信長、秀吉、家康は同世代に育ち、しかも全員が愛知県生まれ、そしてこの3人のリレーによって戦国時代が終わり、日本は統一国家としての中央集権の形が完成して260年後の明治維新につながる。
よくぞこの時、日本史の英傑ベスト5に入る3人が顔を揃えたという奇跡、人類は戦時に天才的な人物が育つのではないかと思われる、平和時はいかに稼ぎ、いかに豊かに暮らすかが課題、法が生命財産を守る手段だが、戦時は命と領土を守り、さらにあわよくば領土拡大を企むことが価値観、そして生命財産を守るのは武力、規律はあっても法は存在しない、勝者が法であり敗者は財産を全て失い奴隷となる、命は勝者の気まぐれに任せるしか無い、人間の本性が丸出しになる時代それが戦時だ。
この3人は誰とどのように戦ったのか何を得たのか
信長は3人の中でもっとも非情かつ残忍である、大虐殺をいくつか行っている、まずは叔父や実弟を権力争いで殺した、それから信長出世の一番の見せ場、桶狭間の戦で東海道最強の今川義元を殺し、天下とりダービーに名乗りを上げる、この時10倍の敵に立ち向かっての勝利、この戦で家康の運も開ける、今川の人質武将だった家康はこの敗戦で独立を果たし、今川から信長側に寝返る。
信長はようやく正真正銘の愛知県知事になった、岡崎市長に返り咲いた家康を支援し義兄弟となる、それから信長は岐阜県を目指す、ここには斎藤道三という煮ても焼いても食えぬ老獪な親父が岐阜県知事だ、これには敵対せず娘をもらって親戚になった、その後この親父は息子に殺されてしまう、仇討ち名目で信長はとうとう道三の息子を追っ払って岐阜県を手に入れる、このとき信長の家臣でまだ課長級の秀吉が活躍してデビューを飾る。
これで信長は愛知県、岐阜県の県知事を兼任、さらにうまいことを言って三重県も手に入れたうえ滋賀県北半分を領する浅井に妹を嫁がせて親戚になり、滋賀県南部の六角を攻撃して京都に一歩近づく。
さてここから信長の集団虐殺が始まる、まずは浅井のボスである福井県知事朝倉一族を殲滅、ついで反旗を翻した妹婿の浅井一族も殲滅、妹の息子を串刺しで殺し、浅井、朝倉の大将の頭蓋骨で造った金杯で酒を回しのみしたとか
それからは順不同だが比叡山の僧侶や妾など数万を皆殺し、伊勢長島の宗徒数万皆殺し、親の代からの老臣を追放して殺し、反旗を翻す家臣を次々誅殺、強く反抗する敵をだまし討ちしたり、家臣を疑って追放したことも何度もある、また敵将の妻となった叔母を逆さ張り付けで殺した、光秀に討たれる半年前くらいには甲府に攻め込み名刹恵林寺を名僧ともども焼き尽くし武田一族を殲滅した、この時点での信長の領土は西は岡山、鳥取、東は山梨、長野、群馬、北は富山、石川、福井までで、当面の敵は越後上杉(勝利目前)、広島毛利、四国長宗我部の3方面だった。
秀吉は信長の配下として、できるだけ兵を殺さず勝とうとして気長な包囲作戦が得意だったがそのため鳥取城では飢えた人が死んだ仲間の肉を食べるような干し殺し作戦も行った、信長の死後は織田家重臣の跡目争いで電光石火の戦いで明智光秀、柴田勝家、滝川一益を殺し、信長の三男信孝も殺した、しかしその後は小田原攻めなど貫禄の戦争を続けてとうとう日本統一を果たした、しかし息子が生まれてから人が変わり晩年は狂った醜い権力者になり、朝鮮に二度にわたり侵略戦争を行ったり、姉の息子(関白)とその妾、子供数十人を公開処刑、茶道の師匠の千利休を自害させたりと安らかな死を迎えることができない汚点を残した。
家康はどうか、この苦労人の単独の戦争は信長が死んだあとからが本番だ、早くに屈強の武田遺臣を取り込み難なく甲州を占拠、織田の後継者争いに加わって秀吉と睨み合ったが勝負は引き分け、それからは秀吉を立てたがその死後にいよいよ天下取りに動き出す、関ヶ原で西軍を破り、また14年辛抱してついに秀吉の息子秀頼と生母淀君を殺害して江戸時代の基礎を固めた。
ずるがしこい狸親父などと言われるが、家康の戦争には信長や秀吉のむごさは無い、ただ淡々とするべき戦争をするだけで、勝つための当然のことを当然のように事務的にやっているだけという感じがする、まさに剛直素朴な三河武士の面目躍如、それに敗れた敵は家康が卑怯だから敗れたのでは無く、家康ほどの能力もなく、努力もしなかったから負けたのだ、写経を続け、毒を混ぜた薬を飲んで免疫をつけたり、健康を保つ努力を続け75年の長生きをしてとうとう天下を手にした。
太原雪齋に学問教養と兵法を学び、信長の天才カリスマを間近で感じ、偉大なる武田信玄に実戦を学び、無欲正義の人、謙信から人の道を悟り、天才軍略家、秀吉をライバルに育った家康は、戦国天才武将の全てを吸収合体した戦国集大成の人物だったのだろう。
おしまい