写経会で世話になっている方からの返信。ちよっと遠方から、また、かなり前から、閼伽井嶽の薬師常福寺へ、写経に来ている。前掲に同級生からの祝を載せた。同級生の交流の冊子に、いわきの伝説、鴨志田義康著から、赤井岳のこと、薬師常福寺の竜灯のことを綴った。その交流誌には、ばあちゃんのことを書き、綴っていた。それを「読んで」と、手渡したのが、始まり。それから毎年、ばあちゃんの誕生日には、プレゼントが送られてくる。ばあちゃんは徳人だぁと、感謝している。別のことだが、小生が写経会に出席し始めて数回行ったとき。写経を胸の前にかざしたのを、写真に撮ってもらった。新参者で、重苦しいなぁなんて、にわか写経をしていた。十数人の女性の中に、変な男が一人は混じったので、重苦しさはしょうがねぇなぁだった。まぁ一年は我慢をするかぁなんて考えていた。その写真のきっかけで、写経会を楽しみに、毎回参加している。
同級生に、百歳の記念の小冊子を送った。その時の返信を掲げた。昭和24年度、中学校卒業時の、同級生。級友は、48名だったと思う。現在は、20名と連絡は取れている。クラス会の幹事をしていたので、当時は、近況報告や、作句したもの、スケッチしたのを、綴り小冊子を作成して、送った。また、同期会で「追憶」と題して、の小冊子を二回作った。同期会のは、別の幹事が、原稿を依頼したものを取りまとめた。別の事を書いてしまいました。
いいばあちゃんのこと、ひとり布団にもぐっているので、淋しい気持ちがあったのだろう。元気だった頃は、着物姿で、家の前を掃除をしていた。近所の人に、「いつも ほうきを持って、掃除をしていたのだが、姿が見えないけれど」と、問われた。元気だった頃は、孫娘に、お年玉を、渡していた。それが、「ばあちゃん、お年玉、はいよぉ」と、手に握らせてもらって、嗚咽をしていた。今も、正月には、お年玉を握るのだが、不思議そうに見ているだけ。でも、お年玉だと、分かっているようだ。今も、機嫌のいい時は、いいばあちゃんでいる。
文の中のお医者さんは、かかりつけ。ちょつと離れている医院へ、歩いて行っていた。大腸の異常を診察していただいた。介護状になってから、往診を引き受けていただいた。一回目の脳梗塞を発症した時、総合病院へ、入院治療のことも、連絡をしていただいた。かれこれ、九年前のことです。
おしゃべりができたころが、懐かしい。「お前は、バカだなぁ。頭の中は、からっぽだから、少し、利口になりなぁ」。仕事をしていた頃、昼食のあと、ごろ寝をしていたのを見ていた、。ある時は、「仲良くしなあ」と。食事をするのも、ばらばらで、一家団らんという状況ではなかった。それを覚えていたのかもしれない。百歳を過ぎてからは、おしゃべりができない。