日常生活のふとしたことで老いを感じる時がある。例えば名前が思い出せず「アレ」とか「ソレ」になり、眼鏡を置き忘れ探し回る、外出する時に財布や手袋などの忘れ物を一度に思い出せず何度も玄関と書斎を往復する。日曜版の「数独」が今まで出来た時間内に出来なくなる。運動能力の低下は瞬発力や筋力の衰えだけでなく、視力と身体が連動した反応の遅れを実感する。そんな時、そろそろ認知症になる前触れじゃないかと気になる。怖いのは記憶力や運動能力などが総合的に劣化し、正しい判断が出来なくなる「昔風に言うとボケる」ことだ。
ボケたことが自分で分かればいいが、現実は判断できないだろう。対策として客観的な指標として自分の体力がどの程度劣化したかを知る為、私なりの定点観測があると何度か投稿した。その一つがバドミントンのゲーム練習で、同じ相手とどの位戦えるか何度もやってると割と正確に運動能力が測れると思う。相手も平等に年をとるしパートナーによっても変わる相対的なものだが、それでも何試合もこなせば私の運動能力がここに来て急速に低下してきていると実感していた。誰と組んでも足を引っ張るだけの存在になった。
何とかしようと昨夏から庭でフットワークの練習や筋力アップに努めて来た。これが70才直前の私には口で言う程簡単ではない。5km程度のインターバルウォーキングの後、コート内をX字を書くように動きながらスイングを20-30本やり(これが一番きつい)、その後スイングを120本、ラケットを2kgのウェイトに代えて120本やる。更に腹筋を50本やると汗びっしょりになる。終わると甘いものと牛乳を飲んでタンパク質を補給する。しかしなかなか成果が出ないものだから、ついに私の限度を超えて練習をやってしまったようだ。
最近、バドミントンのゲーム練習で外目には動きが悪くミスを連発する様になった。後ろでパートナーの舌打ちが聞こえて来たのは気のせいではない。体の筋肉が枯れ木になったみたいに動かないのだ。筋肉に疲れが溜まっている感じがないのだが、もしかしたら鈍感になって筋肉痛も感じなくなったのかもしれない。10日位前から一番厳しく汗をかくX字のフットワークトレーニングを中止した。すると数日後に勝敗には関係ないが、動きが軽くなったと体感するようになった。練習のやり過ぎで身体が付いていけなくなっていたのだと思う。
それはそれで練習のやり過ぎを身体が教えてくれなくなったと思い、これも老化の一種かと失望した。こと老化については最近はすっかりマイナス志向になった。老化がどう進んでいくかは人それぞれで予想もつかない。父が定年前に死んだので私の身内に参考にする人がいなかったせいもある。「子供のためにやれることはやった、もう思い残すことはない」と言いながら、来るべき老いていく人生を恐怖をもって身構える私がいる。■
ボケたことが自分で分かればいいが、現実は判断できないだろう。対策として客観的な指標として自分の体力がどの程度劣化したかを知る為、私なりの定点観測があると何度か投稿した。その一つがバドミントンのゲーム練習で、同じ相手とどの位戦えるか何度もやってると割と正確に運動能力が測れると思う。相手も平等に年をとるしパートナーによっても変わる相対的なものだが、それでも何試合もこなせば私の運動能力がここに来て急速に低下してきていると実感していた。誰と組んでも足を引っ張るだけの存在になった。
何とかしようと昨夏から庭でフットワークの練習や筋力アップに努めて来た。これが70才直前の私には口で言う程簡単ではない。5km程度のインターバルウォーキングの後、コート内をX字を書くように動きながらスイングを20-30本やり(これが一番きつい)、その後スイングを120本、ラケットを2kgのウェイトに代えて120本やる。更に腹筋を50本やると汗びっしょりになる。終わると甘いものと牛乳を飲んでタンパク質を補給する。しかしなかなか成果が出ないものだから、ついに私の限度を超えて練習をやってしまったようだ。
最近、バドミントンのゲーム練習で外目には動きが悪くミスを連発する様になった。後ろでパートナーの舌打ちが聞こえて来たのは気のせいではない。体の筋肉が枯れ木になったみたいに動かないのだ。筋肉に疲れが溜まっている感じがないのだが、もしかしたら鈍感になって筋肉痛も感じなくなったのかもしれない。10日位前から一番厳しく汗をかくX字のフットワークトレーニングを中止した。すると数日後に勝敗には関係ないが、動きが軽くなったと体感するようになった。練習のやり過ぎで身体が付いていけなくなっていたのだと思う。
それはそれで練習のやり過ぎを身体が教えてくれなくなったと思い、これも老化の一種かと失望した。こと老化については最近はすっかりマイナス志向になった。老化がどう進んでいくかは人それぞれで予想もつかない。父が定年前に死んだので私の身内に参考にする人がいなかったせいもある。「子供のためにやれることはやった、もう思い残すことはない」と言いながら、来るべき老いていく人生を恐怖をもって身構える私がいる。■