かぶれの世界(新)

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

田舎暮らし雑感07冬(2)

2007-12-19 15:25:43 | 日記・エッセイ・コラム

今ここにある地球温暖化

この数日は朝になるとこの地方特有の濃い霧が盆地を覆うようになったが、それでも例年に比べるとまだ暖かい気がする。母がお正月用に作ったつるし柿は8割がたハクビシンに喰われてしまった。残った柿が黒くなってきたと思ったが、近づいて見ると鳥のつついた痕があり、青カビが生えていた。母によると暖かい年はこうなるそうだ。

ということで今年のお正月の干し柿は全滅、スーパーに買いに行く羽目になった。農林業をやっている人達は色々な形で地球温暖化を肌に感じている。気温が高く降雨量が少なかった今年は、芽紅芋が小振りだが甘味が強く美味しいと近所の小父さんが言っていた。特に親指大の孫芋が美味しいのだが、小さすぎて商品にならないと全て切り捨てていた。

NY州のシラキュースのメル友によると五大湖から渡ってくる寒風が吹くと急激に気温が下がり華氏0度になったというが、日本の冬はシベリア寒気団のご機嫌次第、私の田舎は盆地を流れる川が気候を決めるファクターになる。最近、霜が降りず川から冷たい蒸気も昇らない。

母の異常食欲

母の状況は夏より幾分良くなり、顔つきが少しだがしっかりしてきた気がする。しかし、気になることがある。一日殆ど動かずコタツの中にいるのに、母の食欲が異状なことだ。専門家がカロリー計算して作られた弁当ではとても足りないようだ。

口が寂しいだろうと買ってきた饅頭やクッキーは気が付くとあらかたなくなっている。念仏講で出た大きな仕出し弁当を食べきれず半分以上残して帰った。夜戻ってくると残りを全て食べてしまっていた。「食べすぎ、もっと体のことを気をつけなきゃ」と繰り返し言うと母は酷く不機嫌になった。 

母はこの春に体調を崩し持病の糖尿病が悪化、インシュリンを打つようになった。念のため介護センターに相談すると、やはりインシュリンを打つと食欲が出るらしい。年寄りの唯一の食べる楽しみを取り上げるのは忍びない。お茶菓子などは過剰にならない量だけ与え、残りは目に付かないところにしまい気をつけ様子を見ることにした。

要介護老人に厳しい法改正

投資販売に関わる法改正は母の生活にも影響を与えそうだ。母は松山市にある信託銀行に定期預金と投資信託の口座を持っていた。体の衰弱が進み一人で窓口まで行けなくなったので、解約して近くに支店のある地銀に移そうとすると、投資取引は窓口での本人との相対でないと出来ない決まりという。私が代理人になることも出来ないという。

やむを得ず母の体調を見ながら松山に連れて行くことにした。地銀も事情は同じようだ。となると、今後さらに衰弱が進み寝たきりになったりすると困ったことになる。しかし普通預金や定期預金の出し入れは母と私の身分証明書を提示し、銀行が電話で母の意志を確認できればいいという。要するに窓口に行けないなら預金はしても投資はするな、ということになる。

ゆうちょ銀行はもっと厳しい

ところが民営化したばかりのゆうちょ銀行はもっと厳しいことが分かった。郵便局に電話で確認すると普通・定額預金の出し入れにも委任状と委任・受任両者の身分証明書を提示し、郵便局から母に電話で取引の確認をしてやっと普通預金の引き出しが出来る。

光熱費や介護費などの自動振込みなど生活の為の財布替りに使う普通預金ですらこれほど厳しい手続きでは、消費者保護の法律といっても母のような体の動かない老人にとっては却って脅威だ。投資の場合はもっと厳しく、金融機関は窓口で時間をかけてリスクを説明し簡単には売れなくなった。私はこんな条件の銀行とは取引する気にならない。

