『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

絵葉書で宮島ぶらり⑦-宮島ホテル

2023年09月05日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

 

 

 

昨日紹介したみかどホテルは明治44年(1911)12月に組織・名称を変更して宮島ホテルとなり、みかどホテル時の洋館部を主に使用していたが大正4年(1915)に焼失した。原爆ドームを設計したヤン・レツルが大正6年(1917)に擬和風の木造4階建洋館を設計し建築されている。戦後宮島ホテルはBCOF(英連邦占領軍)に接収(下画像-呉の歩みⅡより)されていたが昭和28年(1953)に焼失した。
当ブログ主が小学生の頃、遠足で大元公園へ訪れた際に現在の「みやじま 杜の宿」がある地に宮島ホテルの焼失残骸があったのを記憶しているのである。

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絵葉書で宮島ぶらり⑥-みかどホテル

2023年09月04日 | 「宮島地区」ぶらり

 

昨日紹介した白雲洞は明治39年(1906)に神戸のミカドに買収されて白雲洞は和館部とされ、洋館部として画像の建物が建築されたようである。明治44年(1911)12月みかどホテルの組織・名称を変更して宮島ホテルが創立されたようである。厳島写真帖(明治42年発行)によると「・・・みかどホテルといふ大旅館ありて外国人の宿泊に供する古風の建物は大元川を前面に最も眺望よき所に建ちて居ります・・・」とある。

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絵葉書で宮島ぶらり⑤-白雲洞

2023年09月03日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

 

 

明治末期ごろ大元公園にあった旅館の白雲洞で絵葉書画像と明治34年(1901)発行の山陽鉄道案内の広告、明治35年(1902)発行の嚴島名所絵図である。画像を見ると大元川沿いに建てられていたようであり、厳島写真帖(明治38年発行)によると「大元川は・・・白雲洞の西側を抄めて海にそそぐ・・・奇橋亭榭この間に散在して趣を添へ、以て東西の遊客を迎るものを旅館白雲洞とす」とある。料亭旅館の白雲洞は明治中頃に当町の住人能美庄五郎が開業し、明治39年(1906)に神戸のミカドに買収されたようである。

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絵葉書で宮島ぶらり④-杉の浦海水浴場

2023年09月02日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

 

かつて杉の浦の海水浴場にあった茅葺2階建ての片山旅館で、現在の宮島シーサイドホテルがある付近にあったものであろうか。当ブログ主が小学校5年生の頃に臨海学校で杉の浦海水浴場を訪れたことをかすかに覚えているのである。

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絵葉書で宮島ぶらり③-當川旅館

2023年08月17日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

昨日紹介した紅葉谷を流れる御手洗川沿いあった當川旅館で江戸期の終わりころに岩惣旅館と川の上に納涼床を設けていたようである。當川旅館については明治34年(1901)発行の山陽鉄道案内の広告にみられる以外に詳しいことは定かでない。

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宮島-紅葉谷納涼

2023年08月16日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

毎日暑い日が続いていますが、江戸期末刊行の厳島図会によると紅葉谷を流れる御手洗川沿いの旅館などが川の上に納涼床を設けていたようで、涼を求める人々が芸者を挙げ料理を食したり川の中に入って涼を求めていたようである。

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絵葉書で宮島ぶらり②-厳島港商船桟橋

2023年08月15日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

 

宮島にある広島経済大学成風館の地はかつての厳島港商船桟橋の跡であったことを以前に紹介したことがある。2016.12.262022.10.30

大阪商船の宮島遊覧パンフレットをみると山陽航路で阪神から門司航路の途中宮島に寄港、宮島遊覧船の屋島丸は阪神から宮島寄港、岩国へ、宇品別府線が宮島寄港していたようである。また、瀬戸内商船の時刻表によると多度津・宮島線の一便があったようである。

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絵葉書で宮島ぶらり

2023年07月04日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

 

明治末期ごろの厳島桟橋と待合所の絵葉書画像で連絡船の厳島丸がみられる。厳島丸は明治38年(1905)に就航しており絵葉書には明治45年(1912)の消印があるので、この絵葉書は明治40年頃の様子を表しているものとみられる。

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室浜砲台跡

2023年03月25日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

 

 

 

