、2300円、奥付には発行は静岡県立美術館とあるから、おそらく静岡県立美術館のみの開催だと思う。12月15日まで開催される。

 まずよかったことの一つは、無言館に行ってもここに展示されている絵をすべて見られるわけではないことで、たとえば浜松出身の中村萬平の絵は、無言館では「霜子」だけを見ることができるが、ここでは自画像を含めて5点が並べられていた。それはおそらく他の画学生の絵も同様で、無言館の展示スペースには限りがあり、所蔵しているすべての絵を並べているわけではない。また他の美術館に所蔵されているものもあるだろう。

 それから、陸軍などが、すでに高名となった画家たちに「戦争記録画」を描かせていたが、そのうち藤田嗣治の「アッツ島玉砕」、小磯良平の「娘子関を征く」が展示されていた。わたしはそれらの絵の写真を見たことがあるだけであったが、さすがに一流の画家の絵だと感心した。小磯の絵はほんとうにうまい。また藤田の絵も、迫力があった。藤田は積極的に軍に協力して「戦争記録画」をたくさん描き、戦争協力者として指弾された。わたしも指弾する立場ではあるが、実物の「アッツ島玉砕」を見て、戦争協力を超えたものがあることを感じた。戦争協力の意図を持って描いても、戦争の実相を描こうと思えば思うほど、戦争の本質が浮かび上がってくる。

 そして構成がよかった。序章として、戦没画学生の自画像が並ぶ。戦場に行く前の、青年の自画像である。彼らは、戦場で、あるいは軍の病院などで亡くなった。生前の、おそらく未来をもった若者の群像である。

 第一室が「遺された絵と言葉」。ベストセラーである『きけわだつみのこえ』に、関口清の絵が掲載されていることに気づかせてくれた。

 第二室は「無言館の誕生」。無言館を誕生させたのは、画家・野見山暁冶氏と窪島氏である。その経緯が展示されていた。野見山氏の絵というと抽象画であるが、そうでないものが展示されていた。

 第三室は、「最期まで描こうとしたもの」。画学生が、戦場での死が予想されたとき、彼らは何を描いたか。家族であり、自らが住むふる里であり、・・・・

 第四室は、「静岡出身戦没画学生」。浜松出身の野末恒三、中村萬平、掛川出身の桑原喜八郎、河津町出身の佐藤孝の四人の絵が並ぶ。いずれも東京美術学校で学んだ。

 第五室は「戦争と向き合う」ということで、藤田と小磯の絵が展示されていた。そのほか、画学生の絵も並ぶ。「戦地でなお絵を描いた」からである。靉光、麻生三郎、松本竣介、鶴岡政男ら新人画会のメンバーの絵。そして軍事郵便。

 第六室は、「窪島誠一郎の眼」。無言館に至るまでの、窪島の絵を見つめる眼を探るというものだ。

 

 思いのほか多くの絵があり、なかなか見終わるまでに時間がかかった。昨日からはじめられたが、見に来てよかった。多くの人の眼に触れることを期待する。

 一般1200円、70歳以上600円、大学生以下無料である。

〈付記〉2300円の図録を読んだ。とても良い内容であった。

 

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要するに、みんな同じ。

2024-10-13 08:17:36 | 政治

 石破に期待した人がいたようだが、わたしは自由民主党の政治家は、すべて同じ穴のむじなだと思っている。アベが総理であったとき、彼は権力を振りかざして、してはならないことをたくさん行った。集団的自衛権の容認の閣議決定、内閣法制局を自分のいいなりになる輩を長官に就けた・・・・・書いていけばきりがない。

 してはならないことをしたとき、自民党内から批判が出たか。石破は批判したか。

 国民の生活をズタズタにし、貧困化させ、自分たちだけのことを考えて政治をしてきたのが自由民主党ではなかったか。自由民主党を中心とする政権で、何か良いことをしたか。ノーである。

 裏金に関しても、『毎日新聞』が記事を書いていたが、選挙の時に動いてもらうために、地方議員にカネをばらまいているようだ。それを受けとる自由民主党の地方議員も同じ穴のむじな。

 一時自民党の議員をしていた若狭弁護士が、政治の世界の汚さがそれほどだとは思わなかった、と語っていた。要するに、すべてカネを求めてうごめいているというのが政治の世界である。その世界に、業界や選挙民もつながっている。腐臭を放っているのは自民党であり、その自民党に繋がる地方議員も、選挙民にも腐臭が漂っているのである。

