昨日和尚さんが来て棚経を終えた。老齢にもかかわらず未だにバイクに乗って檀家を回る姿を見るとハラハラする。和尚さんと四十九日の納骨の日取りを決め、その後葬儀会館に紹介された石材屋に戒名を掘って貰うよう依頼した。最近は四十九日後直ぐに位牌を作らない例が多いと聞き、位牌の作成は別途連絡することにした。
思い出すに母は父が大好きだった。父を愛していたのだろうがベタベタした感じはなく、私の印象では「父が大好きとかファンだった」という表現の方がピッタリくるのだ。両親が喧嘩しているのを見た記憶が余りない。ある時、祖母が半分呆れ気味に「チエコはターちゃんが大好きじゃけんのう」というのを聞いたことがある。
それが夫婦だとその時は思っていた。いつも父の弁当箱には子供より一品二品多かった。戦後の食料不足で我家では卵焼きすら贅沢だった時代、父の弁当にはいつも卵焼きが入っていた。卵を割ってといたお茶碗の底に残った卵に醤油をかけ、私はそのお茶碗にご飯をついで食べた。父親は一家の大黒柱であり何の疑問もなかった。
ところが、私が結婚して子供が生まれ大きくなるにつれ、私が持っていた夫婦のイメージが徐々に変わった。気が付けば家内は子供第一だった。私が仕事中心の猛烈サラリーマンになり、子供の養育を家内に任せきりにしたツケだと思うが、慣れるまでに時間がかかった。世の中その方が普通だったようだ。
だが、父の仕事中毒は私以上だったし、家庭を顧みなかったのは父も同じだ。違うとすれば、母も真っ黒になって必死で農業をやっていた。これも共働きの姿だった。誰もが必死に生きた時代だった。父は復員後母の実家で見合いをし、母が女学校の総代だったという表彰状を見て即結婚を決めたと祖母に聞いたことがある。
父の場合、まだ女学校出たての十代の可愛い小娘だったのも母を気に入った理由かもと、遺伝子を引き継いだ私は邪推する。だが、母が大好きになった父の魅力が何だったのか未だによく分からない。父にそれ程母を惹きつける何かがあったのだろうか。何れにしても、「父大好き」母は永遠の謎になった。父が定年前に死んだ時まだ40代半ばだった母が、その後40年間余り父抜きの後家さん人生を歩んだ。■
思い出すに母は父が大好きだった。父を愛していたのだろうがベタベタした感じはなく、私の印象では「父が大好きとかファンだった」という表現の方がピッタリくるのだ。両親が喧嘩しているのを見た記憶が余りない。ある時、祖母が半分呆れ気味に「チエコはターちゃんが大好きじゃけんのう」というのを聞いたことがある。
それが夫婦だとその時は思っていた。いつも父の弁当箱には子供より一品二品多かった。戦後の食料不足で我家では卵焼きすら贅沢だった時代、父の弁当にはいつも卵焼きが入っていた。卵を割ってといたお茶碗の底に残った卵に醤油をかけ、私はそのお茶碗にご飯をついで食べた。父親は一家の大黒柱であり何の疑問もなかった。
ところが、私が結婚して子供が生まれ大きくなるにつれ、私が持っていた夫婦のイメージが徐々に変わった。気が付けば家内は子供第一だった。私が仕事中心の猛烈サラリーマンになり、子供の養育を家内に任せきりにしたツケだと思うが、慣れるまでに時間がかかった。世の中その方が普通だったようだ。
だが、父の仕事中毒は私以上だったし、家庭を顧みなかったのは父も同じだ。違うとすれば、母も真っ黒になって必死で農業をやっていた。これも共働きの姿だった。誰もが必死に生きた時代だった。父は復員後母の実家で見合いをし、母が女学校の総代だったという表彰状を見て即結婚を決めたと祖母に聞いたことがある。
父の場合、まだ女学校出たての十代の可愛い小娘だったのも母を気に入った理由かもと、遺伝子を引き継いだ私は邪推する。だが、母が大好きになった父の魅力が何だったのか未だによく分からない。父にそれ程母を惹きつける何かがあったのだろうか。何れにしても、「父大好き」母は永遠の謎になった。父が定年前に死んだ時まだ40代半ばだった母が、その後40年間余り父抜きの後家さん人生を歩んだ。■