80分の1丁目16番地

ペーパースクラッチによる車両作りを中心に1/80、16.5ミリゲージの鉄道模型を楽しんでいます。

張り上げ屋根のオハ35(3・完)と仲間たち

2023-08-30 03:54:20 | 中央東線方面
張り上げ屋根のオハ35がほぼ完成しました。同時に作業していた2両とあわせてご紹介します。中央東線の1973年初頭の編成記録や当時の松本運転所配置車両から、新宿~長野間の423レをイメージした編成に仕立てたいと思います。

ぶどう色2号(GM)を吹いた車体。上から順にオハ61 2625(ペーパースクラッチのスロ62を先祖返り工事)、オハ35 3217(トラムウェイの戦後型B級品ボディ;元はブルー)、オハ35 2144(張り上げ屋根;KATO改)です。



オハ35 2144とオハ61 2625はキャンバス屋根のため、今回初めてタミヤの「NATOブラック」(TS-63)を使ってみました。ジャーマングレーより黒く、光線の具合によっては若干緑っぽさがみられます。これを風の強い日に遠めの距離からミストのように吹きかけ、なるべくザラザラ感が出るようにしました。さらに仕上げとしてマットブラックを同じ方法で薄く吹いています。マットブラックを普通に吹いただけでは質感がまったく出ないので少し研究してみました。



トラムウェイのB級品ボディを使ったオハ35 3217はブルーから茶色に塗り替えたわけですが、窓枠が窓ガラスパーツ側に着色してあるのでマスキングして塗り直すのは面倒です。幸いKATOのオハ35(茶)用のAssyパーツが入手できたのでこれに置き換えたのですが、窓単体ではぴったりはまるものの、主に屋根側の出っ張りと方々で干渉するので、思い切って窓を1個ずつ切り離してボンドで接着しました。



今回の主題・張り上げ屋根のオハ35 2144です。デッキ窓を1枚ガラスにしたので窓セルを別途用意する必要がありますが、それ以外は完成しました。編成のアクセントになる、なかなか個性的な1両です。



トラムウェイベースのオハ35 3217です。床板は付属していましたが台車はなかったので日光のTR34を購入して履かせ、ベンチレーターもエコーのガラベンを調達して仕上げました。ドアは別の完成車を買った時の余りパーツの木製ドアです。



オハ61 2625です。古いペーパースクラッチ品のスロ62が譲渡先の友人のところから帰ってきたのをきっかけに改造を始めたもので、まず低屋根を脳天唐竹割で開いてオリジナルに戻し、片側のデッキの復元などを経てオハ61に先祖返りさせたものです。窓セルがまだ入っていないのと、他車とのバランスからシートも入れないとですね。。インレタを貼っていて票差しもないことに気付きました。これらを仕上げれば真の完成です。



423レはこのほか、すでにスタンバイしているオハフ33 2558(トラムウェイ完成)、オハ35 2050(KATO完成)、オハフ61 2369(トラムウェイ完成)、マニ60 2051(ペーパースクラッチ;これも友人宅から帰還したもの)を加えた7両で組成し、EF64に牽かせる予定です。

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張り上げ屋根のオハ35(2)

2023-08-24 23:11:28 | 中央東線方面
オハ35 2144(長モト)の続きです。写真は継ぎ目瞬着充填→研磨→溶きパテ塗布→研磨まで終わった状態で、張り上げ部分を中心にさらにサーフェーサー吹きと研磨を繰り返すため、窓から下をマスキングしてサーフェーサーで厚塗りにならないように養生したところです。



おおむね下地が出来たところでデッキ上部の水切りをプラ帯で表現します。実車には縦樋が見当たりませんが、水切りは妻面に向かって緩い勾配がつけられているように見えるため、おそらく縦樋は内部に埋め込まれているのではないかと思われます。



あと、こちらのブログの2枚目の写真を見ると、デッキドアの窓は中桟がない1枚ガラスとなっています。荷物車では見かけますが客車のドアでは初めて見ました。写真ではこの1か所しか分からないので全てのドアがこのタイプか確証は持てませんが、スマートな車体に合わせてドアも新たなデザインを模索していた可能性は十分考えられるので、4か所ともすべて中桟を削除しました。



車体全体にサーフェーサーを吹いてすき間や凹凸がないか確認します。#1000の耐水ペーパーで仕上げたかったのですが、あいにく切らしていたのでとりあえず今日はここまで。



せっかくなのでこの3両を一緒にぶどう色2号で塗装したいと思います。一番上は「スロ62先祖返り工事」と題してスロ62からオハ61へ逆改造したもので、中段は先日JAMで購入したトラムウェイのオハ35戦後型ボディです。1973年頃の編成に組み込みたいので塗り替えることにしました。



そのオハ35戦後型ですが、家探ししたらぶどう色2号の木製ドアの余りが出て来たので装着しました。あとは塗装するだけ、しめしめ・・・と思ったら、窓枠も同色に塗り直さなくてはいけないことに気付いて一気にテンション下がりました。。KATOみたいにAssyパーツはあるのでしょうか?いや、そもそもちゃんと設計していれば同寸なはずだからKATOの窓ガラスパーツが使えるのか???