 腐りきった日本政治をつくりだす勢力は、政治の世界ではきわめて少数である。おそらく共産党やれいわ新選組しかないだろう。立憲民主党も、自由民主党とほとんど異ならない人たちが、あんがいたくさんいる。

 きれいな政治を求める選挙民は、きわめて少数でしかない。残念なことだ。

4年前の石破茂インタビューを再読すると…同じ人間の言葉とは到底思えない

 

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かつて未来は開かれていた

2024-10-12 22:37:48 | 日記

 最近、若い頃のことをよく回想する。

 わたしは、iPhoneを使っていて、アップルミュージックを契約して、いろいろな音楽を聴いている。こうしてパソコンを打っているときも、音楽を流している。クラシックや、シャンソン、そして若い頃聴いた曲。

 今聴いているのは、岡林信康である。ほとんどの人は知らないかもしれないが、わたしにとって彼の音楽は、青春を彩っていた音楽である。だから、レコードを買って、何度も何度も聴いていた。

 なかでも、「友よ」という曲が好きだ。その歌詞にあるように、闇の向こうに明るい未来があると信じることができた時代であった。わたしたちが動けば変わる、変えることができると信じられた時代であった。

 高校時代の社研の仲間と話すとき、現在の世情を嘆きながら、「こんな日本になるとは思わなかった」ということばが交わされる。石川啄木は「時代閉塞」ということばをつかったが、今こそ、そういう時代だと思わざるをえない。

 もうじき、総選挙がある。しかしそれによってわたしを取り巻く状況がよくなるとはとても思えない。

 若い頃からみると、日本社会全体が、大きく「右」に動いていった。その動きを止めることはできなかった。しかしそれは、日本だけではなく、世界的な傾向でもある。いろいろな原因が考えられるが、背後には新自由主義があり、制度や社会的意識がそれに対応するようになったと、社会科学的には言えそうだ。

 これを打開する途はあるのだろうか。この闇の向こうに明るい未来が開かれる、という確信を、次世代の人びとに渡すことができるだろうか。

 「私たちが望むものは・・・・」だと主張すること、それなしには、何も動かない。

 

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ズブズブの統一教会党=自民党

2024-10-12 13:50:05 | 政治

小泉進次郎氏は「山際衆院議員の旧統一教会汚染」告発を握りつぶした〈議員歴25年自民県議が離党し証言〉

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季語が危機にある!

2024-10-12 08:37:23 | 社会

 クーリエ・ジャパンが「スペイン紙が危惧「気候変動で松尾芭蕉の世界が消えてしまうかもしれない」」という記事を載せた。スペイン紙が注目したのは、季語である。日本の自然の移ろいの中で、その季節を象徴させるものを季語として俳句の中に定着させた。

 しかし近年の気候危機により、季語は落ち着かない状況になっている。

 俳句は日本の伝統文化である。俳句になくてはならない季語が危機的な状況になっているのに、日本の指導層はそんなことにはかまわない。

 自由民主党という政党は、保守党ではなく、極右政党になって久しい。自民党を象徴する議員とは杉田某であり、高市某らである。彼らは「日本、日本、・・・」とがなりたて、日本の政治を批判する人びとに冷たい非難を浴びせかける。自民党だけではなく、そこらへんに転がっている右翼も同様である。日本の各地にある米軍基地周辺では、アメリカ兵が日本人を蔑視するなかで様々な事件を引き起こしている。また日本の領空を、米軍機は自由に飛んでいるのに、日本の航空機は常に米軍の意向通りに飛ばざるを得なくさせられている。対米隷属国家日本のみじめな姿を、私たちは日々見せつけられている。日本の支配層も、極右政党=自民党も、そしてそこらへんの右翼も、対米隷属している日本のみじめさに怒ることもせず、日本の伝統が消えつつあるのに、何の危機感も持たない。

 そして沖縄など中国に近いところでは自衛隊の基地建設が進んでいる。アメリカに命令されれば中国と戦争するのだと息巻いている。戦争が起きれば、日本の国土や国民に多大な被害が生じるのに、そんなことはかまわない。

 日本の支配層、自民党、そこらへんに転がっている右翼は、日本を大切にしない人びとである。だから、日本の伝統である季語が危機にあろうとも、彼らは何も感じない。スペイン紙が季語の行方を心配しているのに。

 

