一昨日紹介した旧平良小学校の講堂写真を見ると2階建て校舎からの渡り廊下がみられる。当ブログ主が通った平良小学校や七尾中学校では校舎間を渡り廊下で繋いでいた。渡り廊下は屋根付きのコンクリート土間で下画像のようなサンジキが並べてあった。その上を通って移動をしていたがいま時サンジキが分かる人は少ないのではなかろうか。
一昨日紹介した旧平良小学校の講堂写真を見ると2階建て校舎からの渡り廊下がみられる。当ブログ主が通った平良小学校や七尾中学校では校舎間を渡り廊下で繋いでいた。渡り廊下は屋根付きのコンクリート土間で下画像のようなサンジキが並べてあった。その上を通って移動をしていたがいま時サンジキが分かる人は少ないのではなかろうか。
昨日紹介した元平良村役場があった所から旧県道(旧速谷神社参道・旧バス道)に向かう道(現在第一群塚線)で可愛川に架かる橋が中央橋と呼称されている。(現在も?)仮設の橋のようであるが中央橋とあるのは旧平良村役場に向かう橋であり、役場に近い橋であったので中央と名付けられたものと思われるのである。
屋内運動場(体育館)
講堂
旧平良村役場庁舎
昨日紹介した街区公園の場所には平良小学校の屋内運動場(体育館)があったが、小学校の移転後は平良体育館として使用されていた。当ブログ主が小学生の頃に木造講堂が建築され、隣接して旧平良村役場庁舎の建物が残っていたのを覚えている。かつてこの地は平良村の中心地であった。
以前に元平良体育館が取り壊されていることを紹介したことがあるが、現在表題のように表示した看板があり公園の工事が行われていた。工事が完成すると公園名が付けられるものとみられる。
以前にも紹介した真宗寺院である立善寺の経堂に残されている不動明王立像・天部立像は、昨日紹介した禅宗であったとみられる円光寺に祀られていたものとみられている。この不動明王立像・天部立像共に県の重要文化財に指定されている。
立善寺
ウォーキング途中にある「ふれあいライフ原」特養老健棟の下側に墓地がみられるがこの付近に円光寺があったようである。(絵図の赤丸ケ所)江戸期の地誌によると円光寺は慶長頃に退転して真宗に改宗し立善寺を開基したようである。現在整備されている墓地は円光寺の名残りのようである。
物入れの片隅に令和の中頃に購入したGARMIN geko201があった。当時は日本語表示のものはなく、解説書も英文でありどのように操作すればよいのか分からなかった。いろいろと操作していると何となく分かるようになったので宮島の御床山先の砲台跡(当時は資料のインターネット検索が出来なかったので砲台跡と思っていた)での遺構の位置を確認するために使用したのである。(嚴島聴測照射所)
ウォーキング途中の原地区にある立善寺本堂の懸魚で屋根勾配があるので今まで紹介した民家のものより形状が異なる。下画像は上平良地区の西蓮寺本堂の懸魚で平成12年(2000)頃に屋根修復された時に作成された懸魚のようである。
原地区をウォーキングしていると元建築会社の作業場の壁に懸魚が架けられていた。(上画像)亡くなった当主の先代が建築した民家に取り付けてあったもののようであり、当時は大工さんが懸魚も制作していたようである。この懸魚と同じものがある民家がみられるのでこの大工さんが建築されたものとみられる。
ウォーキング途中の原地区でみかけた民家の両妻に設けられた懸魚である。中央に六葉紋があるもので今迄に紹介した懸魚に比べて簡素なものである。懸魚は通常棟木の鼻隠しの役と共に妻飾りとして設けられているものである。
昨日、速谷神社において節分祭で湯立神事や鬼遣(おにやらい)儀式などが行われた。速谷神社の湯立については厳島野坂文書の毛利隆元書状に「早田社江立願之事、御湯立七年可進之由得其心候、即従今月可遂其節候」とあり、毛利隆元が早田社(速谷神社)の湯立を七年に亘り今月より執り行うよう寄進をしている。斎館の神楽殿前では年男・年女の人々により豆撒き・餅撒きが行われて、参詣者に御久米が配られた。
先日紹介した権現山頂にある倒壊しそうな祠の脇にある檜とクヌギの木であろうか樹木がくっつきあって連理木のようであるが、このような状態は連理木というのであろうか・・・
上平良地区の最上流部にある河野原溜め池で流入水量が少ないために水位が少し低いようである。この溜池は昭和16年(1941)に流域23戸の田んぼ面積に応じて工事出資金を出し合って築造されたものである。当ブログ主が子供の頃この溜池で丸太を浮代わりにして泳ぎが出来るようになったところである。遥か昔の話。
権現山の山頂から少し下った登山道脇に石積みがありその上は平坦地となっている。なぜこのような場所に平坦地を造っているのかと以前に登山した時から疑問に思っていた。ところがこの石積みの平坦地は以前紹介した極楽寺山の幕末の砲台跡と同じ遺構とみられるのである。
佐伯郡誌に「(芸藩小姓組番頭本田)庫人は峠村権現山下に砲臺を築き・・・」とあり権現山下の遺構はこの砲臺に相当するものとみられ、後畑御台場の例からみるとここにも陣小屋や篝焚小屋などと木炮が設置されていたものと思われる。