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張り上げ屋根のオハ35

2023-08-22 19:22:20 | 中央東線方面
罪庫をどんどん開封していくシリーズですが、さすがに仕掛り品置き場が満杯になってきたので今回でいったん最後にしたいと思います。今度のブツはKATOのオハ35(茶)です。これも今年に入ってから買ったのかな??



オハ35にはノーシル・ノーヘッダーや張り上げ屋根など、車体構造の近代化研究を目的とした「異端車」が多く存在したことが知られています。こちらのブログには、見る者を圧倒する(笑)張り上げ屋根のオハ352144(長モト)の鮮明な写真が掲載されているので、当鉄道でも1両作ってみようということになったものです。こちらの投稿にも、側面からの写真とブログ主様が製作された模型の写真が掲載されています。


実車は全溶接構造のようなので、まずはリベットをすべてカッターでそぎ落とし、#600と#800の耐水ペーパーで均しておきます。



続いて雨樋をカッターで削除します。幕板は屋根との境界まで垂直でないといけないので、実車写真のイメージに引きずられて丸みをつけようとせず、単純に雨樋だけそぎ取るように注意します。なお、この段階ではまだ車体と屋根は接着していません。加工中にはどうしても力が加わるため、接着してもパリン!といく可能性が高いためです。



注意はしているものの丸みをつけたくなってしまいます。力が入って屋根側へ削り込んでしまうとこんな感じになります。パテ盛り必須です。



ひととおり雨樋と縦樋が削除できました。横はピタッと合っているのに妻面は屋根との間に大きな空間が空いています。これは“仕様”なのでしょうか?今回はここもモリモリして埋めてしまいますので無問題です。



屋根と車体をABS用接着剤(左)で接着します。この接着剤はとにかく揮発性が高く、このぐらいの20m級車両だと、いくら急いで作業しても貼り合わせる頃には最初に塗ったところが乾いてしまいます。そこで、成分のほとんどがアセトンと思われる流し込みタイプのMr.セメントを隙間に流し込み(追いアセトン)、接着剤が緩んだところで強く圧着して完全に溶着させます。



この状態でひと晩寝かせて溶剤を飛ばし、さらに瞬着を流して完全に固着させてからツルテカの張り上げ部分を仕上げていく予定。





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JAM2023行ってきました

2023-08-21 22:27:51 | その他
この日曜にJAMを観てきました。最近はあまり各ブースをじっくり観察するということもなくなっていて、今回もなかば「買い物」にいったような感じです。笑

毎年真っ先にお邪魔するギミックさん。2023の今年は残念ながらこてはし鉄道さんがご入院されていたのでお会いできませんでしたが、お仲間の手で無事完成されたと思われる素晴らしい「EF58ボディ吊り上げギミック」がしっかり実演されていました。今年の開催テーマ「電気機関車」に合わせて製作されたものです。どうかお早いご快復をお祈りいたします。



そのあとはモデラー出展をざっと一巡してから模型店巡り。(笑) まずはトラムウェイのブースで101系やEF13など気になる新製品をチェック。3Dレジンの西武2000系の現物も見ましたが出来はなかなか良さげです。ただ、価格はかなり↑↑↑になるだろうとのこと。その場では到底言えませんが「がん(顔)だけ売ってくれ・・・」というのが正直な気持ちです。。キハ20系、とりわけキハ52はちょっとそそられるものがありました。

(101系:来月には発売になるだろうとのこと)

(EF13:うん、なかなかヨイ!)

