かぶれの世界(新)

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田舎暮らし雑感07冬(1)

2007-12-05 16:48:49 | 日記・エッセイ・コラム

先月末、四国松山空港に降り立つと気温が東京より34度暖かく少し体が緩んだ気がした。実家に帰る前にいつものように景気を肌で感じるべく松山市の繁華街を歩いてみた。この数年かけたリニューアルがほぼ終わり、街が無機質だけど明るくなり活気が戻った感じがする。

一時多かった閉じたままのシャッター上のテナント募集の張り紙は、気が付いた限り1箇所だけだった。通りは明るく近代的な感じになったが、平日のせいか買い物客はそれほど多い感じはしなかった。この繁華街に直結する便利な駐車場がなくて果たして郊外の大型店と戦えるだろうか。

町の電気屋さん頑張る

翌日はJリーグ最終戦の大番狂わせに興奮した。母が町の電気屋さんで最近買った26“の平面テレビでハイビジョンの映像を見ると、画面はまだ小さいが木目細かい画像で迫力があった。ところが画面の端の水平線が時々欠けるのでその電気屋さんに電話すると新しい提案を受けた。

まだ保障期間内なので修理は可能だが、プラス1万円で32インチにアップグレードすると言う。これは良い取引だからと母に勧めお願いすると、2日後早速電気屋さんが来て新しいテレビセットを据付けてくれた。CATVの画質が悪いというと減衰の少ない分配器に取り替えてくれた。

合わせて15.8万円の買い物だ。最近の平面テレビの急激な値下がりを考えると特別安いとは思わない。しかし、郊外の大型店に行けない田舎の年寄りにとって家庭訪問して電気製品を市場価格とそれほど違わない値段で売り、サービスしてくれる電気屋さんの存在はありがたい。

大型専門店の安値攻勢で消えかかっているといわれた町の電気屋さんが、小さな村や町で戸別訪問販売と大型店では出来ない痒いところに手が届く11のサービスでしっかり生き残っているという記事を数ヶ月前に読んだことがある。これがまさにその電気屋さんだと思った。

芋が美味しい

新しいテレビが届く前の日は暖かく、表に出て畑仕事をした。母が農作業をしているのを見たと友人が驚いてメールで教えてくれた例のタマネギに肥料をやり、今年の春植えた芽紅芋(タロイモの1)を穫り入れた。雑草だらけで手入れできなかったので芋がやや小ぶりだった。

母が頑張って畑まで何とかついてきて、畦(あぜ)に座って私が鍬で掘り起こした芋のドロを落とし選別をした。良さそうなものをほんの少しとって残りの殆どは隣の稲田に肥料代わりに撒いた。この芋は湿度が高く粘りがある土質に向いており、この土地の芋は特に美味しいといわれている。

母は早速芋の煮付けを作り食べると、これが美味しかった。すると、あれだけ確認して捨てたのにもう一度田圃に行って良さそうな芋を選んで拾って帰れという。といっても田舎の言葉は間接的で最初は何をして欲しいか良く分からなかったのだが。もうハイハイと言うしかない。

田舎のお葬式

農作業から戻りコタツで寛いでいると組(田舎では自治会の単位を組という)の班長さんの奥さんから、近所のお年寄がなくなり翌日夕方6時お通夜、明後日11時出棺、午後1時から葬式と連絡が入った。父の幼友達で90歳に手の届く歳だ。父と幼馴染だったと聞くと、三十数年前に死んだ父が急に身近に感じ不思議な感覚に襲われた。

自宅で亡くなった為だというが、警察の調べはかなり詳細なものだったという。状況聞き取り・間取り確認や写真撮影など時間をかけて行われたらしい。最近家庭内事件が多いせい、というのは考え過ぎで、病院外で亡くなると昔からこの程度の調査はされたはずという。

翌日母の名代でお通夜に顔を出すともう和尚さんの読経が始まっていた。そのあと直ぐお香を焚き、仏の顔を拝み口に水を含ませ一通り儀式が終ると、組内の談合が始まった。出棺時に誰が棺桶を担ぐか決め、葬儀場での受付に若手が割り当てられた。

念仏問題

時間がかかったのが、そのあと念仏をあげるかどうか。組内の前の葬式では事情で念仏をあげなかったらしい。今回も念仏ナシとすると、今後なし崩しに念仏をあげなくなるのは良くないという班長の意見があった。参加者の大勢はどうでも好いという感じだったが、結論は毎回家主の意向を尊重するということとなった。

これには背景がある。最近、農協が葬儀場を作り葬儀一式を引き受けるようになり多くは自宅で葬式をやらなくなった。念仏を自宅であげるとなると葬式の後、組内の者は全員家主の家に戻る必要があり、家主は食事や飲み物を用意しなければならない。全員長い間拘束され、家主は焼き場に行き骨を拾い収めなければならず中々忙しい。

今はそれも含めて葬儀一式を依頼する家もあるそうだ。出産より葬儀のほうが回数が多い時代になり、殊に高齢化が進む農村社会では今後益々葬儀ビジネスが盛んになりそうだ。念仏を含め選択肢が増えサービス内容が充実すると感じた。既に通夜とか葬式だけでなくその前後の手順までマニュアル化が進んでいた。

