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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

  根無し草流転日記  戦争(1)

2025年03月10日 07時15分27秒 | 小説/詩

 (除隊 1945.9.17)

 「きみは、当てはあるのかい」竜野が五十(いそ)に問いかけた

「とりあえず上野へ出て春山兵長を訪ねてみようかと」

「そうかい それがいいだろう、だけどもう兵長はないやね」
「そうでした、終わったのでありました」
「そうよ、これからは自由にやりたいことをやれるってわけだ
おれも20日までには家に帰るから尋ねてくるがいいさ」
竜野はいかつい顔にも似合わず人懐こい柔らかな表情で言った
「わかりました、かならず行きます」
「待ってるぜ」
「はい」
「おい、そいつをこっちへ持ってこい」
竜野は五十一真(いそ・かずま)の大きなリュックを指さした、差し出すと
「紐を緩めて広げな」と言って布袋に入った米を幾袋も放り込んだ
さらにアメリカのものらしい砂糖も幾袋も入れた
「こんなに良いのでありますか」
「おいおい、もう軍隊ごっこは終わりだぜ、遠慮すんなよ、どうせ俺のものじゃねえし、陛下からの退職金だと思って、ありがたくもらえばいいのさ」
五十のリュックは一気に膨らんで重くなった、30㎏はありそうだ。

 調布の陸軍高射砲隊も、敗戦とともに武装解除されて兵隊は徐々にわが家に帰っていった
8月後半の頃には調布の陸軍飛行場には三式戦(飛燕)、四式戦(疾風=はやて)など50機あまりが並んでいたのが五十の脳裏に浮かんだ
米軍がやってきて解体される運命の飛行機であった
戦時中は巨大なB29を相手に暴れまわった三式戦も、今は滅びゆく運命
兵隊の姿も大方消えたここは、むなしく寂しい風だけが吹き抜けている。

8月15日に敗戦となったが、炊事班長の竜野や、通信兵の五十などは部隊の戦後処理のために残されて今日9月17日、ようやく五十も除隊の許可が出た
19年の9月17日に東部第1903部隊(調布)すなわち高射砲隊に召集されてちょうど一年後、ついに彼の戦争も終わったのである、とはいえ五十が帰る家は無い、城東区亀戸にあった家は3月10日の東京大空襲で地域ぐるみ焼け野原となって消滅した。

 日本海軍がアメリカのハワイ真珠湾にある海軍基地を奇襲してから半年もたたない昭和17年4月18日には、早くも米軍のノースアメリカンB25爆撃機16機が太平洋上の空母ホーネットから飛び立って東京を空襲した
日本軍は緒戦の勝ち戦の連続に国中が舞い上がっていたから、空襲を受けるなど考えてもいなかった、まったくの無防備、虚を突かれたというやつだ
葛飾区の高等科の生徒が一名機銃掃射で被弾して亡くなった
おそらく日本本土での最初の戦争犠牲者であったろう
結局、この空襲で50名が亡くなり、重軽傷者も含めれば400人ほどの被害者であった
東京攻撃のほかにも3機が太平洋沿いに南下して川崎、横須賀、名古屋、大阪を爆撃して、そのまま中国南部へと逃れた
ただ一機だけはソ連のウラジオストック方面に飛行していった
結局、日本軍は一機のB25も撃墜できなかった
これで日本は一気に国土防衛の必要性を思い知って、南方進出の飛行部隊のいくつかを内地防衛に回すことになった
それだけ前線の攻撃力が少なくなったともいえるだろう、また西太平洋にも敵空母への索敵が必要となって、守備範囲を広げざるを得なくなった
これがケチのつきはじめだった、そしてこれがミッドウェイ海戦の大敗北につながっていったのだ。

(東京大空襲 1945.3.10)
 昭和20年3月10日の東京大空襲は東京市民が寝静まった深夜零時
いつもの爆撃コースである富士山上空から90度右折して、西から東京侵入していたボーイングB29の編隊は、この日は九十九里方面、すなわち東から低空で侵入したという
B29は世界最大の4発の爆撃機、搭乗員11名、機銃座が5、合わせて11丁の12.5ミリ機銃と20ミリ機関砲装備、編隊を組んだB29が仮に一斉に銃を放てば
2200丁の銃弾が放たれる、護衛戦闘機がなくともこれだけの重装備なのだ。

第一弾は深川あるいは日本橋に落とされたという、続いて0時10分過ぎには五十の家がある城東区に落とされた
空襲開始から10数分後には浅草寺方面から隅田川の左右、そして江戸川まで一斉に火の手が上がった
おりしも(計画的であったのか)激しい北風が吹きまくり、あっというまに火の手が上がり燃え広がる

B29はサイパン、テニアン、グアムの基地から飛び立った325機、
小笠原列島沿いに北上して行くと富士山が見えてくる、これを目標に右に旋回して進めば東京西部の八王子方面から東京中心部へと入ることができる
19年から東京空襲と言えば中島飛行機工場が主目的であった
五十が入隊した19年秋から終戦までに10回あまりの爆撃で工場で勤労奉仕していた人々219名が爆撃の犠牲になった
だが3月10日の夜間爆撃進路は予想もしない房総からであった