新法発効後、信託投資の販売が減少しゆうちょ銀行から預金が逃げ出したというのも当然というのが実感だ。知識が全くない人の保護を目的とした法律を一律に適用すると、そのビジネス全体を弱体化させる。同時に母のような老人にとっても決して良くないことを老齢化社会の先端で感じた次第だ。■

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポピュリズム不況

2007-12-16 23:47:01 | 社会・経済

気後退がいよいよ現実に迫ってきたようだ。11月の街角景気指数は4年半ぶりの低水準になり、12月日銀短観の大企業製造業DI(業況判断指数)も3四半期ぶりに悪化した。米国経済減速懸念と原油高が日本経済原則の主要原因と報じられている。

業種別に見ると低調な新車販売を初めとして建設・金融・小売などの内需系の不調が目立ち、今年度の業績下方修正が予想されている。唯一の頼みの輸出が減少に向かえば景気後退は最早避けられない状況だ。しかし、国内のほうがより深刻だと認識すべきである。

上記の三業種を更に覗くとその深刻さが明らかになる。新法により建築確認が取れず住宅建築着工数が前年比37%に落ち込んだと報告されている。マンションの着工数だけを見ると前年同月比8月63%減、9月75%減、10月71%減となり、このまま推移すると建設や建材業界に壊滅的な影響が出ると予想されている。

一方、金融業界においては金融商品取引法の改正により10月投資信託への投資額が半減し、貸金業法の改正により貸金業者数は今年度上期だけで9%減少しているという(NikkeiBP)。 賞味期限や消費期限の改ざんに代表される食品偽装は年末商戦に大きな影響を与えている。

新聞等の報道は住宅着工数の壊滅的な減少を「官製不況」と呼び、官僚が責任が降りかからないよう厳しい規制をかけたためとの見方が多い。しかし私はその先にもっと共通するものを感じる。それは、日本がメディア主導のポピュリズム政治に向かいその悪影響が出たのではないかということだ。

り返れば上記の三業種は、一昨年からテレビが連日のように不祥事をお茶の間に伝え、国民が規制の強化を求めた業界である。耐震強度偽装、投資家保護と金利のグレイゾーン、そして食品偽装である。テレビは弱い立場の消費者を守るため国の責任を問い、法制の立法化を求めた。だが、メディアの大騒ぎは当事者のバランス感覚を喪失させた。

市場経済は基本的に競争であり経済全体のパイを大きくするが、一方で敗者を生むのは否定できない。市場経済下では消費者は賢くなければならない、自己の判断で商品を買い結果に責任を持つことが基本だ。返せるあてもないのに金を借りたらその責任を取らねばならない社会だ。しかし昨今の消費者はバブル以前の消費者より賢くなったとは思えない。

多くの報道は弱者保護にばかり目が向き、何も考えなくてよい消費者を作り出す法制化、即ち「規制経済」の実現を求めている。官僚と政治家たちは、このテレビと評論家達の持つ影響力、換言すると選挙に与える圧倒的な影響力に目が眩み判断を誤った。官僚は巧妙に利用しているのかもしれないが。

世界が規制緩和と自由化で成長に向かい驀進する中、日本だけ国内に閉じこもり規制強化しているように私には思える。それが結果的に経済活力を削ぎ景気後退が目の前に迫って来た。消費者個々が賢く成長する機会を奪っている。バブル時代に生まれた賞味期限とか消費期限は元々おかしかった。だが耐震偽装と同じようにJAS法の見直しが規制強化に向かうとしたら誤りだ。

ポピュリズム政治がすべて悪いとは私も思わないが、現状は良い方向に向かっていない。官僚が責任逃れのため規制を強化した結果の「官製不況」という側面は確かにあるが、メディア、特に圧倒的に影響力のあるテレビが消費者を子供扱いし間接的に規制強化を後押しした。それは長い目で見て決して消費者の為にならない。

何故こんなことになるのか、一つには国内のテレビ・メディアが世界から切り離され、井戸の中の蛙的な状態で守られていることに起因していると私は考える。ライブドアや楽天が参入しようとした時生まれた緊張感は最早なくなった。メディアは責任の大きさを認識して大局観を持って影響力を行使していく責任がある。■

