80分の1丁目16番地

ペーパースクラッチによる車両作りを中心に1/80、16.5ミリゲージの鉄道模型を楽しんでいます。

腕木式信号機と旧型国電

2023-10-21 13:44:20 | 実物・資料系(過去)
だいぶ以前にフィルムスキャンしてそのままになっていた画像データが出てきました。身延線の旧型国電などを写した数カットで、撮影日や撮影場所、車号などが不明だったのですが、このたび一定の解明ができましたので公開したいと思います。

撮影はおそらくすべて同一日で、アコモ改造以外の旧型国電が淘汰される1981年の少し前、1979~1980年頃の撮影ではないかと思われます。腕木式信号機が写っていますが、この時期に旧型国電と腕木式信号機の組み合わせは珍しかったそうです。西富士宮以北はタブレット閉塞でもあったとのこと。


画像ファイル名は恐らくコマ順なのだと思われますが、その先頭に移っていたのがこのクハ55でした。顔つきは一見して奇異で強烈なインパクトがあるのはもちろん、貫通扉も中間車然とした「おざなり改造」でサハ57からの改造車であることが分かります。旧国写真を載せているサイトと当時の静ヌマの配置表から、運転台側窓が小さいクハ55319と推定されます。撮影場所は後述のとおり身延駅の側線の先端であることが分かりました。



次のコマはいきなり線路ぎわからのショットとなり、EF15が迫ってくる様子が捉えられています。画角の関係で不明瞭ですが貨車を牽いていないように見え、単機回送ではないかと思われます。ナンバーが隠れていますが49号機のようです。撮影場所は、駅撮りをしているのがどうやら身延駅らしい・・・という仮定で、周辺の地形などをもとに割り出したところ、身延駅から南へ少し歩いた県道脇あたりではないかとの結論に至りました。当時は怖いもの知らずでこんなに接近して撮っていたのだなあとしみじみ。



同じ場所から、下り甲府方面行き列車がトンネルから出てきたところを撮っています。ご存じ身延線のヌシ、クモハユニ44です。800~803が存在したようですが、前パン全低屋根スタイルで運転台窓が小さい801と判定しました。



切り通しを行くアコモ改造62系のクハ66です。どうも前の2枚はこの斜面を下りて撮ったらしいのですが学生時代とはいえ元気ですね。。さすがにアコモ改造車ともなると車番の判定は難しく、富士向きのクハ66300番台としか分かりませんでした。窓を全開にして身を乗り出さんばかりの乗客は非冷房時代ならでは。



駅へ戻っています。この、奥へ突っ込んでいる電留線というか側線の特徴をグーグルマップでつぶさに探した結果、身延駅であることが判明しました。足しげく通われた方なら一発で分かったことでしょう。旧国4連が留置されていて、その右には腕木式信号機がしっかり写っています。一番手前のクモハは何やら特徴がありそうなので拡大してみます。



運転室脇に通風ガラリ様のものが見え、後位端の窓が独立しているように見えます。両運転台のモハ40を始祖とするクモハ41850とみて間違いないでしょう。次位は窓配置からクハ47100番台のようです。冒頭のクハ55はこの編成の反対側を写したもののようです。



そして最後のカットがこちらです。甲府方から進入する列車で先頭はクハ47の0番台(オリジナル)か50番台(サハ48改造)。オールHゴム前面窓、助士席側ワイパー付、引出し式快速サボなし・・・といった特徴から008ではないかと推定するのですが身延線マスターの皆様いかがでしょうか?こちらにもバリバリ現役の腕木式信号機が写っています。



残念ながら発掘できたのはこれだけですが、旧き佳き身延線旧型国電の時代風景を少しでも自力で切り取っていたことに「自分を褒めてやりたい」。

※間違い等があれば情報をお寄せいただけると嬉しいです。

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EF58 60

2022-09-20 21:17:03 | 実物・資料系(過去)
お召機EF58 61が鉄博入りするということで、ここしばらくTwitterのタイムラインが賑やかでした。
カマなどほとんど撮らない身ですが、たしか品川駅で撮ったロクイチがあったよな・・・と思って探してみたが見つからず。。
代わりに、広島駅で撮った予備機60号機の写真がでてきたので、デジタル保存の意味も込めてアップしておきます。


