「怖い絵展」 上野の森美術館

上野の森美術館
「怖い絵展」 
10/7~12/17



上野の森美術館で開催中の「怖い絵展」を見てきました。

ドイツ文学者の中野京子氏が、2007年に発表した「怖い絵」は、大変な人気を集め、「泣く女編」や「死と乙女編」などとシリーズ化し、ベストセラーを記録しました。

その「怖い絵」が、10年越しに展覧会として実現しました。出展は、版画と絵画を合わせて80点です。国内の美術館だけでなく、プチ・バレ美術館、マンチェスター美術館、ナント美術館、ロンドン・ナショナル・ギャラリーなどの海外からも作品がやって来ています。しかも、著作中の作品に留まらず、展覧会に向けて、新たに選ばれた作品も加わりました。

単に視覚的な面ではなく、一見するところ怖くなく、むしろ背景を知ることで、初めて「怖さ」が浮かび上がるのも、「怖い絵展」の大きな特徴と言えるかもしれません。


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「オデュッセウスに杯を差し出すキルケー」 1891年 オールダム美術館

一例が、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの「オデュッセウスに杯を差し出すキルケー」です。薄い水色の衣を纏った妖艶な女性が、高らかに杯を差し出しては、やや高揚した面持ちで玉座に座っています。その背後には鏡があり、よく見ると右側に、何やら逡巡するような様子をした男の姿が映っていました。そして足元には、何故か豚がうずくまっています。確かに絵自体は怖くありません。一体、どのようなドラマが描かれているのでしょうか。

この女性こそキルケーで、近づく男たちを歓待すると見せかけ、魔術で動物に変えてしまう魔女でした。そして鏡に映っているのがオデュッセウスで、豚は彼の部下でした。つまりオデュッセウスの部下は、キルケーに誘惑されて、魔術により豚に変えられたわけでした。この後、キルケーとオデュッセウスは恋に陥るそうですが、物語の内容を知れば、確かに恐怖感を覚えなくはありません。


チャールズ・シムズ「そして妖精たちは服を持って逃げた」 1918-19年頃 リーズ美術館

チャールズ・シムズの「そして妖精たちは服を持って逃げた」も同様です。戸外の草むらの上で、母と娘らしき母子が、日向ぼっこをしています。一見するところ、光に満ちていて、何ら変哲のない日常の光景にも映りますが、母の右手の先に注目です。そこには妖精が現れ、衣服を盗もうとしています。日常どころか、異界が闖入しています。古くから妖精の伝承が語られたイギリスでは、19世紀前半頃から、妖精を題材にした絵画が多く描かれました。

ちなみに妖精画を多く手掛けたシムズは、順風な画家生活を送っていたものの、第一次世界大戦で長男を失い、自身も戦地で悲惨な状況を目の当たりにして、次第に精神を病み、53歳で入水自殺をしてしまいました。そうした画家の背景についても言及がありました。


ギュスターヴ=アドルフ=モッサ「飽食のセイレーン」 1905年 ニース美術館

「怖さ」を通り越し、むしろ奇異とも受け取れるほどに、インパクトが強かったのが、フランス象徴主義の画家、ギュスターヴ=アドルフ=モッサでした。「飽食のセイレーン」はどうでしょうか。前景で鳥の姿をしたのがセイレーンですが、もはや感情を失ったような表情や、濃い化粧に、人工的な髪形などは、どこか現代人のようで、極めて異様な存在感を示しています。翼は貴婦人の着る豪華なマントのようでもあり、脚やかぎ爪も模様も、まるでネイルを連想させるように装飾的でした。しかし、爪や口元、さらに羽には血がついていて、彼女が確かにセイレーンであり、溺死者を喰らったことを表現しています。モデルでも存在したのでしょうか。その大きな瞳に釘付けになりました。

モッサのもう1枚、「彼女」は、もはや猟奇的と言えるかもしれません。主人公は裸の女性で、豊満な乳房をさらしながら、両手を前にして座っています。先のセイレーンと同様に表情はないもののの、虚ろな瞳で、前を見据えていました。頭にはドクロがあり、2羽のカラスがいました。驚くべきは彼女の足元で、無数の男の死体が、山のように積まれています。思わず、会田誠の「ジューサーミキサー」を連想しました。男を食らう女、つまりマンイーターを表しているそうですが、しばらく脳裏から離れませんでした。

より分かりやすい形で「怖さ」を感じるのは、リアリティー、つまり現実の光景を描いた作品かもしれません。


ポール・セザンヌ「殺人」 1867年頃 リバプール国立美術館

例えばセザンヌの「殺人」です。まさしく殺人の一場面を描いた作品で、真っ暗闇の中、男女2人が、長い髪の女性を押さえつけ、ナイフで刺し殺そうとしています。極めて暗鬱な画面で、のちの印象主義を経た、透明感のあるセザンヌの画風とはまるで似つきません。実際、セザンヌは、最初の10年間、こうした暴力的な作品を多く描いていたものの、後年になって自ら廃棄してしまいました。あまり見慣れない、珍しい作品ではないでしょうか。


ウォルター・リチャード・シッカート「切り裂きジャックの寝室」 1906-07年 マンチェスター美術館

ウォルター・リチャード・シッカートの「切り裂きジャックの寝室」も、異様な恐怖感を放っていました。有名なロンドンの猟奇連続殺人鬼を題材にした作品で、ジャックが一時、住んでいたとされる一室を描いています。実のところ作中には人物がおらず、ただ戸口から窓が見えるに過ぎませんが、人影のようなシルエットなど、どことなくジャックの存在の気配が感じられるのではないでしょうか。ちなみに、切り裂きジャック事件にのめり込んでいたシッカートは、この部屋を実際に借りて、制作したそうです。しかも彼は、ジャックの仕業と知られている以外の殺人事件に、関与したのではないかという指摘さえあります。とすれば、画家自体も殺人犯の可能性があるわけです。真相は如何なるものなのでしょうか。


