今朝は4時50分に目が覚めた
早くも裏の土手の竹藪や、大きく広がるヤマザクラの枝の茂みに小鳥が来て
かしましくさえずっている
今日は一年一度の共同墓地の草刈り清掃だ、会員は地区内が多いが県外にも
会員数は100数名だという、そのうちの40名ほどが参加して掃除をした
大理石の廟もきれいに洗い流し、もとからある薬師堂の周りの草もきれいに
刈った
毎年やっているが、未だ雨が降った日はない、小一時間で終わり
その場で立ったまま10分ほどの総会を行った
私の父はこの廟の建設に力を注ぎ、遠く信州駒ケ岳の麓の霊場近くにある
採石加工工場を、廟建設を請け負った地元建設会社の社長等と訪れて
廟の碑石を購入した、私も運転手として一緒に行ったのだが、あれから
もう20年は経っただろうか?
社会党系の地元市会議員が初代会長になり、亡くなった後、父が2代目の
会長になった、体調が悪くなって元高校教師にバトンタッチしたが
その人も具合が悪くなって職務が全うできなくなって以降、会長不在で
会計さんが一人で10年近く兼任してきたのだ
歳は70代後半で一見弱弱しそうだが、誠に実直まじめで責任感の強い人
さすがに最近は弱音が出るようになったが、ようやく今回新会長が決まった
市役所を定年して間もない、市の元課長、この方も会計さん同様真面目で
腰の低い人だ、若いからしばらくは会も安定するだろう
掃除中でも一人だけ除き、全員がマスク着用で掃除をした
帰り道、土手の上の竹藪を見て気づいた
前にも書いた気がするが、今は舗装道を車が通るが、昔はもっと自然豊かな
場所で、細い農道が丘の上の池まで続いていた
その池に小学生の私たち数人で日曜日になるとフナ釣りに行ったものだった
そのうちに竹藪の中に家があるのを発見して興味津々で行ってみた
昭和30年代は今のような近代的な家はどこにもなかったが、その家は
家というより小屋的なあばら家で、多分、電気などなかったと思う
いつ行っても薄暗い家だった
そこに寝間着姿のやせた爺さんが猫と暮らしていた、家具もなく
仕事などしている風もなかったから、きっと近くに飯を届ける家族が
いたのだと思う、何かの事情があって一人暮らししていたのだろう
年齢は今考えても全く見当がつかない、髪もぼさぼさだった
それでも30歳は過ぎていただろう、自分の親よりもはるかに老いていたから
私たちは「竹藪の爺ちゃ」と名付けて、家からご飯のおかずの残りをもって
爺ちゃんに食べてもらうのが楽しみだった
中学生のころ風の便りで、竹藪の爺ちゃは今でいう「孤独死」しているのが
発見された、猫がそばにいたそうだ
敗戦から10数年間は、祭イベントなどがあると白衣の傷痍軍人が松葉づえで立ち
隣でアコーディオンを弾く白衣の人がいて寄付を募る
虚無僧という人もたまに尺八を吹いて家の前に立ったり、子供から見ると興味深い
謎の生活をしている人が結構いたものだ
在日朝鮮人も地域には結構住んでいた、すぐ近所に「金しょうき」という
同級生がいた、昭和34年ころかな小学校1.2年生頃で、数回遊びに行ったことがある
その後、北朝鮮に家族と帰っていったそうだ
貧しさはそこかしこにあった「橋の下の乞食」というが、本当に鉄橋の橋げたのところに
大きな袋を持った乞食さんがいたのを覚えている
防空壕が近所にたくさんあり、水車小屋があり、その周辺の田んぼには夏だと
蛍が幻想的に光って飛んでいた