撮影日は昭和56年(1981年)9月7日と記録されています。何番線か分かりませんが切り欠きホーム側からEF5860が牽く荷物列車を撮っていて、機関車次位にマニ60、その後ろはスニ40でしょうかシルバーの車体が見えます。隣には115系(2000番代?)、後方には「STATION HOTEL」と書かれた駅ビルが写っています。




機関車のアップです。Wikiによれば、この写真撮影の2年前にあたる昭和54年(1979年)の愛知県植樹祭に際して久しぶりに予備機として整備されたとのことで、確かに手すりやエアタンクのバンドなど要所にお化粧の跡が残っているのが分かります。ぶどう色2号の車体もかなり綺麗に見えます。残念ながらこの2年後の1983年には廃車・解体されているので貴重な記録になりました。バシバシ撮れないフィルム写真時代とはいえ、好きな電車・ハコモノ以外にももう少しカメラを向けておくべきでした。



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懐かしの近鉄電車

2020-02-23 09:18:35 | 実物・資料系(過去)
860系の製作にちなんで古い近鉄の写真をお目にかけましょう。残念ながら860系そのものの写真はありませんでしたが、非冷房・マルーン時代の自分的にはドストライクな時代の姿です。
昭和52年(1977年)3月に友人と関西私鉄撮影旅行に行った時のもののほか、同じ年の10月の記録があるものもあり、こちらは京都・奈良への修学旅行時に撮影したようです。
ハーフ版絹目プリントからのスキャンなので画質はお許しください。

860系の前身の820系のさらに始祖となる800系。1度見たら忘れられない(笑)湘南顔のやつ、確か撮ってたよなーと思いつつ探したらありました。前面サボから貸切で使用中のようです。窓下のシルバー帯が特急車の風格を残してますね。

(800系モ812/昭和52年(1977年)10月、橿原神宮前駅にて)


何気なく撮った1枚ですが6826の車号が読め、6800系すなわち「ラビットカー」ではないか。渋いぜ!!

(6800系モ6826/昭和52年(1977年)3月、古市駅にて)


4扉大型車体なのに3桁番号ということで割と好きな900系。橿原神宮前駅の構内踏切で撮ってます。これも修学旅行時でしょう。確かグループ行動で自由に回っていいよということで電車であちこちまわった記憶があります。

(900系ク953/昭和52年(1977年)10月、橿原神宮前駅にて)


構内側線にたたずむ6000系。こちらも「貸切」ですね。時まさに修学旅行シーズン。あおぞら号で運びきれなかったか、乗る程の距離でもなかった学生・生徒さん達が使ったのでしょう。

(6000系モ6003/昭和52年(1977年)10月、橿原神宮前駅にて)


同じく6000系。河内長野駅で撮ってます。あべの橋行準急のサボが出ています。左端で同行した友人が“おいた”をしているのでカット(笑)

(6000系ク6105/昭和52年(1977年)3月、河内長野駅にて)


「奈良 難波」のサボを出して近鉄奈良駅で発車待ちの8000系。これも10月と記録されているので修学旅行時ですね。

(8000系ク8585/昭和52年(1977年)10月、近鉄奈良駅にて)


形式が分かりませんがこんな運転室の写真も。たぶん8000系?何かの参考までに載せておきます。

(形式不詳/昭和52年(1977年)10月、近鉄奈良駅にて)


ということで模型製作が進まない時の常套手段、古い実車写真で時間稼ぎのコーナーでした♪
同じ頃の特急車の写真もあるので、また追って投稿したいと思います。

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土崎工場の出前運転?

2018-09-23 15:11:58 | 実物・資料系(過去)
実家で埋もれている古い写真のうち、「鉄」に関係するものは発見しだい引き揚げてストックしているのですが、だいぶ前にサルベージしてそのままになっていた写真の情報を解読してみたところ、実に興味深いことがわかってきました。

「走れ!ポッポ博」というイベントを撮った写真。場所は遊園地の入口のようで、てっきり川崎市にあった「向ヶ丘遊園」(現在閉園)だとばかり思っていたのですが、横浜市の「こどもの国」で1971年(昭和46年)8月から11月にかけて開催されたものでした。どうりで“向ヶ丘遊園”で検索しても出てこないわけで、某オークションサイトに出品されていた記念ネクタイピンの情報から判明しました。汽車の形のモニュメントが置いてあるのは、同園のエントランスと中央広場の間に架かる歩道橋です。これに早く気付くべきでした。



1970年前後は国鉄の無煙化まっただ中で各地でさよなら運転が行われていました。このイベントもこうした世の中の情勢に合わせたものだったのでしょう。ポッポ博全体の内容は定かではありませんが、恐らく1番人気であったであろうミニSLも運転され、その様子が以下にご紹介する写真です。


始発駅(にしては寂しい・・・中間駅か?)と思われる場所で発車準備中の列車。5インチゲージのようで、D51が5両の客車をけん引しています。後方には「ターンテーブル」と書かれた看板も見えます。線路はバラストを正確に敷き詰めた本格的なつくりに見え、カマを整備するスタッフのうち2人も正統派機関士のいでたちです。



駅を出る列車。どうやら制服の2人は本物の機関士と機関助士のようです。オリンパスペンEEで撮った荒い画質ですが機関車のナンバーは「D51 232」と読めます。調べてみるとこれは実機同様に国鉄土崎工場(秋田)が製作したミニSLでした。秋田駅の連絡通路に提示されているD51 554はじめ同種のカマが数両あるのではないかとのことです。当時はまだ工場の一般公開などそう多くはなかったと思うので、なぜ国鉄の現場がこうしたミニSLを造っていたのか不思議ですが、実車が淘汰されていく中で少しでも技術伝承を図るべく製作されたのかも知れません。果してこのポッポ博は、国鉄土崎工場が人も機関車も出した「出前運転」だったのでしょうか?ちなみに客車はブルトレ塗装と思われ、JNRマークが誇らしげに輝いています。




こちらが秋田駅構内に飾られているD51 554号機の近影。ブルトレ形客車は茶色のオハフ33に代替わり??していました。(2018年7月撮影)




線路は駅を起点とする「P」の字型に敷かれていたようです。駅を出た列車はポイントを右に進み、左回りで周回コースに入ります。周囲の景色は寒々としています。人々の服装から判断すると撮影したのは会期も終盤の10月下旬から11月ではないかと想像できますが、「こどもの国」自体がまだ開園から6年しか経っていない頃なので木々がまだ成長していなかったのでしょう。




列車が帰ってきました。「P」の字の内側に機関庫が設けられています。右手に少しだけ映っている建物の特徴(別のカットで大きな三角屋根の建物=皇太子記念館と判明)から、線路が敷かれていたのは中央広場の奥から左手方向にかけてだったと思われます。




ターンテーブルもありました。主桁のプレートに「国鉄土崎工場」と書かれているのがわかります。なんとターンテーブルまで自前で作って持ち込んでいたとは国鉄おそろしや・・・。2人のスタッフ(こどもの国の人か?)が回転させ、機関士と助士は乗務したまま。ミニSLとはいえ職務分担はっきりしてますね。




さて、最後の1枚ですが、上と同じ線路なのかどうかわかりませんが全くおもむきの異なる列車をカメラは写しています。おじいちゃんの運転する列車はまったく国鉄色がありません。機関車のプレートが判読できませんが、テンダーに大きく「YOSHIOKA」と書かれています。この方の持ち物なのでしょうか?この方が「YOSHIOKA」さんなのでしょうか?