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親の存在

2024-10-11 21:29:39 | 日記

 親が生きているということは、自分自身の死の準備をしなくてもよいということだ。親は、わたし自身の死の防波堤であった。

 しかし、親が亡くなると、親のもろもろのものを捨てるという作業を余儀なくされる。それは親が生きていた証しを消し去るということでもある。わたしの子どもも、孫も、わたしの親の存在を認識している。しかし、その後の世代は、当たり前のことだが、わたしの親については、まったく知らない人となる。親の生きていた証しは、いずれ消えていく。

 親にかかわるもろもろのものを処分するなかで、わたし自身の死後に、家人や子どもにその作業をできるだけさせないようにしたいと思うようになっている。親のものを捨てながら、わたし自身のものも一緒に捨てはじめている。

 いずれ、わたし自身もこの世を去る。そのことを意識せざるをえなくなっている自分自身を見つめる。

 と同時に、わたし自身の人生を振り返るという作業もはじめている。

 振り返ろうとするとき、ほぼ同世代の人びと、わたしの脇を駆け足で通り過ぎた人びとのことが気になる。

 『週刊金曜日』の書評欄に、『連合赤軍 遺族への手紙』という本が紹介されていた。わたしとほぼ同世代、いや彼らの方がおそらく年上であるだろうが、陰惨な事件のなかでこの世を去って行った人びと、あるいはその事件を起こした当事者=加害者の精神が、この本には書かれているのだろう。なぜそういう生き方をしたのか、わたしは知りたい。

 またウーマンリブの田中美津さんが亡くなられた。わたしは彼女を知らないのだが、雑誌などを通して、田中さんの活動はわたしの視野には入っていた。

 『世界』、『地平』11月号に田中美津さんのことが書かれていた。『世界』の山根純佳さんの文のほうが、わたしには新鮮だった。「お尻を触られて「あ、セクハラ」と叫ぶのはフェミニズム、お尻を触られたらビシャッと殴る、殴れなかった無念さから出発するのがリブ」という説明は納得的であった。

 田中さんの文が紹介されている。

「「平等」とは私らは等しくみな、「世界で一番大事な自分」を生きているということであり、「自由」とは、「自分以外の何者にもなりたくない」という思い」

 なるほど、である。田中さんは、「人の言葉で生きるな、自分の言葉で生きろ」と子どもに言っていたようであるが、まさに平等と自由とを、自分のことばで語っている。

 視野に入っていた人びとが、この世から去って行きつつあるとき、彼ら、彼女らの生き方やことばを、知りたいと思うようになっている。

 自分自身にできなかったことは何なのか、振り返る年令になっている。

 

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名前

2024-10-11 13:46:37 | 社会

 『世界』11月号には、袴田事件に関する文が二本掲載されている。その中の一本目、藤原聡による「「袴田事件」の58年」には、詳しい日附と事件に関わった氏名が記されている。

 「こがね味噌」の専務宅で殺人と放火があったのは、6月30日。翌日の7月1日、清水警察署の捜査官が、袴田さんと交流があった渡辺さん宅に来て、袴田さんの写真を持っていった。捜査員は、「(犯人は)袴田しかいない」と言っていたという。そして7月4日、警察は従業員寮の袴田さんの部屋を捜索し、パジャマなどを押収した。その日の夕刊、毎日新聞、静岡新聞が、「H」、「従業員某」として、袴田さんがあたかも犯人であるかのような報道をした。そして翌5日、各紙が、「(袴田さんの)パジャマには大量の血痕がついていた」と報じた。

 実際には、パジャマには「大量の血痕」はまったくついていなかった。

 要するに、静岡県警・清水警察署は当初から袴田さんを犯人だとし、そのための捜査を行っていたのである。

 あまりにも証拠がない!ということから、清水署は、日本警察の特徴である「自白をとる」ことに全力を傾注した。極めて長時間に及ぶ取り調べ。その取り調べに当たったのは、羽切平一警部らであった。

 静岡県は、「冤罪のデパート」といわれる。島田事件、幸浦事件、小島事件、二俣事件などがある。これらはすべて冤罪としてすでに終了している。わたしは幸浦事件、小島事件について書いたことがあるが、これらの捜査に当たったのは、紅林麻雄警部補らであった。紅林は、「拷問王」と呼ばれていた。

 こいつが犯人だと決めると、強引にその人を犯人に仕立て上げる。そういう警察であった。

 袴田さんの取り調べに当たったのは、羽切らであったが、羽切は紅林の部下で、幸浦事件で紅林と捜査に当たっていた。

 あまりに強引な取り調べがなされたことから、供述調書45通中、44通は「証拠能力がない」とされた。袴田さんを犯人にするためには、あまりに証拠がないという状況の中ででてきたのが「五点の衣類」であった。