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

21世紀型グローバル金融システム

2007-12-14 14:44:01 | 国際・政治

サブプライム収束の見込み立たず

今年の流行語大賞にサブプライムが選ばれると予想した人は多い。今やサブプライムは今年の漢字「偽」と同じくらい不吉な言葉になった。サブプライムとは米国の低所得者向け住宅ローンだが、その焦げ付きに端を発した世界金融不安は何時までたっても先の見えない深い暗闇を暗示する言葉になった。

UBS, Citibankなど欧米大手銀行の損失総額が800億ドルにものぼると先週発表されたが、誰もこれで済むとは思っていない。米国政府の債務者支援策も一部の債務を助けるだけで、来年以降もサブプライムローンの焦げ付きは続くと予想されている。

金融技術進歩の功罪

金融技術の進歩によりサブプライムのようなリスク物件を小さく分けて他の金融商品に組み込む、いわゆる仕組債がリスクを薄め、リスクが大きすぎてとても投資できなかった領域に資金を還流させ世界経済発展に大きく貢献してきた。それは低所得者に家を買う機会を増やし、途上国に開発の為の資金を提供、今日の世界経済好況をもたらしたと言ってよい。

しかし、思わぬ副作用が出た。サブプライム自体は米国の住宅市場のほんの一部にもかかわらず、サブプライムの焦げ付きはそれだけで終らず、他の優良な金融商品も含めた証券の評価(格付け)を暴落させ、決算期を迎えた銀行は傘下に抱える金融子会社が保有するサブプライムを含む証券の時価評価額減を損失報告せざるを得なくなった。

パラダイムの変化: 正規軍戦争からゲリラ戦へ

しかも来年3月期には更なる損失が予想されている。暴落した証券の取引が殆ど停止され、銀行傘下の特別運用会社が保有し簿外にあるから、依然として誰がどれほどの損失を出すか暗闇の中にある。その意味するところは最悪の場合、銀行が貸し出し可能な現金が突如なくなり、従来なら投資できたリスク物件に資金が回らなくなる世界的信用不安に繋がる。

この状況を見てFRBや欧州中央銀行が量的緩和の緊急措置をとった。この最新の危機は国家間の戦争からテロとのゲリラ戦に変わり圧倒的軍事力を持つ正規軍が苦戦しているように、中央銀行の金利下げと量的緩和だけで問題を終結させるとはとても思えない。

一国で世界GDPの大半を占めた米国は2割、EUを含めても4割強のGDPに低下しただけが原因ではない。利下げのような一律な対応は節度を持ってやるべきであり、加えて個別事情に適した処置をケース・バイ・ケースでタイムリーに実行することが求められる。その為には金が要る。

新規参入者: 政府系ファンド

今のところグローバル金融システムの危機にまで発展する可能性は低いと私は半ば期待を込めて予測する。それは中央銀行の密接な連携に加え、オイルマネーや貿易黒字国の政府系ファンドなどが金欠になったこれら欧米の銀行に個別に資金を注射する、所謂「21世紀型グローバル世界金融システム」が形成され機能し始めたと感じるからだ。

グローバル金融システムが傷んで得をする国などない。欧米日も途上国、資源国も誰も損をすることは明確で、アラブの政府系ファンドはCitibankに、シンガポールのファンドはUBSに巨額資本を投資した。正に世界の金融システムが一体化して機能している21世紀的パラダイムの魁を見る思いである。

長期的にはドル離れが進む傾向は変わらないとしても、21世紀の途上国及び資源各国は巨額のドル資産を抱えており、急激なドル安で損することも望んでいない。彼らの余剰資金は原油やその他の資源価格を高騰させたが、一方でオイルダラーや政府系ファンドは寧ろ経済を安定化する役割も果たしていく。株式市場の低落が続けば、底値を狙って余剰資金が流れ暴落を防ぐ。

で、日本はどうする?

日本は格差や年金の内向きの問題で大騒ぎしているが、依然として世界第2位の超が付くほどの資産国である。政府系ファンドについて米国に気兼ねしている向きもあるようだが、いずれ米国は政府系ファンドがグローバル金融システムの一要素と現実を認め、Citibankの救済などその役割に一定の評価をすると思われる。

資源国に振り回されている昨今、日本に残された数少ない資源として巨額の年金資金など日本マネーの有効活用をぜひとも図るべきだと私は考える。

日本の個人マネーは、値下がりした世界の資産を狙って依然として海外に向かうものと予想される。混乱が続く国内政治の現状を見るとやむを得ない気がする。バブルで大損した教訓を生かし「したたかな日本マネー」になって欲しいと思う。

余談

サブプライム問題で浮上した問題の解決を図りながら、米国に資金を還流させる新しいルールがG7で提案されると予想したが、まだ地平線のかなたに見えてこない。だがグローバリゼーションの深化がもたらした世界経済成長と資源高騰、その結果起こった富の移転と余剰資金はセルフ・アライメント(自己調整)機能を持つシステムを生むように感じる。それが、一時的か持続性があるか来春には具体的な姿が見え始めるのではないだろうか。

サブプライム問題の影響が少ないといわれる日本の住宅建築が前年比37%も低下し、日本経済は悲惨な状況にあると世界市場で誤解されている向きがあるという。そんな馬鹿な、と言いたいが、実際その情報に基づいて日本から更に資金が逃げていくとなったら笑い話にもならない。■

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私的・地球温暖化

2007-12-11 12:12:13 | ニュース

今朝のNHKニュースによれば、全国の農業試験場は温暖化が原因と見られる収穫量の減少や品質の低下などを報告したという。ブドウや蜜柑の色づきが悪く甘味や酸味が不足、リンゴやナシの開花時期が早まり受粉が間に合わず収穫量が減ったと報告された。

私の身の回りでもいつもとは違う小さな変化に気がついた。今年の田舎の冬は何しろ暖かい。まだ石油ストーブは使っていない。昔の日本家屋でも、普通はコタツ、寒い時でもエアコンで何とかなる。

私の周りの田舎の人達もちょっとした変化に気付いているようだ。それは必ずしも収穫減だけではない。以前報告した「柿ダイエット」を続けようとどの店に行っても柿が棚にない。聞くと今年は柿の当たり年で、何処の家にもある庭の柿が鈴なりでわざわざ店で買う人はいないらしい。

美味しい柿の産地といわれる内子町では市に出荷できず捨てていると聞いた。バドミントン・クラブのメンバーの一人が話を聞いて、庭の柿がなり過ぎ捨てる積りだからと、昨日段ボール箱に溢れんばかりの真っ赤な柿を持ってきてくれた。

近所を自転車で走ると隙間なく黄金の実をつけたハッサクの木を見かける。3日前に庭のハッサクを穫り入れた。例年よりちょっと小振りだが2-3割多かった。いつもは霜が降りる直前に穫り入れるのだが、今年は一向に霜が降りない。この時期になると昔はまるで雪が降ったように一面真っ白になるほど霜が降り、朝は寒さで震えたのにどうしたのだろうと母がいう。

柿やミカンが異常に多くなったのが温暖化のせいかどうか分からないが、明らかに生き物は変化を感じているようだ。季節外れの昆虫が家の中をうろうろしているのを時々見かける。畑の中も例外ではないようだ。

この夏除草に使った枯れ草やダンボールを集めて畑で焼いた時、枯れ草の間からバッタが飛び出しあわてて逃げていった。季節外れのバッタに驚いたが、知り合いのMさんによれば夏が長引き秋が短くなった結果、冬眠の準備が間に合わないまま冬を迎える蛇やカエルをこの3年よく見かけるようになったという。

私は見たことがないのだが、土中に潜りこめず半分体が出たままの蛇がいるという。外気に触れたままだと、冬水が凍る頃体が凍ってその蛇は多分死んでしまうという。近所の専業農家のオジサンもそれはありうるという。NHKニュースでは温暖化の影響を最も早く受けるのは果樹類だろうと報じていたが、川や畑の動物も温暖化を敏感に感じているようだ。■

