窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

御所ヶ谷神籠石の謎④

2012年02月10日 | 史跡めぐり
  ではなぜ『日本書紀』において、天武天皇は天智天皇の弟とされているのでしょうか?これまでの仮説が正しければ当然のことで、その必要があった、『日本書紀』の編纂を命じた天武天皇には、新興勢力である自らの王権の正当性を訴える必要があったからです。

  そもそも『日本書紀』に中大兄皇子、中臣鎌足と記されているのも変です。「那珂(博多周辺)の偉大な兄であるところの皇子」、「那珂の臣である鎌足」、いずれも元から九州にいたかのような名前です。ひょっとしたら、白村江の戦いの際、ヤマト王権の軍勢は最初、那津宮家(現在の博多付近)に入っていますから、彼らを迎えた大海人皇子が敬意を表する意味で「那珂(つまり、大海人皇子の国)の偉大な兄である皇子」および「その皇子の臣である鎌足」と呼んだことはあったかもしれません。だとすれば、それを『日本書紀』編纂の際、意図的に利用したのではないでしょうか?

  しかし、『日本書紀』の成立は720年ですから、50年前後経過しているとはいえ、まだ過去の事実を記憶している者も大勢いたはずです。それなのに、歴史をかくも簡単に歪めることが可能なのでしょうか?僕は可能だと思います。我々が認識している近現代史でさえ、相当に混乱しているのですから。

  天武系の王朝に自らの正当性を誇示する必要があったのだと考えてみると、天武系の天皇が続いた時代に起きたことが、なぜかくも日本史の中で異様であったのかが分かるような気がします。例えば、この時代にしかない四文字の年号(749年~770年)や官名を唐風に改める唐風政策。これには開元の治で絶頂にあった唐を後ろ盾にしようという意図が見えますし、長屋王や恵美押勝といった、皇族や有力豪族による相次ぐ権力闘争は、律令国家を確立し、急速な中央集権化を進めていた割には権力基盤が不安定だったことを示しています。

  さらに聖武天皇の発願による盧舎那仏(東大寺の大仏)は、当初紫香楽宮(滋賀県甲賀郡)に造営される予定でした。これは紫香楽宮という聖武天皇の離宮があったからですが、なぜわざわざ離宮の地を選んだのでしょうか?聖武天皇の遷都理由については、疫病その他諸説ありますが、個人的に想像して、当時近江はまだ天智系の勢力が強かったから、と考えては飛躍のしすぎでしょうか。以前「瞻星台」や「クトゥブ・ミナール」で述べた通り、新興の王権が自らの権威を誇示するため、支配地域に大寺院を建立するということはどこでも見られることです。まして盧舎那仏は莫大な労力と共に、大量の金・銅・錫などの使用を伴うものです。つい40年ほど前まで「金が出た」、「銅が出た」と喜んで改元していた位ですから、唐の権威に加えて、恐らくヤマトよりかなり以前から仏教を摂取していたと思われる九州王権系の文明を、莫大な財力を使って誇示する効果は、対外的にも対内的にも絶大であったことでしょう。しかし、紫香楽宮での造営は相次ぐ不審火などから中止され、結局平城京で開眼することになります。この不審火とは、恐らく天武系に反発する勢力によるテロであったかもしれません。

  なお、天武系の天皇は称徳天皇を最後に途絶え、その後は天智系の光仁天皇が復活、続く桓武天皇の794年に平安京へ遷都します。遷都の理由は平城京の仏教勢力の影響を嫌ったという説が定説ですが、桓武天皇にとって仏教勢力とはすなわち天武系の勢力であり、平安京は天智系皇統復活の象徴という意味もあったのではないでしょうか(藤原氏の話はややこしくなるので、ここでは考慮しないことにします)。

  以上、御所ヶ谷神籠石を見物し、古代妄想を巡らせてみました。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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