都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
東京都現代美術館 2/11 その1 「榎倉康二展」
東京都現代美術館(江東区三好)
「榎倉康二展」
1/15~3/21
木場の現代美術館で開催中の「榎倉康二展」を観てきました。彼のキャリア初期から、材木とカンヴァス、それに「しみ」が静かに交わる後期の作品まで、創作の全貌に触れることができる、企画力と作品の魅力に優れた良い展覧会でした。
榎倉さんの作品は、私が先日観た、藝大美術館の「HANGA展」や近代美術館の「痕跡展」でも静かに存在感を示していました。しかし、今回の個展では、それがさらに大きなものとなって私を圧倒してきます。写真に「しみ」に材木…。様々な表現の組み合わせが、創作の多様な方向性を示していたからでしょうか。それとも、全体を感じることが個々の作品を理解するきっかけとなったのでしょうか。彼の創作の全体を俯瞰しながら回顧的に観ることが、あれほどまでに一つ一つの作品の魅力を高めることとなるとは思いませんでした。どの展示室も美しい魅力に溢れています…。
70年代に制作されたという一連の写真のシリーズからして、榎倉さんが大変に鋭い感性を持っていたことを予感させます。ゼラチン・シルバー・プリントに写されているアスファルトや大きなタイヤ、それにショベルカーが、どれだけの質感をもって美しく輝いてくることでしょう…。直線的な光が差し込んでいるような「窓」も、その中に物語性を全く感じさせないような極限の抽象美がありました。もし、彼が写真家として活動して、後期の「しみ」の作品がなかったとしても、私はこれらの写真だけで、十分に彼の世界へ惹き込まれたことと思います。
写真の次のセクションにあったのは「予兆」というシリーズです。この辺りから、彼独自の視点と感覚が現れ始めます。現美のHPにも載っている「予兆-床・手」(1974年)という作品は、先ほどの写真のシリーズで見せたような、繊細な感性を露にする「美」が感じられました。それぞれの作品はあまり大きくありませんが、こういう作品は、周囲の空気を一変させる力があるようです。
綿布と「しみ」を使った「Figure」は、残念ながら、その意味を感じとることはできませんでした。しかし、作品の配置から素晴らしく、全体の雰囲気とその大きな魅力をたっぷりと味わうことはできたと思います。ところで、彼の作品は、一瞥しただけで何かを得られるような、力強い主張を持つものではありません。その点でこの「Figure」と、次のセクションの、材木を使った「干渉」のシリーズは、それぞれの作品の関係性や存在感がゆっくりとゆっくりと伝わってくる、とても繊細でかつ静謐な作品です。これらの作品が配置されている展示室へ入ると、まず、いくつかの「しみ」や布、それに材木が目に飛び込んできます。そしてそれらを眺めながら別の角度を向くと、また異なった「しみ」が見えてきます。こうした作業を何回か繰り返しながら鑑賞すると、やがてある時、それぞれの作品が共鳴し合って一つとなるように、穏やかに主張し始めるようです。単に「しみ」や材木を、「もの」としてだけ捉えても良いのかもしれません。しかしじっと眺めていれば、それが「もの」だけではなく、背後にある作者の感覚や意図が、何となしに示唆してくるように感じるのです。会場にいた監視員の方に聞くと、これらの作品は、学芸員の方の独自の視点によって配置されたそうですが、もしそこに別の作品が入り込んで、今と異なった空間を構成していたらどうなったのか。そんなことも考えました。ともかく「Figure」と「干渉」は、一時間でも二時間でも前に立っていたい、そう思わせるような穏やかな雰囲気と不思議な魅力があったと思います。(「Figure」にある「無題」(1988年/国際美術館蔵)はあまりにも巨大すぎて、一回でその全貌に触れるのは不可能とさえ思いました。観れば観るほど魅力が増してくる。そんな凄まじい作品です。)
「エスキース」のコーナーでは、榎倉さんが、どのようにして一連の作品に対峙していたのかが、ある程度分かるように構成されています。短い言葉で示された作品への思考は、本人だけしか理解し得ないものかもしれません。しかし、「ただ即物的に。」とか「つなぎのない画面は非日常的である!」などの指示を読むと、彼がどれだけ細やかに、そしてある時には大胆に作品に向かっていたのかが、よく感じられるように思いました。
ところで、一階にあった「干渉」の一つの作品には驚かされました。何故なら、その作品の材木には青色が配され、それがまるでカンヴァスに打ち込んでいくような動きをしていたからです。大変に動的です。ただ色があるだけで、それまで観てきた「干渉」とは全く異なった雰囲気を醸し出しています。もしかしたら、色の変化だけでは語れない要素があるのかもしれません。しかし一体どういうことなのでしょうか。作品の存在感も大きく異なっています。これは意外です。
全ての作品に共感できたわけではありません。何かの強迫観念に迫られているように感じた初期の平面作品や、パフォーマンス・アートには少々首を傾げたくなるものもありました。しかし、写真と「しみ」はなかなかに素晴らしい。最近妙な路線へ走っている気もする現代美術館ですが、本当に味わい深い展覧会をしてくれたものです。祭日にも関わらず、とても空いていて残念でしたが、本当に良いものを観たときだけに感じられるような充足感を味わうことができました。万人受けするとは思えませんが、静謐な空間と穏やかな表情に触れたい方には、是非おすすめできる展覧会だと思います。
