自民党総裁、首相が石破になったから、少しは期待できるような報道があったが、わたしはまったくそうは思わなかった。自民党は、統一教会の集団であるし、アメリカの言いなりになる、財界のための政治をする方々だ。誰が総裁になっても、同じである。自民党の政治家は、カネを求め、地位を求め、議員としての名誉を求める、そういう輩ばかりである。そういう者に投票する選挙民に、わたしは失望している。
久しぶりに『現代思想』を買った。特集は、「〈人種〉を考える」である。「〈人種〉を考える」ということは、「差別」の問題でもある。そのなかで、巻頭におかれていたのが、竹沢泰子さんと梁英星さんの対談である。その内容を紹介することはしないが、そのなかの議論にひっかけて、イスラエルによるパレスチナ人へのジェノサイドについて考えていきたい。
梁さんは、フーコーの言説をとりあげ、「前近代は殺す権力で近代は生かす権力」というフーコー理解は「俗流化」された理解だとしている。そしてフーコーは「生きるべき人間と死ぬべき人間を分け、資本主義にとって要らない人間を廃棄するところで、「レイシズム」が近代的に機能する」と言っている、と指摘する。
私は、「俗流化」されたとするフーコーの理解はそれはそれで間違いではないと思う。しかしネオリベラリズムの時代になってからは、明確に「生きるべき人間と死ぬべき人間を分け、資本主義にとって要らない人間を廃棄する」という状況になっていると思う。
そして「要らない人間」をつくりだし、彼らを「廃棄する」そのこと自体から利益をだそうとしている、というのが、今の資本主義の段階であると思う。
イスラエルが、ガザや西岸地区のパレスチナ人をジェノサイドするにあたって使用する武器から(武器を売ればカネになる!!)利益を産みだしている。
現在の資本主義の段階、ネオリベラリズムが跋扈する段階は、あからさまな利益至上主義の資本が、人間を監獄に入れる、あるいは殺すということからも、とにかく、ありとあらゆることから利益を引き出そうとする資本主義の終末期なのではないか。そこに、人道とか、権利とか、そういうものが入り込むことはない。
イスラエルによるパレスチナ人に対するジェノサイドは、ネオリベラリズムに席巻された世界の象徴ではないかとさえ思う。
しかし終末期と言っても、その終末期のあとに違った、人間が住みやすい社会が来るとは思えず、資本主義の終末が、人間への終末へと進んでいくことしかないように思われる。
またレイシズムで言えば、ネオリベラリズムというのは、きわめて残酷で、選別して「要らない人間を廃棄する」という段階であるから、いかなるレイシズムも、差別も最大限強化されていくのではないかと推測する。
しばしば「西側諸国」の指導者がいう「法と秩序」は、そういう社会を維持するためのイデオロギーではないか。
「目立つ」ことを求める人が増えているように思う。ユーチュウバーというのがたくさん出ていて、子どものなかには、将来はユーチュウバーになりたいという者が増えているようだ。
昨日、ユーチューブの「もと文春記者チャンネル」を見ていたら、兵庫県知事選で失職した斎藤元彦が、SNSで注目されていて、知事選挙で斎藤が当選することもありうると言っていた。先の東京都知事選で、SNSを利用して高得票を得た石丸某の方法を真似ているのではないか、若い人々はテレビは見ないし、新聞も読まない、そうしたメディアで叩かれている斎藤を通常では支持することなんかありえないのに、SNSで若者を中心に支持がひろがっている・・・・
わたしは、これは別に目新しい指摘ではないと思った。政治的に覚醒している人を除き、そうでない人びとは、業界が支援する人に投票するし(業界団体の会合には、その団体に支援される議員が参加している)、知人から頼まれた人、そういう関わりをもたない、ある意味孤立している人は「目立つ」人に投票する。
「目立つ」人というのは、テレビにでている人、ユーチューブで見る人、などである。要するに、人びとは「有名人」や「目立つ人」は、あたかも自分が「知っている人」だと認識し、そういう人に投票するのである。それは年令には関係ないと思う。立候補している人がどういう政策を実現しようとしているかを確認して投票活動を行うという人は、圧倒的に少ない。
とにかく、人びとは、「目立つ」人、「有名人」が好きなのだ。「有名人」を直に見たいと言って、人びとがあつまることがよくある。わたしには理解できない。
「目立つ」こと、それが迷惑行為であっても、そういうことをしばしば行って「有名人」になった者を、なぜかスポーツ新聞や雑誌が報じることがある。
絶望的な状況が続くだろうと、わたしは思っている。
『週刊金曜日』を創刊した本多勝一。創刊時から編集委員として彼の名前がいつも印刷されていた。しかし、今彼の名はない。
本多勝一という名は、わたしにとって重要な人物であった。
母は、ずっと『朝日新聞』を購読していた。だからわたしも、『朝日』を読みつづけた。連載記事が好きだった。本多勝一は、アラビア遊牧民、ニューギニア高地人などを取材、それは『極限の民族』という単行本として出版された。本多のルポルタージュは『朝日』の紙上に何度も掲載され、わたしはそれを読みふけった。そして単行本になれば、それを買い求めた。今もそれらは書庫に並んでいる。
わたしと同世代の人間は、本多勝一の文を読んで育った。大学卒業後に知り合ったメディア関係者は、申し合わせたように、本多勝一を読んでいた(また共同通信の斎藤茂男の本も、わたしは好きだったが)。本多に影響されて新聞記者になった者もいた。だから、彼らとの話には、かならず本多の名がでてきた。