これも調べがつきました。名古屋にある吉岡電気工業という会社の創業者にして先代社長、吉岡正直氏(故人)の製作した機関車であり、運転する「おじいちゃん」こそが恐らく吉岡氏ご本人ではないかと思われます。同社のホームページの「沿革」にミニSLを前にした同氏の写真があります。背後には「M.YOSHIOKA」とペイントされた、恐らく上の写真と同じものと思われる機関車が写っています。

(吉岡電気工業株式会社HPより)

同氏は1969年に黄綬褒章を授与されています。同社のスマートフォンサイトの「黄綬褒章」の解説には、「吉岡電気工業の創業者であった吉岡正直。 日本で初めて電気工事会社を創り、さらに夢あふれたミニSLの製造にも持てる 情熱のすべてを注ぎ込んだ男。それが高じて日本で一番古いSLマニアになった男。」と書かれています。1969年といえば上の写真が撮られる2年前。写真の客車には幼き日の私が乗っているのですが、実はすごい経歴を持った方の運転する列車に乗ったのだと、半世紀近く時を経て判明した次第。



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1981年の氷見線

2017-03-04 01:40:16 | 実物・資料系(過去)
こんばんは。久しぶりに昔の「鉄旅行」の話をしましょう。記録によれば時は1981年(昭和56年)10月10日。客車列車があった頃の氷見線の写真です。

ネガがないので時間軸がはっきりしないのですが、間違いなくこれが1日の始まり、最初の写真でしょう。
早朝の高岡駅の改札です。旧式の発車案内板には、5時、6時台の北陸本線と城端線、氷見線の発車時刻が掲示されています。右端に写っている時計の針は5:38を指しています。上野から夜行に乗って行ったと思うのですが記憶にありません。当時の時刻を調べてみると、急行越前の高岡到着が5:19、能登は6:10なので、越前に乗って行ったようです。しっかりロクサンの後押しで碓氷峠を越えていたのだなぁ。。




どのような行程か覚えていませんが、とにかく氷見線に乗っています。終点氷見駅のホームにキハ45(たぶん)を先頭にした気動車列車が到着しています。




この気動車はかなり長い編成のため氷見駅のホームを盛大にはみ出しています。それでもお構いなしに全車両のドアが開いているのがわかります。おおらかな時代でした。左にDE10が写っていますが、これが客レの牽引機です。




気動車の車内から客レを撮っています。DE10 51を先頭に茶と青の客車5、6両がつながっていて、2両目にはオハユニ61とわかる車両が見えます。気動車のドアは閉まっているようなので、発車時に撮ったのかも知れません。




雨晴で途中下車しているようです。キハ45(たぶん)の後追い。。なのかな?テールライトが点いてないようにも見えるけど??
この日は天候不順で急に大雨が降ったり止んだりという天気でした。まさに「雨晴」の名のとおり、ちょうど雨が上がって薄日が差してきた
ところです。腕木式信号機がいい味を出していますね。




高岡駅で撮ったオハユニ61 12です。この頃は客車列車自体が珍しくなっており、そのなかでも60系の合造車のオハユニ61はとても目を引く存在でした。




オハユニ61の車内も撮っていました。ニス塗りの直角椅子で網棚は文字通り網の棚です。




高岡駅にたたずむキ100形ラッセル車。この頃はまだ現役だったんですね。




高岡の後は金沢にも寄っていたようです。堂々とした旧金沢駅ビル。駐車場のクルマも時代を感じさせます。




側線にたたずむEF70 74と14系客車11両・・・さて何でしょう。臨時急行「加賀」が14系ハザを使っていたようなので、それかも知れません。




最後は北鉄金沢駅で撮影した浅野川線のモハ5101。形といい塗装といい、まことに“地鉄電車”然とした電車といえます。地下化以前の貴重な写真ですが、ホームや駅舎などの全景が写った写真はなく、残念ながらこれ1枚だけでした。




氷見線の想い出に触発されて、押入れの奥にしまい込んだままだったKATOのDE10と客車を出してエンドレス運転を少し楽しみました。DE10は手すりもナンバーも取り付けていない状態なので近々整備しようと思います。オハユニ61も欲しいですね♪




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