初めての四国です。ちょうど高松に用事があったので、高松城へ行ってきました。高松城は1587年(天正15年)に生駒親正によって築かれた、中津城、今治城と並ぶ日本三大水城のひとつです。海城という点では唐津城と同じですが、唐津城が唐津湾に突き出た満島山の地形を利用した平山城であるのに対して、高松城は平地に海水を引き込んで造られた平城です。
近世城郭としては最大の海城で、実際の縄張りは現在玉藻公園として整備されている部分の実に9倍もの面積を誇りました(上の写真をクリックすると拡大します)。昔から「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と詠われ、まるで海の上に城が浮かんでいるように見えたことでしょう。この日本でも珍しい縄張りは、黒田孝高(如水)、藤堂高虎が手掛けたなど諸説ありますが、何といいますが築城の名手といわれた人物を片端から挙げた感じですね。それ位特異かつ大規模な城郭だったということではないかと思います。
では場内を巡っていきます。まずは二の丸と本丸を結ぶ鞘橋です。二の丸から本丸へ通じるのは唯一この橋をもってのみであり、橋を落としてしまえば本丸を完全に孤立させることができました。もちろん、最終手段としての籠城のためです。
再建された天守台。当初、生駒氏の時代の天守閣は「高松城下図屏風」にあるとおり、三層だったと言われています。
1670年(寛文10年)、その後藩主となった松平氏により三層五階(地下1階含む)、南蛮造り(五階が四階よりも大きい構造)の天守に改築されました。この天守は小倉城を模したと言われ四国最大の規模を誇っていましたが、1884年(明治17年)、老朽化のため解体されました。上の写真はイメージです。
天守台からは瀬戸内海を望むことができます。
水門。高松城は外堀、中堀、内堀のすべてに海水が引き込まれ、軍船が直接出入りできる構造になっていました。そのため、水位調節のため水門が設けられています。この構造により、高松城は包囲あるいは補給を寸断しにくい城でした。
このため、外海からは鯛などが堀に飛び込んできたとされ、これに因み現在でも堀では養殖の鯛が飼われています。
三の丸にある披雲閣。松平氏時代に政庁および藩主の御殿として使われていましたが、1872年(明治5年)に老朽化のため解体され、1917年(大正6年)に再建されました。元々は現在の二倍の広さがありました。
艮櫓(旧太鼓櫓跡)。艮櫓はその名の通り、元々東の丸の北東の位置にあり、1677年(延宝5年)頃造られました。三層三階、入母屋造り、本瓦葺きで、一層に大きな千鳥破風のあるのが特徴です。1965年(昭和40年)に、太鼓櫓があった位置に移築、復元されました。
旭門と埋門。
内苑御庭。1917年(大正6年)の披雲閣再建に合わせて作造された枯山水の庭です。
月見櫓、水手御門、渡櫓。月見櫓は出入りする船を監視するため1676年(延宝4年)頃完成したと言われています。総塗籠造り、三層三階、入母屋造り、本瓦葺で、一層に千鳥破風、二層には唐破風のある美しい櫓です。その右手に見える水手御門は海の大手門ともいうべき、薬医門様式(二本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門)の門です。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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