それほど本多勝一は、私たちの世代の精神的な、あるいは知的な成長において、重要な存在である。
わたしの文の書き方も、本多の『日本語の作文技術』に拠る。いろいろな『文章入門』を読んだが、本多のそれがもっとも、他者に理解しやすい文の書き方を教えていると思ったからだ。
さて今日、『地平』11月号が届いた。最初に読んだのが、「朝日はもう人生のパートナーではない」である。何度も書いているが、わたしは小泉の郵政選挙の際の社説を読んで、その日に『朝日』の購読をやめた。ものごころついてから、ずっと『朝日』を読んでいたのだが。
最近辞めた『朝日』の記者二人のことが書かれていた。そのひとり、当時静岡支局にいた阿久沢さんからは、大杉らの墓前祭について取材を受けたことがある。『朝日』の記者、といってももうやめた人も多いが、知り合いが多い。みな能力のある優秀な記者であった。そういう記者がいられないような状態を、『朝日』はつくっている。『朝日』はもったいないことをしていると思う。
凋落する『朝日』の復活は、もうないだろう。『朝日』自体が、全国紙としてのリベラルな言論機関という立場を放棄しているからだ。今後は不動産企業として生きて行くことになるだろう。「朝日不動産」か、いいじゃないか。
ジャーナリズムは、今や『東京新聞』、地方紙、そしてデモクラシー・タイムスなどのネット、さらにTansaなどに集うジャーナリストに支えられている。
わたしがもつ歴史認識を鋭く問うような本や話を、わたしは求めている。日本近現代史というわたしが主に学んでいる(最近は研究をしていない、ただ学び続けているだけである)分野でも、そうした刺激あるものがなくなっていると思わざるを得ない。
今私は、担当している歴史講座の準備をしているが、そこでは浜田知明という画家をとりあげる。彼には、「初年兵哀歌」というシリーズがあるが、画家として何を描こうとしていたのか、を考えている。浜田知明の展覧会は、今まで四回行き、その都度図録を購入している。そのため、材料にはことかかないのだが、彼の絵からも、日本の「戦争」に対する歴史認識が鍛えられる。
従軍して何を見るのか、あるいは自分自身の脳裡に何が刻印されるのか。それは個人個人に任される事柄であるが、主体としての浜田が見たものを、あるいは刻印されたものを考えることによって、戦争の本質をうかがうことはできはしないか。
そういうことを考えながらいたときに、岡真理、藤原辰史さんらによる『中学生から知りたいパレスチナのこと』(ミシマ社)を知った。さっそく図書館から借りてきて読んでいるのだが、これは購入して読むべきものだと思った。わたし自身の歴史認識をびしびしと問い詰めるのだ。知らなかった事実が次々と突きつけられる。それらの事実は、それぞれが重く、すぐには咀嚼できないのだが、少なくともわたし自身が持っていた歴史認識が激しく動揺していることを感じる。
素晴らしい本である。多くの人に読んでもらいたいと思う。
この本は『週刊金曜日』9月27日号で知った。その書評の最初、藤原さんの「そもそも、歴史学そのものが、人間の足跡と尊厳を簡単に消すことができる、人の生きてきた痕跡をなかったことにできる暴力装置である・・」が引用されていて、歴史学に多少とも関わってきたわたしとしては、この記述に驚かされたのである。早速読まなければならないと思った。
こういう歴史認識を揺るがすような研究がおこなわれなければならないのだが、わたし自身は一線から身を引いているので、何とも言えない。せめてみずからの属する研究会こそ、そういう研究を、と思っているのだが、その動向を見ていると、あまりにも専門的な研究ばかりに偏っている。
わたし自身は、問題意識が鋭角的であればあるほど良い研究ができると思いながら研究してきたが、そういう姿勢は、「時代遅れ」なのかも知れない。
『ユダヤ教の歴史』という本がある。ポール・ジョンソンという人が書いたものだ。
イスラエルの蛮行を理解するためには、ユダヤ教を知らなければならないと思い、かつて読んで、しかし完全に忘れていた内容を、線を引いたりしたところを中心に読み直している。
イスラエルが行っていること、それをアメリカ帝国がバックアップしている、その様相に、宗教的背景があると認識しているからだ。ユダヤ人の一部であるシオニストが、パレスチナ人を虐待しているとは、もはや思えない。イスラエルという国家、ユダヤ人によって構成されている国家が、今までアメリカ帝国が行ってきたことを真似して、いやさらに激しくして、他国民、他民族を虐げている。イスラエルとアメリカ帝国とは、共通している。
独善、残酷、差別主義、暴力国家・・・・あらゆる否定的なことばがこの二つの国家を特徴づける。
同書(上巻)に、こういう文があった。
ユダヤ人が許されない行為には、「偶像崇拝、不義と近親相姦、そして殺人」があるという(261頁)。
「罪のない者を、多数の命を救うために犠牲とすることは許されない。人は一人ひとりが全人類の象徴であり、誰か一人を殺す者は、ある意味で生命の根本的定めを破ることとなる。」
これはユダヤ人の内部だけに適用されるものなのか。おそらくそうだろう。ユダヤ人以外、ユダヤ国家の国民以外の人間を殺すことは許されるのだろう。
まさにユダヤ教は独善主義の宗教であるがゆえに、普遍的な宗教とはなり得ない。普遍性をもたない宗教を信仰している者たちが、世界を攪乱している。