「榎倉康二展」
1/15~3/21
木場の現代美術館で開催中の「榎倉康二展」を観てきました。彼のキャリア初期から、材木とカンヴァス、それに「しみ」が静かに交わる後期の作品まで、創作の全貌に触れることができる、企画力と作品の魅力に優れた良い展覧会でした。
榎倉さんの作品は、私が先日観た、藝大美術館の「HANGA展」や近代美術館の「痕跡展」でも静かに存在感を示していました。しかし、今回の個展では、それがさらに大きなものとなって私を圧倒してきます。写真に「しみ」に材木…。様々な表現の組み合わせが、創作の多様な方向性を示していたからでしょうか。それとも、全体を感じることが個々の作品を理解するきっかけとなったのでしょうか。彼の創作の全体を俯瞰しながら回顧的に観ることが、あれほどまでに一つ一つの作品の魅力を高めることとなるとは思いませんでした。どの展示室も美しい魅力に溢れています…。
70年代に制作されたという一連の写真のシリーズからして、榎倉さんが大変に鋭い感性を持っていたことを予感させます。ゼラチン・シルバー・プリントに写されているアスファルトや大きなタイヤ、それにショベルカーが、どれだけの質感をもって美しく輝いてくることでしょう…。直線的な光が差し込んでいるような「窓」も、その中に物語性を全く感じさせないような極限の抽象美がありました。もし、彼が写真家として活動して、後期の「しみ」の作品がなかったとしても、私はこれらの写真だけで、十分に彼の世界へ惹き込まれたことと思います。
写真の次のセクションにあったのは「予兆」というシリーズです。この辺りから、彼独自の視点と感覚が現れ始めます。現美のHPにも載っている「予兆-床・手」(1974年)という作品は、先ほどの写真のシリーズで見せたような、繊細な感性を露にする「美」が感じられました。それぞれの作品はあまり大きくありませんが、こういう作品は、周囲の空気を一変させる力があるようです。
綿布と「しみ」を使った「Figure」は、残念ながら、その意味を感じとることはできませんでした。しかし、作品の配置から素晴らしく、全体の雰囲気とその大きな魅力をたっぷりと味わうことはできたと思います。ところで、彼の作品は、一瞥しただけで何かを得られるような、力強い主張を持つものではありません。その点でこの「Figure」と、次のセクションの、材木を使った「干渉」のシリーズは、それぞれの作品の関係性や存在感がゆっくりとゆっくりと伝わってくる、とても繊細でかつ静謐な作品です。これらの作品が配置されている展示室へ入ると、まず、いくつかの「しみ」や布、それに材木が目に飛び込んできます。そしてそれらを眺めながら別の角度を向くと、また異なった「しみ」が見えてきます。こうした作業を何回か繰り返しながら鑑賞すると、やがてある時、それぞれの作品が共鳴し合って一つとなるように、穏やかに主張し始めるようです。単に「しみ」や材木を、「もの」としてだけ捉えても良いのかもしれません。しかしじっと眺めていれば、それが「もの」だけではなく、背後にある作者の感覚や意図が、何となしに示唆してくるように感じるのです。会場にいた監視員の方に聞くと、これらの作品は、学芸員の方の独自の視点によって配置されたそうですが、もしそこに別の作品が入り込んで、今と異なった空間を構成していたらどうなったのか。そんなことも考えました。ともかく「Figure」と「干渉」は、一時間でも二時間でも前に立っていたい、そう思わせるような穏やかな雰囲気と不思議な魅力があったと思います。(「Figure」にある「無題」(1988年/国際美術館蔵)はあまりにも巨大すぎて、一回でその全貌に触れるのは不可能とさえ思いました。観れば観るほど魅力が増してくる。そんな凄まじい作品です。)
「エスキース」のコーナーでは、榎倉さんが、どのようにして一連の作品に対峙していたのかが、ある程度分かるように構成されています。短い言葉で示された作品への思考は、本人だけしか理解し得ないものかもしれません。しかし、「ただ即物的に。」とか「つなぎのない画面は非日常的である!」などの指示を読むと、彼がどれだけ細やかに、そしてある時には大胆に作品に向かっていたのかが、よく感じられるように思いました。
ところで、一階にあった「干渉」の一つの作品には驚かされました。何故なら、その作品の材木には青色が配され、それがまるでカンヴァスに打ち込んでいくような動きをしていたからです。大変に動的です。ただ色があるだけで、それまで観てきた「干渉」とは全く異なった雰囲気を醸し出しています。もしかしたら、色の変化だけでは語れない要素があるのかもしれません。しかし一体どういうことなのでしょうか。作品の存在感も大きく異なっています。これは意外です。
全ての作品に共感できたわけではありません。何かの強迫観念に迫られているように感じた初期の平面作品や、パフォーマンス・アートには少々首を傾げたくなるものもありました。しかし、写真と「しみ」はなかなかに素晴らしい。最近妙な路線へ走っている気もする現代美術館ですが、本当に味わい深い展覧会をしてくれたものです。祭日にも関わらず、とても空いていて残念でしたが、本当に良いものを観たときだけに感じられるような充足感を味わうことができました。万人受けするとは思えませんが、静謐な空間と穏やかな表情に触れたい方には、是非おすすめできる展覧会だと思います。
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