帝都や工場を守る前線基地は調布に陣取る陸軍航空隊の244戦隊と周囲に展開する高射砲東部第1903部隊
1903部隊を含め、調布飛行場の東に2か所、千歳、久我山、三鷹、大宮、それにレーダー基地、探照灯群を含めて一つの防空大隊を編成していた、大隊本部が五十の調布に置かれていた。
久我山には日本唯一の15センチ高射砲(射程2万m)2門が置かれていてデビューいきなりB29を直撃で2機撃墜したので、B29は以後久我山上空を避けていくようになったという
この防衛網は3月10日には指をくわえて見ているしかなかった
1機も上空を通過しなかったからだ。

 これまで1万mという高高度からの侵入でB29にとっては高射砲弾がほとんど命中せず、日本の戦闘機も到達できないので安全だったが、爆撃精度が悪く命中弾は少なかった
アメリカ軍の新司令官にル・メイが就くと一転、低高度からの夜間爆撃に切り替え3月10日は超低空からの爆撃を命じた
1500m~2500mという危険極まりない超低空爆撃命令
しかし低空ゆえに日本軍は虚を突かれて電探もとらえることができず、しかも真夜中の暗闇、猛烈な北風も吹いて攻撃側には有利であった
爆撃が始まるともうもうたる煙で、飛び立った迎撃戦闘機もB29が見えづらい探照灯が空を照らすが、そこはたちまち攻撃されて、また暗闇となる
一方B29は低空爆撃だから命中精度は格段であった
炎も煙ももうもうと空高く昇って、ある意味、乱気流のようなものが発生した
巨大なB29も、この波に飲み込まれてしばし航空の妨げになるほどだった
搭乗員はみな酸素マスクを着けて熱風と臭気を避け、新鮮な酸素を求めた

この2時間数十分に落とされた末端の焼夷弾数は36万とも38万ともいわれる
隅田川西部地域から江戸川までの東京市の半分を焼き尽くした
5月には焼け残った東京市西部に今回以上の機数で攻撃を加えて、東京市のほとんどが焼き尽くされて何も残らなかった
意図的だったのか皇居は一部に爆弾が落ちただけで、消失や被害を免れた
730万人が住む東京市だが、被災家屋27万、被災者101万、死者推定10万以上
の大被害、日本軍が撃墜したB29は12~14機という。

これまでの中島飛行機などの軍需産業工場を爆撃するのではなく、無差別で住宅地を狙っての爆撃だから、家の密集地を(もともと下町は密集している)狙わずとも密集地に行くわけで
それも破壊ではなく焼夷弾で焼き尽くす、大火事を起こす目的だから火が付けば風の吹くままに燃え広がる、しかも突風が吹きまくった夜であった

迎え撃つ戦闘機も20年にはかなり消耗して少ない、燃料も不足がちであったし、なんといっても真夜中
火の手が上がり東京上空は紅蓮の炎に真っ赤に輝いていたであろう
この時間、調布の高台にある基地から五十は燃える故郷の方を見ていた
ここもB29相手の高射砲陣地であるが、今夜は、この上空を奴らは通らず、房総方面からやってきたのだった

亀戸では、この騒ぎで目を覚ました住民が慌てて外に出て、日ごろの訓練通り火災を消そうと、とりあえずはバケツリレーをやったであろう
しかし、焼け石に水どころではないことを知って逃げ始めた
五十の父母は香取神社に逃げた、しかしそこは既に人がもみ合うほど集まっていて、とても入る余地がなく再び通りに出て南の亀戸駅方向に走った
それが隣家で生き残った人が見た二人の最後の姿だった。

人々はてんでに少しでも火勢の弱そうな方に逃げて行ったが、とにかく米軍の狙いは燃やし尽くすことであったから、最初に消滅させる予定範囲の四辺に油を撒いて、そこに火をつけて燃やして逃げ道を塞ぐから、最初から袋のネズミ
どっちへ逃げたって出口はない、隅田川と江戸川に挟まれた火の海の中をみな逃げまどっている
だから隅田川にかかるいくつかの橋はどこも東から西へ、西から東へと逃げる人がぶつかり合って、永代橋など橋から凍えた早春の川に転落して、多くが凍死、溺死して下流の橋げたに引っかかって黒山になっていたとか
それは十間川でも同じことで、誰もが火と言えば水を思い浮かべる、水に入れば助かると思うが、上は大火事、下は氷水の地獄
そのまま力尽きた大勢の人々、浅草では防空壕に入ったまま蒸し焼きになって断末魔の苦悶の表情を見せている人々
それでも人の運の良しあしはあって、城東区の北、向島区には区の中心部にぽっかりと延焼のない空白地帯があった、福神橋を渡って逃げて行った人の多くが助かった
アメリカの当初の爆撃目標地域からは城東区の東部半分ははずれていたが
延焼及び、目標地域に爆弾を落とす場所がなくて目標地域外で燃えていない地域を爆撃したことは考えられる。
ジグソーパズルの空白を埋めるような気分になったのかもしれない、残酷なことだ、乗員はおそらく20代の若者が多くを占めていただろうに、戦争が人間性を失わせることが証明された。

2時間15分の空襲で約10万人の東京市民が爆死、焼死、窒息死、溺死した
一口に10万人と言ってしまうが、10万人の人生、夢、家族家庭すべてがむごたらしく消え去ったのであった。










 

 

 

 



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