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ITと文学

2007-12-07 15:43:22 | 本と雑誌

ータイ小説が流行っているらしい。実は一冊も読んだことが無い。本屋で立ち読みして最初の数ページで興味を失った。大雑把に言うと、携帯メールをそのまま本にした、読み易い絵文字入りの短文で行間の多い従来のライト・ノーベル調の小説というところだ。

ところがケータイ小説を軽々しく馬鹿にしちゃいけない。今年の文芸部門出版物のベストセラー・トップ3を独占したという。

そういうものが流行っているというのは2,3カ月前に最近の出版動向を伝えるテレビ番組を見て知っていた。電車の中で携帯に見入る女子高生が読んでいたのは、てっきりメールだと思っていたが、実は小説を読んでいるのだと今更ながら気付いた。

ケータイ小説は表現力に欠け、底が浅く内容が薄い、語彙が少ない等という非難がある。しかし、最近活字離れが進み出版不況に悩む業界では久々の新しいビジネス機会を逃すわけには行かないと、大手出版社も形振り構わず携帯小説の出版を計画しているという。

ケータイ小説は正に携帯電話が安価に誰にでも手に入り、それが進化してインターネットと結びついて多機能化したために生まれた表現形式で、ブロードバンドや最先端携帯電話のある日本ならではのものだ。初めて聞いた時、これは極めて日本的な発展形という風に直感的に思った。

先日、新刊本を紹介する日曜の深夜放送である翻訳家が、最近の米国の小説はやたら分厚くなったと解説しているのを聞いた。その理由は作家がパソコンのワープロを使うようになり、長文の文章を書くことが負担にならなくなったからだという。

もちろんそれで内容が冗長になったということではなく、書きたいことを全て書けるようになったとのこと。なるほどITはそういう形で作家の仕事を変えたのかと思った。しかし、日本の場合は全く思いもよらぬ形でITが貢献していたというわけだ。

IT技術を使っても片や日本ではケータイ小説のような軽い方向に向かい、一方で米国は小説が分厚くなるというのは対照的で、何がそうさせたのか気になっていた。6日のワシントン・ポスト誌ハーデン記者のブログに関する記事を読んでその質問に一部答えていると思った。

界の全ブログで使用される言語のトップは日本語で37%、次に英語の36%となっており、日本人しか日本語を使わないことを考えると、日本語ブログ人口が突出していると伝えている。日本語人口は英語人口の1/10であることを考えると驚異的なブログ人口とさえいえる。そのうち40%は携帯電話でブログ界に参加しているという。

記事は続けて、日本語ブログは米国の自己主張型よりも、内省的で政治より身の回りの小事に向かい対立を避ける内容になっている。それは日本の調和を重んずる、「出る杭は打たれる」文化から来るもので、ブログの多くは匿名であるという。日本人は欧米人の5倍もブログを読むが、それでもって具体的行動を起こすこのは5分の1以下だという。

この記事は日米のブログを対照的に説明したもので後半を省略するが、日本語ブログの内容とケータイ小説には共通するものがあるように私には感じる。どちらも本流から離れたサブカルチャーの部分であるところに先ず共通項がある。

それは何十年か前の漫画でありアニメである、もっと遡れば明治時代の私小説、江戸時代の根付や浮世絵かも知れない。私は専門家ではないが、これらは傍流で始まり、何れもまがい物扱いを受けながらも、消滅することなく独自の発展を続けて来たのではないかと思う。

ケータイ小説がこのあとどう発展するか分からないし、家族の写真や食事だけを紹介する日本語ブログがこのあとどうなるか私には全く分からない。ポスト誌の記事は間接的に日本文化を矮小化し揶揄している気がするが、必ずしも捨てたものでもないと私は思う。一時期注目された「縮み志向」は21世紀世界環境で見直されている。ただ、私のブログは主張し過ぎかもしれない。■

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする