窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

土佐料理 祢保希(ねぼけ)

2011年12月19日 | 食べ歩きデータベース


  忘年会シーズン真っ只中ですが、実に久し振りに「土佐料理 祢保希」さんにお邪魔してきました。大正6年創業の老舗です。



  今回は丸の内店でしたが、前職では職場に近かった赤坂店で時々お昼を食べていました。そんな、懐かしいところです。



  豊かな漁場に恵まれた鰹を初めとする南国土佐の魚料理盛り合わせ「ちょいさわち」。



  鰹出汁とたっぷりの野菜で土佐はちきん地鶏と土佐ポークを食べる「龍馬鍋」。いずれも大変なボリュームで、ちょっと食べ過ぎました。

土佐料理 祢保希 丸の内店

東京都千代田区丸の内2-1-1
明治安田生命ビル地下1階



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アグラ城砦③

2011年12月18日 | 史跡めぐり


  シャージャ・ハーンが愛妃ムムターズ・マハルのために造った豪華な風呂は、ガイドに1,000ルピーを払うと見られるという、公然の秘密のスポットです。



  この風呂の何が凄いのかといいますと、壁や天井に刻まれた透かし彫りの模様の奥に、小さな鏡が無数に埋め込まれているのです。



  したがって、この部屋の中でロウソクの火をちらつかせると、ゆれる炎が鏡に反射し、満天の星の如くキラキラと輝いて見えるのです(上の写真をクリックすると拡大します)。これが松明のかがり火、あるいはランプの炎であったなら、一層きれいに輝いたに違いありません。

  この贅を尽くした風呂は完成までに18年の歳月を要しました。お風呂でさえこの有様ですから、愛妃を失ったシャージャ・ハーンが墓として、あれほど壮麗なタージ・マハルを造ってしまうわけです。余談ですが、第4代皇帝ジャハンギールの愛妃もムムターズ・マハルもいずれもペルシャ系でした(ムガル帝国はモンゴル系になります)。やはりペルシャには美人が多いのでしょうか?



  しかし、これほどの権勢を誇り、ムガル帝国の最盛期を築き上げたシャージャ・ハーンも晩年は皇位継承争いに巻き込まれることになります。1658年、第3皇子アウラングゼーブが皇位を簒奪し、第6代皇帝に即位。シャージャ・ハーンは「ジャスミンの間」(上写真)に幽閉されました。

 

  幽閉といっても、元々は自分が住んでいた間。中は豪華そのものです。



  シャージャ・ハーンはここからムムターズ・マハルの眠るタージ・マハルを眺めつつ、1666年、74歳でこの世を去りました。



  ムガル帝国は、息子アウラングゼーブの治世に最大版図を獲得するものの、その晩年から急速に衰退していきました。

  19世紀、イギリス統治下でアグラ城砦はイギリス軍の駐屯地として使われました。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ『四つの署名』には、1858年のインド大反乱時、アグラ城砦に運び込まれた王家の財宝をジョナサン・スモールと3人のシーク教徒が奪うという話が登場します。

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アグラ城砦②

2011年12月17日 | 史跡めぐり


  隊商が様々な産物を持ち込んだという市。往時の喧騒が偲ばれます。



  こちらは政務を司った議場。

 

  暑い時期は外で行うこともありました。



  一般謁見の間。



  さて次回は、アグラ城砦最大の見せ場、愛妃のための風呂とシャージャ・ハーンが幽閉されたジャスミンの間についてご紹介したいと思います。



<つづく>

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アグラ城砦①

2011年12月16日 | 史跡めぐり


  アグラ城砦は、1573年にムガル帝国第3代アクバル大帝(在位1556年~1605年)によって築かれ、第5代皇帝シャージャ・ハーンまでムガル帝国の居城となった城です。



