横浜美術館 「マルセル・デュシャンと20世紀美術」 2/19

横浜美術館(横浜市西区みなとみらい)
「マルセル・デュシャンと20世紀美術-芸術が裸になった、その後で」
1/5~3/21

すっかり感想を書くのを忘れていました…。先週の土曜日に観てきたデュシャン展です。

ところで、私が美術館へ行くようになったのは確かここ2~3年のことですが、今回の展覧会ほど「手ごわい」のは初めてでした。デュシャンの世界は、私にとってあまりに広すぎます。途方に暮れるしかないような理解不能の作品から、異様な美を感じる作品まで、始終頭の中をかき乱されっぱなし…。初めこそ、作品に自分なりの「定義」をしてみようかと思いましたが、それは私の力量を上回る作業のようです。ここは、見て思ったことを率直に書きます。ということで、いつも以上に思い込み色の強い感想となりましたが、その辺はどうかご容赦下さい。

まず初めに感じたことは、デュシャンの芸術は一体どこにあるのかということです。これについては先ほども書きましたが、彼の芸術世界があまりにも広すぎることとも関係しているようです。私の経験からすると、一人のアーティストからは、大体何か共通の土壌や感性を見出すことが多いのですが、デュシャンは殆どそれすら許しません。噛み砕いて言えば、あまりにもつまらなく感じる作品と、とても優れて見える作品が同居しているのです。しかも同じ「枠」の中にあるとされる作品がそう…。あまりにも極端でした。例えば有名な「泉」ですが、これを今、何故美術館に並べなくてはいけないのかと思うほど、「意義」でしか感じられない作品です。つまり、「便器」ではなく、デュシャンの「泉」としてしか価値を持たないということです。作品そのもので受け止められないようなものを、私はどう受容すれば良いのでしょう。美的関心を極限までに封じ込めたような「泉」。何らかの言説によってしか受容できないのなら、私はもう観たくありません。ところが、同じレディ・メイドとされる「自転車の車輪」は大変に美しく見えるのです…。デュシャンはこの作品の車輪部分を廻しながら思索に耽ることもあったそうですが、確かにいつまでも眺めていたくなるほど、繊細な美的なセンスとバランス感覚を感じることができます。「泉」とはあまりにもかけ離れた印象を受けるのに、実は同じレディ・メイドとして捉えられている。この辺からして頭が混乱してしまいました。

次に、同じ空間の中で、デュシャンと彼に向き合った芸術家の作品を並べる意味がわかりませんでした。ただ、このことは、デュシャン芸術の問題ではなく、展覧会自体の問題でもあると思います。例えばデュシャンの「排水栓」と、ゴーバーの「排水口」です。この二つの作品は美術館によるチェックシートでも、ある意味で対になった作品として紹介され、解説にはデュシャンから与えられた影響の意味が述べられていました。しかし、私はこの二つの作品を前にした時、それぞれの作品の持つ魅力(あるとすれば。)が、同じく空間を共有させることで相殺されたように思えるのです。どちらの作品がより魅力的かとか、より見るべきなのかという問題、つまり、比較対象としての観点ばかりに焦点が合わされて、デュシャンの芸術観を逆に損なうことになっているのではないかと感じます。それに、これらの作品は、空間的にも時間的にもかけ遠く離れた時に、初めて各々が作品そのものとして輝くのではないかとさえ思いました。デュシャン自身が自らの作品を、横尾さんや森村さんの作品と並べることにどれだけの意味を感じたかは不明ですが、私にはあまりにも勿体ないこととして感じられます。美術書の中ででも行なって欲しい企画、とするのは言過ぎでしょうか。

それに、デュシャンが「美術とは何か」(美術館HPより。)を問い続けていたとするなら、それこそ当時の彼が対峙していた美術界の作品を、展覧会に持ってくる方がよほど意義があると思います。つまりデュシャン以降の作品は、当然ながらデュシャン自身の問題提起や、複雑怪奇な感性が呼び起こされるわけではないのです。相互に相殺し合うような作品の比較、要するに、「デュシャンとその後」自体が、あまり観たい対象となりません。

初めのセクションにあった「階段を降りる裸体」などは、どれも素晴らしいものでした。ただ、そう思ったのも、私の感性が、この作品から何らかの美的意識を呼び起こしたからでしょう。もし、デュシャンがそれすらも否定し、それこそ「泉」のような、まさにそこにあるだけの作品を、規定の美意識への挑戦として、芸術の呪縛を解くことができると考えていたなら、私はその意義を見いだすか、もしくは理解もできずに途方に暮れるしかありません。もちろん、殆どの場合後者です…。これは非常に辛い芸術体験でもあります。

展示室の壁面の所々に、デュシャンの言葉が引用されていました。それらはどれも示唆に満ちていて大変に興味がそそられます。彼が芸術の呪縛を解くボールを投げているなら、観る側もそれをキャッチしなくてはいけません。しかし、残念ながら今の私には、ボールを受け止めるだけの感性が殆どないようです。だとしたら、彼の「言葉」も頼りにしなくてはいけないのでしょう。チェック・シートだけでは、あまりにもデュシャンが大きすぎました。

拒否感と嫌悪感と同時に、美意識と受容も感じる。一人の芸術家からこんなに複雑怪奇な印象を受けた展覧会は初めてでした。結局、デュシャンがどこに「ある」のかが分かりません。ただ、私が美術を観る際の視点の居所を、ある意味で粉々に打ち破いてくれたことは間違いないようです。その点では、面白かった展覧会と言えるのかもしれません…。
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