和歌山県串本町の紀伊半島南端部にある潮岬灯台は我が国最初の洋式木造灯台であった。この灯台も先に紹介した角島灯台、六連島灯台、樫野崎灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治6年9月15日初点灯している。その後石造に改築され明治11年4月15日に再点灯しているようである。元吏員退息所は灯台資料展示室となっている。(2016.02.16探訪)
和歌山県串本町の紀伊半島南端部にある潮岬灯台は我が国最初の洋式木造灯台であった。この灯台も先に紹介した角島灯台、六連島灯台、樫野崎灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治6年9月15日初点灯している。その後石造に改築され明治11年4月15日に再点灯しているようである。元吏員退息所は灯台資料展示室となっている。(2016.02.16探訪)
昨日、平良丘陵開発予定地内の広池地区を通っていると山林の木が伐採されており、他のケ所でも作業が行われて開発工事が始まっているようである。伐採地付近は地図を見ると新幹線五日市トンネルが通っている付近のようである。
田んぼの水廻りを兼ねての早朝ウォーキングで足を延ばして速谷神社に参詣している。現在、創建1800年記念事業の一環として社殿周囲に巡らされている板玉垣が老朽化しているために建て替えの工事が行われていた。
和歌山県串本町の紀伊大島にある樫野崎灯台で、この灯台も角島灯台、六連島灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治3年(1870)6月10日初点灯のようである。当初の灯台は低いものであったため昭和29年(1954)に継ぎ足し工事が行われたようである。この灯台も半円形貯納庫がみられ上部に展望台が増設されている。吏員退息所は国登録有形文化財に指定されており資料館となっている。(2016.02.16探訪)
下関市六連島にある六連島灯台で角島灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治4年(1871)11月21日初点灯のようである。石造の灯台で角島灯台に比べ低い灯台で半円形貯納庫は同じような形状である。吏員退息所や倉庫は取り壊されており灯台のみとなっている。(2019.04.04探訪)
元吏員退息所
クヅ瀬照射灯
元気象観測舎
角島灯台は角島大橋が開通した時以来の探訪で、灯台周辺には元吏員退息所、元倉庫、クヅ瀬照射灯、元気象観測舎などがある。明治政府は洋式灯台の有効性を強く意識し、英国人技師R.H.ブラントンを招聘して各所の灯台を設置しており、角島灯台は明治6年(1873)8月に起工して明治8年(1875)12月に灯台、吏員退息所、倉庫などが竣工している。
吏員退息所は創建当時の復元工事が行われて現在は灯台記念館として使用されている。クヅ瀬照射灯は沖合の国石岩礁上の標柱を照らす装置で灯台上部に併設されていたが、昭和47年(1972)3月に現施設が設置されたようである。旧角島灯台気象観測舎は昭和18年(1943)から昭和39年(1964)まで使用されていたようである。(吏員退息所関連-阿多田島灯台資料館)
地域のOLD倶楽部の人達と北長門方面を旅行した。角島大橋が開通した時に訪れて以来の久しぶりに訪れた。龍宮の潮吹きは遥か昔に訪れたが現在は元乃隅神社が祀られてすっかり様子がかわっていた。ずらりと並んだ赤い鳥居の景観はインスタ映えするとのことだろうか多くの人達がみられ、なんと岐阜県から観光バスがやってきていた。
田植えをしたばかりの田んぼにカモのつがいがやって来た。カモが水中をかき乱すので植えたばかりの苗が浮かないかと心配で追い払いたいところであるが・・・
ブログのネタ切れ気味なので我慢して撮影をしていたらどこかに飛び去って行った。
ウォーキング途中の田んぼの荒れ地に見たことが無いような小さなキキョウに似たような花があった。ネットで調べてみると北アメリカ原産の帰化植物のキキョウソウのようである。別名はダンダンギキョウ(段々桔梗)というようで、この葉の付きかたから付いた名前のようである。
廿日市18代目桜島大根(上画像)と廿日市8代目切葉松本地大根(下画像)の種が実ったので昨日採取した。この種で次のシーズンには廿日市19代目桜島大根と廿日市9代目切葉松本地大根を栽培する予定である。近接して栽培しているので桜島大根の影響なのか切葉松本地大根の特徴が全くないようなものになっているのである。桜島大根も廿日市18世桜島大根となっているのである。
天満神社の玉垣
正覚院の石燈籠
佐方八幡神社の狛犬
佐方八幡神社の石燈籠
御船屋敷には元文元年(1736)頃に93人の家中が居住しており、市域の寺院には船屋敷関係者の墓碑が多くみられる。また家中の田原小左衛門は天満神社の玉垣、正覚院の石燈籠、佐方八幡神社の狛犬を寄進し、堀田仁助藤原泉〇は佐方八幡神社の石燈籠を寄進しており、船屋敷の人々は廿日市町人の生活の中に融合していたようである。
津和野藩主の亀井家は江戸時代大名の重要な勤めであった参勤交代などの往来に際し津和野街道を東上して廿日市に宿泊しここから海路をとっていた。この中継居留地が津和野藩御船屋敷(廿日市下屋敷)であったが御船屋敷の遺構は残されていない。
昨年までは御船屋敷跡に津和野太鼓谷稲荷神社を勧請して祀られていた稲生神社があったが現在は天満神社境内社の稲荷神社に合祀されている。唯一定かでないが御船屋敷時代のものではないかと思われる井戸が某所に残されている。(井戸画像-昭和後期に撮影) 「廿日市の文化第19集 津和野藩御船屋敷(屋敷位置復原の試み)参照」
中央市民センターの掲示板に津和野街道交流記念事業のパンフレットが掲示してあり、今月11日に厳島神社の平舞台で津和野弥栄神社の鷺舞が奉納されるようである。鷺舞の画像は平成29年(2017)7月20日に津和野町の殿町通りで舞っている鷺舞である。
廿日市町絵図
芸州吉田行程記
中央市民センター横の四辻角が更地となっていた。かつて旧西国街道沿いの四辻角には胡堂(廿日市絵図)、市戎(芸州吉田行程記)があったが、近代に新港町に移され現在は天満神社境内に祀られている。中世、ここの四辻付近では市場が形成され商業の神として市戎が祀られ20日の御開帳の日の市が著名となり廿日市地名の起源となったものと思われるのである。(「廿日市」地名の起源について)
鳥取県日野町の下榎に祀られている厳島神社で、伯耆志によると祭神は田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命で、長谷部信連の子孫が安芸佐伯郡の厳島神社を勧請したとあり、応永9年(1402)、応仁元年(1467)、大永3年(1523)の棟札なども記されているので中世から祀られていたものとみられるのである。