 それをもとに、静岡地方裁判所の石見勝四裁判長は死刑判決を下した。

 東京高裁では、「五点の衣類」のうちの一点のズボンを、袴田さんは、はくことができなかった。裁判長はズボンについていたタグの「B」をウエストサイズだとし、味噌の中に長期間あったことから縮んだのだとして、控訴を棄却した。

 検察はタグの「B」がウエストサイズではないことを知っていた。しかし、その証拠を隠した。「B」は色を表していた。

 そして最高裁に上告されたが、棄却。

 袴田事件は、静岡県警察と検察とがつくりあげたでっちあげであった。

 でっちあげた人たちの名、警察官や検察官、裁判官を、しっかりと記すべきであると思う。同時に、今は反省をしているけれども、メディアがどのように報じていたのかも白日の下にさらすべきである。というのも、冤罪をつくるのは、警察や検察、裁判所だけではなく、新聞などのメディアであるからだ。

 この文を書いた藤原聡が、11月に袴田事件に関する書物を岩波書店から発行するという。冤罪をもたらした責任者たちの名を明確に記し、同時にメディアの責任にも厳しく言及すべきである。

 袴田事件のような冤罪事件をつくらないように・・・・・

 

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選挙には行くが・・・

2024-10-10 20:34:16 | 政治

 統一教会党=自民党の政治家たちが、たくさん落選するならまだしも、そうでなければ、石破が首相であっても、自民党・公明党政権であるなら、何も変わらない。

 わたしはマイナ保険証を持っていないし、持つつもりもないが、もちろんマイナ保険証は廃止すべきである。

 あの河野の病的かつ強権的にマイナ保険証を強制する姿勢に、自民党・公明党の本質を見た気がしている。

 石破になっても、マイナ保険証を強行するようだ。ろくでなしの自民党・公明党政権らしい姿勢である。

 

マイナ保険証でトラブル続出 医療現場に「不安」 あと2か月で切り替え可能?

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「選ばれた?」

2024-10-09 20:58:44 | その他

 ひとりの人間でも、集団でも、あるいは宗教でも、謙虚さのないものは評価するに値しない、とわたしは思っている。

 少なくとも、イスラエルの宗教と言われるユダヤ教は、その傾向が強い。神によって「選ばれた」民である、という自負。

 『世界』11月号で、森本あんり氏が「国家神信仰を批判する」という文を寄せている。イスラエルの国家指導者が行っていることについて、あるいはそれを正当化する宗教的背景について、宗教的な立場から批判しているのである。

 森本氏は、アメリカの「明白な宿命」 Manifest Destiny をもって、アメリカもイスラエルと同様に、「宗教的な国家理解」を持ってるとし、この文で、「神学的な批判」を行おうとしている。

 「イスラエルが「選ばれた民」である理由はまったくなく、そうあり続ける内在的な保証もない。」聖書では、神が選ぶのである、神がイスラエルを「選ぶ」ときには、「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば」という条件がついていた、というのである。イスラエルの民は「諸国民の光」にならなければならない、「イスラエルが単に「存在する」だけではなく、「いかに存在するか」が問われている、神は「倫理を求め」ている、と森本氏は指摘する。

 森本氏が、宗教的に根底的な批判をしても、イスラエルのおおかたの人びとは、「選ばれた」民として、自負を持って、周辺の人びとを殺し続けるだろう。

 もし宗教的に、イスラエルの「旧約聖書」理解が間違っているというのなら、全世界のユダヤ教徒やキリスト教徒が、こぞって厳しい批判を行うべきだろう。だが、残念ながら、米英独など、キリスト教国は、イスラエルの蛮行を支え続ける。

 世界にはたくさんの宗教があるが、キリスト教徒こそが、もっとも多く、彼らにとっての「異教徒」を殺している。十字軍、新大陸への進出にともなう先住民殺戮、奴隷貿易、ユダヤ教徒に対する迫害・・・・

 わたしは、キリスト教徒は、みずからが引き起こした過去の蛮行をしっかりと見つめ、反省するべきだと思う。なぜそういうことができたのか、宗教的にそれらは許されることであったのか?「異教徒の殺害」を、ヤハウェ、イエス・キリストは許したのか、許さないまでも、教義にそうした蛮行を許容する理解はなかったのか・・・・・

