時折り広島はつかいち大橋の下り線側橋脚の工事進捗状況を紹介しているが、現在広島側の橋脚3基は完了しているようであり、現在廿日市側2基の海中部分は終わって海上部分の橋脚工事が行われているようである。看板表示によると令和4年3月31日までが工期のようであり、この路線の正式名称は国際拠点港湾広島港臨港道路廿日市草津線というようである。
時折り広島はつかいち大橋の下り線側橋脚の工事進捗状況を紹介しているが、現在広島側の橋脚3基は完了しているようであり、現在廿日市側2基の海中部分は終わって海上部分の橋脚工事が行われているようである。看板表示によると令和4年3月31日までが工期のようであり、この路線の正式名称は国際拠点港湾広島港臨港道路廿日市草津線というようである。
物入れの片隅に懐かしい計算尺があった。上画像は学生時代に初めて習った時のもので目盛りの間隔が広く概算計算程度のものである。ケースには「Relay BAMBOO SLIDE RULE R-801」とある。中画像と下画像の計算尺は電卓が登場するまで技術計算をしていた時に使用していたものである。ケースなどには「SUN HEMMI Bamboo Slide Rule №.2664S」「技研 №.2525」とある。
6月14日に畑に植え付けた陸稲を昨日刈り取り軒下に吊り下げた。(画像左側)一昨日紹介した背の低い黒米(画像中央)にくらべても茎の長さが短く肥料不足だったのだろうか???
広電の宮島口駅の移設工事の進捗状況を時折り紹介しているが、斬新な駅舎の上屋の中ではレール敷設の準備工事中であろうか。手前にはカーブしたレールが一部敷設されていた。大規模の立体駐車場では金属音が聞こえる工事が行われていた。工期の2023年3月31日に向けて工事が進められているようである。
道の駅で求めた黒米・赤米の玄米を蒔いて苗を育て6月14日にそれぞれ約2㎡田植えをして一昨日刈り取りをした。うるち米、タンチョウモチと迷わないよう軒下に干した。画像右側の赤米は茎が長く柔らかいのですべて倒れていた。
速谷神社の鳥居建替えについて時折り紹介しているが、防護シートで覆われていたので工事の進捗状況は伺い知ることが出来なかった。昨日防護シート、足場が取り除かれて新しい鳥居が姿を現した。これから周辺整備が行われて11月1日に「鳥居くぐり初め式」が行われるようである。
ウォーキング途中の原地区でみられる民家土蔵の下壁にみられる持合輪違文のなまこ壁である。このようななまこ壁は珍しいものであるが画像のような状態であり先行きが危惧されるのである。
ウォーキング途中にみられる民家の土蔵で、遠くから見ると壁下部分はなまこ壁かと思ってしまう。近づいてみると塗壁仕上げで、斜め格子状に白モルタルで化粧仕上げとしてあった。通常よく見るなまこ壁は漆喰で盛り上がったなまこ形にして斜め格子状に仕上げてある。
当ブログ主が中学高学年の頃に制作した5級スーパー3バンドのラジオが物入れの隅にあった。ラジオ少年仲間と広島市内紙屋町の第一産業(現エディオン本店)や的場町の鯉城無線などに、自転車で小銭を握ってラジオ部品を買いに行っていたことが思い出される。ボロ自転車でよくも行ったものである。
ウォーキング途中にある民家納屋の軒下に懐かしいネコ車が立てかけてあった。下画像は親が曲がり木を二つ割にして作っていたもので、かつて農作業や山作業の運搬に使用していたものである。古い時代は木製の車で鉄製の輪をはめたものであったがこのネコ車はゴムタイヤであった。
中津谷にある専立寺は江戸期の地誌によると妙福寺という禅寺であったようで、永禄3年(1560)に真宗に改宗し寺号を専立寺と改めたようである。石州益田の城主越中守が石州往還を通行の際には専立寺に宿泊していたとのことであり、石州には五ケ寺の末寺があったようである。
原地区をウォーキングしていたら田んぼの中に懐かしいかかしが立てられていた。「かかし祭り」などと称したかかし作品のコンテストなどでは見ることがあるが田んぼの中にあるのは久しぶりに見た。一時期佐伯町並みで多く見られたことがあったが・・・
秋祭りが近くなって原地区の伊勢神社参道や境内に沢山の幟が立てられており、集落毎にも幟が立てられていた。速谷神社では12日に例祭(阿岐祭)は斎行されるがコロナ禍、奉納神楽、神輿渡御、子供神輿奉納などの行事は中止される。奉納神楽、神輿渡御、子供神輿奉納などが秋祭りと思われているのだろうかどこも幟が立てられていないようであるが・・・
中津谷地区にある吉和小学校上分教場跡で昭和39年(1964)に廃止となったようである。現在跡地には廿日市市消防団第10分団第2班車庫・消防格納庫、第二集会所、コミュニティよしわ吉和げんき村、吉和村漁業協同組合などの施設が建てられている。