原地区の橋本にあった西家では明治中期頃から大正8年(1919)頃まで醤油醸造をされており、当時の名残りの看板や計量升、帳簿、醤油甕などの用具類が残されていた。大正9年(1920)にこの地域の醤油醸造業者が統合して可愛に芸陽醤油が設立されており、これを裏付けるように原村の醤油製造高が大正8年の200石から同10年には14石に大幅に減少しているのである。現在この古民家では「古民家Cafeはらの輪」が開かれている。
原地区の橋本にあった西家では明治中期頃から大正8年(1919)頃まで醤油醸造をされており、当時の名残りの看板や計量升、帳簿、醤油甕などの用具類が残されていた。大正9年(1920)にこの地域の醤油醸造業者が統合して可愛に芸陽醤油が設立されており、これを裏付けるように原村の醤油製造高が大正8年の200石から同10年には14石に大幅に減少しているのである。現在この古民家では「古民家Cafeはらの輪」が開かれている。
昨日紹介した地には以前にも紹介した日の出醤油醸造元の東合資会社があったところである。東合資会社は大正11年(1922)5月に創立しており広島支店、呉支店もあったようであり、全国工場通覧よると慶応元年(1865)4月に醤油醸造を始めたようである。昭和25年(2013)~29年(2017)頃の商工案内地図に東醤油工場がみられるが昭和30年代に廃業されたようである。
物入れの中に廿日市でのスーパーのはしりであったと思われる昭和30年代後期頃のミツバのチラシがあった。須賀町にあったとみられるミツバがいつ閉店したのかは不明である。同じ場所と思われる所に昭和44年(1969)スーパーマルシンが開店している。現在この地にはマンションが建っている。
山陽自動車道の速谷高架橋で上平良交差点脇の高架橋ジョイント部分に何の樹木であろうか今年も緑の葉がみられる。高架道路の雨がジョイント部に流れて育っているようであるが、数ケ年真夏の水分が無い時期を耐えて育っているど根性樹木である。
平良丘陵開発予定地内で先日紹介した部分の周辺部分が、広範囲に掘削工事が行われていた。計画図の主に工業系とある部分になるのであろうか。看板表示によると広池地区を通っている市道の広池、群塚、小野線が8月1日から通行止めとなるようである。
昨年孫達にと思って植えていたスイカのすべてと黒ウリの多くをアナグマに食べられたことを紹介したことがある。今年はと上画像のように防護したがどこから入ったか4ケも食べられてしまった。家の隣接畑では猿の群れがやってきて被害甚大。再防護でスイカ畑と黒ウリ畑の周囲に波板鉄板を張り巡らせたが、ほかにも強力な自衛策を講じなくては・・・
極楽寺山への自動車道でさくらの里入口手前の道路脇に氷河礫層があることを知っている人はほとんどいないのではなかろうか。かつては上画像のように氷河礫層が露出していたが次第に雑木が茂って現在は看板も見えなくなっている。当ブログ主が氷河礫層とは知らない頃になぜ山の上に玉石があるのだろうかと思ったことがあったのであるが・・・(極楽寺山々頂の古第四紀の氷河礫層-廿日市の文化第11・12集参照)(上画像-佐伯郡・大竹市の文化財より)
蛇の池周回路脇にある何の木であろうか大きな木が枯れ木となっていた。木にはテープでマーキングされており伐採されるのであろうか。枯れ木の上部にはくそナバがびっしりと生えていた。当ブログ主は名前が分からないきのこはくそナバと称しているのであるが・・・
当ブログ主が子供の頃には蛇の池の堰堤西端の山際で現在道路となっている部分に蛇の池弁財天が祀られていた。祭神は天之水分神、国之水分神、闇於加美神という。蛇の池の公園化整備で周回路東側に移転されていたがお参りやお世話をする人もなく昭和後期頃(上画像)から朽ち始め現在は礎石のみとなっている。
梅雨の中休みの昨日極楽寺山にある蛇の池を探訪、池では大蛇でなく錦鯉や亀が出迎えてくれた。池全面にピンクや白など色とりどりの睡蓮が咲いているが例年よりは少し少ないように思われたが・・・ 池の周りでは絵を描くグループの人達が多くみられた。
田んぼの苗は順調に育っており、以前はカモのつがいが来ていたが今朝はサギのつがいであろうか田んぼにやってきていた。田んぼの中のオタマジャクシなどを食べているのであろうか、しかしほどなく他所に飛び立っていった。
昨日の中国新聞一面に広島市南区皆実町に残されている旧陸軍被服支廠の建物が、文化財指定への方向性が示されたと報道されており本日も関連報道されていた。ネタ切れ気味なので過去に旧陸軍被服支廠を訪れたときの画像を紹介いたします。内部画像は建築士会が催した見学会の際に撮影したものである。(1989.10.13撮影)(1998.7.30撮影)
明治末期ごろの厳島桟橋と待合所の絵葉書画像で連絡船の厳島丸がみられる。厳島丸は明治38年(1905)に就航しており絵葉書には明治45年(1912)の消印があるので、この絵葉書は明治40年頃の様子を表しているものとみられる。
七尾中学校アートの同窓会と題して第5回「七美会展」が7月19日(水)から23日(日)まで、はつかいち美術ギャラリー第3展示室で開催展示されます。恩師の先生をはじめプロで活躍されている方からど素人(当ブログ主)などが出品する楽しい作品展になりそうなので是非足をお運びご覧になってください。
鳥取県日南町丸山に祀られている厳島神社であるが明治維新時の地誌伯耆志には当神社の記載はみられない。しかし狛犬には天保12年(1841)と、燈籠には文政5年(1822)の刻銘がみられるので江戸期には祀られていたが創建については定かでない。(2018.04.15撮影)