新潟県は北の海上には世界遺産になったばかりの金山の島、佐渡島、更に日本海を乗り越えていけば大陸沿海州へと続く
北東の端は村上、胎内で海上には粟島、海沿いに山形県に続き、少し下がって村上市坂町からは荒川の狭くて美しい峡谷に沿って、山形県小国町から山形県最南端の米沢市へと出る
東北東は新潟市、阿賀野を越えて阿賀野川の渓谷を福島県会津地方に続く
東は長岡市から魚沼、湯沢を経て山間の穀倉地帯越後平野を越えて、群馬県に入る
南西には上越市から妙高市を経て長野県長野市へと続く、長野市は近い
西の端の糸魚川市から南の狭い姫川峡谷を下り、長野県北部小谷村、白馬村、大町市へと続き、右手には2900mの峰々、後立山連峰(北アルプス)の白馬三山がそびえる、こここそ日本列島を二分するフォッサマグナの西の端
糸魚川からはもう一路、西に向かい天下の険、親不知(おやしらず)を越えて富山県東部に入る。
新潟県の政治、経済の中心は明治以降は新潟市であるが、戦国時代から江戸時代まで今の上越市が越後国(新潟県)の中心だった
上越市直江津地区には戦国時代よりさらに昔、国分寺があり政治の中心であり
直江津の湊は青苧の交易で大いに栄えた
同じく春日山には武田信玄と共に戦国最強と言われた上杉謙信の居城がある
ここから越後国内の諸豪族を統率したのだった
さらに下れば、越後高田は江戸時代初期には徳川家康の六男、松平忠輝が75万石の大身として信州川中島を含む広大な領地を治めて、名実ともに越後国の中心であった。
新潟県は北東から南西に海岸線が伸びる長い県で、面積は福島、長野に続いて全国5位の広さ、それゆえに高速道路の総延長でも北海道に次いで全国2位である(2021年)
新幹線やJR+三セク鉄道の総延長でも日本トップクラスの長さである
ところがこれでもカバーできない地域が多い、西端の糸魚川地域からは県庁新潟市への直通列車が一本もない
そのため東京には2時間、長野市まで30分足らずで行くのに、新潟市へ直通で行くためには高速道を2時間走る、JRだと3時間かかる、まるでどこの県かわからない状況である
富山県が県内を鉄道路線網でくまなくカバーしているのに比べると不便この上ない新潟県なのだ
上越地域の中心、高田からも新潟市への鉄道路線の利便性は不自由だ
これはJR東日本と西日本が新潟県内で別れているためで、高速道路も同じである
糸魚川から直江津の区間だけが交通網では関西圏に属している
だから三セク線は直江津から富山県の泊駅までと越境しているし、大糸線は糸魚川から長野県大町までだから大糸線なのだが、長野県の南小谷で終点となる
これは電化の関係で、糸魚川から南小谷まではジーゼルカーの為である
これがネックとなって、全国有数の赤字路線となって廃線寸前である。
上越市直江津、柏崎市も北陸新幹線から外れているし、十日町市も上越新幹線から外れている
県が広く、山間部が多いので交通網が行き届かないのだ
かっては群馬県に行くのに三国峠を越えなければならなかった、冬は雪崩の巣窟で大勢が犠牲になっている、豪雪地帯なのだ。
関東管領になった上杉謙信の越後兵は冬、関東に出るために三国峠を越えることもあったらしい、その苦難はそうとうなものであっただろう
昭和になっても、戦後になっても、三国峠は新潟県から関東平野に出る障害であった
新潟県西山町で生まれた田中角栄も大臣、総理大臣になって三国山脈が新潟県と関東平野を閉ざしていることが新潟県の経済、交通の妨げであることに心を痛めた
そして三国山脈に穴をあけて関東と結ぶという誇大妄想的な考えを持った
当時は確かに、この考えは誇大妄想と言われるほどの難事だったのだ
田中角栄は演説で「三国山脈に穴をあけて、その土砂を日本海に入れて、佐渡島と本土を陸続きにすればいい」と言った
佐渡とはつながらなかったが、三国山脈には現在は新幹線も高速道路も一般道も通り、僅か数分、十数分で新潟県から関東に入ることができる。
謙信が関東へ出るために山脈を越えた。越山である
田中角栄の後援会は「越山会」といって、強固な郷土愛で結ばれた、これこそ京の都から遠く離れた辺鄙な越後で、上杉謙信のもと越後諸将が一致して山を越え関東平野になだれ込んだが如し
上杉謙信、田中角栄の二人の越後の英雄は共に三国山脈に挑んだのであった
そんな新潟県だが、ここ数十年、大臣が一人も出ていない、今度の衆院選では五選挙区すべてで自民党が立憲民主に敗れたパーフェクトディズとなった。
草葉の陰で田中角栄は、だみ声で「なにやってんだか?」とあきれ顔でいることだろう。
北アルプスが日本海に落ち込む親不知、20数キロ続く狭い砂浜を寄せ来る波を岩間に避けて旅をした、子が波にさらわれた悲劇が「親知らず、子知らず」の名の所以
親鸞も流罪になって、この海岸を歩いて直江津に向かった
上杉謙信が越中を攻める時は、山越えか船で渡ったのであろう。
藤式部の父、藤原為時は越後守として国府(直江津)までいかなる方法でここを越えたのだろうか。
街角トワイライト(シャネルズ)
新潟県は大きく分けると(私的に)、上越市中心の上越、長岡中心の中越、新潟市中心の下越、それに湯沢、十日町中心の魚沼、佐渡の5つに別れます。
なにしろ北から南まで250kmほどあるので、生活習慣も風土も土地土地で特徴がありますね。
富山県、長野県に接する上越地域の言語、アクセントは他の新潟県内とはかなり違います
中越、下越と北に行くほど東北なまりのアクセントに近づきます
佐渡は独特です、昔から流人の島で、本州とも離れて独自の生活圏を作り、京都から流された文化人がいたので、京風の優しい言葉遣いが所々で見られます。
まれ育ち。二人は長じてそれぞれパートナ
ーを東京と神戸で見つけたが相手のご両親
は加茂と長岡の出の方だった。お嬢さん二
人は共に生命力あふれる方々です。
神戸と東京で信州人と新潟人が一緒になる
んかいと当時は思いましたね。ちなみに私のパートナーは神戸人ですが幼児の折から
石見の国で育ったやはり流れ者の系譜につ
ながる者です。
「縁は奇なもの」と言いますが、これだけ複雑なご家族の移動歴、本人もいったいどこがホームかわからなくなりますね
でも、信州と越後で治まるところは何かの因縁でしょうね
諏訪の守護神は大和に抗って敗れ、越後から諏訪へ逃走したタケミナカタ尊(大国主神とヌナガワ姫の息子)ですよね
越後と信州はこうした縁で結ばれているのでしたね。
我が父も親は新潟と栃木出身、生まれたのは茨城、暮らしたのは東京で、戦後で食い詰めて実父の里に流れてきました
東京でも御徒町、神田、亀戸、上野、調布と転々としていました
父の養父は日本橋の江戸っ子、母は栃木の生まれ、鬼怒川温泉で知り合う
まあ都会は日本中から人が集まるから、思いがけない組み合わせは多いですよね
そんな中から、故郷に近い人を選ぶのも人の性なんでしょうか。