フレデリック=アンリ・ショパン「ポンペイ最後の日」 1834-1850年 プチ・パレ美術館

災害もまた恐怖を喚起させます。紀元79年のヴェスヴィオ火山の噴火を主題にしたのが、フレデリック=アンリ・ショパンの「ポンペイ最後の日」でした。灼熱の炎が空を焦がし、その下で、有毒ガスを避けながら、逃げ惑う老若男女の姿が見えます。神殿は既に大破し、大変な混乱状態だからか、馬車に乗ろうとする人物を殴る男もいました。ロマン主義の時代以降、古代の歴史や神話から災害の情景を求めた画家は、こうしたボンベイの滅亡を多く描きました。かの悲劇がドラマティックに表現されていました。

ラストがハイライトです。チラシ表紙にも掲げられた、縦2.5m、横3mの大作、ポール・ドラローシュの「レディ・ジェーン・グレイの処刑」が、ロンドン・ナショナル・ギャラリーからやって来ました。


ポール・ドラローシュ「レディ・ジェーン・グレイの処刑」 1833年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー

中央で目隠しをされ、純白のドレスを着ては、左手で台を探っているのが、ジェーン・グレイです。いうまでもなく、ヘンリー7世の曾孫で、イングランドの女王の地位につくも、僅か9日間で、対立するメアリ派に囚われ、半年後にロンドン塔で処刑されてしまいます。時に1554年、ジェーン・グレイはまだ16歳でした。

彼女に手を差し伸べるのが司祭で、後ろでは、侍女が悲しみのあまり錯乱し、1人は壁に手をつけて嘆き、もう1人は既に気を失っています。一方、グレイの様子を冷めた目で見やるのが、左手で巨大な斧を握る処刑人でした。まるで表情は伺えず、ほぼ静止しています。さらにグレイの足元には、黒い布と、藁が敷かれていました。このすぐ後、グレイは台に頭を載せられ、処刑されてしまうのでしょう。その血は、白いドレスはおろか、藁や黒い布にも吹き飛ぶに違いありません。実際の処刑は、絵画のように屋内ではなく、戸外で行われたそうですが、緻密な描写にもよるのか、実に臨場感があり、確かに「美しく戦慄的」(解説より)な作品でした。よろめきながら、台を探すグレイの姿を目にすると、恐ろしさと同時に、どことない悲しみも感じるかもしれません。

なおこの作品は、ドラローシュによる発表時、大変な反響を呼ぶも、ロシア人の富豪が購入したため、一度は記憶から遠ざけられてしまいます。その後、1870年に、イギリス人に売却され、1902年にナショナル・ギャラリーへと収蔵、テートで保管されました。しかし、1928年のテムズの洪水により、作品が失われたと考えられてきました。

今から約45年前の1973年、転機が訪れます。当時、行方不明の作品を捜索していた学芸員が、保管庫に放置された作品の中から、「レディ・ジェーン・グレイの処刑」を発見しました。驚くことにほぼ無傷だったそうです。以来、ナショナル・ギャラリーに返還され、迫真の描写から、来場者の人気を集めてきました。日本では初めての公開でもあります。

最後に行列の情報です。会期も中盤に差し掛かり、かなりの混雑となっています。



私が出かけたのは、会期早々、2日目の日曜日の午後でした。15時半頃に美術館の前に到着すると、入口から上野公園へ伸びる列が出来ていました。入館までの待ち時間の案内は70分でした。



そのまま列に加わると、おおよそ50分ほどで入口まで辿り着き、中に入ることが出来ました。しかし館内も大変な人出で、いずれの作品の前も、黒山の人だかりでした。特に版画の前の列は遅々として進まず、一部では圧迫感を覚えるほどでした。もはやゆっくり見ることは困難です。キャパシティーを超えていたのは否めませんでした。


主催者側も一定の対応を始めました。当初、夜間開館の設定がありませんでしたが、10月14日より、土曜のみ、20時までの夜間延長開館が始まりました。また土曜、日曜の開館時間が、1時間早まり(9時開館)、日曜の閉館時間も1時間延長(18時閉館)されました。

「怖い絵/中野京子/角川文庫」

それでも混んでいます。現に、10月30日(月)は、平日にも関わらず、11時の段階で、120分にも及ぶ待ち時間が発生しました。先行した兵庫県立美術館でも話題となった展覧会だけに、今後、より一層、混雑に拍車がかかると思われます。また行列は、ほぼ屋外に続きます。これからは寒さ対策も必要になるかもしれません。ともかく時間と体力に余裕を持ってお出かけ下さい。



今回はグッズも充実していました。中野氏の解説のついた「読めるポストカード」など、定番の商品にも一工夫ありました。混雑必至ではありますが、ショップもお見逃しなきようにおすすめします。



会期中は無休です。12月17日まで開催されています。

追記:11月16日(木)より、毎日20時までの夜間延長開館が決まりました。朝も9時から開館し、同日以降、開館時間は9:00〜20:00となります。


「怖い絵展」@kowaie_ten) 上野の森美術館
会期:10月7日 (土) ~ 12月17日 (日)
休館:会期中無休。
時間:10:00~17:00
 *11月16日(木)より毎日9:00〜20:00
 *入場は閉館30分前まで。
料金:一般・大学・高校生1200円、中学生以下無料。
住所:台東区上野公園1-2
交通:JR線上野駅公園口より徒歩3分。東京メトロ銀座線・日比谷線上野駅徒歩5分。京成線京成上野駅徒歩5分。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )