豊臣秀吉と言う、たった一人の最高権力者の命令で、ここで死んでいく女たち
刑場に集まって来た見物人たちも、子供の姿を見て涙した
誰からともなく、刑の執行に対して怒りの声、助命の声が聞こえてきた
40名近い人たちの刑の執行は1時間余りかけて行われ,
最後に首を斬られたのは哀れにも最上義光の娘、15歳の駒姫であった
哀れと思い直した秀吉からの、駒姫の刑執行停止の使者が刑場に着いたのは、全員の遺体が折り重なった深く大きな穴が、砂と土に埋もれた後であった。
同じ頃、秀吉は大坂城で、間もなく三歳を迎える秀頼と戯れていたのだった。
その姿は孫を可愛がる好々爺そのもので、自分の命令で、秀頼と同い年の子まで殺された三条河原の惨状が行われていることなど、気にもかけていないようであった。
縁側には、淀殿もいて「あれ!危ない、あれ!立ち上がりなさい」などと一挙手一投足ごとに声を上げて笑ったり、叱ったりして家族の団欒を楽しんでいる
そこに使者が訪れ、「三条河原は、全て終わったそうです」と伝えた
秀吉は「そうか」と言ったあと、「三成に、手筈通り聚楽第の破壊を早々に執り行うように、塵一つ残すなと伝えよ」と言いつけた。
聚楽第は一か月にわたって破壊しつくされた、まったく跡かたなく更地になった、秀吉は甥の秀次が生きていた証を全て消し去ってしまった。
それだけしてもまだ腹の虫がおさまらないのか、秀次の最初の城だった近江八幡城も破壊した。
一体何が秀吉をここまで追い込んだのであろうか、それは21世紀の今も謎のままである。
この愚行は、豊臣家の力を半減させた上に、子飼いの家臣、福島、小早川、黒田、蜂須賀、浅野までもが秀吉を疑うようになった
(拾い様を守るためには、親戚縁者の我らも濡れ衣をかけられて、一族粛清されるのではないか)という思いが深まっていった
無理もあるまい、次の天下人に自ら指名した秀次は姉の子なのだから、それに関連した諸大名、家老、妻子までも殺しつくした
それが天下一の関白であっても容赦なく誅殺、また右大臣だった公家から、摂政家の近衛、三条までも脅したのだから、大名の一家や二家を抹殺することなど造作もないだろうと思った
秀吉の取り巻きは、秀次を「殺生関白」と罵ったが、大名たちの家臣の間では秀吉のことが「殺生太閤」とささやかれた。
諸大名は、秀吉の何をしでかすかわからぬ老いに恐怖を感じて、何も言わなかったが、その心は次第に秀吉に匹敵する力を持つ徳川家康に近づいて行った
豊臣家に未練ある大名は、北政所と前田利家に救いを求めて集まった
豊臣家は秀吉&淀殿と、北政所&前田利家の二大勢力が出来上がった、但しこれは敵対関係ではない。
怖いのは徳川家康&反豊臣家勢力の芽が出てきたことだったが、秀吉には、その危機感が全くない。
秀吉は、秀次と言う藪を焼き尽くして、徳川と言う大蛇を目覚めさせたのであった。
秀吉は老境に入ってから、次第に感情の起伏が大きくなってきていたが、秀次事件が起きて以後、ストレスのせいなのか、ますます激しさを増してきた
それは躁鬱症なのであろう。
家臣らの輪に入って若き日の話を聞かせて、大いに笑わせ、自らも楽しくてならぬといった様子で笑い転げる
ところが家臣の些細な一言に、突然激高して「下郎、手討ちにいたす!」などと言う、皆が必死に止めて何とか治まるが、秀吉は怒ったまま去っていくこともしばしばであった。
だから周りから見ていても、秀吉が次に何をするのか、何を言い出すかと戦々恐々であった。
多くの大名や武将がこの事件で罰を受けたが、まだ何人も裁きを受けていない
いつ、なんどき切腹を命じられるかわからない
そんな最中、ついに秀次の付け家老であった、山内一豊、田中吉政、中村一氏、堀尾吉晴にも呼び出しが来た。
「いよいよ我らも死ぬ時が来たようだ」などと覚悟を決めて伏見城に彼らは行った。 奉行から刑罰の軽重が申し渡されると思っていたが、意外にも秀吉自ら現れて、正座に座った
そして口を開いた、四人は緊張して言葉を待った
「その方ら、此度の秀次の事件に於いて、儂の意を汲んで秀次を諌めたとのこと、家老としての務め果たしたことに秀吉感謝しておる。
この功績を皆々の模範となるよう、加増して賞するものなり」
思いもよらぬ言葉であった、下手したら切腹と思っていたが逆の結果であった
この話を聞いた徳川家康は、「太閤は、あまりにも多く身内と、大事な家臣を殺してしまった、ようやくそのことに気づいて味方造りを始めたのであろう、だがもう遅い、万一の時にどれだけの味方が集まるであろうか」
八月に入るとまもなく朝鮮にも「秀次誅殺」の知らせが届くようになった
これは派遣軍を動揺させないために、石田三成らが朝鮮に渡って知らせたものである、そのため大した混乱は起きなかった
この年はこうした日本を割るような大事件が起きたが、静かに過ぎていった。
翌文禄七年(1596)が始まった
四月、明国、朝鮮から正使と副使が釜山にやってきて、小西行長に接見した。
そして海が落ち着く六月に渡海して名護屋へ使節団が行くことに決まり、秀吉に知らせたので、畿内で退屈していた秀吉は喜んだ
ところが、そんな矢先に明の使節正使が突然行方をくらました、それは外交官沈から「明皇帝の正式文書を秀吉に渡せば、その瞬間に使者の首と胴は離れるだろう、倭の皇帝秀吉は恐ろしい男である、昨年も次期皇帝の関白と一族全て殺したのだ」と言って、自ら書いた偽の文書を届けるように言った
生真面目な正使は、恐れて逃げ出したものと思われる
それでも副使は、沈の言うことを受け入れて、偽文書を渡すことに同意した
ので、副使を正使に格上げした
だが小西行長は「念には念を入れねばならぬ、沈殿、そなたも副使と言うことにして日本に行ってくれ」と言った
沈は渋ったが、小西に押し切られていくことになった。
明の皇帝の正式文書は「日本が大明に降伏したのは殊勝である、秀吉を倭国の王に任じる」というものであり
秀吉は「明国皇帝が正式に秀吉に降伏臣従する」ことだったから全く正反対なのである。
だから使者は偽の文書を秀吉に渡さなければならない。
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