 「聖書」には、平和を希求することばがちりばめられている。しかしにもかかわらず、キリスト教国は、異教徒に対して蛮行を繰り返してきた。

 森本氏の言葉を借りるなら、神は信仰者に倫理を求めなかったのか。

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晴れて、袴田さんは解放された・・

2024-10-08 19:40:00 | 社会

 袴田巌さんが、最終的に無罪となった。死刑囚という軛からやっと解放された。

 この無罪を獲得するまで、弁護団や支援者の労苦はたいへんなものだったと思う。

 わたしも、戦後補償裁判に全面的に関わったが、それはそれはたいへんであった。時間もカネもたくさんつかう。刑事訴訟では、公判は期間を空けて行われるが、その間にも支援者と弁護団は、訴訟をどのように展開していくか、何度も集まって検討会をもつ(それは戦後補償を求める民事訴訟でも同様である)。それ以外にも、支援する会のニュースを作成、印刷、配布する、あるいは同じような他の訴訟を支援するために、全国各地に赴く。勝利を得るためには、できるだけ多くの市民の理解と協力が必要だからである。

 袴田事件では、静岡市に住むわたしの友人も、支援者として活動していた。袴田事件に関わる報道がテレビで放映されるとき、かれの姿がいつも映っていた。それもどちらかというと、端の方に。彼は地道に、目立たない仕事を黙々とやっていた。

 今日も、静岡放送が記者会見をネットで報じていたが、彼の姿が映っていた。ほんとうにお疲れ様、といいたい。無罪を引きよせた功労者のひとりである。

 もうひとりの知人は、判決の日など確実にたくさんの報道がなされるときにやってきて、わざわざ弁護団や袴田ひで子さんの傍にいて、あたかも中心的にやってきたかのような位置でテレビなどに映される。しかし彼は、わたしの友人のように、地道な支援活動をほとんどしていない。

 袴田事件は、冤罪事件である。国家権力は犯罪をおかしたのである。冤罪は国家犯罪なのだ。国家が権力という暴力をふるって、ひとりの市民を罪人とし隔離し、袴田さんの場合は死刑囚として拘禁していた。本来は、自分自身の人生を自由に、個性的に歩むはずだったひとりの人間を長期間拘束し、彼の人生を奪ったのである。

 国家がひとりの人間を犯罪者として認定したとき、その人間が犯罪者ではないとして国家から奪い返すためにはたいへんな努力が求められる。

 袴田事件にはたくさんの弁護士が関わっているが、こうした事件に関わっても、決してカネにはならない。わたしが関わった戦後補償裁判でも、弁護士の皆さんは手弁当であった。もちろんわたしも手弁当であった。何度も韓国に行き、控訴審で東京高裁に通うなど、多額のカネを投下した。

 袴田事件の弁護団、支援者の皆さま、そしてもちろん袴田巌さん、ひで子さん、お疲れ様でした。

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袴田巌さん、無罪確定

2024-10-08 17:41:20 | 社会

袴田巌さん再審で検事総長が控訴断念を表明 無罪確定へ

「これでやっと一区切りつく、うれしい」袴田巖さんの姉・ひで子さん 検察の控訴断念を受け、気持ちを語る【速報】

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認識の遅れ

2024-10-06 20:03:34 | 社会

 学校を卒業すると、広く学ぶことがなくなり、遅れた知見をそのまま持ち続けることがある。『現代思想』の10月号、「〈人種〉を考える」を読んでいて、みずからがもつ知見がいかに遅れていたのかを教えられた。

 瀬口典子氏の「人種概念の歴史と生物人類学における頭蓋骨多様性研究の進展」を読み、この記述と同様の認識を持っていたことを恥じた。

 「半世紀上も前に人種概念が科学的根拠を欠くことが証明されたにもかかわらず、アメリカの警察や司法機関では、依然としてアジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸やFolk taxonomyに基づく時代遅れの人種観が広く浸透している。」

 コーカソイド、ネグロイド、モンゴロイドという分類が意味をなさなくなっていて、「20世紀以前、「人種」は固定された不変の生物学的カテゴリーと見なされていた。しかし、現在では「人種」には生物学的な実体がなく、それは実際には社会的、歴史的、政治的な文脈の中で構築されたものであることが明らかになっている。」

 人類を多様性を持った存在として、その多様性は「人の移動や遺伝子の流動や遺伝的浮動を通じて地域的な類似性や多様性が生じ、それぞれの集団の独自の歴史が形成された」という理解に到達しているというのだ。

 この論文を読んで、専門分野ではないものをきちんと学ぶことが必要だと思った。とにかく、「「人種」概念には生物学的な根拠がない」ということを、しっかりと脳裡に刻んでおかなければならない。

 

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