昨日紹介したかつての新開鼻灯台は大野瀬戸の最狭部に設置されていたのであるが、この最狭部には日露戦争時に広島湾要塞の一環として厳島の室浜に室浜砲台が設置されていた。室浜砲台跡は広島大学理学部付属自然植物園内に残されている。

※ 昨日、当ブログを開設してからトータル訪問者数150万UUの大きな節目を迎えることができました。当ブログは老化防止のために見たままを記した万人受けするものではありませんが、多くの方々に御来訪して頂き大いに励みとなっております。可能な限り継続していきますので御来訪して頂きますようお願い致します。

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厳島合戦関連石碑

2023年01月18日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

 

厳島合戦図

宮島でみられる厳島合戦に関する石碑を紹介しよう。上画像は包ケ浦自然公園入口に建立されている「毛利元就上陸之跡」碑で昭和16年(1941)3月に建立、中画像は高安ケ原にある「陶晴賢敗死之所」碑で大正10年(1921)8月10日に建立されている。下画像は大元公園にあり通称「血仏」と称されているが供養塔で明暦4年(1658)7月14日に建立されている。

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厳島神社大鳥居

2023年01月13日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

 

修復なった大鳥居を見ながら厳島神社に向かい初参りして弥山に初登山をした。修復なった現在の鳥居は明治8年(1875)に建立されたようである。下画像の大鳥居絵図は享和元年(1801)に棟上げされた先代大鳥居の各部の寸法などが表されたものである。

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皇太子殿下行啓記念碑

2022年11月08日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

 

宮島桟橋前広場から厳島神社方面に向かって商店街の手前で宮尾城跡への石段脇にある皇太子殿下行啓記念碑で良く見ないと自然石と見間違える。この場所は元連絡船乗場の正面であった。
皇太子殿下裕仁親王(後の昭和天皇)は、大正15年(1926)5月岡山、広島、山口三県を行啓、27日午後2時14分に呉軍港から御召艦の軍艦長門で宮島沖に着き厳島神社を参詣された。参詣後に帰艦して軽装にて弥山に登山し御山神社に参詣され、山頂から展望後午後6時48分に帰艦された。分単位の行啓日程表には弥山登山は記されていないのである。当日は御召艦長門に宿泊され翌日宮島駅から御召列車で岩国駅に向かわれた。

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荒胡子神社の鰐口・鰐口釜

2022年11月06日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

 

五重塔下にある荒胡子神社で江戸期の芸藩通志に「永正十二年に鋳たる鰐口、昔は社に懸けしや、今は本願金剛院にあり」とあり、通史の刊行された文政8年(1825)頃には鰐口が金剛院に架けられていたようであるが金剛院も鰐口も無くなっている。

ところが芸藩通志に古器図として年号は異なっているがこの鰐口を模したと思われる鰐口釜が掲載されており銘文に「奉寄進 鰐口 嚴嶋荒夷御寳前 永正十七年庚辰正月吉日 施主 廿日市」とある。銘文には施主廿日市とあるので廿日市の有力町人が廿日市鋳物師に依頼して鰐口を永正17年(1520)に鋳造・寄進したようである。茶道が盛んになった頃に廿日市鋳物師によりこの鰐口を模して鰐口釜が作られたものと思われる。

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大束富くじ場跡碑

2022年11月04日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

 

上西蓮町を散策していると市営住宅西蓮コーポに向かう三叉路角に大束富くじ場跡碑が建立されている。絵図にみられるように江戸期の人々が夢を買う大束入札場所がこの付近にあった。富座で求めた諸口の合鑑(相鑑)紙と木駒に同一の番号、口名や思い思いの文句を書いて、合鑑紙は加入者が保管しており、木駒は桶に入れて指定期日に桶の小穴より木駒を突いて当り籤を決定していた。
芸藩では富くじは禁制であったので宮島特産の大束(薪)の入札という名目としていたようである。(絵図:宮島歌舞伎年代記より)

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H型PC電柱

2022年11月03日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

下西蓮町を散策していると見たことが無いようなゴツイ電柱があった。通常の電柱はPCポールであるがこの電柱はH型のPCポールであった。電柱には銘板が取り付けられておりこのH型PCポールは昭和42年(1967)7月に極東工業㈱で製造されたようである。(関連-コンクリート電柱

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