会社勤めを辞めて5年、親しくしていた同期の友達に久しぶりに会った。皆、夫々に新しい生活を始めていた。白くなった頭や顔のしわを見て話を聞くと、鏡で自分を見ているような気がした。たった数年でこんなに老けるのか、ということは私もそうなっているはず、という思いだった。
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年経ってみて退職前に考えていた生活とは随分違ったものになった。海外でのロングステイとかバックパッキング、留学して学位を取るとか経営コンサルタントと色々計画した。だが、現実は母の介護で田舎と東京を行き来し、暇なときジムで体を動かし読書や音楽を聴く見かけは極普通の引退生活になった。
それでも何とか“死ぬほど”退屈せず過ごせている。というのは生活空間を思い切ってサイバー化し知的刺激を受け続けているお陰ではないかと思う。ある意味、私の生活は劇的な変化が起こった。現在の生活はパソコンの20インチ・スクリーンを通じてサイバー空間内に凝縮されている。
生活必需品や旅行などの買い物から、子供・友達との連絡に始まり、投資や資産管理、思索と表現、田舎の母の監視、ゲームや恋愛ごっこ、家事や住居メンテナンスの見積もり・交渉・支払いまで、スクリーンと対話して実行する謂わば「サイバー2.0」の世界に私は住んでいる。
日本人は一日8時間以上TVを見るというが、私は10時間以上TVを点けている。しかしTVといっても殆どはサイバー空間の1ウィンドウとして見ている。従来のTVを見るのは家族といる1-2時間程度だけだ。パソコンのスクリーンは高精細度化・大画面化し、現実感のあるインタラクティブな代理環境を提供できるようになり、別の画面でTVを見る必要がなくなったからだ。
例えば、今日の昼間は右1/3画面上部でCNNニュースを見ながら、その下に株式相場をライブ表示させ、左側の画面を作業エリアにしてメールチェックとブラウザーを重ね、タブを切替て情報検索・買い物・銀行口座の残高確認、これに資産管理アプリをリンクさせ投資評価、時々田舎の母の様子をインターネットカメラで見、この記事のドラフトを作った。
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年の映画「トルーマンショウ」は、全てシミュレーションの人工的環境の世界に育ち、自分の生活が生放送されており、作り物の世界から何とか抜け出そうとしてもがく主人公を描いた。私は米国のゲイテッド・コミュニティの究極の姿を示唆したものと感じた。
ある意味同じように、私の住むサイバー空間に私の過去・現在・未来をデジタル化し入れてきた。実家の過去帳やセピア色の先祖の写真も入っている。このサイバー空間は移植可能で、田舎にあるパソコンにシームレスに移行出来る(といってもデータ同期に半日程度はかかる)。ノートパソコンを持って行けばネットと繋がるところなら世界中何処でも、同じサイバー空間がついてくる。
だが、私のサイバー空間は映画とは違い現実生活との接点を確認することが出来、多分それで正気を保っている。勿論家族とは毎日顔を合わすし、ネットで買ったものが宅急便で届き、スケジューラーに従ってバドミントンの練習やボランティア活動し直接人と交わる機会がそうだ。
それはサイバー空間の一連の仮想的な活動の中に、現実の世界へのアクセスが含まれるからだと思う。しかし、サイバー空間の中だけで閉じたものが増えつつある。例えば一度も顔を合わせたことの無いメル友とのやり取りとか、電子化された株券などもバーチャルな世界で閉じている。
一方で、私の中にサイバー空間に全く含まれない部分があって、気が付くとその部分が日々疎くなっている。まるで退化した尻尾のように忘れられつつあることに気が付く。サイバー空間と現実世界には良いバランスがあるのか、あるべき姿はムービング・ターゲットなのか。まだまだ生活のサイバー化を進める積りだが、適宜振返って見ることも忘れないようにしたい。■