(西武2000系:3Dレジン製品)

(キハ52:ほほーこれも期待かな)


最終日だったらめかB級品ボディは客車が少しあるだけでしたが、オハ35戦後型とマニ36のセット?を買い求めました。普通なら買わなかったと思いますが、たまたま出がけに中央東線の1973年頃の客レ編成を調べていてオハ35の戦後型が多いことに改めて気づき、「戦後型」というフレーズが頭の中をリフレインしたままの状態でブツを見つけてしまったのが敗因かと思います。いや、別に負けてはいないんですけど。。w

あとはワールド工芸のブースで、欲しかったイベント企画品のR10形冷蔵コンテナのキットを3個を買い求め、小一時間ほどで会場を後にしました。

こちらがお買い上げ品であります。



オハ35の「キノコ折妻」というタイプで、屋根に鋼板独特の継ぎ目が無い「布屋根仕様」の床下付きボディです。



何をどう見間違えたのかドアも同梱されていると思ったら端梁パーツだけでした。。Assyのドアパーツはメーカーには残っているようですが、まあ自作しても知れているので自家製ドアを付ければヨシ!台車(TR34)はさすがに買ってこないとだめかな。。



冷蔵コンテナは、先日製作したコキ5500に載せてED61あたりに牽かせる予定。



ということで、全然JAMレポートになっていなくて只のお買い物日記ですが、「やっぱり鉄道模型いいな」という刺激はたっぷり受けてきましたので、引き続き製作に励みたいと思います。


コメント (4)
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下河原線を走った101系・・・半世紀前の歴史をたどる

2023-08-19 19:22:09 | 中央東線周辺
前回クモハ40の記事を投稿したときは気にしていなかったのですが、下河原線の旅客営業が廃止されたのが1973年ということで、今年はそこから数えて50年目という節目の年に当たるわけです。むしろ「武蔵野線開業50周年」と言った方が「エエ!もうそんなに経つの?」という感覚になりますが、それはさておき、今回はその半世紀前に下河原線を走った(であろう)101系のことについて考察めいたことを書いてみようと思います。

当時を記録した文献やサイトはそう多くありません。クモハ40はまだしも101系に至っては残された写真はだいぶ限られるようです。
その中で注目されるのが「-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃」というHPの中にある「在りし日の下河原線」というページです。

更新が途絶えてから久しいと思われるページは作成者の名前・連絡先も表示されておらず分かりませんが、幸い、写真の引用・転載について「商業利用でなければ出典明記のうえ自由に使って差し支えない」との記載があるため、以下、同ページに掲載された写真を適宜引用させていただきながら考察していきたいと思います。


まずこの写真をご覧ください。終点東京競馬場前駅の2番線に置かれた停止位置目標(停目)をクローズアップした写真です。1973年3月31日の営業最終日に撮られたもので、上記ページではエピローグ的な余韻をもった文章とともに記事の最後に置かれた写真ですが、ここではプロローグあるいはインデックスの意味を込めて最初にご紹介することにします。

(出典:-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)


見やすいように拡大します。一番手前に「5 旧」と書かれたイヤでも目に付く停目があり、その奥に上から順に「6」「5」「3」「1」と書かれた停目、そして一番奥に「7」と書かれた停目が見えます。最終日を含む晩年にはこれだけ多くの編成両数の列車が走っていたことを示す“動かぬ証拠”として大変興味深いものです。編成が短い順に見ていきたいのですが、「1」は言うまでもなくクモハ40の単行列車でしょう。頭端駅なのに一番奥にないのは出発信号機の視認性を考えてのことなのでしょうか。

(出典:-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」 ※部分拡大)


「3」は101系3連。競馬開催日(の開催時間帯?)にクモハ40に代えて運行されたようです。この当時の担当は武蔵小金井電車区(西ムコ)なので同所の付属3両編成が充当されたとみるのが妥当ですが、編成番号札がない写真もみられ、バラを寄せ集めて運行したケースの方が多かったのかも知れません。3両編成の写真は、例えば以下のページで見ることができます。
kiza5jp様?ブログ「鉄道写真 ☆101系☆」 (クモハ100-6、クハ101-66掲載 ※向きから考えるとクモハ101-6の間違い?)
「競馬ファンと101系(鉄道ホビダス「国鉄時代」)(天皇賞開催日に国分寺駅に進入する3両編成)
「さんたつby散歩の達人」内(「あの日の府中」から引用した写真を掲載 ※一番手前はパンタ台付クハ100)


「5」は、もう皆さん一番手前の「5 旧」が気になって仕方がないでしょうが(笑)中央の「1」「3」「6」停目と一緒のものについて先に述べます。これも競馬開催日に運行されたようですが、メインは北府中駅周辺にある東芝などの工場勤務者の通勤・退勤時に運行されたもののようです。「在りし日の下河原線」では、来訪者が増えた運行最終日や、競馬がない最終日近くにも走ったことが記録されています。


最終2日前の1973年3月29日に東京競馬場前駅で撮影された5両編成の101系です。番号は読み取れませんが編成番号札は「下河原23」と読め、下河原線専用の編成が組成されていたようです。他の写真から、東京競馬場前方から順にクモハ100-モハ101ーサハ101(又はサハ100改造車)ーモハ100ークモハ101と推定されます。先頭のクモハ101はテールライトが内バメ式の初期車で、編成中2基見えるパンタはPS13です。

