つい先日、掛谷剛志さんのコンサートを聴く機会がありました。
掛谷剛志さん、16歳。生まれながらにして視力がなく、成長障害、ホルモン障害など様々なハンディを負っていながら1歳頃より音楽やリズムに対する類まれな能力を発揮され、耳にした曲や歌をたちどころにしてピアノ演奏してしまいます。ピアノも歌も本格的に習ったことはなく、独習とのことです。
しかしそのピアノ演奏は「ピアノを弾いている」というより奏者とピアノとが一体となって奏でられているようで、高音域の歌声は歌を言語としてではなく音として認識されているためなのでしょうか、音楽と全く調和し、強いて言うなら聖歌隊の歌声を独奏・独唱でやっているようです。
特に剛志さんが作曲した音楽はヒーリングミュージックのような不思議で、魂に響く旋律です。僕は音楽音痴なので何と表現したらよいのか分からないのですが...。
何より驚いたのは、ダンボールを楽器に手の甲・掌・爪・指などを巧みに使った「ダンボール・パーカッション」です。最初はボンゴの演奏のようなものを想像していたのですが、シンセサイザーでも使っているのではないかと思うほど、複雑に調和したリズムを奏でるのです。例えが適当かどうか分かりませんが、昔、シャーマンがある種のトランス状態に入り神と交信するために使った音楽はきっとこのようなものではないかと思いました。
勝手な見解ですが、剛志さんの音楽は宇宙が本来持っているリズムで、そこには表層意識的な恣意性が感じられず、故に聴衆の魂に直接響くのではないでしょうか。お客さんの拍手も拍手の質が違うのです。それはその後行われた会議における形式的な拍手とは明らかに違うものがありました。
拍手といえば、剛志さんのご尊父によると、剛志さんは各地を回って音楽を披露するようになり、聴衆から拍手をもらう様になってから病気をしなくなったのだそうです。恐らく剛志さんの音楽が聞く人の魂を揺さぶり、それが拍手に乗って剛志さんに伝わったからではないでしょうか。剛志さんとお客さんの波動がお互いに干渉しあい、人を幸福にする気の調和した状態を剛志さんの音楽が作り出しているのだろうと感じました。
そう考えると、音楽とは人が言語を獲得する前から持っていたコミュニケーション、それは人と人だけでなく自然や宇宙も含む、人間の根源的なコミュニケーション手段だったのではないかと思えてきます。だからこそ、世界中で宗教と音楽とは不可分のものなのでしょう。そして、人が生まれ最初に獲得する一番身近な音楽のひとつが「拍手」なのではないでしょうか。
人は言語を獲得することにより文明を高度に発達させてきました。しかし、その代償として抑圧した能力もあるのだと思います。確かに我々の社会的枠組みでは、剛志さんは障害を持っていると見なされます。しかし、剛志さんはその代わり我々が抑圧してしまっている能力を高度に発達させています。その意味においては、我々の方がむしろハンディを負っているとさえ言えると思います。まして、我々は眼が見えていながら、さまざまな先入観や偏見によって見えていないということがあり、聞こえているようで聞こえていないということがしばしばあります。それよりは心澄まし「あるがままに感じ」ている剛志さんの方がはるかに貴い領域に達しているのではないかと思うのです。
「感じる」ことの大切さと難しさを教わった気がしました。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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掛谷剛志さん、16歳。生まれながらにして視力がなく、成長障害、ホルモン障害など様々なハンディを負っていながら1歳頃より音楽やリズムに対する類まれな能力を発揮され、耳にした曲や歌をたちどころにしてピアノ演奏してしまいます。ピアノも歌も本格的に習ったことはなく、独習とのことです。
しかしそのピアノ演奏は「ピアノを弾いている」というより奏者とピアノとが一体となって奏でられているようで、高音域の歌声は歌を言語としてではなく音として認識されているためなのでしょうか、音楽と全く調和し、強いて言うなら聖歌隊の歌声を独奏・独唱でやっているようです。
特に剛志さんが作曲した音楽はヒーリングミュージックのような不思議で、魂に響く旋律です。僕は音楽音痴なので何と表現したらよいのか分からないのですが...。
何より驚いたのは、ダンボールを楽器に手の甲・掌・爪・指などを巧みに使った「ダンボール・パーカッション」です。最初はボンゴの演奏のようなものを想像していたのですが、シンセサイザーでも使っているのではないかと思うほど、複雑に調和したリズムを奏でるのです。例えが適当かどうか分かりませんが、昔、シャーマンがある種のトランス状態に入り神と交信するために使った音楽はきっとこのようなものではないかと思いました。
勝手な見解ですが、剛志さんの音楽は宇宙が本来持っているリズムで、そこには表層意識的な恣意性が感じられず、故に聴衆の魂に直接響くのではないでしょうか。お客さんの拍手も拍手の質が違うのです。それはその後行われた会議における形式的な拍手とは明らかに違うものがありました。
拍手といえば、剛志さんのご尊父によると、剛志さんは各地を回って音楽を披露するようになり、聴衆から拍手をもらう様になってから病気をしなくなったのだそうです。恐らく剛志さんの音楽が聞く人の魂を揺さぶり、それが拍手に乗って剛志さんに伝わったからではないでしょうか。剛志さんとお客さんの波動がお互いに干渉しあい、人を幸福にする気の調和した状態を剛志さんの音楽が作り出しているのだろうと感じました。
そう考えると、音楽とは人が言語を獲得する前から持っていたコミュニケーション、それは人と人だけでなく自然や宇宙も含む、人間の根源的なコミュニケーション手段だったのではないかと思えてきます。だからこそ、世界中で宗教と音楽とは不可分のものなのでしょう。そして、人が生まれ最初に獲得する一番身近な音楽のひとつが「拍手」なのではないでしょうか。
人は言語を獲得することにより文明を高度に発達させてきました。しかし、その代償として抑圧した能力もあるのだと思います。確かに我々の社会的枠組みでは、剛志さんは障害を持っていると見なされます。しかし、剛志さんはその代わり我々が抑圧してしまっている能力を高度に発達させています。その意味においては、我々の方がむしろハンディを負っているとさえ言えると思います。まして、我々は眼が見えていながら、さまざまな先入観や偏見によって見えていないということがあり、聞こえているようで聞こえていないということがしばしばあります。それよりは心澄まし「あるがままに感じ」ている剛志さんの方がはるかに貴い領域に達しているのではないかと思うのです。
「感じる」ことの大切さと難しさを教わった気がしました。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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