74歳になった、私と自動車との付き合いも長い
自動二輪の免許を取って57年、普通自動車免許が56年、大型免許は38年になる
いずれも趣味のためと言うより、仕事のためにとったという方が正しい
高校生の時には家業の配達のためにとった自動二輪と普通免許
それまでは自転車で配達していたから、足腰はそれで強くなったともいえる
家業は魚屋+仕出し店で魚の配達を手伝っていたが、自動車免許を取ってからは仕出し料理の配達も手伝うようになった。
板前修業に行った時も、傍らその店の仕出し配達もした
個人宅への法事や祝い事の料理を運んだり、寺へも法事や葬式料理を20人前、30人前と運んだ、御膳一式すべて届ける時代だった
もっと大変だったのは、結婚式場への配達で、これは普通でも50人前以上だったからワンボックス営業車で二台くらいで運んだ、一人前が9品、それに籠盛りも人数分運ぶ、それに一の膳、二の膳も人数分、更に銚子、盃、はかま、箸、風呂敷まで届ける
しかも部屋に配膳までしてくる、今思えばよくやったものだと思う
結婚式が終われば30分以内で片づけをしなければならない、次の夜の部の披露宴の準備があるからだ
残物を全て処理して、皿、御膳すべて回収してくる、式場の仲居さんたちが片付くのを待っていて終わると同時に換気、掃除、準備を行うからうかうかしていられない。
寺の場合はお御堂で配膳してくるが、法事を行っている間に控えの間か、御堂の裏の狭い仮納骨室で料理を膳に配膳するのだ
それは、御膳を縦に7つくらい重ねて、御膳の足の間から5品を差し込んでいくという技で、それもすぐに慣れた。
二の膳には4品を入れていく。
大型免許はマイクロバスを運転するためにとった、お客様の送迎だ、板前をしながらバスの送迎もした
だから忙しいこと忙しいこと、毎日が時間との戦いだった、38年間、いろいろな職種の送迎バスの運転をしたのだったが、70歳でやめた、来年の書き換えでは大型免許は返還する。
人を乗せる運転だったから、普通車でも人を乗せていると安全運転に気を遣う
だから割と私の運転は「がっつん、ごっつん」にならないから安心感があると言われることが多い。
観光旅館の仕事の時には、県をまたいでの送迎もたまにあった、そんな時は片道100km以上を送迎したこともある
また上田市の老人会から送迎依頼もあったが、さすがに何かがあれば困るので、それは中止になった
取引があった富山の旅館業者などは毎日のように群馬県まで送迎していて、手伝いを頼まれて行ったこともあったが日帰りと言う強行軍で一回きりで社長が断った。
結婚式場の仕事の時には、特に気を使った、何より自分の服装も決めていかなければならないし、ヘアスタイルから話し方まで注意が必要だった
当然板前兼用と言うわけにはいかず、運転手専門だった、これも県をまたいでの送迎が度々あった
送迎以外は暇が空くので、披露宴の裏方を手伝う、新郎新婦の入場の時にドライアイスの演出があるが、あれを担当した
2会場掛け持ちもあった、30分差なので会場から会場への移動、ドライアイスの取り換えや温湯の管理など、慌ただしかった。
でもきれいな花嫁さんを見ることが出来たのは嬉しかった、キャンドルサービスの時にはスポットライト係をして、新郎新婦を追った
同時に調光の仕事もあるので幾つもある調光器のボタンを薄明かりで見定めてやるのもテクニックが必要だった。
仕事と車はこんな風だったが、趣味のドライブも楽しんだ
マイクロ運転は、同級生旅行、友達との旅行、ボランティア団体と、ほとんど自分から買って出て運転した、とにかく運転するのが好きで好きで仕方ない
一日300~400km平気で走っていた。
乗用車だと日帰りで600kmくらい走ったこともある
74歳の今でも1日200kmは肩慣らしで、300kmくらいは走ることができる
というより走りたい、でも50代ころのように400kmも走れば、流石に下りた時フラフラする、途中で足に痙攣が来ることもあるし眠気もでてきた
見学しながら一日250kmくらいが一番良さそうだ。
人生を振り返ってみれば冠婚葬祭と、料理と、観光の仕事ばかりだった、ある意味、動的な部分で自分に合っていた仕事を形を変えながらやっていたと言える
静的な部分で考えれば、恐竜や宇宙の学問か、歴史研究、物書きをして見たかった、あるいはゲーム作り(当時はボードゲーム)または確率とかデーターの活用ができる仕事・・・いまさら、詮もないが。
80歳まではドライブを続ける気持ちである。