阿蘇中岳火口を訪れたのは何十年ぶりであろうか。現在はシャトルバスで火口まで訪れるのであるが以前はロープウェイで登っていた。阿蘇山ロープウェイ仮事務所と表示された建物があった。ロープウェイがあった名残りが表示として残されていた。
先日、サントリーの熊本・阿蘇ビール工場を見物したことを紹介したが、当工場は阿蘇山からの天然水を使用して製造されており、天然水のビール工場と称されている。工場内はオートメ化されており、作業をする人影は一部でみられるのみであった。
ビールには関係ないがサントリーの前身である寿屋時代のTORYSの空瓶が物入の中にあった。(下画像)
原地区の川末側と泉水峠側から林道工事が行われていることは以前にも紹介したが、山中の工事であり進捗状況は定かでなく現在の遠望画像である。
県道294号虫道廿日市線の険道区間が林道として建設整備されているようである。
若い頃に北九州の窯元を訪れた時に記念に求めたもので、福岡県田川郡赤池町(現福智町)上野皿山にある上野焼は遠州七窯の一と言われ三窯元を巡ったように記憶している。この茶碗は高鶴窯の高鶴夏山の作品である。
公共工事に伴って取り壊された土蔵に設けられていた龍と弁財天が表されている蔵飾りで、取り壊しの際に蔵飾り部分を切り取っておられた。
他の場所に新築された物置の妻壁面にこの蔵飾りが復元設置され彩色も施されている。
通常鏝絵と称されているが当ブログ主は蔵に設けられているものは蔵飾りと称している。
岩国市錦町宇佐にある宇佐神社本殿脇に祀られている境内社で厳島大明神夏焼社と表示してある。江戸期の地誌によると夏焼地区に中御前社がみられ、祭神は市杵島姫命、祭日が6月17日とある。明治期に中御前社と他二社とが合祀し夏焼社と改号し、いつの時代かに境内社として祀られ厳島大明神夏焼社と称されるようになったようである。
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。
広島市東区山根町にある国前寺の鐘楼に架けられている梵鐘で、刻銘によると元禄7年(1694)に山田治右エ門が鋳造している。この梵鐘も喚鐘と同じ山田貞栄が鋳造している。
この梵鐘は鐘楼内に架けられており常時見ることが出来ない。画像は見学会が催された時のものである。
田んぼの稲は穂が実りつつあるが、畑に植えた陸稲と陸植え2代目黒米の現在である。陸稲の背丈は低いが穂が出つつある。上画像の左側の陸植え2代目黒米は背丈も低く稲穂は出ないかもしれない。黒米は水田に植えるものだ。
早朝ウォーキングで宮島サービスエリアに行き平良丘陵開発地を遠望すると、以前に仮設建物のようなものが築造されていると紹介したことがある。仮設の足場状の所にディスプレイが設置されており何かの画像が放映されていた。早朝の用地内で誰もいないところで (?_?)
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。
広島市東区山根町にある国前寺の庫裡に架けられている喚鐘で、刻銘によると元禄7年(1694)に山田治右衛門藤原貞栄が鋳造している。
この喚鐘は庫裡内に架けられており常時見ることが出来ない。画像は見学会が催された時のものである。
吉野山に設置されている中電の高圧線鉄塔(画像向こう側)が移設されることを以前に紹介したが、現在画像の手前側に見える掘削機があるところで基礎工事がおこなわれているものとみられる。
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。
岩国市美和歴史民俗資料館に展示されている生見の鉄燈籠で、以前に訪れた時は美和町生見中村の覆屋の中に設置されておりその時に作図した。
当時は鉄燈籠の腐食が激しかったが後に修復されて歴史民俗資料館に展示されるようになった。腐食が進んで鉄燈籠の鋳出銘文は見えないが、江戸期の地誌に「天文十五丙午八月吉日 廿日市之住 大工綱家」とあり、天文15年 (1546)に廿日市鋳物師の久枝綱家が鋳造したことがわかる。(覆屋鉄燈籠画像―山口県文化財要録より)
台風一過、早朝ウォーキング途中で原小学校プール脇の原低区配水池工事現場では配水タンクの設置工事中であった。また川末川に架かる下ケ原橋からここの場所までの道路にはアスファルトの切断がされていたので給水パイプの埋設工事が行われるのであろう。