楽 |
天とユニクロが発表した社内の公用語を英語にする決定が関心をもたれている。ビジネス上の決定ならとやかく言うべきではない、と思う。会社の勝手でしょうと。投資するか否か経営上の意思決定と同じだ。記者会見で社内に違和感の声があるとの質問があったが、ピント外れだ。立派な記者もいるが、この手の質問は揉め事を嗅ぎ回るハイエナみたいだ。
昨今の工場ごと海外に移転するニュースが相次ぐ状況こそ最優先で質問すべきことのはずだ。英語を公用語化してもまだ日本での雇用の機会があるが、海外に移転したら一部の管理者以外は雇用機会が消滅する。そっちの方が余ほど大問題、日本のメディアは相変わらず感度が悪い。
とは言っても、内向き志向で海外に行きたがらないといわれている最近の若者が不安になる気持ちは理解できる。既得権を失うかもしれないと年配の幹部も心配かもしれない。もっと不安なのは日本語で質問できなくなる記者なのかもしれないが。どうしても嫌なら楽天とかユニクロ以外のところで働けばいい。英語を公用語にするなどこれっぽっちも考えてない会社がゴマンとある。
だが、その前に英語公用語化といわれてビビる必要は全くないと私は言いたい。私のつたない経験からいうと、余り言葉を気にせず自分の中身を磨くことの方が余ほど重要である。英語は苦手という方に、言葉は何とかなるという私の経験を紹介したい。
日 |
本人同士だけの会話まで英語でやる必要はないと私は思う。しかし、プライベートでも外国人が混じると英語で会話した方がいい。必要ならば文法など気にせず堂々と自分の思いを伝え、相手(の言いたいこと)を知りたい気持ちを示すことだ。それが伝われば、英語は使っているうちに何とかなるものだ。下手だと謝る必要もない。言葉は度胸と気合だ。
私が米国に赴任して働き始めた時、単語だけを並べたような酷い英語を喋っていると周りの日本人同僚は思ったそうだ。あれでよく通じると。行きつけのレストランのウェイトレスは、最初私が何を言っているか分からず、これでやっていけるかと心配したと後年教えてくれた。
そこまで心配された私だが、銀行口座を開き、免許証を取り、車を買ったし、仕事も何とかこなした。単身バドミントンクラブに加わり州大会に参加、職工とソフトボールの市内大会にも出た。英語が下手と分かれば大抵は相手が合わせてくれた。ビジネスは英語が出来るか否かに関らず初日から結果を出さねばならない。英語が文法通りとか流暢かどうかなど関係ないのである。
意見が異なれば部屋のドアを閉めて、米人上司と激しくやりあったことも何度かある。それが部下を守ることならスタンドプレー気味にやった。チャレンジされたり見下げられたりしたら、英語ができないからといって曖昧な笑いでごまかして引き下がったりしなかった。言葉どころか全人格的な侮りを受けることになるからだ。守るべき一線はここだ。日本で仕事する時も同じではないだろうか。
英 |
語以前に重要なのは自分の考えが論理的に明確でなければならない。当時日本の上司から口を酸っぱくして教えられたのは、自分の考えを相手に理解させるには、相手の論理で自分の主張を論じ納得させることだ。英語は流暢でもこれが出来なく苦労している人もいた。現地の米国人もすぐに見抜く。そういう人は結局日本にいても苦労しているのではないだろうか。
とはいったものの、しっかりした論理は必須としてもコミュニケーションを促進する為には、文化的背景を理解したチョットした工夫が助けになる。最後まで聞かなければ何を言いたいか分からない直訳的英語は逆効果だ。実は当時私が最も気を使ったのは、会話の「間」が日本と海外では違ったことだ。
会議で問いかけられ一瞬沈黙して応える「間」が日本は長く、彼等は一様に内心苛立ちを抑え待っている。ビジネスの場なら待つが、日常会話の中では話したくないと思われ、相手が気遣って話題を変えたりすることもある。当時は文法など気にしない私のメチャクチャ英語が間髪をいれず返ってきて、相手は聞いてくれているという安心感を与えて会話が続いたのではないかと思う。
お陰で度胸だけは国際レベルになったかも。米国人が好ましいと思うやり方は小説や映画を見て参考にしたものもある。例えば、仕事上の意見を聞かれ、「それは3つの方法がある。一つはこれ、二つ目はあれ」みたいに間髪をいれず答えた。相手が「それで、三つ目は何?」と聞かれ平気で「忘れた」と答える度胸だ。笑い話だが、実際やった。日本では不真面目と思われヒンシュク物だ。
婉 |
曲表現は「間」より難しいが英語でも使い分けできたら潤滑油になる。イエス・ノーをはっきりしない日本人とは言い過ぎだと思う。イエス・ノーがはっきりしていると言われる米国でも、相手を傷つけない婉曲なノーの言い方は沢山あるし、イエスといっても口調でノーの時もある。
だが、うまい表現が出来ないならそれを率直に言えばいいのである。「イエス、バット」でもいいと思う。率直さは流暢な婉曲表現を上回る時もあると私は思う。正直なところ私の英語がそこそこだったので、相手の信頼を得るには率直さしかなかったのかもしれない。
思考法とか発想法は文化的背景があると思うこともあった。米国有数のビジネススクール卒で懇意にしている当時の同僚に聞いたことがある。彼にとって英語は使い慣れた道具で、会議の席上で米国人マネージャを論理的に追い詰め窮地に立たせるような、頼りになるデキル同僚だった。
当時やり手といわれた彼の上司である米国人幹部に、駐在している日本人の中で最も米国のビジネス人らしいのは誰かと聞いたことがあるという。上司の答えは意外にも私だったそうだ。実は私には意外でもなかった。良くも悪くも、私が工場運営を何とかしたい一心で現地スタイルの管理を貫いた結果だろうと思った。ある意味狙ったとおりだった。
結論: 問われるのはその人そのもの
ということで、英語公用語化で問われるのは言葉ではなく、その人そのもの。経験では英語を使うことによって地位とか経歴に関らず、その人の考えを論理的に議論する環境を作り、その人の中身をより浮き彫りにする機会が生まれる可能性がある。
問われるのは言語ではない。もちろん英語化だけで誰もがそうなるほど甘くはない。私の経験は主に米国で、社風も夫々だから保証はない。だが、個人の実力とか磨かれた魅力は言葉が十分でなくとも何時かは必ず伝わる。無い物は伝わらない。
蛇足だが、この記事を書く前に私がまだ英語を書けるかトライしてみた。昨日の記事だ。丁度英文で書くのに適したテーマと思ったので、書きたいことは頭に浮かんだが実際に英文の言い回しが出てこず、口で言うほど簡単ではなかった。日本語で書く時間の倍はかかったと思う。こんな非効率は許せない。私の主張も実はこの程度だ。(最後の決めの言葉は英語の方が洒落ている)■