なぜなのか? 織田信忠は思った
次々と重臣が離れていく、とうとう信頼していた丹羽長秀まで国に帰った
いまや信忠に従うのは美濃の家臣団、稲葉などわずかである
後は近江、伊賀を任せた蒲生、全て集めても4万の兵が精いっぱいなのだ
これで織田宗家と言っている自分がおかしくて仕方ない
どこでどう間違えたのか? こんなはずでは無かった 父、信長の威光は自分をも同じように主君と崇めるのではなかったか?
自分の一声と采配で万余の軍団が示す方向にひたすら駆けていくのではなかったのか
今や自分に横柄な秀吉などは父の前ではネコの前のネズミの如く脅えていたではないか
それに比べると自分の小ささがこの頃はより強く思うのだ
父と同じ力を受け継いでいると子供の時から思っていた、なのにどうしてこれほどの差がでるのか
武田を滅ぼしたとき自分が采配を振った、自ら指揮して高遠城の武田の仁科五郎信盛を一日で攻め滅ぼした
あれは自分の力であった、たしかに自分が滅ぼしたのだ。 10万という大軍が自分に従ったのだ
だが今の自分の身を思えば、あれは自分とは違う人間だったのでは無いか?
そんな風に思えば思うほど心が萎んでいく、信忠にはもはや天下に号令する気力は失せていた
(いっそ信雄とおなじように出家しようか)
今や思うのは天下布武ではなく、静かな暮らしであった
我が身を恨む、父、信長を恨む、農民のように自由気ままに暮らせたらどれだけ幸せか
「殿、たいへんでございます」小姓が青ざめてやって来た
「何ごとか?」
「信孝様が攻め寄せて城を取り囲んでおりまする」
「さもあらん」信忠は落ち着いて答えた
「信孝の使いを此処に呼べ」「はは!」
信孝の重臣が目の前に平伏した
「信孝の望みは何か?」
「恐れ入りまする、主の言葉を申し上げまする
ご宗家様には速やかに政権を信孝に譲り、京の何処かの寺院にてお健やかに過ごされまするように、との事でござりまする」
「ははは! さすがは弟よ、わしの気持ちを全て知っておるわ
あい分かった、信孝の申すこと余さずききいれようぞ
明日にも、この城明け渡し都へと参ろう、そう伝えよ!」
「承知仕りました、これにてごめんいたしまする」
使者は信忠の返事に面食らった、当然戦になると思っていたが意外な返事であった、何かたくらみがあるのでは?
いともあっさりと申し入れを全て聞き入れたのだから
信孝は疑い深かった、信忠が素直に受け入れたことになおさら疑念を抱いた
(もしや秀吉を頼って反撃するのでは?)
そう思うといても立ってもいられなくなった
そして刺客を送った。 都へと向かう信忠一行を山科への峠道で襲って皆殺しにした、ここに織田信忠の命が消えた
1584年1月の事であった
中原で生き残った織田の有力候補は織田信孝、ただ一人となった
ところが事は信孝の思い通りにはいかない
美濃で信忠に仕えていた稲葉一徹は三河の徳川家康のもとに逃れた、そして事の顛末を伝えた
家康は、ただちに兵を整えて国境の守りを厚くした、さらに出家していた織田信雄を還俗させて浜松に呼び寄せた
信雄は庶腹の三男坊信孝以上に織田家相続の正当性がある。 信忠と同腹の次男坊なのだから
家康は信雄を旗印にして尾張、美濃の奪取を描いていた
ところが家康以上に速く動いた者がいた、それは河内にいた秀吉であった
近江の南部一帯を信忠から任されていた蒲生氏郷が秀吉傘下になることを条件に主君の仇討ちを願ってきたのは信忠殺害の2日後だった
秀吉にも仇討ちの他にも大義名分がある、それは信長の4男秀勝を自分の養子にしているからである
条件的には伊勢の神戸家へ養子に入った信孝と同じである、信雄も伊勢の北畠へ養子に入った身である、まさに養子同士の争いになった
そんな中で秀吉は一枚上手だった、岐阜城から蒲生の元に落ちてきた信忠の側近が連れてきたのは信忠の嫡子三法師であった
秀吉はこれを蒲生氏郷から受け取った、これは養子の秀勝を旗印にするよりもたしかな旗印となる
何といっても信長の直系の孫で総領なのだから、この時三法師はまだ4歳の童であった
そんなことにはおかまいなく秀吉が5万と言う大軍を率いて河内を出たのは信忠が死んだわずか5日後であった
中国大返しを行った秀吉ならではの神業であった、だが今の秀吉にとってこれくらいは朝飯前である
すでに信長の軍団編成にも劣らぬ組織を持ち、日頃より兵糧から武器まで徹底して準備していたし、堺や瀬戸内の流通から上がってくる資金は莫大であった
とても信孝ごときの前近代的な武士とは300年も頭の構造が違うのだ
そういう意味では田舎者でがちがちの三河武士の徳川家康もかなわない
むしろ青苧の生産で日本海海運交易をしている上杉景勝の方がよほど開けている
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