(出典:-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)


営業最終日の3月31日の5両編成の写真です。ものすごい人出のようです。手前2両分空きがあり東京競馬場前駅の収容力が最大7両編成だったことがよく分かります。線路に降りている人もチラホラ・・・。

(出典:-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)


同じ列車が国分寺駅へ向けて帰ってゆくところの後追いです。実は(HP掲載の)この1つ前のカットから気になっていたのですが、後ろから2両目の国分寺寄の車端に奇妙な「影」があるように見えます。最終日なので車内から誰か顔や腕でも出しているのかと思いましたが違いました。

(出典:-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)


拡大してみます。なんと乗務員ドアがついています!!屋根には手すりのようなものもうっすら写っています。クモハ101です。29日の編成のモハ101と交換したのでしょうか、それとも全く組み直した編成なのでしょうか。McーM'cといえば初期のモハ90系時代か後年の浜川崎支線ぐらいしか知りませんでしたが、こんなところでこっそり組成されていたとは!! 80分の1丁目はこういう香ばしい編成に即反応してしまいます。これはさっそく仕立てないと、、笑

(出典:-70年代の追憶-  鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」 ※部分拡大)


さて、お待たせしました一番手前の「5 旧」です。「旧」は旧型電車のことと推察されますが普通の5両編成とは何が違うのでしょうか。この時代の旧型といえばまだ73系が残っていて17m級も少数ながらまだ活躍していた時代。101系置き換え前は73系が上記の5連に充当されていたとのコメントを見かけましたが、クモハ11とか12も徒党を組んで入線していたのでしょうか。

いろいろ調べているうちにこんなコメントに出会いました。
「朝夕は昭和44年頃、確か73系4両プラスクハ16の5両編成が活躍したことがあります。その後は101系になったように記憶しています。」
(出典:モーガル(Mogul)工場日誌「下河原線の思い出(1)」


なるほど。徒党を組んだわけではなくて1両だけ17m級のクハがぶら下がっていたわけですね。しかし、1970年頃の西ムコにはまとまった73系の配置はなく、恐らく101系5両編成の代走として走ったとされる南武線中原電車区(西ナハ)の車両であった可能性が高いようです。
しかしクハ1両なら20m級との差はたかだか3mで、それにしては停目がずいぶん手前のように見えるので、何か違う事情があったのかも知れません。


そして「6」ですが、これが一番難解です。基本的には1、3、5、7連なので代走の可能性が高いのですが、何ゆえ?という感じです。組み方としては中央線の基本編成の7両から1両抜くなり、付属編成の3両を2編成つなげるなり、はたまた武蔵野線用に改造が済んでいた1000番台(ないないw)や南武線に入りつつあった黄色い101系が代走5連に充当??

これもいろいろ調べていくと、「休日の競馬開催日には、中央線と同じオレンジ色の101系電車が、確か6、7両編成で運転されていたと思います。」(たまらん坂 for ever「下河原線回想 その2」)や、「休日には競馬観戦用として、東京駅から東京競馬場前駅までの直通電車が走り、中央線の 101 系車両(6-7両編成)が直通運転されていました。」(東京都立多摩図書館 東京マガジンバンクカレッジ 多摩の廃線に関する勉強会:旧下河原線チーム「旧下河原線沿線探訪」)など、休日の「競馬臨」で走ったとみられる記述が目立ちます。つまり、5両編成の代走ではなく7両編成の代走説が有力ですが写真は見つかりませんでした。


最後の「7」は下河原線で運行できる最大両数で、上述のように競馬開催日に東京駅や千葉(千葉駅かどうか不明)から走った臨時電車のことを差します。競馬開催日とはいえそこまで広域から集客するのは、ダービーや天皇賞のような重賞レースの日に限られたのではないかと思いますがどうなんでしょうか。

これはシンプルに101系基本編成と考えられますが、総武線でも運転されていたことは初めて知りました。以下の書籍の「秋葉原駅」のページに顔だけですが停車中の101系(中野電車区のNo.14編成)の姿が記録されています。千葉発だとして延々各駅停車で走ったのか快速運転されたのか興味あるところです。検索できる方は探してみてください。
・生田誠 著「懐かしい沿線写真で訪ねる 総武線・京葉線 街と駅の1世紀」


ということで、見てしまったからには101系5連の“変態つなぎ”を再現すべく、仕込みを開始したいと思います。(あ~あ、、)

最後になりますが、貴重な写真やコメントを引用させていただいた「在りし日の下河原線」はじめ、各HP・ブログ管理者の皆様に御礼申し上げます。ありがとうございました。


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