談合の席で長老は「オラの葬式の時は念仏をやってくれ」と何度も言っていた。家に帰り母に聞くと「念仏がないと寂しい」という。そういうものなのか。私はというと、まだ自分の葬式の事は考えてなかった。自分が棺桶に入っている絵は中々思いつかない。■

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妄想・謝罪大国

2007-12-03 15:44:59 | 社会・経済

のニュースバライエティショーで毎週誰かが謝罪している絵が出てくる。最近では食物偽装、スポーツ、公務員の裏金等など謝罪材料には事欠かないが、いささかうんざりする。謝罪の仕方がどうのこうのと延々と語られ、終いには謝罪評論家なるものが出てきた。

不祥事を起こした人は後ろめたいところがある。連日攻め立てられ奥の院に隠れていた責任者が暴かれ、雁首そろえて謝罪会見に引き出され、記者と視聴者の鬱憤晴らしが進む。そのあと被害者が感想を述べ、多くの不祥事はそれを機会に汐が引くようにテレビから消えていく。

その過程でどんなに理不尽な質問や扱いを受けても、カッとなって使ってはいけない言葉や態度を示してはいけない。その数秒間がその後繰り返し再放送され、身勝手で無責任とか無反省、極悪非道というレッテルが人々の心に刻印される。ディジタル映像時代では簡単なテクなのだ。

先日とても後味の悪い謝罪会見を見た。人気女優の息子が麻薬をやり逮捕された事件だ。気の毒にも大の男の息子の不始末を母親が涙ながらに謝罪する羽目になった。謝罪の記者会見ではプライベートまで踏み込まれ、さながら市中引き回しの晒し者のようで見ていて気の毒だった。

どうしてここまでやるのか。それは視聴者が望んでいるからか、それともニュースメディアの使命感なのだろうか。ニュースバラエティにとって不祥事の謝罪はテレビ的に最高の材料であり、いわば餌食を求めて咆哮する怪獣のように私には見える。多分狙い通り視聴率も高かっただろう。

今年3月頃に「不寛容社会」のタイトルで日本社会が罪に対しより重い罰を求めるようになった、その中で日本人の価値観は謝罪を重要視し、謝罪や反省がきちんとされないとより厳罰を求めるようになったと書き込んだ。

情報技術の進歩でお茶の間に詳細な映像が繰り返し流れるようになり、やらせと見まがうような再現ドラマなど「情」に訴える放送技術の進歩(?)が、より過剰で相乗的な反応を生んだ。30年前のニュースが今再放送されると如何にも無表情で無機的な感じがするはずだ。良くも悪くもカバーするニュ-スの領域が広がり詳細に伝えるようになった。

罰を求める世論は裁判の場でも反映されかつてより厳しい判決になる傾向があるというから、単にメディアの先走りでは済ませられない場合がある。裁判とまでは行かなくても謝罪のやり方次第で個人や組織に降りかかる社会的制裁は余程変わってくるからだ。この「謝罪プロセス」は裁判に先立つ「私的な裁判」の性格になりつつある。リンチとまでは言わないにしても。

適切な謝罪と見做されないと、会社は何十億何百億の損害から存続の危機に関わるし、個人の名誉は著しく傷つけられ家族が路頭に迷う事態になりうる。最悪会社は潰れ、横綱は引退させられる。となると自ら守る必要があり謝罪ビジネスなるものが出てきておかしくない。

ここからは私の勝手な妄想・・・。

会見のタイミング・場所・同席者・服装・姿勢から言い回しまで最高のテレビ受けをセットアップする一流の謝罪コンサルタントを抱え、過去の成功例・失敗例の貴重なデータベースを元に謝罪を総合プロデュースし、損害推定額の数%を成功報酬として頂く。辛口の評論家には事前に手をまわして説明し了解を得ておく。

そのうちバックグランド・ミュージックを使うと謝罪効果が高いという研究成果が発表され、中でもシューベルトが効果的だといわれる。奇妙なことに演歌にも効果が認められ、五木ひろしの「つぐない」が最も効果的ということが判明する。

謝罪専用会場として白砂の裁きの場と専用中継装置を備えた謝罪大手会社が新ビジネスを立ち上げIPOを果たし急激に業績を伸ばすようになる。一部海外からも注目され日本謝罪文化のソフトを世界に広げる試みが出てくる。

大学に専門学科が新設され、義務教育においても幼い頃から皆に受け入れられる謝り方を教えるべきかの是非が問われるようになった。今や日本の謝罪文化は花開いた。謝罪は全員の心を開き、不祥事で停滞した生産性を高めるリセット効果があると。

日本の謝罪ビジネスは独自の成長を見せたがグローバルな広がりは見せず、中国や韓国からは何年経っても歴史問題の謝罪を求められ解決できず、そんな謝罪ビジネスなど信用できないと誰からも相手にされず、第二の携帯ビジネスと言われ、あっという間に色褪せる。

その中にあって何者にも影響されないユニークな存在が残った。謝罪大国になっても、不祥事だろうと何であろうと言い逃れし謝罪しない官僚の凛とした姿勢が際立ち見直されてくる。政治もメディアも誰もそれを正せず、気が付くと再度日本の心として脚光を浴びる日が来た。謝罪するけど表面だけで本質は何も変えないという。■

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