  ムガル王朝を名実共に帝国に発展させたアクバルが、その権力を誇示するために造った壮大なもの。タージ・マハルと並び今回4度目の訪問となります。城郭の75%は現在インド陸軍の駐屯地となっており、われわれが見学できるのはわずか25%に過ぎませんが、それでも相当見ごたえのある遺跡です。



  1573年頃の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。



  高い城壁と二重構造の堅固な濠。外側は水濠で鰐を放ち、内堀は空堀でライオンやトラ、毒蛇などを放って敵の侵入を防いだといわれています。



  何故か外に置いてある、皇帝が使用したとされる風呂桶。



  アクバルが妃と息子ジャハンギールのために建てたジャハンギール宮殿。



  ここでの見物は、ヒンドゥー教徒の妃とイスラム教徒の妃のために造られた、それぞれの住まいです。アクバルは拡大した帝国を統治するために、支配者層のイスラム教と被支配者層のヒンドゥー教徒の融和を図りました。上の写真はヒンドゥー教徒の妃の住まいですが、柱などにヒンドゥー様式の彫刻が見られます。



  一方、こちらはイスラム教徒の妃の住まい。



  壁の一部を叩くと、中が空洞になっていることが分かります。これは暑さをしのぐため、中に水を通して部屋を冷やすための仕組みだそうです。



  別の妃の部屋ではこんな窓も。外側から見ると塞がっているように見えますが、



  中から見ると、このように風が通るようになっています。



  アグラ城砦の中で最も壮麗なのは、第5代皇帝シャージャ・ハーンが造った宮殿です。タージ・マハルからも分かるとおり、大理石を好んだシャージャ・ハーンの宮殿は、全て大理石で造られています。



  見事な彫刻が施された、私的謁見の間。部屋の向こうには噴水、その先にハーレムがありました。ハーレムの中庭には、ワイン醸造のため葡萄が植えられていたそうです。

<つづく>

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第15回YMSを開催しました

2011年12月15日 | YMS情報
 

  2011年12月14日、横浜中華街、重慶飯店にて第15回YMSを開催しました。

  今回は忘年会も兼ね、過去にご参加いただいた方々を中心に交流会を行いました。年末のお忙しい中、約30名のみなさんにお集まりいただきました。ありがとうございました。

 

  過去に行われたそれぞれのYMSでは、ご参加いただいた皆さんの間で都度交流を深めていただくのですが、今回は各回で培った絆をさらにつなぎ合わせ織り成していくというのが主旨です。したがって、過去にご参加いただいた方同士でも今回始めてお会いするというケースが多々あります。



  誰もが主催者であり、受講者であり、講師でもある。そして、興味のあるテーマがあれば誰でも声を掛け合って参加できるというのがYMSの大きな特徴ですが、その通り過去の参加者の方からの紹介で初めて参加された方、さらには学生さんもいらっしゃいました。YMS発足当時の想いがだんだん形になってきた気がします。本当にありがとうございます。



  二次会風景。次回は2012年1月11日、立川と幕張で熱い活動をされている皆様をお招きし、新年拡大版でお送りする予定です。ぜひご期待ください。

  来年もどうぞよろしくおねがいいたします!

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タージ・マハル

2011年12月15日 | 史跡めぐり




  デリー(地点G)よりアグラ(地点B)へ移動(地図をクリックすると拡大します)。インドが誇る世界遺産、タージ・マハルへ通算4度目の訪問をしました。

  タージ・マハルは、ムガル帝国第5代皇帝シャージャ・ハーン(在位1628年~1658年)が39歳で死去した愛妃ムムターズ・マハルのため、1632年から22年の歳月をかけて完成させた、総大理石の霊廟です。これからも度々登場しますが、インドでマハルというと「宮殿」を意味しますが、タージ・マハルの名前の由来は、宮殿ではなく妃の称号であるムムターズ・マハルから変化したと言われています。

タージ・マハル


  何度訪れても、その規模、その壮麗さには圧倒されます。



  2万人もの職人(今でもその9代目の子孫が廟のまわりで国の保護の下による土産物屋を営んでいます)を動員して造られたという、タージ・マハル。正面の門からして壮大なものです。門の上の小さなドームは前後合わせて22個あります。これは、タージ・マハルが竣工までに要した年数を表しているといわれていますが、個人的には疑わしく思います。恐らく後代のこじつけでしょう。



  1650年頃の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。



  門をくぐると正面にタージ・マハル、左手にマスジドと呼ばれるモスク、右手にミフマーン・カーナーとよばれるゲストハウスがあります。これらは左右対称に見えるように作られているため、一見するとどっちがどちらだか分かりません。



  写真に写っている人と比べれば、タージ・マハルの壮大さがお分かりになると思います。タージ・マハルの周りには4本の塔(ミナレット)が立っています。しかし、よく見るとやや外側に傾いています。現地のガイド曰く、これらはサイクロンや地震などの災害の際、塔が内側に倒れないよう、あえてやや外側に傾けて造ったのだそうですが、本当でしょうか?僕は建築の素人ですが、最初からわざと傾けて造ったりなどしたら、かえって倒壊の危険を増すことになると思うのですが。



  タージ・マハルの正面入口。入口の周りにはコーランを図案化した模様が描かれています。これは下から見上げた時、平行に見えるよう、実際には上に行くほど幅が広くなっているのだそうです。この先に、ムムターズ・マハルとシャージャ・ハーンが眠る墓があるのですが、中は撮影禁止となっています。



  タージ・マハルの多くは継ぎ目のない大理石に彫刻を浮き彫りにしたり、透かし彫りにしたりしています。回りの唐草模様も大理石を彫り、そこに貴石を埋め込んで造るという手の込んだものです。貴石は遠く中国、スリランカ、アラビア、アフガニスタン、トルコなどから取り寄せられました。イギリスによって多くの金銀財宝が持ち去られた後とはいえ、ムガル帝国最盛期の力の大きさを感じさせます。



  タージ・マハルの角の柱。一見すると、星型に彫刻された柱のように見えます。



  ところがこれは、柱にギザギザの模様を描くことによる目の錯覚を利用したものなのですね。さすが幾何学的なイスラム建築です。

 

  景色が全く左右対称に見える地点。



  そこからデリーまで続くヤムナー川を挟んだ対岸。シャージャ・ハーンはタージ・マハルの竣工後、ここに総黒大理石の自分の霊廟を造るつもりだったと言われています。しかし、それはシャージャ・ハーンが息子のアウラングゼーブ(在位1658年~1707年)のクーデターに遭い、退位させられたことによって実現しませんでした。



  タージ・マハルから臨むアグラ城砦。ここに幽閉されたシャージャ・ハーンは、タージ・マハルを眺めながら1667年に世を去りました。

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ロディー・ガーデン

2011年12月14日 | 史跡めぐり


  ニュー・デリーにあるロディー・ガーデンは、1936年にイギリスによって造られた庭園で、その名の通り、ロディー朝(1451年~1526年)時代のモスクや王墓が庭園内に点在しています。



  1494年頃の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。



  しかし、最初に目にしたのはムガル帝国第12代皇帝、ムハンマド・シャー(在位1719年~1748年)の墓(冒頭写真)。内憂外患に苦しんだ皇帝の墓は、ぽつんとどこか寂しげです。



  次に、道を挟んで対称的に、一見すると見分けがつかないモスクのような建物が見えてきます。写真左がシーシュ・グムバッド(ガラスのドーム)、右がパダ・グムバッド(大きなドーム)です。

  シーシュ・グムバッドの特徴は、その名が示すとおり、ファサードの上にわずかに残る、釉薬をかけた青いタイルです。元々はドーム全体がこの青いタイルで覆われていたであろうと言われています。ここも王墓ですが、誰の墓なのかは明らかになっていません。一説には、ロディー朝の初代スルタン、バフロール・ロディ(在位1451年~1489年)ではないかと言われています。

  もう一方のパダ・グムバッドは、ロディー朝時代の関門ではないかと考えられています。19m四方、高さは27mあり、ロディー朝の遺構としては、デリーに残っているものの中で最大級です。



  その特徴は、外から見ると2層に見えることですが、中は写真の通り吹き抜けになっています。



  パダ・グムバッドの右手にあるモスクは、25m×6.5m、ロディー朝時代の彫刻や漆喰の技術を示す遺構となっています。



  さらに進むと、一際大きな、城砦のような建物が見えてきます。これは、ロディー朝第2代スルタン、名君の誉れ高い、シカンデル・ロディー(在位1489年~1517年)の王墓です。余談ですが、次回以降ご紹介するアグラの町を最初に建設したのは、このシカンデル・ロディーです。



  王墓の大きさは76㎡あり、外壁の高さは3.5mあります。そして、内部にあるこの八角形の建物がシカンデルの墓になります。

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古布の辰(たつ)

2011年12月13日 | ひろがるエコソフィー(古布作品集)


  おなじみFRNさんから、来年の干支である辰の作品をいただきました。いつもありがとうございます。

  辰は古来より吉兆を呼ぶ聖獣とされています。来年が皆様にとりよい年となりますように!

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ジャマー・マスジット 

2011年12月13日 | 史跡めぐり


  ジャマー・マスジットはデリーにあるインド最大のモスク。ムガル帝国(1526年~1858年)の最盛期、有名なタージ・マハルを創建したことでも知られる、第5代皇帝ジャー・ジャハーンにより、6年の歳月をかけ1662年に完成しました。



  1659年頃の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。



  広い中庭では礼拝のために2万5,000人が収容できるといわれています。しかし、アグラの遺跡を知ってしまうと、デリーの城やモスクは規模こそ大きいものの、面白味に欠けるというのが個人的な感想です。

  中庭の泉では、イスラム教徒たちが清め(ウドゥー)を行っていました。同じ水で手を清め、足を清め、口も漱ぎます。

  1857年のインド大反乱(セポイの反乱)では、白装束に身を固めた反乱軍がここジャマー・マスジットでイギリスに抵抗を試みました。ジャマー・マスジットに至る赤い石段は、反乱軍の白い死体で覆われたといわれています。

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クトゥブ・ミナール

2011年12月12日 | 史跡めぐり


  これからしばらくインドの話題が続きますが、ご容赦ください。当ブログの前身であるブログ(閉鎖)に掲載していたものも含め、インド各地の遺跡やパレス・ホテルなどをご紹介していきたいと思います。



  上の地図が今回巡ったルート、総移動距離は1,439km、青森市から岩国市まで車で移動した距離に相当します(地図をクリックすると拡大します)。最初は、デリー(地図中G地点)からです。

  冒頭の写真はクトゥブ・ミナール、1200年頃にデリーを中心にインド北部を支配した奴隷王朝の創始者、クトゥブッディーン・アイバク(在位1206年~1210年)によって建てられたミナレット(モスクに付随して建てられる塔)です。高さが72.5mもあり、世界で一番高いミナレットといわれています。



  奴隷王朝はインド北部における最初のイスラム王朝であり、これだけ壮大なミナレットを造ったのには、イスラム教の威光を誇示する意味があったと思われます。また、現在は廃墟と化していますが、クトゥブ・ミナールを含むクワットゥル・イスラーム・モスクが、ヒンドゥー教寺院を破壊し、その石材で使って建てられていることからもそのことが窺われます。



  クトゥブ・ミナールの北には、クトゥブ・ミナールを超える塔を造ろうとして挫折したアライ・ミナールがあります。直径が25m程もあり、もし完成していればクトゥブ・ミナールをはるかに凌ぐ巨大な塔になっていたであろうといわれています。



  1210年頃の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。

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